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… 「片側の未来」☆樹編 …
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 私の耳に。夜の雨音が戻ってくるまでに、一体どれくらいの時間が掛かったのだろう。

 

 本当に信じられない予想もしない出来事が起こったとき、頭が真っ白になるとか、目の前が真っ暗になるとかそんな風に言うよね? だけど、今この瞬間の私が置かれた状況といったら、そんなありきたりな表現で片づけられるものではなかった。

 たとえば、透明なゼリー状の空間。それが私を包み込んで固めてしまう。身体が指の先まで動かなくなって、何も聞こえなくなって。身体の全機能がストップした。

 

「……な、んだ。また、そんな風に人をからかって。もう騙されないんだから、いい加減にしてよね?」

 さらさらと流れ込んでくる柔らかい水音が、私を少しずつ動かし始める。上手に回らない舌で、それでもやっと応戦することが出来た。ああ、きっと。今の私の表情って、最高にこわばってると思うわ。がっちがっち、美術室に置かれている石膏像みたいに。

 そうよ。何でもないような顔をして、胸のポケットから新しいアイテムを取り出すのはコイツの得意技。それにいちいち驚かされ続けて、ホントいい加減、慣れればいいのに。

「馬鹿言え、冗談でこんなこと言えるかよ。俺はマジだからな?」

 いつの間にか微笑みが消えて、まっすぐな瞳が私を見つめてる。私たちの間にはまだ50センチ以上の距離があるはずなんだけど、何しろ肉眼だし、その臨場感といったら100インチオーロラビジョンの上をいくと思う。心臓の悪い人間が目の当たりにしたら、それこそ救急車を呼ぶ騒ぎになるかも。

 今更確認するまでもなく、この空間には私たちふたりしかいない。電源のほとんどが落ちた校舎内で、聞こえてくるのは閉ざした窓の向こうから打ち付けてくる雨の音だけ。

 

 ――こういうのって。普通に考えたら、愛の告白なんだろうなあ。

 

 ただし、これには「槇原樹以外の人間の言葉だったら」という注釈が付く。ええと、一体どんな風に切り返せばいいの? こんな風に告られるのには慣れていない……どころか、経験すらないかも知れない私。うん、きちんと記憶に残る部分からは覚えがなくても、物心付かない頃なら、もしかしたらあったかもだし。ここは全否定は避けておこう。

「そ、そんな風に凄んだって、ビビったりしないんだからっ! もういいんでしょ? 私のこと、解放してくれるって言ったじゃない。まだ、足りないの……?」

 きっぱりと言い切れれば良かったけど、駄目だな。こんな風に彼の良心にすがるしかないなんて。やめようよ、こんなの残酷だよ。もしも私がさっきの言葉を真に受けて頷いたりしたら、すぐに大声で笑い出したりするんでしょ? そんな風にされても、多分腹を立てることも出来ない。きっと、ますます自分が惨めになるだけだよ。

 目の前がぼんやりと滲む。でも、駄目。もう泣いちゃ、駄目だわ。相手は恋愛上手なんだよ、こっちの手の内なんて全部お見通し。今まで、こんな状況は何度となく切り抜けて来たに決まってる。

 ふたりの間、ぴーんと張りつめた一本の糸。もしも、私が踏みとどまれなければ、そのまま引っ張り込まれてしまう。その後に待っているのは、一瞬だけの夢心地とその後に延々と続く絶望。分かっているから上履きのゴム底で踏ん張るしかない。

「薫子」

 腕組みして、まっすぐに見下ろされる。こればっかりは身長差なんだから仕方ないな。背の高い人って、それだけで優位に立てると思う。はっきり言って、ずるい。

「お前って、嘘つきだな」

 ……は?

 きっぱり言い切られたけど、その言葉の意味がよく分からない。ぼんやりと見上げたら、彼の一文字に閉じられていた口の端が、上向いた。

「ついさっき、言ったばかりじゃん。俺に協力してくれるって。舌の根も乾かぬうちに、前言撤回か。あーあ、やっぱ、女って信じられないな。結局は自分に都合のいいように嘘ばっかつくんだから。馬鹿馬鹿しくて、やってらんないよ、もう」

 大袈裟に首をすくめると、「あーあ」と吐き出すようにぼやいて壁際に腰を下ろす。そして、そのまま元の通りに膝を抱えてうずくまってしまった。

「そ、それは……」

 ここまであっさり退かれると、それはそれで戸惑ってしまう。慌てて言い訳しようとしたけど、いい言葉が浮かばないよ。西の杜のトレードマーク、優しいラベンダー色の制服は暗がりの中ではグレイに見える。真っ白いはずのワイシャツもぼんやりと闇に溶けて、彼の全身がモノクローム。

「心にもない言葉で人のこと持ち上げていい気にさせておいて、後で一気に突き落とすんだな。そうじゃないか、ちやほやするのは最初のウチだけ、すぐに何だかんだと文句を言い始めるし。こっちの気も知らないで、挙げ句の果てはあっという間に他の奴に鞍替えだよ。人を何だと思ってるんだ、いい加減にしろよ。もう、やってらんないな。
 今までサービス精神でやってきたけど、そろそろ限界だ。見てろよ、一気に爆発してやるから。最高のパフォーマンスを披露しようじゃないかっ!」

「え……」

 突然、彼の口調が変わっていた。しかも次々にまくし立てられたら、こっちは言葉に詰まっちゃう。違う、違うんだってば。私の言いたいのはそんなことじゃないの。あんたは絶対に出来る、大丈夫だから。急に投げやりにならないでよ、困っちゃうじゃないの。

「結局はさ、俺はアイツに敵いっこないって言いたいんだろ? ……畜生、何だって言うんだよっ! もう馬鹿らしいったらありゃしない。いいよ、分かったよ、俺は俺の道を行くから。アイツに似た人生なんて歩んでやるもんか、こうなったら逆方向に突っ走ってやる。今までのイメージなんてぶち壊してやるからっ……!」

 え……、え? 何よ、何言ってるのよっ……!

 そんな風に顔を膝に埋めていたら、どんな表情してるのか分からないわ。もしかしたら隠れて舌を出してるかも知れないけど、言葉自体はすごくマジな感じだから、焦っちゃう。どうして、こんな風に話が展開するのよ? 私はただ――。

「……ま、待ちなさいよっ! 何でそう言うことになるの。元はといえば、あれでしょ? あんたが私のことをからかったりするから。別に意地悪してる訳じゃないわ、それくらい分からないのっ!?」

 あああ、言葉が全然まとまってない。でも、分からないのよ。いきなり噴き出してきた彼の感情がどうやったら鎮まるのか。この期に及んで、どうしてまた「アイツ」って蒸し返すの? 言ったでしょ、お父さん・槇原透氏とあんたとは全然別の人間なんだから、較べようとする方が変なの……!

「そ、そっちこそ。人のことおちょくってないで、真面目になってよ。『心に決めた人』ってのをちゃんと教えてくれたら、私は自分の言葉通りに行動する。あんただって早く辿り着きたいでしょう? だったら、協力しなさいよっ、変な方向にねじ曲がっていかないでさっ……!」

 もうっ、イライラするっ! こんなに容易くどんな夢にも手が届きそうな場所にいる人間が、どうしてこんなにぐちぐちしてるのよっ。変だわ、そんなのっておかしい。もうちょっとのところで、何で踏みとどまるの? もったいないじゃないの。

「やだ、――薫子じゃなくちゃ、駄目。他の奴はいらない、薫子がいい」

 私の心の訴えも虚しく、彼はまだそんなことをのたまう。どうして? 知らないんでしょ、そのひとことがどんなにか私の心をえぐっていくか。「もしかしたら」って、期待しちゃうんだよ、私は馬鹿だから。また思い上がっちゃう、そして突き落とされる。……そんなのは、嫌。
 今だって、離れたくないとは思ってるんだよ。でもそれと同じくらい怖い。彼が幸せになるまできちんと見守りたいけど、もう自分が傷つくのは嫌なの。

 口から出任せのひとことであっても、それに振り回されてる私がいる。足下が崩れていきそう、誰か助けて……!

「すぐにここまで連れて来いよ、そしたらその後は俺がどうにかするから。簡単だろ、『小杉薫子』を俺の目の前まで引っ張って来いよ。……それが出来るのは、お前だけなんだから」

 

 そんなこと言って。

 少し腕を伸ばせばすぐに届くくらい近くにいるでしょ、私。そりゃ、ほんの数歩前に出るだけなら、容易いことだと思う。だけど、その先に何が待ってるのか分かってるから、出来ない。ごめん、やっぱり自分は可愛い。惨めな想いをさせたくないわ。そこまであんたの「遊び」には付き合えない。

 

「私……、違うもん。私じゃないもの、……そんなはずないもんっ……!」

 ぺたん、って。私も冷たい床の上に座り込んでいた。もうこれ以上、踏ん張って立っていられないくらい、ぎりぎりだったから。

 綺麗な人、賢い人、優しい人。槇原樹の周りを陣取る女子たちはとにかく半端じゃない。私と同じくらいの気持ちで、私以上のレベルの人は本当に数え切れないほどだと思うんだ。心の重さが同じなら、特級品の方がいいでしょ? だったら、周りの人たちが、みんな納得してくれるような人選してよね。

 あ、違うか。やっぱこれって、ただの暇つぶしなんだよね。上手に冗談に乗っかれないけど。駄目だよ、私は頭で上手に計算する前に、感情が先走っちゃう。楽しく恋愛ゲームに興じることも出来ないの。

「……俺がグレても、いいんだな? 輝かしい前途を捨てて坂道を転げ落ちていく人生に走ったことを、全部お前のせいにされるんだぞ、それでもいいんだな……?」

 座ったことで、目線の高さがまた同じになった。膝小僧から少しだけ顔をずらして、彼がこっちを見る。強い言葉と裏腹に、その瞳の色がすごく寂しそう。散歩に連れて行って貰えない可哀想な飼い犬みたいだ。

「う……」

 怖い、怖いよ。もしかして、手を伸ばしたら噛み付かれるかも知れない。分からないんだもん、彼の気持ち。そりゃ、自分以外の人の心を100%理解することは、どっちみち不可能だけど。

 けど。突然グレられるのはもっと困るかも。そんなはずはないと思うけど、分からないわ。頭のいい人って何をやり出すか想像できないもん。後々まで、私の責任にされたら嫌だ。どうしよう、どうしたらいい? 今私に出来る最良の選択って……何?

 気持ちがいくつにも割れて、収拾がつかない私。ふたつの瞳にまっすぐに捉えられて、逃れられなくなる。ごくり、と息を呑んだのは――私? それとも彼の方……? 風の止まった空間、私の心も行き詰まる。立ち往生したまま夜明けを待つにはあまりに遠い。セキュリティーの切れるのが6時って言ったよなあ、あと何時間あるんだろ。

 うろうろと視線を泳がせて、また目の前の男に焦点が合う。私を見つめる瞳が、きらっと光った気がして。

 

 その瞬間。

 まるで羽を広げるように、槇原樹はすっと両腕を広げた。背筋を伸ばして、まっすぐにこちらを見つめたまま。

「来いよ、ここまで」

 

 ――彼の声は魔法だ。弾かれたように、私の身体が勝手に前に進み出る。

 喉にへばりついて、声が出てこない。顔を近づけて。黙ったままでその瞳を見つめたら、大きな手のひらがふわっと私の髪に触れた。指先の震えが、伝わってくる。寒くもないのに、……どうして?

 私を見つめる瞳が、ふっと細くなって。いつの間にか背中に回っていた腕で、ゆっくり抱き寄せられた。かなりすごいことになっているような気もしたんだけど、あまりにも自然な成り行きだったのでされるがまま。ふたつ分の心音が共鳴しあって、私よりも少し高い体温に温められた空気がふわふわと漂ってる。男の人の胸って、思ってたよりも柔らかい……とか、ぼんやりとそんなことを考えていた。
 肩、背中。ブラウスの上から、出っ張りとかくぼみとかをひとつひとつ確かめるみたいに手のひらが動く。そのあと、もう一度ぎゅっと抱きしめられて、息が出来ないよ〜と苦しくなったところで、ふっと楽になった。

「……良かった」

 やわらかい溜息が頭の上から落ちてくる。そのすぐ後に、彼はそんな風に呟いた。

「もう、駄目かと思った」

 息を吸い込むときの鼻音がほんの少しだけ湿っているような気がする。だから、顔を上げるのはやめた。私の鼻の先もじんと痛くなって、ちょっとだけ泣けてくる。人のぬくもりって、不思議。心を溶かしてしまうんだね。何でこんな風にしてるのかなって、途中で思ったりもしたけど、気持ちいいからこのままでいいかなとか。

「何言ってるのよ、馬鹿」

 この期に及んで可愛くない言葉。素直に甘えることなんて柄じゃないし、出来っこないわ。――でも。

 もしかしたら、私。こういう風にしたかったのかも知れないな。難しいこと抜きにして、ただ寄り添っていたいな……って。出来るわけないって、そんなの無理だって諦めてたけど、思い切って飛び込んでみるとそんなに難しいことでもないね。けど、すぐに振りほどかれたら嫌だなって不安になっちゃう。だから、私も彼の背中に腕を回してぎゅっとしがみついた。

 

 ――やっぱり、コイツは不思議な人間だわ。

 知れば知るほど謎が深まるし、もっとそばにいてその心に触れたいと思っちゃう。途中で「このままじゃ、ヤバイ」って気付いて離れようとするんだけど、なかなか上手くいかなくて。気が付いたらもう、ぐるんぐるんに巻き込まれてる。長い螺旋階段のだいぶ底の方まで降りてきた気分。でも「まだまだ序の口だよ」とか軽く言われそうだけど。

 男の人って、みんなこんな風なのかな? それとも槇原樹という人間だけが特別? 分からないなあ、そこのところは。

 

「いいよ、もう。馬鹿馬鹿しすぎてやってられないから、あんたの冗談に付き合ってあげる。あまりに意固地になっても私の評判が落ちるだけだもんね」

 面倒なことも疲れることも多いんだけど、そればっかじゃないし。最初にコイツに言われたように、退屈な中だるみの学年を有意義に過ごすのもいいかも。いろんな言い訳を心の中に並べて、どうにか自分を納得させようとしている私。対する奴の方は、この上なく嬉しそうに笑うの。

「そういう、素直じゃないとこがいいんだよ。お前、腹の底で何を考えてるのかさっぱり分からない。分からないから見極めたくなるんだ。そして、絶対にこっちを向かせたくなる」

 ――何それ、全然褒めてないじゃない。

「おあいにく様、そう上手くはいかないわよ? ……何しろ性格がねじ曲がってますから。矯正は不可能だわ」

 そう突き返したら、もっと強く抱きしめられた。首筋に吐息が掛かって、すごくくすぐったい。言ってることとやってることが全然かみ合ってない私たち。もしも誰かが見ていたら、呆れちゃうんだろうな。

 あまのじゃくって……、本当に困るね。

 

『あのね、私。とてもびっくりしたの。……こんなことばらしたら、あとで叱られちゃうかも知れないけど』

 耳に残る優しい音色。写真でしか見たことのなかった女性は、やっぱり想像通りの素敵な声の持ち主だった。「会話」っていろんなことが分かるよね。声色だけじゃなくて、言葉の選び方も話す速さも抑揚も。その人のすべてが短いやりとりの中に凝縮される。もっとも、彼女だって「カリスマ」ファミリーの一員なんだから、一般人と同レベルで考えちゃ駄目かも知れないけど。やっぱ、憧れちゃうよなって思った。

 彼女の話が本当だとすれば。私の作ったアクセサリーを奴のお父さんのお店に並べるに至るまでの成り行きは、そう簡単なことじゃなかったらしい。
 最初に彼が切り出したとき、透氏は全然取り合ってくれなかったそうなのだ。まあ、当たり前だよね、未成年だし。いくらフリースペースの貸し出しとは言っても、契約している人たちはみんな確かな腕を持った熟練さんばかり。もちろん買い物に来るお客さんの方だってそうだ。
 お遊びじゃないんだから、きちんとお断りしろ――透氏はそう言って話を終わりにしようとした。でも、いつもだったら「はいそうですか」と簡単に引き下がるはずの彼が、何故かしつこく食い下がったのだと言う。そして、その姿に母親である千夏さんはとっても驚いたのだとか。

『あんまりの熱心さにとうとう根負けしてね、それで隅っこの方にスペースを作ったの。樹はとても楽しそうだったわ、今までは主人のお店になんて入ったこともなかったのに、一日に何度も足を運んではディスプレイを変えてみたりして。それまではお姉ちゃんたちと一緒でも女の子らしい遊びなんてしたことなかったから、いきなりどうしちゃったのかと心配になったのよ』

 くすくす……って、耳元で踊る笑い声がやっぱり似てるなって思った。親子なんだな、としみじみする。

 セット売りにもばら売りにも対応するようにプライスカードを作って数日。思いがけなくブレスレットの方が売れた。残念ながらアルバイトの人がレジに入っていた時間で、どんな人の手に渡ったかは分からない。だけど、きちんと商品として成り立ったのは事実。
 この話を聞いたとき、すごくホッとした。千夏さんが私の作ったネックレスを愛用してるって言われたとき、ちょっと疑ったの。やっぱ、私の作ったものには商品価値はなくて、仕方なく身内で買い取ったのかなあって。そんな風に気を遣われるなら、返品された方がマシだったかなとか。

『それでね、学校から戻った樹に早速報告したの。私、きっと喜んでくれると思ったのに……あの子ってば、何だかとても複雑そうな顔をするんだもの。そのまま、お店の方に行くって言うから、一緒について行ったのね』

 ブレスレットが売れたことを確認して、彼はしばらくぼんやりとした感じになっていた。すると、そのうちに、陳列台のそばに若い女性が近寄ってくる。あれこれ手に取りながら時間をかけて吟味する姿を、槇原樹は店の隅から眺めていた。そして、最後にその人が私のネックレスを手にしたときに、突然つかつかと歩み寄ったかと思うと、誰から見ても失礼な感じで自分の手に奪い取ったのだとか。
「申し訳ありません、……こちらはもう、売約済みで、お売りできないんです」……驚く女性を目の前にして、彼もまた自分の取った行動に当惑していた。
 幸い、大きな騒ぎになることはなかったけど、そのことで後で父親からこってりと絞られたらしい。槇原透氏は普段はとても温厚な人柄だと言われているが、やはりポイントを押さえるのは忘れない人だって聞いてる。ショップを経営する身として、お客様はこの上なく大切に扱わなければならない。一瞬でも非礼なことがあってはならないのだ。

『可哀想だけど、その一件に関しては主人の言い分が正しかったわ。だから私も残念ながらフォローは出来なかったの。それでその日は夜遅くまでお店のことを手伝って戻ってきて……キッチンのテーブルの上に、あの子はあなたのネックレスを置いたのよ。どうしたのかと思って顔を見たら、もう今にも泣き出しそうな顔で――』

「もう二度とこのような失敗は繰り返さないから」そう言って父親に頭を下げて、彼はそれを自分で買い取ってきたのだと言う。もちろん女性もののアクセサリーを彼自身が身につけることは出来ない。色合いも気に入ったので、千夏さんが引き取ってくれたそうだ。

 ちょっと不安になって確認すると、それからいくつか持って行った分はちゃんと販売されたとのこと。内緒だから絶対に言わないでね、って最後に念を押された。

 

「いいんだ、それが薫子なんだから」

 そんな風に訳の分からないことをのたまう。何か言い返してやろうかと顔を上げたら、そのまま顎をぐっと押さえつけられた。
 身震いすら出来ないほどの強い力、思わず瞬きする。まつげの震えがきちんと感じ取れるくらい、とっても近い。ど、どうしたらいいの、この先。これ以上アップにならないで、もう直視できないから。やめて、駄目だってばっ……。

「……んっ……」

 

 身体の力が一気に抜けてしまう。

 限界値だったから、目を閉じたら、その後すぐに口を塞がれた。ああ、こんな言い方をしたら全然ロマンチックじゃないけど、……うん。私にとって、二度目のキス。
 この前は一瞬だったから通り過ぎるみたいな感じだったけど、今度のは違う。何度も何度も、降り注ぐみたいに繰り返されるの。頭の中が泡だって、ぶくぶくいって溶け出しそう。

 

「……ゆでだこの顔だ」

 離れた後も、余韻で頭の奥ががんがん反響していてぼーっとしてしまう。ふにゃふにゃに力が抜けていく身体を元通りに抱きしめられて。でも奴の口から出てきたのは、やっぱりこんな憎まれ口なの。
 言い返したくても、肝心の唇が言うことを聞かなくて駄目。うー、とかうめき声しか出てこない。恥ずかしくて仕方ないから俯いたら、またきゅっと抱きすくめられた。

 雨の音よりも心臓の音の方が大きいってすごいよな、ちょっと近すぎだよな。そんなにすりすりとしてこないでよ、何だかぞくぞくするんだもの。

「あのさ、薫子」

 何かを必死で堪えてるみたいな声で、彼が言う。耳元でこんな風にささやかれたら、くすぐったさで気が狂いそう。やっぱ、特別のオーラが漂ってるよ、コイツの周辺は。だけど、その次の台詞は、私の脳天を突き抜けるほどの衝撃を与えてくれるのに十分だった。

「……しよっか?」




 

2004年11月26日更新

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