◆ その日の君へ
同じクラスになったからと言って、特別に親しい間柄になる訳でもないんだな。改めてそのことに気付いたのは、もう卒業を二月後に控えた受験の追い込み期だった。 「あれ」 話している本人同士にしか分からないような、短い意思の疎通。普段の三割り増しくらいに大きくなった目が、不思議そうに俺を見ていた。大まかなパーツは全く変わっていない。だが、やはり昔の記憶とは全体的なイメージが変化していて、それがとても不思議だった。多分そのとき、彼女も俺に対して全く同じことを考えていたんだろう。 感動的再会はそこまで。すぐに次の授業が始まる。厳めしい顔つきの数学教師がさらに顔を歪めて図形の証明を板書していくのを目で追いながら、何故が左隣の彼女ばかりが気になっていた。
◆◆◆ 何だこの、いかにも馬鹿っぽい挨拶は。しかも声の主は浮かれ気分のスキップで始業間近の混み合った廊下を進んでくる。いや、振り向かなくても分かるんだ。アイツはそんな奴だ。 「……てっ!」 間一髪のところで難を逃れたと思ったが甘かった。半歩避けようと思った先に知らない女子がいて、前を塞がれる。ヤバイ、と構えたときにはもう背中にエナメルバッグが激突していた。一体、中に何が入っているんだよ、やたらと固いぞ。 「な〜に、呆けてんの? アンタ、勘が鈍ったんじゃない?」 当然のように隣を歩き出す女は、何かを探るかの如く俺の顔を覗き込んだ。声もでかいが態度もでかい。同じ中学出身だから間違いなく知り合いではあるが、俺はコイツのことが苦手だった。出来ればお近づきにはなりたくない、と言うか同類だと思われたくない。それなのに、やたらと付きまとわれるから迷惑しているんだ。 「……」 あー、返事をするのも面倒。早く教室に逃げ込みたい。とは言え、何とも不幸なことにコイツはクラスまで一緒だったりするから最悪。本当に世の中は上手くいかないことばかりだと思う。 「ふーん、そうなの。そう言う態度、取るんだ。じゃ分かった、せっかく大スクープを教えてあげようと思ったのにやっぱ止める。ふーん、ふーん、ふーん……」 ……五月蠅い。思わず、普段は漢字にしない言葉を変換してしまうくらい鬱陶しい。そして、俺は短くはないこの女との付き合いですでに悟っている。こんな風に話を切り出してくるときのコイツは自分がせしめた「ネタ」を披露するまでは決して引き下がらないのだと言うことを。ようするに、こっちが無視を決め込んでいれば、延々とまとわりつかれるってことだ。 最初からいけ好かない奴とは思っていた、だけどコイツは「彼女」の友達。しかも女同士のことは分からないが、かなり親密な仲だと思う。俺と彼女が話をしていれば、当然とばかりに割り込んでくる。正直、消えて欲しかった。だけど彼女の手前、そんなことが言えるわけないじゃないか。女の友情とやらはかなり根深いモノがあると聞いている、目先の感情に囚われては全てが台無しになってしまうのだ。 「……なんだよ」 ようやく反応してみせると、奴はニターっと意味深な笑顔になる。スレンダーと言えば聞こえはいいが、ようするに骨と皮ばかりの体型。女らしさの欠片もないが、一応女子の制服を着ている。ついでにかなりの男好きらしく、いつもターゲットの尻ばかりを追いかけていた。それは過去から現在進行形で続いている。多分、この先も変わらないだろう。よくよく考えれば、ロックオンされないだけでも幸いなのか。 「ふっふっふっ」 だからよせ、正直キモいぞ。 「だけど、どうしよ〜かな? 狩野、絶対に落ち込むなあ。う〜ん、やっぱり教えるのよそうかな?」 おいおい、いい加減にしろ。 勝手に話を振っておいて、自己完結するんじゃない。それに、半端に聞かされたら余計気になるだろう。それを奴は絶対に分かっている、分かっていてこっちの反応を楽しんでいるんだ。 「別に落ち込んだりしね〜よ」 気のない素振りで、だけど心の耳はダンボになっていた。奴はもう、嬉しくて仕方のない様子。ニタ〜っと笑った口元から大きめの前歯が覗く。 「陽菜、男が出来たみたいだよ。今日は初デートだって」
◆◆◆ 「みどりかわひな」 一体どこまでが名字でどこからが名前なのか。幼稚園の入園式、不思議な七文字のひらがなを見たのがそもそもの始まり。再会のそのときまではすっかり忘れていたけれど、その頃から彼女は気になる存在だったのだ。別に特別な感情とか、そういうのはなかったと思う。だけど、……何というか。他の奴よりといるよりも彼女との方がいいかなっていうレベルだった。 「え、私立単願にするんだ」 受験生の一月と言えば、まずは公立の「選抜入試」の受験申し込みから始まる。彼女の口からその気がないことを聞かされたときに、とても残念に思った。 「うん、その方が入学金とか安くなるんだって。塾の先生もその方がいいって言うから」 当たり前のように告げるその表情が、こっちの勝手な解釈かも知れないけどとても寂しそうに見えたんだ。彼女の「親友」である守園子は俺と同じ一高を目指している。だから、彼女だってそうに違いないと勝手に信じていた。 「公立も受けりゃ、いいじゃん。守もお前がいないと張り合い悪いだろ」 その瞬間に、ようやく気付いたんだ。彼女が自分と同じ空間にいなくなると言うあり得ない未来があることに。クラスが違っても、同じ校内にいればいつもどこかで彼女を見つけることが出来た。それは当然の状況であり、それ以外の設定なんて考えつかない。 「うーん、そうかもしれないけどねえ……」 彼女のいないところで、守にも確認した。彼女は今、いわゆる「ボーダー」の位置にいるらしい。一二年の頃は一高を第一希望にしていたが、いかんせん点数が伸びなかった。「女の子なんだし、無理することもない」という親の意向もあり、私立単願で決めたとか。 だから彼女を説得した、不本意であったが守も仲間に引き込んで。一緒に頑張ろうというと、彼女はどうにか頷いてくれた。 だけど、結局は上手くいかなかったんだな。 彼女にとっては、俺の無理強いは迷惑の他の何ものでもなかったのではないだろうか。一般入試の合格発表の後、どうにも声の掛けづらい状況になってそのまま卒業してしまった。彼女はどんなにか落ち込んだだろう、俺のせいでしなくてもいい苦労をしてしなくてもいい後悔をしたに違いない。でも……実のところは俺だって、かなり落ち込んでいたんだ。 一般入試の朝。すでに選抜で合格を決めていた俺は、行かなくてもいい会場にわざわざ早朝から足を運んだ。ただの冷やかしと思われたらどうしよう。そんな後ろめたさに引きずられながら待っていると、現れた彼女は想像以上に薄暗い顔をしていた。 「おい、大丈夫か?」 用意してきた言葉も全て忘れ、思いつくままに声を掛けていた。まあ、そうだろう。彼女だけではない、その日の入試に臨んでいたのはほとんどが選抜に落ちてここ一発の逆転を夢見ている奴ばかりだ。そんな状況で固くなるなという方が無理だと思う。 「……うん……」 応える声にも元気がない。もう、こっちが泣きたかった。 「ほら、そんな顔してると幸運の女神も通り過ぎるぞ。いつもの元気で行ってこい」 他にも言いたい言葉はたくさんあった。だけどそのどれもが今の状況に相応しいか分からない。精一杯の想いを込めて、手袋越しの手を握る。柔らかい毛糸の中で彼女の手のひらは想像以上に小さかった。 「……ありがとう」 ようやく彼女が笑顔を返してくれた、その瞬間だったと思う。俺の中に、今までにない感情が湧いてきたのは。そしてその想いは不完全燃焼のまま、長いこと胸の中でくすぶっていた。
◆◆◆ 「ねえ、狩野君」 目の前に、守じゃない女が立っていた。確か田辺とかいう名前だったような。同じ環境委員だから用があれば話もするが、それまで。一部の男どもからはかなりの人気があると聞いているけど、どうでもいいことだ。 「鈴木先生に頼まれた腕章って、今日が仕上がりだったよね? お店の場所、分かるかな。地図を見たんだけど私じゃよく分からないの」 一緒に行く気になったのは、目の前の女への譲歩ではなかった。店のあるその場所こそが、守の教えてくれた今日の彼女の待ち合わせ場所だったのだから。 「分かった、部活休むって連絡してくる」 心はすでに走り出していた。周囲の視線も全く気にならないほどに。 こんなわずかの時間に、彼女の心を捉える男が現れるはずはない。直接確認した訳ではないけど、俺の目に狂いはないと思う。大丈夫だ、まだ大丈夫だ。どうしてそう思うのかは分からないけど、とにかく変な自信だけはあった。 絶望へのカウントダウンが始まっているとも知らず、ただひたすら俺は運命の場所へと急いでいた。 おしまい♪ (070906)
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