「……?」 突然のその言葉に、すぐには反応できなかった。 私もあの槇原樹とのやりとりで、だいぶ鍛えられたと思う。でも、それにしても意表を突いている。だいたい、目の前の彼女はこんな台詞を言うキャラじゃない。……少なくても、私はそう認識していた。 「いつになったら気付くのかなって思ってたんだけど、まさかここまで鈍くさいとは思わなかったわ。わざわざ、忙しいのに出向いてやった私に感謝しなさいよ。こんな役回りだって、本当は嫌なんだからね」 桜色の口元。もちろん、色つきリップか何かを使っているんだろうけど、それだけじゃこの色は出ない。唇って言うのは赤ちゃんの頃は本当に綺麗な赤みをしているもの。でも、成長するにしたがって、だんだんくすんでくるのよね。やっぱり「選ばれた人間」って、違うんだな。 自分が言われている言葉がきちんと頭に入っているはずなのに、私は全然違うことをぼーっと考えていた。何しろ、思わず振り返るほどの美形揃いとうたわれる西の杜学園でも、さらに一線を引いている彼女。目の前にいるはずなのに、何だか実感なくて。TVの画面の向こうから話しかけられているみたいだ。 「……何よ?」 私がただ呆然と見つめているのが気に入らなかったのか、明日美さんは綺麗に整えられた眉毛を片方だけぴくぴくっと震わせた。 「言いたいことがあるなら、はっきり言いなさいよね。……それとも何? 図星だったとか?」 何を言っても許される人間って、やっぱり存在すると思う。ちょっぴりくらい我が儘でも、何となくオッケーみたいな。きっと彼女は、ずっとそんな人生を歩んできたんだろうな。それだけに憎まれ口を叩いても、それほどの衝撃はない。決して作っている訳ではない、神様から与えられたソプラノの声も一役買ってるみたい。 ――ああ、感心してる場合じゃないか。 「図星って……何?」 思わず、聞き返しちゃった。こんな風に呼び出されるんだから、きっと何か言われるんだと思ってた。なのに、元カノ・明日美さんと来たら、変なこと言い出すんだもん。彼女の台詞のどこに的確な指摘があったというのだろう。 すると、彼女は。ふーんと鼻を鳴らして、前で腕を組んだ。勝ち誇った笑みが口元に浮かぶ。でももちろん、目は笑ってないわ。蔑んだ、見下した色をしてる。それを見た瞬間、私の心の内側に冷たい汗が流れた。
……あ、やだ。この目には見覚えがある。 私、すごいなって思ったのよね、ウチの高校に入学して。誰もが一度は憧れるというラベンダー色の制服、それを着ることを許された選ばれた人たち。もう、その中に入ってみると、たとえようのない空気をムンムンと感じた。 でも、……何というか。 きれい好きな人が汚れた部屋を我慢できないと思うように、バイタリティーのある人から見ると、おどおどしてなかなか行動に移せない人間を「怠け者」と決めつけるのだ。たとえば、学園のすぐ近くに、ちょっとレベルの落ちる公立高校があったりするんだけど、そこの人たちのことをみんなが悪く言ってるの、何度も見てきた。たるんでるとか、無気力だとか。あんな奴らが日本を駄目にしていくんだ、とか。 ほら、新卒とかでやたらと熱意に燃えてる教師がいると、ちょっと引くよね? 自分が出来るんだから、お前も出来て当然、みたいに決めつけられるとこちらは困ってしまう。西の杜に馴染めなかったのはそんな理由もあった。馬鹿にされるの、怖かったんだもの。黙って、必死に頑張るしかなかったんだよ。
「……それって、分かっていてしらばっくれてるの? それとも本当に気付いてないのかしら。じゃあ、質問を変えるわね? 小杉さん、樹くんって、思い描いていた程のこともないでしょ? 一緒にいて辛くないかなあ」 ……え? えええっ!? 思わず、何度も瞬きしてしまう。こちらの様子をじーっと見られているのは分かってるんだけど、これが慌てずにいられますかっていうの。 ――ちょっと待て、槇原樹。 あんたは確か言ったはずだ、付き合った女の子には完璧な態度で接していたんだと。あれって、嘘だったの? それとも本人はきちんとしているつもりでも、相手にはバレバレだったとか? いや、そうじゃないかも。裏に回ると私にやってるのと同じように、ねちねちと苛めていたのかも知れないわ。 「ふうん、……まあいいわ」 私の態度をどう認識したのか、明日美さんはにっこりと微笑んだ。 ああ、もうっ……! 何というか、よく分からないわ、この状況。もうびっくりは慣れすぎていたはずだけど、彼女が目の前に現れてからこっち、私の心臓はばくばくと鳴りっぱなしだ。
――元カノとの遭遇。そりゃ、ドラマとかではありがちの設定よね。 逃した魚がもったいなくなったからって、取り返しに来る。そして「彼はまだ私を愛しているの!」とか言ったり、挙げ句に「私のおなかには、彼の子供がいるの」なんて言い出したりする。まあ、高校生でコレをやったらちょっとヤバイけど。 そうよねえ……表向きとはいえ、あの槇原樹をゲットしてしまった私だもの。ぐさぐさと突き刺さってくる羨望の視線の影に、「どうして、あんな子が」って囁きが絶対に隠れていると思ってた。今までの2週間、平穏に過ごしてこられたのが奇跡かも。 明日美さんが新しい彼氏を作って、らぶらぶだって噂されてるのは知っていた。だから確率は低いと思ったけど、まああり得ないこともないかなとか思っていた節はある。だから、さっき恵里香さんのお店で彼女を見たときも「あら、来たか、とうとう」って考えがちょっとだけ浮かんだ。
でも、どうも勝手が違うみたい。 何となく話をしたそうな雰囲気を感じるから、ここはしばらく彼女の言うことを聞こうと思った。この手のタイプは話の腰を折られるのをすっごく嫌がるし。下手なことして逆ギレされたら、大変。 「私だってね〜、自分に白羽の矢が立った時は、天にも昇る気分だったわよ。何しろ、中等部に入学したときからずっと彼に目を付けてたんだから。きっと何もなかったら、もっと早く順番が回ってきたはずなのに、いつのまにか『持ち回り制』とか変な規則まで出来ちゃって。とんだとばっちりだったわ。 そうでしょ、……って聞かれてもなあ。私に対する奴はあんなだし。やっぱ、素人推理は外れたか。明日美さんに対する槇原樹は、公用の方だったらしい。 「私の考えたことが分かるみたいに、先に行動してくれるの。デートの場所を選ぶときだって、こっちが言い出そうとする前に、思い通りのプランを出してくれたわ。ちょっとお茶するときのカフェも、ランチを食べたレストランも本当に美味しくて、でもリーズナブル。そして、隣には彼がいる。もうお姫様気分だったわよ、あんなのもう二度とないと思うわ……」 ……あ、あのー。もしかして、のろけてるのでしょうか? どこを突っ込んだらいいかも分からない状況に私はただ、目の前の「夢見る美少女」を見守っていた。その視線に気付いたのだろう、彼女ははっと我に返って、コホンと秀才っぽく咳払いをする。 「小杉さん、あなただって。最初こそは戸惑いを隠せない様子だったけど、今じゃだんだん彼のペースに合ってきた感じよね。きっとすごく楽しいでしょう、バラ色の人生って感じだと思うわ。……けど」 もったいぶって、そこで一度言葉を切る。相変わらず、まっすぐに向けられた視線。私は目のやり場に困って、鞄を抱え直した。 どうでもいいけど、私早く帰りたいんですけど。こうして周りがバタバタしている間に、少しでも予習のストックが欲しい。前もっての教科書のざっと読みくらいじゃ、とても西の杜の授業には付いていけないんだもの。……ああん、下校の間も英単語を覚えるつもりだったんだから。 「可哀想にね、あと保って2週間ってとこかしら? ううん、そこまで引っ張るのも無理かも知れないわ。この私ですら、2ヶ月で限界が来たんだから、一般ピープルのあなたには荷が重すぎると言うものよ。 今度は眉毛がハの字になってる。つるつるのおでこを綺麗に見せた髪型だから、その動きが一目で分かる。感情って本当に身体の色んなところに出てくるものなのね、びっくりだわ。 「……え?」 目線では、明日美さんのウォッチングを続けていた訳なんだけど、とりあえずあまりに意味不明すぎることを言われたので聞き返した。何? 二週間って、どういうこと? 「限界」って……何なのよ。 彼女はさらに憐れんだ瞳で私を見つめる。うるうるして、チワワみたい。黒目がちの目が濡れていると本当に綺麗だなあ。相変わらず桜色の唇が動いて、「馬鹿ね」って呟く。 「あのね、まだ気付いていないだろうあなたには酷かも知れない。……でも、言わせて。槇原樹を自分のものにするなんて、絶対に不可能なの。私ですら出来なかったことが、他の誰かに出来るわけないでしょう? これでも前評判は上々だったんだからね、『最後の恋人候補』とか囁かれてさ。もちろん、自信だってあったわ、あなたよりはずーっと期待できるポジションにいたはず」 夕暮れの風、そよそよ。綺麗にウェーブをかけた彼女の髪は優しく揺れる。 後ろ姿だけでも、男がおちそうだよなあ。ちっちゃな輪郭、それに綺麗に配列された顔のパーツ。お人形さんみたいに長いまつげが重そうなのに、くっきりと二重まぶた。美しさを保つには、重力にすら打ち勝ってしまうのね。私なんて、奥二重だもんな〜、こう言うのに憧れてたわ。 「そ、そうなの」 涙目で見つめられても、何か白けちゃうよ。……最初から、槇原樹をモノにしようなんて思っていないんですけど。それどころか、今すぐにでも離れる手段をあれこれ考えているくらいで。いい方法があるなら、もったいぶらずに教えてよ、実行するからさ。 「樹くんは、最高にいい『彼氏』よ。でも、駄目なの……だって、彼は結局『みんなのアイドル』。どんなに頑張ってもひとりのものにはならないわ。とろけるような甘い視線を私に向けてくれても、同じくらい他の子にも優しくするの。そりゃ、彼女として特別扱いはしてくれた。でもそんなじゃ、気に入らないの。だって、私は一番になりたかったんだもん。私だけいればいいって思わせたかったのよ。 くすくす、喉の奥で自嘲気味に笑う。夕焼けに染まった顔の右半分が、くっきりした陰影を見せてすごく綺麗。光った部分がブロンズ像の素肌みたいだ。 「結局ね、彼ってナルちゃんなのよ。自分しか、愛せないの。そこに女の子がいても、彼にとっては単なる自分を引き立たせる小道具でしかない。心がこもってないんだもの、伝わってこなくて当然ね。そんな男に引っかかった自分が情けないわ」 ――自分しかって……、それって。 自分の元カレを、ここまで言い切っていいのだろうか。でも、ここにひとつも言い返す言葉の浮かばない奴がいる。私自身がスマートすぎる奴の「表側」に疑惑を持っていたんだから。 「それでもしがみつこうとしていたのは、みんなの期待にどうにか応えようと思ったからなのよね。でも、今の彼と付き合って、分かったわ。私が間違っていたんじゃないの、樹くんが異常なのよ。私のこと、真剣に愛してくれない男はクズよ。こっちから願い下げだわ」 ねえ、そうでしょう? ……って。彼女はあくまでも私に同意を求めてくる。すごいなあ、愛されて当然の人って、こんなぶっ飛んだ思考回路を持っているんだ。呆れるのを通り越して、感激してしまうわ。 「あなた、可哀想よね」 また、憐れみを含んだ瞳が私を見た。その視線には催眠効果があるのかなあ、あまりにじっと見つめすぎると、本当にそうかも知れないって気がしてくる。 「このままだと、彼の本当に気付かないまま、ずーっと付き合う羽目になるわよ。今、何か特別な言葉を囁かれていたとしても、それはあなたのためのモノじゃない、全ては彼が彼自身を輝かせるために計算してしゃべっていることなのよ。彼に騙されちゃ、駄目。現実をきちんと見た方がいいよ。
黙ったまま、明日美さんを見る。 にっこり微笑んだその姿は、清純そのものだったけど……もう、それだけじゃないって分かった。やっぱり、頭のいい人は私とは全然違う思考回路を持っている。自分の足元がぐらぐらしてるのを感じていた。何と表現したらいいんだろう、地の底からふつふつしたものが湧き上がってきて、足の裏からその振動が伝わって来るの。 何か、……ちょっとむかついてきてる。どうしてか、分からない。明日美さんは私に同情して、槇原樹をボロクソに言ってるわけだけど、……なんて言うかな、すごく嫌な気分だ。
「……明日美さんは、樹くんと上手くいかなかったのは、彼のせいだって思ってるのね?」 気が付いたら、そんな風に言葉が出ていた。自分でも信じられない部分から、思いもよらないひとことが。もちろん、目の前の美少女はきょとんとした目でこちらを見る。くりくりと見開いた瞳が、信じられないと言った感情を素直に伝えていた。 「決まってるじゃない、そうでしょう? 他に何か、理由がある? 彼は私も、他の誰かも愛せないの。彼が大好きなのは自分だけ。小杉さんだって、しばらく側にいたら気付いたでしょう。あんまりにもそつなくこなされると、逆に白けてくるのよ。彼、全然人間らしい面がないんだもん。アイドルが服を着て歩いてるみたいだわ。――それとも、まさか小杉さん、自分は違うって言いたいの?」 馬鹿もここまで来ると傑作だわ、と彼女は言い捨てた。その言葉には腹が立たない、でも奴を罵倒する言葉はどうしても我慢できなかった。 「だって、樹くんは……」 言いかけて、止まる。私しか知らない彼の部分は、たくさんある。……ある気がしていた。でも、それって「本物」? やっぱり、槇原樹が作り出した「格好いい自分」の姿なんじゃないかしら。彼が私にしたかったのは「復讐」だ、最初にはっきりそう言われた。 ――私、もしかして、彼の思い通りに進んでいるだけなの? やっぱ、考えなしの馬鹿と言われる存在なのだろうか。 「ふふふ、……やあっと、分かってくれたみたいね」 細い肩に柔らかい髪が掛かる。……あの隣に奴はいたんだよな。時には抱き寄せて、もっとすごいこととかも――。何か、そんなことを考えるのがすごく嫌だった。彼女の隣に、奴を並べたくない。そう、強く思った。 「ま、落ち込むだけ落ち込めばいいわ。そのうち、相談してくれれば、私の取り巻きのひとりくらい見繕ってあげる。あなたは自分にふさわしい男を選ぶべきよ」
――そうよね、奴が出した「条件」はクリアしたんだから。それを伝えれば、おしまいでしょ? メタリック・イエローの携帯、そこに付けてる四つ葉のストラップ。ゆらゆら揺れるガラス玉が安っぽい蛍光灯に反射する。ひとつだけ、深呼吸して。私はアドレス帳の中から、ひとつのナンバーを選び出した。
『……何? どうかした?』 わずか、ツーコール。耳に心地いい声が、響いてくる。少し驚いた感じなのは、きっとこうしてこっちから電話するのが初めてだからだろう。登録してあったって、使うことのなかったナンバー。目の前に彼がいないことを心から感謝して、私は何気ない声で告げた。 「ううん、今どこにいるのかなとか、思ったから」 へえ、そう。そんな風に応える声が、喜んでる気がする。でも、それはあくまでも私の感じたこと。彼の本心は見えるわけもない。 『今、まだ教室。何か小道具の色合いがイマイチとか女子から指摘があったから、塗り直してるんだ』 「え? ……嘘」 私は改めて、自分の周りの風景を見渡した。それから液晶画面の時計も。もう7時半を過ぎている、学校に残ってる時間じゃないはず。こっちだって、もうそろそろ家にたどり着くんだから。 「何? 他にも誰か残ってるの?」 確かに、みんな忙しい。ふたつもみっつも掛け持ちで文化祭の準備をしてるんだ。クラスの出し物のセットもなかなか完成しないし、どうなることか素人目にも心配になる。まあ、それをこなしてしまうのが西の杜の生徒なんだけど。でも……こんな遅くまで。同じクラスメイトとして、申し訳ない。 「まさか、……俺ひとり。生徒会の仕事の後、ここに来たから」 ふうん、そう。じゃあ、邪魔してゴメンね――そう言って、電話を切る。もう繋がってない電波なのに、それでも教室でひとり作業してる彼の姿が浮かんでくるようだった。
――私、もしかして、騙されてるだけなのかな? はっきり言ってしまえば良かった、あんたはただ自分が好きなだけだって思われてるんだよって。みんな槇原ブランドに惹かれて近づくけど、すぐにその本性に気付いて離れていくんだよ。いい加減、分かりなよ、天才なんでしょ……? でも、言えない。言いたくない。そんな自分になりたくない。――彼を傷つけたくない。
春から夏へ、移り変わっていく6月の夜空。自分の中に確かに芽生えた感情に、私は戸惑っていた。
2004年10月8日更新 |