夏至まで、1ヶ月足らず。6時を回ったというのに、外に出ると空はまだまだ白っぽくて、ぽつぽつと灯り始めた外灯が恥ずかしそうだ。 建物の隣の公園。水の止まった噴水の淵に腰掛けている彼を見つけた。 元通りに西の杜の制服を着てる、ピエロの魔法の解けた王子様。普通は格好良くなる方が「特別」なんだけど、彼の場合は逆なんだな。おじさんの絵が描いてある缶コーヒーを手にして、ぼんやりと空の色を見てる。
本当に同一人物なんだよなあ、あの「イッキ」って呼ばれていたのが目の前にいる奴……でいいんだよね?
「服、返しに来たんだけど」 声を掛けるのも躊躇ってしまった。だって、夕闇に染まった姿がすごく絵になっていたんだもの。私のひとことでその綺麗な画面が壊れちゃうのはすごく残念。振り向いた彼は、色の落ちた笑顔を浮かべてた。 「……いいネタ、仕入れただろ。兄貴に高く売れるぞ」 いつもの覇気はないんだけど、それでも言うことだけは生意気。どうして、まあ。こうひとこと多いんだろう。そんなに私をムッとさせたいのかな。 「大枚頂いても、奢らないからね。……覚えときなさいよ」 すらすらと、そんな風に答えてしまう私。ほら、ごらんなさい。だんだん、あんたの性格が伝染しているよ。私まで底意地悪い女になって行くじゃない、どうしてくれるの。 軽く喉の奥で笑った彼は、自分の隣にもう一本、缶コーヒーを置いた。 「……どうも」 私に飲めってことだろう。そう判断する。そりゃそうよ、気が付けば二時間以上の無料奉仕。ちっちゃい子供たちにもみくちゃにされていたんだから。聞き分けのない子たちじゃなかったけど、それでも喉がひりひりしてる。たったあれだけの時間なのに、数ヶ月分の会話をした感じだわ。 私が隣に腰掛けると、奴はふっと吐息を漏らした。ついそちらを見てしまうと、片方の膝の上に置いたコーヒー缶をくるくると弄んでいる。何となく、……何となくなんだけど。あの缶になりたいって思う女子は多いだろうなとか、思った。プルトップを開けて、一口。……うわ、苦い。これって無糖ブラックだ。 婦警さんなんだからこざっぱりとしていた方がいいかな? と首の後ろでひとくくりにしていた髪を解く。地肌まで風がふんわりと流れ込んで心地よかった。 「……中三の夏だったかな。父親に頼まれて商店街のイベントに参加することになって、あまり目立つのは嫌だって言ったら、いきなりピエロにさせられたんだ」 そんなこと、聞いてもいないのに。勝手にぺらぺらと話し出す。どうしたんだろう、今日の槇原樹。何かいつもと違うのは気のせい……? 話に付き合ってやる義理もないんだけど、何となくこのまま置き去りにするのは可哀想かなとか。変なところで情が厚い自分に苦笑いしてしまう。 「最初はさ、面食らったんだよ。ウチの父親って、時々突拍子もないことを考えるんだから。冗談じゃないぜと思ったんだけど……やってみると、コレが楽しいんだ。どうしてか、分かる?」 ……分かるわけないじゃないの、私はあんたじゃないんだから。そんな風に心の中で呟きながら黙っていたら、彼はぽつんと言葉を落とした。 「だって。みんな俺のこと、気付かないんだ。ただのピエロがいるって思ってる」 何よ、それ。全然分からない。ピエロの格好をしていたら、誰だってそう思うわよ。ディズニーランドのミッキーマウスだって、多分入っている人間は色々なんだけど、どこをどう見たってミッキーだもん。 「楽しくて、楽しくて、あっという間に時間が過ぎて。気が付いたら、ここでぼんやり座ってたんだ。イベント会場なんて、とっくの昔に取り壊されて、大人たちは打ち上げに行っちゃったんだけど。何となく名残惜しいなとか。そしたら――、あの子が声を掛けてきたんだ」 あの子、って誰だろう? 一瞬そんな風に考えて、すぐに思い当たる。きっとさっきの女の子だ。しっかりした目をした、ツーテールの。 「ピエロさん、ひとり? 迷子になっちゃったんだったら、一緒に来ない? 友達がいっぱいいるよ……って。別に断っても良かったんだけど、一緒に遊ぼうって言われたら、何となくそれもいいかなって。でも、連れて行かれた先に、20人近くちんまいのがいたのにはさすがに面食らったけどな」 ゆっくり、立ち上がる。そこに、先ほどまでの陽気なピエロはいない。何か、もうさっぱり分からなくなってる。どれが、本物の「槇原樹」……? 私は、もしかして彼のことを何も知らないんじゃないかしら。 彼はそのまま水飲み場まで歩いていった。空き缶を水道で洗ってから、リサイクルボックスに入れる。ついでに誰かの捨てたキャンディーの包みが落ちてたのも拾い上げてくずかごへ。それからゆっくりとこちらに振り向いた。 「……何だよ、帰らないのか?」 呆れ声にハッとする。あ、そうだわ。全くとんでもない時間のロスをしちゃったじゃないの。
来週末の文化祭に向けて、先生方は授業を少しスピードアップしてる。 遊ぶときは遊ぶけど、帳尻はしっかり合わせる。頭のいい人たちはそう言う切り替えが上手だなと、周りを見ていて思うわ。と言うことで、宿題の量も少し多くなってる。溜め込むと後が面倒、どんどんこなして行かなくちゃ。 慌てて立ち上がる私を確認すると、彼はすたすたと先に歩き出した。 学校にまっすぐに続いている道。こんなに目と鼻の先にいて、どうして誰も気付かないんだろう。たったひとりでも気に掛ければ、すぐに分かることなのに。 まあ、無理もないかも知れないな、だってあまりに違いすぎる。何のためにあんな風に姿を変えて、子供たちと接しているのか。別にいいのに、いつものままで。その方がまたステータスが上がるってものでしょ……? 「今日は助かったよ。……来週はあそこの建物は壁の塗り替えで、子供たちは1週間、近所の保育園に預けられるんだって言うから。2週間分、楽しませてやれたかな……?」 ピエロもたまには休暇を取るんだな、とか自分の言葉に笑ってる。……あ、そうか。保育園を間借りしてるんじゃ、部外者は入れないもんね。それに文化祭直前で忙しいんだから、丁度良かったのかな?
兄の話を聞いたとき、こんな彼を想像することは出来なかった。 何か人に言えない「秘密」があるんなら、それこそ、道を外れたとんでもないことしてるんじゃないかなって。ほら、よくサスペンスとかに出てくるでしょ? 誰からも尊敬される善人面した人間が、実はとんでもない悪事を働いてるとか。 未成年の立ち入り禁止の場所とかで働いてるのかなと思ったりした。……きっと、その方がずっとイメージに合ってる。指名ナンバーワンのホストなんて、はまりすぎ。 だから、なんだろうな。この脱力感は。もうちょっと、悪い人間になってくれないと、困るんだけど。こんな「秘密」じゃ、得意気に話せないわ。もしもそうしたらまるで、槇原樹の「いい人」度をアップするだけみたいじゃない。腹立つ、そんなこと頼まれたってしたくないわ。
「……あの子に連れられて、白い壁の部屋に入ったら。みんなきちんと床に座って、同じ方向を向いて。TV画面を見てた。何かのアニメの再放送。つまらなそうにぼんやりしてる子もいたけど、すごく静かでびっくりした」 学童保育、って言うそうだ。私の地区にはなかったから馴染みがなかったけど。共働きとかで、日中ひとりになってしまう子供たちが集まって過ごす場所。デパートなんかのサービス業は土日祝日関係ないものね、そういう親御さんは心強いだろうな。今は物騒な事件も多いし、寂しさから仲間を求めて非行に走る子だっているし。 ただ、そう言うところはどうしても人手不足。危険のないように気遣いながら過ごすためには、どうしてもTVとかゲームとかそう言うものにお世話になっちゃうんだろうね。 「何かさ、すげーお節介な気がしたんだけど。放っておけなくなっちゃってね……」 早速、責任者の人と話をつける。学校が早く終わる木曜日だけ、槇原樹はそこで子供たちと過ごすことにした。 彼が「槇原ブランド」にそこまでこだわっていたなんて意外。何となく、上手にそれに乗っかって生きているような気がしていたから。 それに、驚いたことに、家族にすら話してないんだと言う。もう2年近く経つのに。 「……どうして、ばれないのよ?」 思わず、聞いてしまった。その質問があまりにおかしいと言わんばかりに、奴はいつも通りの人を小馬鹿にした笑顔になる。 「馬鹿、それくらいのことは朝飯前なの。俺を誰だと思ってるんだよ」 もうすぐ西の杜の校門、部活によっては練習があったところもあるらしく、丁度二度目の下校ラッシュになってる。 手にしている紙袋。あの中に彼の「秘密」が詰まっている。もしも今、取り上げて中身を全部ぶちまけたら、どうなるんだろう。突然に、そんな想いが湧いてきた。たいしたダメージじゃないと思う。奴のことだ、すぐに上手に機転を利かせてその場をすり抜けちゃうだろう。でも、少しでも慌てさせることが出来たら。 そうよ、ちょっと手を伸ばして。そしたら……。 「――言うのかよ?」 振り向きもせずに、奴は言った。私は反射的に腕を引っ込めてしまう。軽く握りしめた手のひらの内側がじんわりと汗ばんでいた。 「週末には戻ってくるんだろ、お前の兄貴。せっかく妹が最高のポジションにいるのに、なかなか情報も収集できなくてイライラしてるんじゃないか? ……そろそろ、ぷっつんしたりしてな」 いつも通りの、憎まれ口だ。でも、今日はどうしたんだろ。そんなに腹が立たない。 確かに奴の言う通りだ。毎週帰省してくる上に、ご機嫌伺いのメールが日に何度も来る。兄からのメールがボックスに溜まっていくのは情けない限り。挙げ句の果てに「早く家に連れて来いよ」なんて、のたまう。きっとそのことを槇原樹が知ったら、すぐさま言うでしょうね。「どうせ、盗聴マイクと隠しカメラが仕込まれてるんだろ」……とか。 私が何も言い返さないことを不思議に思ったんだろう、奴は紙袋を大きく揺らしながら振り向く。見えそうで見えないのは婦警さんの服の方だ。 「何も言えなくなるように、魔法を掛けてやろうか?」 ――は? 何言ってるのよ、コイツ。 言葉の意味が分からずにきょとんとしてると、夏服のシャツの袖を肘の上までめくりあげた腕がぬーっと伸びてくる。そして、さっき鍵盤を滑らかに奏でていた指先が私の口元に届いた。 うわっ、と思う暇もなく、またすっと離れる。一瞬の間合い。私はごくりと息を飲んだ。 「……やっぱ、やめとく。お前が、憎ったらしい口答えをしなくなったら、つまらないからな」 ラベンダー色の制服たちをバックに、彼はおどけるように首をすくめて見せた。
はさみをチョキチョキしながら、その手つきと同じくらい軽やかに笑う。私はまた、放課後にあの美容室に来ていた。もちろん後ろにいるのはバレー部の恵里香って子。部活をちょっと抜け出して来てくれたそうで、申し訳ない。 「あら、やだ。だって、自分が担当したお客様のことはいつも気に掛けてなくちゃいけないのよ。どうしてもアンテナがぴぴぴっと反応するんだから」 そんな風に言いながら、放課後に時間を作ってくれた。聞けば、バレー部も今週末の文化祭には模擬店を出すという。焼きそばやさんなんだって。クラスの方も出し物があるのに、みんな平気な顔してふたつもみっつもはしごするのよね。去年もそれを外野から眺めていたけど、本当にびっくりしちゃう。 「小杉さんね、つむじがちょっとだけ中心から右にずれてるの。で、その少し下に小さいのがもうひとつあるのよ。だから、この辺で髪の流れが変わっちゃうのね、今までも苦労したでしょ?」 ――何だかそれ、「つむじ曲がり」って言われてるみたい。ちょっと口惜しい。鏡に映った私の顔が少しふてくされると、彼女は悪びれもせずに付け加える。 「だって、人間は全部が完璧に出来てるわけないでしょ? 顔だって左右がシンメトリーには出来てないし、腕の長さだって極端に違う人もいるしね。中には足のサイズがワンサイズ違っちゃう場合もあるんだって。でも、それは個性だもん、恥じることじゃないわ。人と違うところがあったら、それをどんどん活かしていけばいいのよ」 今日は時間がないからカットで揃えるだけだけど、今度きちんとするね? とか言ってくれる。美容院ってこんな風にアフターケアまでしてくれるものなんだなあ。子供の頃は母親と同じ近所のおばちゃんがやってるお店に行ってたけど、言われたとおりにやるだけみたいな感じだった。
向こうから言い出したことだけど、きちんと規定の料金は支払うつもり。 お財布の中には、今日また臨時収入があった。初めての品物が売れた後も、少しずつ新しいのを置かせて貰ってる。もちろん商売にして儲けようとか思ってないから、時間を掛けて丁寧に作ったものを材料費に少しだけ色を付けた値段をつけて。 でも、そうすると。ほんのちょっとずつ、奴が勝手に金額を上乗せしてるんだ。余計なことはしないでよって言ったら、あっさりと言い返される。 「馬鹿、お前があんまりひとりで安売りすると、他の出品者が迷惑するんだよ」 そう言う一方で、「もう夏っぽいものがうけてるみたいだから、今度は涼しい色合いのを作ってみろよ。ブルーよりもグリーン系の方が人気みたいだぞ」とか助言してくれたりもして。その通りにしてみたら、即日完売。もう、びっくりしちゃった。
「そっちのクラスは、夜祭りやるんだっけ? 接客する女の子は全員、浴衣を着るんだってね〜」 今度は文化祭の出し物の話になった。 土日の2日間に渡って行われる年中行事。クラスごとにやりたいものを決めて、文化祭委員がそれを調整する。同じ出し物がかち合いすぎても良くないから。人気の高いものはくじ引きになったりするんだって。 「ウチのクラスは、立体迷路。近所のスーパーから段ボールをいっぱい貰ってきたり、竹林があるところから竹を分けて貰ったり、結構たいへんね。まあ、組み立てはガテンな男子がやってくれるから、楽なんだけど」
そんな風にしているうちに、カット終了。ぱさぱさっとビニールの上着を叩いて、彼女はドライヤーをセットした。 「……あら?」 不意に、ころころんとドアが開いた。思わぬ人影に驚いた様子の彼女は一度振り返る。入ってきた人を私も鏡越しに確認した。
……よく知ってる顔、意識しなくても視界に入ってくることがこの頃多かった人。太ももの半分まで露出ししてて、スカートの影がゆらゆら揺れてる。
「ええと、ごめん。予約は入ってなかったよね? 私、これから部活に戻らなくちゃいけないんだ。今日はお店は定休日だし、……明日でいいかな?」 恵里香さんが、申し訳なさそうに対応してる。でも、ドアのところに立ちんぼになってる彼女の方は、そんな言葉は全然耳に入ってないみたい。 何というか……視線が。まっすぐにこちらに突き刺さっていると思うのは、気のせい? ……だといいんだけど……。 「いいのよ、今日はお店に用事があったんじゃないから」 案の定。ピンと張りつめた声が、壁に反響する。私は恐る恐る振り向いた。 「こんにちは、小杉さん。もう済んだんでしょ? ……ちょっと、いいかしら」
こぼれそうに大きな目。小柄だけど、すっきりした体型。細い腕が気持ちよく日焼けして、スカートから伸びてる脚のラインの綺麗なこと。ふわふわと血統書付きの室内犬の毛並みのような髪をかきあげて、彼女はにっこりと微笑んだ。 ――テニス部の2年生レギュラー、一松明日美さん。 またもや私は、とびきりの有名人とお近づきになる羽目になった。
こうして連れだって歩いている私たちは、傍目に見れば仲の良い友達に見えるだろう。同じ制服を着て、学校指定の靴も履いて。胸に揺れるクラス章だけが色を違えていた。 鞄を抱え直して。もう私は生きた心地がしない。子鹿のようにどんどん前に歩いていく明日美さんを追いかける足取りも重かった。どう見ても、今の状況に関係のない会話を続けながら、進んでいく。 見てくれのいい男はいい加減見慣れたけど、女の子はまた別ね。何かもう、男だったら誰でも目の色変えちゃうだろうなって感じ。女の子らしさが綺麗な色のシャボン玉になって、周りを彩っているみたい。
何……何よ。 今まですれ違ったって挨拶もしないような仲だったでしょう? もちろん私はあなたのことを知ってる。だって、目立つもん。新しい彼氏と腕を組んで歩いてるとこも何度も見たわ。でも、そっちは……。
どれくらい、歩いただろう。いきなり彼女はぴたっと足を止めた。その瞬間に、今までの無駄に親密な空気が一変する。私は思わず顔を上げてしまったことを、深く後悔した。 アーチ型になった橋のたもと、振り向いた彼女はやわらかな女の子らしい微笑みのまま、きっぱりと告げる。 「もう、十分でしょ? さっさと終わりにしなさいよ」
2004年10月1日更新 |