「おはよう、薫子」 改札を出ると、そんな声に呼び止められる。 別に、最初の頃のように無視して通り過ぎるつもりもないんだけどなあ。まるでこれじゃ、「通せんぼ」だよ。人の前に立ちはだからないでよ。通学時間帯に、いい迷惑じゃないの。 「その感じだと、昨日も答えは出なかったようだね〜」 いきなり耳の穴に囁かれる。ふふふっと鼻で笑う、いつもの意地悪な台詞なんだけど、周りから見れば違うんだろうな。朝の甘〜いひとときとか、絶対に勘違いされてそうな気がする。 「わっ、……悪かったわねっ!」 ――うわわっ、何で頬が熱くなるのよ! これって、やばいわ。
実は昨日の朝も一昨日のように「奇襲攻撃」しようとして、玉砕したのよね。だってだって、やっぱ「演技」させれば、コイツに敵うはずがないでしょ? いきなり十倍返しされて、朝から目眩がしたわ。 この前出された「条件」にしたって、絶対分かりっこないじゃない。奴が私にしているような底意地の悪い接し方を今までの歴代の彼女さんにしてるなら、当然のこととは思うけど。まあ、本人もそれはないと言ってるし、私としても多分本当だろうなと思ってる。 そうよねえ、そんなことしてたら、彼女たちの口の端からじゃんじゃんと漏れて、今頃真実の姿が暴かれているはずよ。かなりしつこいストーカー紛いの人だって存在するらしいし、たくさんの「目」を出し抜くなんて、そうできるものじゃない。 それにそれに。 昨日一日は、授業時間以外はいつも傍に奴がぴったりと寄り添っているのだ。ハッと振り向くとそこにいて落ち着かないったらありゃしない。挙げ句の果てにトイレの前まで付いてきたときはどうしようかと思ったわ。さすがに中までは入ってこなかったけどね(当然です)。
「えーと、今日は何曜日だったっけ……?」 わざとらしい視線を投げかけてきたかと思ったら、今度はいきなりそんなことを言い出す。 聞かなくたって、見上げればすぐそこの電光掲示板にでかでかと出てるでしょ? わざわざこっちを向いて質問しなくたっていいじゃない。 「木曜日、でしょ? あんたね〜、高校生なんだから家で時間割揃えるときにきちんとチェックするでしょ? それともとうとうボケてきたの……?」 ああ、我ながら可愛くない応答の仕方だ。すると、頭の上にこつんと小隕石が落ちてくる。正確には、彼のゲンコツ。 「ボケ、『あんた』じゃないだろ、ちゃんと『樹くぅん』って言わないと駄目だろうが」 そう言いつつ、口の端が笑ってる。何かがおかしくて仕方ないみたいに。何よっ、別に口元にご飯粒がくっついてるとかそう言うんじゃないでしょ? 一応ね、登校途中もあちこちから見られるのは分かってるから、家を出る前に全身チェックしてるの。ぬかりないはずよ。 「そうだよな〜、木曜日なんだよな。木曜日……」 そう言いながら、ちらんちらんと視線を投げてくる。こっちとしては馬鹿にされてるみたいで嫌な気分だ。言いたいことがあるなら、はっきり言いなさいよ。 「……何よ、分かってるなら聞かなくたっていいじゃない」 同じ時間帯に登校している人たち。どうしたらこのやりとりを「激甘な恋人の語らい」だと曲解できるんだろう。全く持って感覚を疑うわ。ぷりぷりしながら睨み付けてやったら、槇原樹はきょとんとした顔で突っ立ってる。そして、こぼれるほどに見開いた目でじーっと私を見つめると、呆れ声を上げた。 「お前、オタクの兄貴から何も聞いてないの? ……普通、マニアだったら飛びつく話題なんだけどな」
……は? はああああっ……!? いきなり何を言い出すんだ。――いや、待てよ。そう言えば、最初の頃にそんな話があった気がする。でもあまりに色んな事が立て続けに起こりすぎて、目の前の事柄をさばくだけで手一杯だった。ええと……、確か「何とかの木曜日」――違った、『木曜日の秘密』だわ。
私の表情が変わったのを見て取ったのだろう、奴は最大限に意識して作ったに違いない極上の笑みを浮かべた。 「そんなわけで今日は一緒に帰れないから。……浮気するなよ、間違っても」
6限終了後、帰り支度を始めた槇原樹を私は注意深く見守った。間違っても目を合わせたりはしないわ、あくまでも素知らぬ振りよ。 「――薫子!」 だから〜! 同じ教室にいるんだから、そんなに響き渡る声で人の名前を呼ぶなって言うのっ! ざざざっとクラスメイトたちの視線が集まった中を、奴は鞄を抱えてやってくる。もちろん、顔に貼り付いてるのは満面の笑み。 「じゃあ、僕はお先に。気をつけて帰るんだよ?」 名残惜しげに手なんか握りながら、見つめる目がこちらの腹の底を探っているのは分かってる。うっ……、かき乱されてたまりますかって言うのっ、気にしないわよ、気にならないわよ、あんたの「秘密」なんて! じゃあね〜、とか大袈裟に手を振りつつ遠ざかる。その背中に「うわ〜、樹くんってやっぱりいいなあ」とか「小杉さん、愛されてるわよね〜」とか囁く声が投げかけられる。 ――まあねえ。普通の感覚の女子だったら、この「特別扱い」はすっごく誇らしいことだと思う。いきなり自分がすごい人間になった気がするかもね。
……と。
先ほどの一幕も、奴の作戦だったとしか思えない。皆の視線が一斉にこちらに向かったから、すぐに後を追うことが出来なかった。慌てて小走りに廊下を抜けて、昇降口の階段上から見渡す。わあっ、校門、出て行くところじゃない。左……? そうね、駅とは反対側に向かったわ。奴の背中が門の外に消えたのを確認してから、猛ダッシュした。 ――嘘、いないじゃない。 しばらくは校庭のフェンスの続く一本道だから、油断していた。遅れること65秒、校門の外に飛び出たら、もういないの。そんなのってあり? 奴より先に出た人がまだその辺を歩いているというのに。何だろう、そんなに急いでいたのかしら。 運動不足がたたって横っ腹は痛くなったけど、こんなことでへこたれていられない。フェンスが切れると、しばらくはかたちの似ている建て売りの住宅が並んでいく。まさか個人の家に隠れてるわけないし……と通り過ぎたら公園。でも、そこまで来ても、やっぱり奴は見あたらなかった。 「う〜っ、何よぉっ!」 ああ、腹立つっ! まんまと奴に引っかけられたの、私? 夕暮れ前の公園の真ん中で仁王立ちになっていたら、足元をちょろちょろとちっちゃい子が駆け抜けてく。何かすごい、情けない。
もう、帰ろ――と、思ったとき。背後に人の気配を感じた。 「……何、馬鹿やってるんだよ、ボケ」 聞き覚えのありすぎな声に振り向く。……でも、そこに立っていた人物には会ったことがなかった。 「えと……、どちら様でしょうか?」 だってさ、そう訊ねるしかないと思うの。きっと私以外の誰でもそうしたはずよ。想像した声の主とは全然違う「物体」がそこにいたんだから。 クリスマス会の時にしか使わないようなしましま渦巻きのとんがり帽子。アフロなヘアはスモークピンク。びらびらの派手な衿飾りと袖口飾りの付いたたぷたぷの服がまたオレンジに黄色の水玉。そして、顔は白塗りにペインティングされている。ファンデーションとかじゃなくて、アクリル絵の具を塗りたくったみたいにてらてらして。そう……それは、どっから見ても……。 「機転の利かない奴はこれだから困るんだよな。ほら、時間がないんだよ、時間がっ。呆けてる暇があったら、すぐにこれに着替えろっ!」 公園中の視線をものともせずに、サーカスのテントから飛び出してきたようなピエロが差し出した白い紙袋。入っていたのは、――何故か婦警さんの制服だった。
ざわざわざわ。始業前の教室の様な賑わい。 訳も分からずに連れてこられた平屋の白い建物。その一番奥の部屋にはいると、教室の半分もない広さのそこには20人近くの子供がひしめいていた。みんな膝を抱えて座っている。男の子も女の子もいて、歳は……うーん、そうだな、小学校の低学年くらい? 赤や黒のランドセルがすごく似合いそうな子たちだった。
……で? 「イッキ」って何だよ、「イッキ」って……???
そう思って横を見ると、背高のっぽの白塗りピエロはにこにこ笑いながら子供たちに手を振っている。よく見たら、私たちの立っている場所は他の場所よりは一段高くなっているステージ。床はここを含めて全部がモスグリーンのカーペットで敷き詰められていた。左側の壁にだけ大きな窓があって、すぐそこに緑色のフェンスが見えた。 「いやあ、ゴメンゴメン。遅刻しそうになって全力で走っていたら、スピード違反で捕まっちゃったんだ。だから、婦警さんに繋がれたまま来たんだよ〜っ!」 そう言って掲げる手首に手錠がくっついてる。その片方は私の左手首に繋がってるのよね。それを見た子供たちから次々に歓声が上がる。 「嘘だい、かけっこでスピード違反になるわけないじゃん」 「そのお巡りさんも偽物でしょ? 知ってるよ、コスプレって言うんだよ、こういうの〜!」 ……いいのか。こんなちっちゃい子たちに情けなく突っ込みを入れられて。その上、隣に立ってるピエロは何を言われてもヘラヘラ笑ってるし。相変わらず鼻は高いし、顎のすっきりした線もそのまま。だよなあ、本人なんだよな。だって、声が同じだもん。でも、こんなのって信じられない……! 信じられないと言えば、私自身もそうよ。何が悲しくて婦人警官。もう、いきなり怪しげなコスチュームを突きつけられて、今度の今度こそは慌てたわ。
「な、何よ。これって……」 ――まさか噂のコスチュームプレイ……!? そ、そうよ。たしか、変態プレイの王道なんでしょ? 女性側に憧れの職業の制服を着せて、淫らな行為に走るのって燃えるんだって。看護婦さんとか、ウエイトレスさんとか。メイド服とか、ウエディングドレスまであるって聞いたわ。 遡ること15分前。紙袋の中身を確認した私は、うろたえてしまった。なのに、ピエロは非情にも言うの。 「ほら、そこの木の陰で着替えろ。大丈夫、誰にも見えやしないって」 えっ、ええええっ!? ……ちょ、ちょっと待ってよっ! うら若き乙女に公園の茂みで着替えろって言うの? もしかして、これもひとつのパフォーマンスとか言わないわよね? 変なオジサンたちが一眼レフのカメラスタンバイで隠れてたらどうしよう……!? 「……って、こんな風になってるのか」 上下がそのまま繋がっている「ニセモノ」なデザインを見た私はホッとする。目の前のピエロはいかにもこちらを小馬鹿にしたように、横目で睨んだ。 本来ならばスカートとブラウス、上着に分かれているのだろうけど、これはずぼっと被るだけだ。今はもう制服も移行期間で上着は着用自由になっているから今日は着てない。そのままの格好でゆるめの「それ」を頭から被って、丁度プールの着替えの時にバスタオルをてるてるに被る要領で、下から制服を脱いだ。 「ま、似合ってないけど仕方ないな。……ほら、行くぞ」 え? 行くって何処へ……!? そう聞く暇もなく、オモチャ(だと思う)の手錠をがしゃんと付けられていた。
「じゃあ、手錠が付いてたら遊べないから。鍵が見つかるまで、まずは紙芝居かな? 今日はどれにする〜?」 ピエロがそう言うと、子供たちは一斉に窓際の棚に集まる。そしてわいわい言いながら、昔幼稚園で先生が読んでくれた時と変わらない紙のケースに入った紙芝居をいくつも取り出していく。全部で5つくらい。それを受け取って、ピエロはすごく嬉しそうに笑った。
初っぱなから、紙芝居の5本立て。しかも、登場人物によって声色は変わるわ、思わずBGMが聞こえてくる錯覚を覚えるほどの臨場感があった。マイクも使わずに、ビンビンと部屋の壁に反響する声。子供たちの真剣そうな表情。電車の中とかで聞き分けのないガキどもばっかり見ていたから、子供なんてあんなものだと思っていた。何か……この子たちはちゃんとしてるじゃないの。 次にピエロは何を考えたのか、テニスの軟球みたいなカラフルボールを部屋一面にばらまいた。でもって、得意そうに言うの。私と繋がってる腕を子供たちに見せて、ね。 「この中のひとつに、この手錠の鍵がついてるからね。もしも見つけられた人は、ラッキーだ。今日、一番にリクエストしていいからね」 ふわふわのボール。あてられても痛くない感じだけど、こうやって床一面を覆い尽くしていると圧巻。全体的にパステル系の色合いで、ピンクに黄色に黄緑に青に紫。どれも似たような感じで見分けが付かない。 子供たちは捜し物をしているうちに、いつの間にか「雪合戦」ならぬ「ボール当て合戦」に突入したりして、きゃあきゃあと歓声を上げていた。さっきまで大人しくお話を聞いていたのに、今度は蜂の巣をつついたような大騒ぎになってる。 ピエロは私と繋がっているというのに、話しかけてきたりとかしない。全然別の方向を向いて、子供たちとおしゃべりしながら自分も宝探しに没頭してる。とても子供相手に手加減してるとは思えない。一緒になってはしゃいでた。 「あ〜っ! ……あったあっ!」 ひよこ色のスカートの女の子が得意そうに右手を挙げる。ピンク色のボールに、本当にちっちゃな鍵がセロテープでくっつけられていた。 その後は、みんなでボールを片付けて。部屋の隅っこにあるぼろぼろなピアノの周りにみんなで集まる。
……嘘。もしかして、鍵盤もOKだったの……? そんなの、聞いてなかったわ。
一曲終わって、すぐに次の曲。もう、アニメの主題歌から音楽の教科書に載っているようなものまで。知ってるものも知らないものもあったけど、ピエロに応えられないリクエストはひとつもなかった。楽譜もないのに、これって勝手にアレンジしてるの? 最初は静かに聴いていた子供たちも、知ってる曲が流れてくると自然に歌い出す。 先ほどの鍵で、めでたく自由の身になった私。なのに、自分にはまったく関わりのないその場からどうしても立ち去ることが出来なかった。小さなリサイタルは、タダで味わうには申し訳ないほどの出来映え。いつもは憎々しい声なのに、伸びやかな歌声はすごい癒し系なの。 そのため、次の「宿題タイム」には、ピエロと一緒に「分からない問題を教えて」の言葉に飛び回る羽目になる。算数の子も国語の子も、教科書を音読する子もいる。読書が宿題の子もいた。そう言う子は、棚から好きな一冊を探して読んでる。
不思議だなと思った。 何だろう、この場所は。この子たちの「保護者」となる大人の姿がない。小さな子供たちとピエロと……それから、私だけ。気が付くと2時間以上、そこで過ごしていた。 やがて窓の外が薄暗くなってくると、部屋の鍵らしきものを持った中年の女性がやってくる。それが合図になって、後片付けと掃除が始まった。テーブルを二人組で片付けたり、どこからか箒を持ち出して掃き始めたり。窓の戸締まりとカーテンを引くまで、みんなすごく手早くこなしていた。 誰に言われるわけでもなく、自発的に動ける子。イマドキ、なかなかいないんじゃないかなあ……? 普段、小さな子供と接することなんてないし、またまた新鮮な驚きだった。
「……お姉ちゃんって、イッキの友達なの?」 戻りがけ、私はどこか着替える場所はないかと探していた。ピエロはさっさと消えてしまったし、とてもこの格好のままでは外を歩けない。もしも本物の婦警さんと遭遇して職務質問されたらどうするの。 そうしているうち。掃除用具入れの前で、背中から声を掛けられた。振り向くと髪の毛を上の方でふたつにしばった女の子が立っている。子供たちの中でも一番大きな方で、みんなのまとめ役になっていた子だ。頭の良さそうな目がまっすぐに私を見ていた。 「え……? う〜ん、そんなもんかな?」 どうやって説明したらいいのかよく分からない。だから一瞬ひるんだ後、曖昧に微笑んで見せた。すると彼女はちょっと複雑そうな顔をした。でもすぐに思い直したようで、きっぱりと言い切る。 「私も、イッキの友達なの。でもきっと、私が一番の友達だよ。……だって、イッキは私がここに連れてきてあげたんだもん」
2004年9月24日更新 |