終わった、……のかも知れない。 自分が発した言葉が、外階段の壁を跳ね返って戻ってきて耳に飛び込む。その時に、初めてそんな風に考えた。ああ、私。もしかして、やばいかも。 「ふうん、……そう」 でも。後悔の沼にずぶずぶと沈んでいきそうになるこの気分とは裏腹に、目の前にいる男の反応はどこまでも自然体だった。 「それが、薫子の出した答え? なら、仕方ないね」 私はのろのろと顔を上げた。平然と話し続ける奴の表情を探ろうとして。なのに、見上げた先に映ったのは、普段通りの微笑み。あまりにも変わらなすぎて、そして遠かった。
ゆっくりと階段を上がる足音が遠ざかる。再び振り向くことはなく、広い背中は非常ドアの向こうに消えた。
教室に戻った私を待っていたのは、先ほどまでと少しも変わらない賑やかなお祭り前の空気。沈みきった気分を引きずっている暇もなく、作業に戻っていた。 もともと、やる気さえあれば誰でもクラス委員や生徒会委員になれる人材が集まってると言われている面々だけに、仕事が速くて無駄がない。慌ただしい風景を眺めていても、小気味がいいくらいだ。 廃材やスーパーで分けて貰った段ボール。それが瞬く間に本物と見まがうほどの素晴らしいセットに生まれ変わる。ホームセンターの色紙やペンキ、アクリル絵の具という魔法で。普段、授業に部活に奔走しているクラスメイトたちが、ひとつの目標に団結するのも気持ちがいいものね。そんなゆとりをもって眺められるようになったのも、自分が輪の中に入れたという実感があるからかも。 ――思い切って飛び込んでみれば、それほど難しいことはなかったんだね。 「風紀委員」なんて陰口を叩かれて、孤立して殻に閉じこもることで自分を保っていた。自分は周りのみんなと違うんだと思いこまないと、劣等感に押しつぶされそうだったから。何をしても敵わないと思うとき、本当に八方ふさがりの気分になる。私がそれから解放されるのは、この学校を卒業するときだと思っていた。 でも、今は違うよ。私、西の杜って学校も悪くないなと思い始めてる。例の小川さんですら、あの一件の後、すごく親しく話せるようになったんだ。こっちから働きかければ、みんな意地悪なんてしないできちんと対応してくれる。今までずっと、私は何をしてたんだろう。 そう広くもない普通教室。そのあちこちに様々な屋台を仕立てて、みんなでわいわいしているうちにあっという間にスタンバイはオッケー。もう一度床を掃除して、細かい段ボールのくずとか集めたら、明日に備えて早めに解散となった。
夕日の差し込む廊下に出ると、他のクラスもみんな帰り支度を始めてる。何度も何度も自分たちが作り上げた教室の飾り付けを眺めて、誰もが楽しそうだ。まだ本番は残っているわけだけど、ひとつの仕事をやり遂げたという達成感が瞳を輝かせていた。 ……あれ? 何だか、大きな忘れ物をした気がして教室の方を振り向く。ぷーんとアクリル絵の具の独特の香り。その拍子に、こつんと足に何かが当たった。赤いリンゴ、もちろん作り物。白い紙袋の上から赤いセロファンでさらに包んだそれを拾い上げる。 これは「的当て」の商品だ。ぶつかっても痛くないカラーボールを投げて、天井近くにぶら下がっている果物を落とすゲーム。中にはアメとかスナックチョコとか詰まっているはず。こうして手に持ってみてもなかなかの重量感。きっと景品を拾い上げたら、子供たちから歓声が上がるだろう。
「ちょっと、変わった的当てを作ってみない?」――そう提案したのは、奴だったと思う。 最初は普通の夜店のように、ひな壇に景品を並べるつもりだったらしいのよね。その方が簡単だし見栄えもいい。もちろん「何を、子供だましみたいなこと」なんて意見は出た。特に男子たちは反発するのよね、奴に対して。表だった感じではないにせよ、やっぱり競争心みたいのはあるみたい。「お前にばっか、いい思いさせるか」ってムードも漂っていたりする。これも「輪」の中に入って、初めて気付いたこと。 それでも。奴は全然平気なのだ。あれこれと具体的な案を出しながら、静かに様子を見てる。そうするとね、最初のうちはとってもつまらなそうにしていたひとりが、いきなり「こんなのどう?」って、身を乗り出してきたりするのだ。そうなると、あれよあれよと言う間に、どんどん話は良い方向に転がり始めて。そして、気が付くと、もうその輪の中に槇原樹はいなかった。
夕焼けに照らされて、さらに恥ずかしそうに赤く染まってる。このリンゴは知っているのだろうか、槇原樹のことを。ううん、リンゴだけじゃない。教室の机も椅子も、カーテンも……クラスのみんなも。いつでも真ん中にいるはずの存在を忘れている気がする。 ああ、何で。今更こんな風に思うんだろう……? 引きずっているのは私ひとりだと分かってる。奴の方は、もうすっかりと吹っ切れてせいせいしているだろう。もともとが退屈しのぎのゲームみたいなものだったんだもん、飽きたらそれでおしまいだよ。 何のために、しがみついてるの? こんなことしてもどうなることでもない。奴を突き崩すことなんてできっこないし、する必要もなかったはず。なのに、口惜しかった。奴の周りの人たちの意識も、そして奴自身の受け答えの仕方も。当たり前のように過ぎていくからこそ、我慢ならなかった。
……馬鹿だね、私。 自分ひとりがいてもいなくても、世の中は変わることなく回り続けていく。私がそれを目の当たりにしたのは、バレー部を辞めたときだったと思う。それまでは部活のメンバーとして自分がすごく大切なポジションに位置してると信じていたのよね。だから、辞めるまでだってすごく悩んだ。みんながどんなにか困るだろうなって。もちろん、最後は塾の講師や両親の説得に負けたわけだけど。 突然、そんなことを思い出した。あの男と私を較べること自体が間違っている気もするけどね。 まあ、奴の居場所はここだけじゃないもん。生徒会もあるし、部活もあるし。学校の外にだって、まだまだ私の知らないたくさんの顔を持っているのかも。忙しいんだから、一カ所に留まっていられないのは当たり前。でも……いいのかなあ、そんな風に。ふわりふわりと花から花へ。渡り歩く男は、誰よりも目立っているように見えて、実は誰の目にも記憶にも残らないのでは? やだな、私。何でこんな風に考えるんだろう。奴は学園中の誰もが知っている有名人で、すれ違う人が思わず振り返るような存在なのに。
「あれから、……どうしたのかな?」 問いかけてみたけど、当然のことながらリンゴに返事が出来るはずはない。そして、私の心の中にも。答えが出ないままの問いかけが、ぐるぐると回り続けていた。
制服を着替えるのも億劫で、そのままベッドにごろんとする。見慣れた天井をぼんやり眺めていたら、最後に見た奴の笑顔が浮かんできた。 ああ、嫌だ。どうして、まだ振り回されてるんだろ。 もう終わったんだよ、……多分。はっきりとした言葉で告げられたわけではないけど、奴のよどみのないまっすぐな視線がそう語っていた。私はお役御免なんだ。奴の使いやすい「駒」にならないから、盤の上から降ろされたんだ。
――それが、薫子の出した答え? なら、仕方ないね。
最後に、あっさりと当たり前のようにやり過ごされたことで、逆に気になってしまってるのかな。やっぱ、冷静になって考えれば、言葉が足りなかったと思う。まったく違う意味に取られてしまっても、あれじゃ文句は言えないだろう。人付き合いの不器用さは自分でも分かり切っているけど、それにしてもひどかった。 「あ〜っ! ……もうっ!」 いつまでも堂々巡りをしていても仕方ないと思う。やっぱ、私が悪かった。そう思ったら、謝らなくちゃ。もしかしたら、奴の方は全然気にも留めてないかも知れないよ。だとしても、やっぱ、言わなくちゃ。 きっとこれは、私自身がすっきりするためのことで、奴には何のメリットもないこと。ひとこと、「ごめん」って。それだけでいいじゃない。謝って済むことじゃないけど、これから先も同じクラスの一員として顔を合わせなくちゃならないんだ。気まずさは続くだろうけど、それでも何も言わないよりはマシ。 どうせまた、明日会うんだけど……出来ることなら今日中に。先延ばしにはしたくないし。 そうよ、学校を出る前にもちょっとそれは考えたのよね。でもまだまだ忙しくしてるであろう奴をわざわざ呼び出すのも気が引けた。で、何となくそのまま戻って来ちゃったのよね。もう、いいよね。そろそろあっちも家に着いた頃だろう。 一生懸命自分に言い訳して、その上で携帯を手にした。ボタン操作でワンプッシュダイアル。携帯って、何でも記憶してくれるから自分で覚えることが少なくなる。自分のナンバーですら、突然聞かれると曖昧だったりするものね。簡単に繋がりすぎることが、逆に不安になったりもするけど。 高まってくる緊張感と戦いながら、私は汗ばんだ手で携帯を握りしめた。……あれ?
『ただいま電波の届かない場所にいるか、電源が入っていません……』
少しの空白の後、そんな電子音が耳に届いた。ハッとして液晶画面を確かめる。……ううん、間違ってないよ、これは槇原樹のナンバー。きちんと登録されたもん、本人の操作だから正確なはず。 二度三度、同じことを繰り返してから、携帯を置いた。通じないんだから仕方ないわ。そんな風に気持ちを切り替えようと思ったのだけど、何だか気になって落ち着かない。顔を合わせるたびに私をイライラさせてくれた奴が、今度はその存在を隠すことで心を乱していく。これも「作戦」? ――でも。 ごちゃごちゃに心の中に散らばった、パズルピース。ひとつふたつとつまみ上げたところで、埒があかない。何を焦っていたんだろう、いつも通り上手にやり過ごせば良かったのに。後の祭りとは知りながら、短気に突っ走ってしまった自分が情けなくて仕方ない。 ――私、もしかして「オタクの妹」って言いふらされるのかな? ……いいや、もうそんなことはどうでも。今ならもう、そんな話は笑い飛ばせると思う。兄は兄だし、私は私。そりゃ、しばらくは何か言われるかも知れないけど、きっと大丈夫。
また、しばらくはごろんごろんとしていた。でも、そんなことをしてたって、何の解決にもならない。時々思い出したようにダイヤルしてみるけど、やっぱ電子音の案内が聞こえるだけ。どれくらい時間たっただろうと時計を見たら、帰宅してからまだ30分。時間が過ぎるのが、すごく遅い。 少し、気分を変えて浮上しようかな……そんな風に考えて、棚の上の木箱を取り出した。もともとは紅茶の入っていた箱だけど、あまり綺麗なので再利用。中には色とりどりのビーズが詰まっている。私の宝箱と言ったところかな? ここ数年のブームで、店頭に並ぶパーツの種類も増えた。きちんと形の決まっているガラスビーズも素敵だけど、私が気に入っているのは天然石。……あ、そうはいっても高価な宝石みたいのじゃないよ。お小遣いを貯めれば、どうにか手が出る程度だ。模造石なんていうのもあって、こっちはもっとお手軽。クォーツ(水晶)をガラスで模したものなんて、とってもおいしそうな色が揃ってる。 まずは主役となる石を決めて、その周りにサブのビーズを飾っていく。色あわせは自然界にある色をそのまま使うととても上手くいくんだって。その時の気分とお財布の中身で選んだ石たちは、大きさも数も色もバラバラ。すっきりした青系を選んでいく。これから夏に向かうんだから、爽やかな色合いにしたいな。合わせるのはパールだとキラキラしすぎだから、マット系のラウンド(丸玉)はなかったかしら。 もう、槇原樹経由であのお店に置いては貰えないだろう。 でもいいんだ、今度は自分用に何か作りたい。思い切って流行のシンプルなワンピを買って、それに似合うようなアクセでおしゃれしようかな。そんな風に思えるようになったのも、自分でもそこそこ見られるような外見に変わったから。
「……あ」 つまみ上げた一粒に目を留める。水色のしずく型のそれが、涙の一粒に見えた。
その瞬間に、たまらない気持ちになる。私、すごく後悔してる。あんなこと、言わなけりゃ良かったって。もしも、あの瞬間に戻れるなら、今度はきっと違う言葉で話すよ。 別にね、「樹くんの彼女」というポジションに未練がある訳じゃない。でも、だからといってあんな言葉で傷つけることはなかったのに。……あ、奴が本当にそんな風に受け止めてるかは疑問だけど。きっと、あっさりとかわされたんだと思う。そして、ショックを受けてるのは……むしろ私。本当に口惜しい、何故あんな言い方したんだろう。私は奴に対して何を求めていたの?
……やっぱ、きちんと謝りたい。
多分、言ってくれる気がするんだ。 「馬鹿、そんなことで俺が傷つくとでも思ったのかよ」……とかね。いつも通りの口調で、私の今感じてる痛みなんて何でもないように払いのけてくれるはず。そのひとことで、私は楽になれる。だから……声が聞きたい。平気だよって言って欲しい。 ころんと、手のひらからこぼれ落ちたしずく玉――……
「あ、……そうか」 さっきから、ひとりごとばっかだけど。私はベッドからむっくりと起きあがった。 そうよ、そうじゃない。奴とはクラスメイトなんだ。クラスごとの連絡網、あれに自宅の電話番号も書いてあったはず。携帯に連絡付かないなら、直接家にかければ良かったのよ。そうよ、そう。何で今まで気付かなかったんだろう……? 考えてみれば、クラスメイトというだけでトップシークレットを知ってることになるね。まあ、彼の個人情報なんて、もうとっくに流出してるだろう。このごろでは卒業アルバムにも住所や電話番号を記載しないようになってきたけど、それでも同じクラスにいれば情報を知りうることは容易だ。
ファイルしてあるプリント類の中から、今年の連絡網を引っ張り出す。 今では携帯と自宅と両方のナンバーが記入されている。私も連絡網を回すときは、まず携帯にかけるかな。それでつかまらなかったら自宅になるんだけど。私の後3人分のナンバーは携帯に登録してあるから、普段クラス全員の名簿を手にすることはない。奴は委員長だから、先生の次に名前があった。 携帯を手にして。ひとつひとつ数字を確認しながら押していく。こういうのは勢いなのよね、そうじゃなくちゃ出来ないわ。このごろではただですら友達の自宅に電話なんてすることないんだから。 ……あっという間に繋がっちゃった。 よくよく考えたら、カリスマファミリーの自宅だよ。私ですら全員の顔写真を思い浮かべることが出来ちゃう。そのうちの誰が出るんだろう。呼び出し音が鳴りだしたら、それと相まって私の心臓もばくばくと言い始めた。ぷちっと、小さな音がして。 「はい、槇原でございます」 思わず、ごくりと息を飲んだ。……うわ、女性の声だ! ということは、お姉さんのどちらかか、お母さん? それにしても綺麗な声だなあ、ふわふわって、甘い香りまで漂って来るみたい。 「……どちらさま?」 「あ、あのっ……。私、西の杜学園高等部2年B組の小杉と言います。……その、樹くんを……」 もつれる舌で、どうにかそれだけ伝えることが出来た。携帯を口元から外して深呼吸。ああ、これでいいや。後は電話を替わって貰えれば。でもこんなに緊張していて、私は最後までやり過ごせるんだろうか。本人が出てきたら、さらに混乱しそう。 「え、……樹、ですか?」 それなのに。ぼんやりとした声が返ってくる。すぐに「はい分かりました、少々お待ちください」とか言ってくれると思っていたのに。ああん、どうしよう。 「あの、樹は今夜はクラスの方の文化祭準備があるからお友達の家に泊まるって言ってましたけど? ……ご存じない?」
――え? その言葉には私の方も驚いてしまった。クラスの準備? ……そんなの聞いてない。まさか、私の知らないところでそんな話があったんだろうか。ううん、違うよ。だって、文化祭の担当の男子が「今日はここまで」って言ったもの。もうすっかり、準備は整っていたよ。
一瞬、聞き返そうとして。でもやめた。何だかそれはしてはいけない気がして。 「そ、そうですか。すみません、じゃあ誰かに聞いてみます。お騒がせしましたっ……!」 頭の中で、またぐるぐると思考が渦巻き始める。どういうこと? ……クラスの用事なんかじゃないよ。なのに家族にまでそう言い訳して、あの男はどこに消えたのだろう。 「……あ、ちょっと待って?」 電話を切ろうとしたら、優しい声がそれを留める。何だろうと耳を澄ますと、一呼吸分の間合いの後に訊ねられた。 「小杉さんって……、もしかして薫子、ちゃん?」 「……え? はあ……」 いきなりそんな風に切り出されて慌ててしまう。もしかして、じゃなくて本当にそうなんだけど。でもっ、何でこの人が私の名前を知ってるの? そしたら、電話の向こうでは「ああ、そうかぁ」とかくすくすと笑い声が聞こえてくる。何が何だか分からなくて呆然としていると、小さな声で「ごめんなさいね」と言われた。 「私、樹の母です。初めまして、薫子ちゃん。こうしてお話が出来て嬉しいわ」 すらすらっと、鈴のような声が耳元で踊る。 ああ、そうか。この人は槇原樹のお母さんか。あのカリスマ夫婦の片割れ、確か「千夏」さんとか言うんだ。うわ、写真やWeb画像ではいろんな姿を見たことがあるけど、声を聞くのは初めて。すごい、イメージ通りだぁ。……なんかどきどきしちゃう。
――だけど。驚いてるばかりじゃいられない。だって、どうして「薫子ちゃん」なの? もしかして、この人、ウチの兄のサイトでも見てるんじゃないでしょうね。えええ、分からないっ!
焦りまくりの私が何も受け答えが出来ないでいるのに、甘くて優しい声はまたもや信じられない発言をしてくれた。 「あのね、あなたの作ったピンク・オパールのネックレス。実は私が愛用させて頂いてるのよ?」
2004年10月29日更新 |