TopNovel赫い渓を往け・扉>白い約束・1



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このお話は「赫い渓を往け」のヒロイン一籐木咲夜の両親の話です
あらかじめ「赫い渓を往け」本編、及び外伝「肩越しの風景」をご覧になることをお勧めします

          

 その場所に一歩足を踏み入れた瞬間に、もう逃げ出したくなっていた。

 地下鉄出口の長い階段を上がってようやく地上に出ると、突然巨大なビルの建ち並ぶ大都会が視界に飛び込んでくる。途中の駅から乗り換えた電車はずっと暗闇の中を走っていたから、こんな場所まで一気に運ばれていたとは夢にも思わなかった。
  片側三車線の道路に隙間なく流れていく車たち、ゆったりと造られた舗道には風のようなスピードで行き交う人々。倍速で過ぎていく風景に呆気にとられてしまう。全てが眩しすぎて、とても現実のものとは思えなくて、ここに立っている自分だけが違う世界に隔離されている心地がする。

「あ、……そうだ」

 短大の卒業式の日に着ただけの慣れないスーツのポケットから、折りたたんだ地図を取り出す。でも、その必要などなかったのだ。現在地を確認しようともう一度辺りをぐるりと見渡したとき、ひときわ目を引くガラス張りの巨大なビルがすぐ目の前にあったから。
  実物を見るのは生まれて初めてであったが、TV画面や雑誌の広告などですっかりお馴染みの建物である。まるでバラ園の温室のよう。ここまで外壁をガラスばかりで覆われていて構造上の問題はないのだろうか。いくらリアルな映像を見せつけられても、現実のものとは思えなかった。
  風車の如く回り続ける回転ドアをようやく抜けただけで、一日分の仕事を片付けたような気分になってしまう。さんさんと注ぎ込む陽の光にきらめくホールの中は驚くほどに涼しかった。温室の中に入ったのだとばかり思っていたのに、実はここはガラスの水槽だったのか。磨き込まれた石畳の床を優雅に泳ぐ魚たち。美しい熱帯魚にも見まがう彼らこそが、国内屈指の大企業を支える社員たちなのだ。
 柔らかな襟元、身体のラインにぴったり沿った滑らかなデザイン。きりりと引き締まった足下。ドアから次々と出入りする人々は男性も女性もいたが、気付けばやはり同性の服装に釘付けになってしまう。何故皆が揃いにも揃って、最新のファッション雑誌から抜け出したような流行最先端の装いをしてるのだろうか。さりげなく身につけた一着分で、自分のひと月の稼ぎが飛んでしまいそうな優雅さだ。

「片岡、小夜子様ですね。担当の者からお名前は承っております、少々お待ちくださいませ」

 ホール中央に設えられた巨大なエスカレーター。そのすぐ脇に受付のカウンターがあった。自分の名前と用件を告げると、親愛に満ちた美しい笑顔が戻ってくる。さすが一流企業、どこから見ても田舎からのお上りさんの風貌の娘に上客と同じ対応をしてくれるのか。短いやりとりの中でまた新しい驚きに出会った。
  無駄のない動きで内線を使い、てきぱきとやりとりする。その所要時間はわずか三十秒ほど。受付嬢はすぐにこちらに向き直った。受付カウンターの中の女性たちは揃いの制服に身を包んでいる。だがそれも有名デザイナーが手掛けたものであることはほぼ間違いないだろう。鮮やかなブルーに縦縞のブラウス、濃紺のタイは華やかな風景にこの上なく美しく調和していた。

「大変申し訳ございませんが、ただいま担当の富浦が接客中で席を外せないそうです。左手奥に直通のエレベーターがございますから、三十五階までお上がりください。そちらが役員フロアになっておりますので」

 小振りの口元に一寸のぶれもなく引かれたルージュ。その赤い色ばかりを目で追っていたら、返答が遅れた。

「は、はいっ! ありがとうございます!」

 恥ずかしくなるほど、声がうわずっている。自分では確認できないが、多分耳まで真っ赤になってしまっているだろう。指先に感じる熱に戸惑いながら、小夜子は慌ててその場を離れた。
  小柄な全身がすっぽりと隠れる鉢植えの陰に身を潜め、もう一度身なりを整える。しかし、あちこち引っ張ってみたり叩いてみたりしても、あまり効果がないように思われた。

 

◇◇◇


 一体何故、自分がこんな場所に立っているのか。何度も状況を確認し納得したつもりであったが、それでもまだ疑念は晴れなかった。

 つい昨日までは、小さな町の下請け工場で受付兼事務をしていた小夜子である。父親が社長、母親が副社長兼経理主任。外回りの営業に精を出すのは上の兄で、現場は下の兄を含め三人の工員でまかなっていた。そのうちのひとりは姉の連れ合いで、忙しくて人手が足りないときはその姉も借り出される。そんな日の幼い甥と姪の保育園送迎は小夜子の役目だった。

「何かの間違いではないのだろうか」

 昨夕のこと。ゆっくりと黒電話に受話器を戻してから、父は狐につままれたような表情を顔に貼り付けたままでそう呟いた。多分、本人もその言葉が自分の口から飛び出したとは思っていなかっただろう。それくらい密やかな響きだったのだ。

「どうしたのですか? あなた」

 プレハブの工場内で、薄い間仕切りの壁などたいした役にはならない。その瞬間も部品を組み立てる機械の音が天井や横壁に大きく響いていた。それでも母は小さな呟きをしっかりと聞き取っていたのである。日に幾度も感じていることではあるが、目に見えない意志の糸のようなものがふたりの間には確かにあるのだと小夜子は思っていた。

「いや、それが……」

 父は何かの疑念を振り払うかのように、何度も首を横にする。

「とても信じ難い話なんだ」

 年齢を重ねることで驚くほどに小さくなった背中。身を粉にして小さな工場を守ってきた父の姿をぼんやりと見守っていた小夜子は、彼の視線がちらっと自分に向けられたことに気付いた。

「営業部の佐々木さんを知っているだろう。どうも、彼の口利きらしい。本社で急な退職者が出て、その穴埋めに」

 父は用心深く、そこで再び言葉を切った。金属の表面を削る女性の叫び声にも似た音が、隣の工場から聞こえてくる。

「その穴埋めに、一時的にうちの小夜子を使いたいと言うんだ。そんなことがあっていいのだろうか、まずは本人に連絡を取ってみなくては」

 父は口の中でぶつぶつ言い続けながら、外に出て行った。工場内ではうるさくて話にならないから少し歩いた敷地内にある自宅の電話を使おうと思っているのだろう。かなり慌てているらしく、ドアがきちんと閉まっていなかった。スチールの机から立ち上がって半開きのそれをきちんと閉じた後に振り返ると、母親が頭を振って小さく首をすくめた。

「よく分からないけど、あなたが心配することじゃないわ。だって、お父さんの言う通り絶対あり得ない話だもの」

 それは小夜子も同感であった。きっと周囲の誰に聞いても同様の答えが戻ってきただろう。

 ―― そうよ、何かの間違いに決まっている。私が「本社」に呼ばれるなんて、ありっこない話だもの。

 すぐに頭を切り換えて席に戻ったものの、やりかけの計算がどこの行までだったのかを忘れてしまっていた。そろばんの珠が示す数字を見ても何の手がかりも見いだせない。仕方なく小夜子は頁の初めからやり直すことにした。手を止めたときにその場所に印を付けておけば良かったのだ、いつも後からそれに気付く。ただやり直すことがたいした手間でないために、次に躓くまでまた忘れてしまうのだ。

 小夜子の父親が「本社」と示すのは、両親の町工場最大の取引先である総合商社「一籐木(いっとうぎ)グループ」に他ならない。湾岸沿いに大企業提携の工場が次々と建設され小さな町工場など風前の灯火となったそのときに、運良く営業部の佐々木氏が現場視察に来てくれたことが大口の注文へと結びついた。丁寧な昔ながらの仕事が認められたのである。それは父にとって何よりの自信となった。
  時代の波に押し流されることなく、地道に自分のやり方を守り続けてきたのが小夜子の父親である。佐々木氏はそのことをしっかり理解してくれ、その後は仕事を越えた家族ぐるみの付き合いにまでなっていた。昔気質の職人である父が珍しく心を開いた相手である。とは言え、この頃ではあちらがめざましい昇進によりすっかり多忙になりご無沙汰になっていたが。
  小夜子にとっても「佐々木のおじさま」は幼い頃から特別の存在であった。彼が抱えてくる手みやげは田舎では手に入らない珍しいものばかり。舌の上でとろけていくサブレや果物の味をそのまま再現したシャーベット。綺麗なハンカチーフはどれを自分のものにするかで毎回姉と取り合いになった。

「小夜ちゃんは、本当に可愛いね」

 年の離れた兄姉に比べて幼く扱いやすかったからだろう、小夜子は佐々木氏のお気に入りであった。その頃すでに大きく育っていた自分の子供が息子ばかりだったこともあって、彼にとっては小さな娘を持った気分だったのかも知れない。彼の妻も同様に小夜子を猫可愛がりした。
  顔を合わせる回数は極端に減ってからも、折りにふれの贈り物は届いている。昨年初めの成人式やそれに続く短大の卒業式には一抱えほどもある花束が届けられた。しかも派手なものを良しとしない小夜子の好みを知り尽くして、愛らしい花々でまとめられた芸の細かさである。就職の際にも是非力になりたいと申し出てくれた。さすがにそれには有り難くもご遠慮させていただいたが。
  両親の目からも、そんな彼らの姿は少しばかり行き過ぎたものに見えていたに違いない。しかし取引先とのパイプ役を引き受けてくれる大切な友人のことを邪険に出来るはずもなかった。

 ―― だけど、今回のことに限っては。お父さんの勘違いとしか思えないわ。

 確かに佐々木氏は過去に小夜子の就職先を世話してくれると言った。だが、彼の頭に思い描かれていた候補の中に本社勤務に関するものがあったとは到底思えない。「一籐木グループ」は国内でも屈指の総合商社だ。製造から流通、また娯楽施設まで幅広い事業を展開しているのは誰もが知るところである。その企業の中枢部分である本社に入社するのは、並大抵のことではないと聞いていた。
  在籍していた短大の学生部に掲示された求人票にも一籐木の名が小さく書かれているものは数え切れないほど見つかったが、その全てが傘下になる子会社から届けられたものであった。実際の社名は別にあり、それは誰にでも分かるように「○○マーケティング」などと大きく記されている。
  皆が一目置く一流企業に憧れる級友も多くいたが、彼らにしてみてもそれが決して手に届かない高い場所にあることを知っていたように思う。それでもふわりと心が一瞬躍るのを、小夜子は必死で押しとどめていた。叶う見込みもない夢を追いかけるなど、全く愚かなことである。

 一足先に仕事に戻った母親に続き、小夜子も任された計算を再開した。しばらくはそろばんの珠が打ち合う音が狭い部屋の壁に反響していく。背後の壁の向こうの工場では引き続き機械の振動音が響いていた。聞く人が変われば騒音にしか思えないそれも、小夜子にとっては子守歌にも思える音色である。
  忙しい家族経営の日々では母の胎内にいる頃からこの環境に親しんでいたのだろう。短大を卒業して仕事に就いているのに、まるで子供時代に戻ったような心地であるのが可笑しい。多分、五年後も十年後も、たとえ姉のように他の家に嫁いだとしても、この机で仕事をしているような気がする。そして、その予想はまず外れることがないという自信があった。

 

◇◇◇


「お待たせしちゃって、ごめんなさい。アポなしの急なお客様だったの」

 その声が背中に優しく聞こえたとき、小夜子は廊下の突き当たりの窓から遙か下を見下ろしていた。
  色とりどりの建物、数え切れないほどの車や人が行き来する光景はいくら見ていても飽きない。数年前に家族で東京タワーの展望台に登ったことがあるが、そのときと同じくらいの高さのように思える。空が雲が驚くほど近い。こんな場所で毎日働いている人が確かにいるのだ。

「いえ、大丈夫です」

 振り向いた瞬間、小夜子は目を見張っていた。柔らかなアルトの声色からだいたいの想像は付けていたが、今目の前にいる「富浦」という女性は何て美しいのだろう。雑誌に出てくるモデルやTVドラマの主演女優、有名局の女子アナウンサーと並んでも全く見劣りしないほどの完璧さだ。
  綺麗にカールした髪は耳の付け根でさっぱり揃えられ、くっきりとした眉に切れ長の目が聡明さを的確に伝えている。オレンジ色のルージュが肉厚の唇を優雅に彩っていた。ブラウンのスーツはきりりと全身を引き締め、それでいてタイトスカートの裾がほたるぶくろの花の如くささやかに広がっている。低めのパンプスを履いていたが、それでも見上げなくてはならないほど高い場所に顔があった。

「片岡小夜子さんね、初めまして。私は富浦蓉子(とみうら・ようこ)、この部屋の第一秘書なの。あなたには当面、私のすぐ下で働いてもらうことになるわ」

 握手を求めて差し出された手を握り返すと、すべすべと滑らかでどこまでも女らしかった。爪の手入れもきちんとされていて、控えめにパールピンクのマニキュアが施されている。
「どうぞ」と案内されたのは廊下の突き当たりからすぐのドアだった。入り口には「専務室」という文字が黒の地に金で書かれたプレートが掛かっている。

「佐々木部長の推薦ですからね、皆とても期待しているわ。今まではご両親の会社で働いていたそうね、秘書の仕事は初めて?」

 ドアを入ってすぐの場所にパーティーションで区切った一角があり、小さな応接セットが置かれていた。奥の椅子を勧められ、富浦も小夜子の向かいの席に腰を下ろす。低めの椅子に身を沈めると、ストッキングに包まれた彼女のすらりと長い足がさらに強調された。

「は、はいっ。その通りです」

 あまりぎこちなくしていては不信感をもたれてしまうかも知れない。そうは思っても、下手な隠し立てなどきかない相手であることは分かっていた。

「両親の工場では、母と一緒に経理や電話の応対などを主にやっていました。その、……本当に大したことをしていた訳ではないので……」

 短大では商業科専攻だったため、一通りのことは知識として学んでいる。ただ、それは単に紙の上の勉強であり頭では分かっていてもしっかり身についているとはとても言えなかった。
  ああ、どうしよう。断り切れずにここまで来てしまったが、何か取り返しの付かない失敗をしでかす前にはっきり辞退した方がいいのではないか。自分を推してくれた佐々木氏には申し訳ないが、どう考えても分不相応な話である。

「ふふ、困ったわね。そんなに固くならなくてもいいのよ」

 富浦は真っ赤になって縮こまっている小夜子を、姉のような優しい笑顔で見つめた。もしかしたらこの人は自分の姉と同じくらいの年頃じゃないだろうかとふと思う。綺麗なメイクや洗練された身のこなしで都会風ではあるが、その奥にある落ち着きがしっとりと積み重ねた年齢の深さを感じさせる。

「片岡さんは、昨年の春に学校を出たばかりでしょう? 一年と少しの経験ならば何も分からなくて当たり前なの。それに、私たちの仕事はそれほど難しくないことだから大丈夫。大切なのは、ただひとつのことを忘れないことだけなの」

 恐る恐る顔を上げた小夜子が見つけたのは、内緒話をするような富浦蓉子の瞳だった。キラキラと大切な秘密を打ち明ける子供にも似た輝き、口元には人差し指が軽く添えられている。

「私たち専務室の人間にとって大切なことはね、ただひとつ。ボスである幹彦(みきひこ)様が気持ちよく仕事が出来るような環境を整えることだけなの」

 次の瞬間には、蓉子はもとのすっきりとしたキャリアウーマンな姿に戻っていた。何も書いていないレポート用紙を一枚取り出すと、そこにボールペンで素早くメモをしていく。

「この部屋にはあなたを含めて十二人の社員が配属されているわ。そのほかに大阪支社にある部屋にも六人、札幌と福岡には三人ずつ。その全員が幹彦様の手となり足となって働いているの。とは言っても、専務直属の三鷹沢室長は原則的に幹彦様と終始ご一緒に行動するし、他の男性陣もそれぞれのプロジェクトを進めるために外回りを中心に活動しているわ。
  幹彦様のスケジュールやその他もろもろは私と大竹君のふたりで全て管理することになっているの。社内会議に合同会議のスケジュール調整に来客や外回り、出張先でのアポイントメント、その全てをね」

 早口で次々に説明されても、その半分も頭に入ってこない。蓉子にとってはそれは初めから承知の上なのだろう、だからこそこのように事細かに図に書いて示してくれているのだ。

「で、片岡さんの仕事はね」

 蓉子はそこでいったん言葉を切ると、今まで書いてきた人間相関図をぐるりと大きな円で囲んだ。

「幹彦様の下で働く全てのメンバーの動向を正確に把握すること。そして、他のメンバーに質問を受けたときには直接であっても電話口であっても正確に伝えることね。時には伝言を頼まれることもあるわ。何しろこれだけの大所帯でしょ? 皆がバラバラに動いている訳だから、誰かひとり全てを見通している人間が必要なのね。
  前任の小村さんが急に退職されて、とても困っていたの。私か大竹君が兼任しようとしたのだけど、やっぱり無理みたい。何より、幹彦様の仕事に支障が出たら大変でしょう……? だから、あなたが入ってくれると聞いたときは本当に嬉しかったわ」

 真っ直ぐな目で見つめられて、にっこりと微笑まれると……もう、どうしていいのか分からなくなってくる。

「は、はあ……」

 かろうじてテーブルの下に隠した両手。握り拳になったその内側がじっとりと汗ばんでいる。

「大竹君は今、幹彦様の代理で社長室に呼ばれているの。ええと、どこかに全員の写真があったような……まずはそれを見てちょうだい。仕事は追々、覚えていけばよいのだから。―― あ、ちょっと待って」

 等間隔の軽やかな電子音が衝立の向こう側から響いてくる。後に続いて内側に入り、小夜子は二方を窓で囲まれた心地よさそうな室内を見渡した。部屋の隅にさりげなく置かれた観葉植物、手前にある小さなキッチン。机が向かい合わせで六つずつふたつの島を作り、さらに奥にパーティーションで仕切った場所があった。多分、そこがこの部屋の「主」の住処なのだろう。
  廊下側の広い壁にはホワイトボードの各自スケジュール表。赤や黄色の丸い磁石で今の行き先が一目で分かるようになっている。一番手前の机では、そそくさと対応に出た蓉子が、受話器を片手にてきぱきとメモを取っていた。

「片岡さん、少しの間席を外すわ。通信室までテレックスを受け取りに行ってくるから、あとをよろしくね。ここがあなたの机だから、座って待っていて。すぐに戻るわ」

 何か声を掛けようと思っても、それが思い浮かぶ前に蓉子の方がもう消えていた。初めての場所にひとりで残されて、途方に暮れてしまう。どうしよう、突然電話が掛かってきたりしたら。何も分からないのに、この先どうやって行けばいいの……?

 緊張と不安で、心臓が胸を突き抜けそうだ。ああ、苦しい。どうにか気持ちを落ち着けようと、自分用に用意された机に座るとその上に一枚の集合写真があることに気付いた。何かの親睦会のショットだろうか、桜の木の下で十数人のスーツ姿の男女が和やかにこちらを見ている。
  そのひとりひとりを小夜子は指で辿った。自分とあまり年齢の変わらなく見える人もいれば、父親くらいの落ち着いた年代の人もいる。一体、このうちのどれが「幹彦様」なのだろう? そもそも、最初からどこかに引っかかりがあった。他の社員には姓を使う蓉子がどうして彼のことだけファーストネームで呼ぶのだろう。

 部屋の隅でカタカタと何かの機械の音が響いている。両親の工場のものとは全く違う軽やかなその音色を背後に聞きながら、小夜子の細い指先は動かない笑顔たちの中を行ったり来たりしていた。蓉子が戻ってくれば、すぐに晴れる疑問であっても、こうして悩んでいる時間が気を紛らわすのに丁度いいのだ。
  多分、この一番年長の方がそうなのかな? シルバーグレイの優しそうな面差しを何度も見返して、小夜子は確信を固めた。こんな素敵な人の下で働くのなら、居心地良く過ごせるかも知れない。そんなに長い間ではないのだから。最初から次の人が来るまでの、ほんの短期間の中継ぎなのだと聞いていた。

 あんまり熱心に見入っていたからだろう。小夜子は自分以外の人間が部屋に入ってきたことに全く気付いていなかった。

「ただいま」

 初夏の透明な風が、ふんわりと吹き込んできた心地がした。クリーム色の壁に包まれた空間、肩を少し越えた黒髪を揺らしながら小夜子は振り返る。彼女の白いふっくらとした輪郭は大きな窓から差し込んだ金色の輝きに淡く縁取られていく。

 そこに立っていたのは、短めに切りそろえた髪をすっきりと後ろに流してダークブラウンのスーツを身につけた男性だった。程よく日に焼けた肌に、柔らかな笑顔。綺麗に並んだ白い歯が口元からこぼれてくる。それほど……年長には見えなかった。きっと、先ほどの蓉子よりもいくらか年下になるのだろう。

「お帰りなさい、お疲れ様でした」

 挨拶よりも名乗る方が先立ったかな。席を立ってぺこりと頭を下げた後でそう思った。だが、そのような心配は必要なかったのである。多分、小夜子のひとときの「同僚」になるのであろうその青年は、親しみを込めた笑顔を崩さないままで流れるように続けた。

「君が片岡君だね? 佐々木から話を聞いているよ、急な話で驚いたでしょう」

 やはり、一籐木の社員はみんな凄いわ。どうしてひと目見ただけで一級品と分かるスーツを当然のように着込んでいるのかしら。今日が特別な日だからではなくて、これはこの人の普段着に違いない。

 突然自分の名前が呼ばれた驚きよりも、小夜子の心の中は彼のスーツの滑らかな表面に一瞬でいいから触れてみたいという欲求でいっぱいになっていた。しばらくは次の言葉が出てこない。呆然と立ちすくむ小夜子に対し、彼は苛立つ訳でもなくゆっくりとささやかな沈黙を楽しんでいるように思えた。

 ……ええと。この人は、誰だろう。富浦さんと一緒の秘書の大竹さん? 外回りの田中さん? 市東さん? ……それとも小川さん?

 蓉子の残してくれたメモを横目で見ながらごちゃごちゃ頭の中を整理していた小夜子の物思いはそれから程なくして終わった。何故なら遠くでエレベーターの到着を告げるベル音が聞こえ、続いて小走りの足音がカーペット敷きの廊下に響いてきたから。

「ごめんなさいね、片岡さん。―― あ、これは! 幹彦様、お帰りなさいませ」

 舞い戻った蓉子の顔に一瞬の緊張が走った。だが、それはすぐにしっとりとした笑顔に変わる。一方、小夜子の方と言えば、みっともなくも口を半開きにしたまま表情が凍り付いて動かなくなってしまった。

 

つづく (071011)

 

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