とりあえずお掛けくださいと来客用のソファーを勧められても、彼は控えめに辞退する。その後も蓉子の二三の質問に迷うことなく即座に応え、大丈夫だからと最後に付け加えた。 「いわきの建設予定地には先に三鷹沢に行ってもらった。彼ならば、どんな問題にも的確に対応してくれるだろうからね。それに―― 今日がいよいよ宵子(しょうこ)さんの予定日なんだ。三鷹沢本人は別に構わないと言っているが、やはり初産だしね。自分の仕事を済ませたら一刻も早くこちらに帰って来てもらった方がいい」 話を続ける間も、手持ち無沙汰でいる訳ではない。彼はクリップでまとめられた資料を蓉子から受け取るとすぐに目を通し、手早く数カ所に印を付けた。一通りの作業が終わってから、再び小夜子の方へと顔を上げる。 「すまないね、慌ただしくて。でも会えて良かった。初めは勝手が分からず大変だろうけど、すぐに慣れるから大丈夫だよ。ここにいるのは皆、気のいい人たちばかりだから」 ―― 本当に、この方が「幹彦様」? 十何人もの部下を手足のように使っている方なの……? 彼に対応する蓉子の態度から見れば、それは明らかで全く疑いようのない状況である。それでもまだ、小夜子は目の前にいる柔らかい笑顔の青年がそれほどに偉い人間だとは信じ切れずにいた。だが、今は自分の正直な気持ちなどは求められていない。 「は、はいっ。よろしくお願いいたします!」 もっと気の利いた言葉を付け加えたいと思ったが、今の自分にそれを期待することは出来ない。必死に頭を下げること以外、思いつくことは何もなかった。 「では、そろそろ出掛けなくては。富浦君、あとはよろしく頼むよ」 腕時計にちらっと目をやってから、幹彦氏は奥に声を掛ける。蓉子は給湯室でお茶の支度をしていたのだろう、濡れた手を拭きながら慌てて出てきた。彼が部屋に入ってきてから、まだ五分も経過していないと思う。 「幹彦様、ここからならば車をお使いになった方が早いのではないでしょうか? すぐに総務に連絡しましょう、現地まで直接行ってもらった方が早いですし」 彼は静かに首を横に振ると、ドアレバーに手を掛ける。 「いいよ、たまにはひとり旅も気楽でいいものだ。見送りもいらないから、すぐに元の仕事に戻ってくれ。僕の留守をしっかり守るのが、富浦君たちの大切な役目だよ」 新しい切符を手配しようという申し出にもあっさりと首を振る。しかしそこには振り切るような冷たさは全く感じられなかった。
「……驚いたわ、突然お戻りになるのだから」 いれかけたお茶を無駄にすることもないと思ったのだろう、蓉子はふたつ分の湯飲みを持って戻ってきた。主の去った部屋は元通りの静寂に包まれている。都会の喧噪を遙か階下に見下ろし、ここは言うなれば雲間の別世界だ。 「とてもお忙しい方なのですね」 蓉子のいれてくれたお茶は、ひとくち含んだだけで上等の品だということが分かる味わいだった。その後味の豊潤さが胸一杯に広がり、うっとりと夢心地になってしまう。小夜子はしばしその余韻を楽しみながら、素直な感想を口にした。 「それは当然のことだわ、幹彦様は社内では社長の次に偉い立場にある方なのだから。そして、……ゆくゆくは社長の後を継ぐ方なのよ」 その言葉に、小夜子は黒目がちな目をさらに大きく見開いていた。蓉子が至極当然のように言い放った言葉、それがあまりに意外なものであったために自分の中にすぐ取り込むことが出来ない。この部屋の主である方は、次期社長? ……と、言うことは。 「あら嫌だわ、片岡さんってば……!」 言葉を失ったままの小夜子を見て、蓉子はようやく何かに気付いたようにくすくすと笑い出す。 「その様子だと、本当に何も知らされないままでここに配属になったのね。ふふ、佐々木部長も見かけによらず人が悪いわ。それじゃあ、あなたが驚くのも当然よ」 溢れる笑いをどうにか抑えようと、蓉子が自分の口に手を当てる。パールピンクのマニキュアがキラキラと揺れていた。 「あのね、片岡さん。我らがボス・幹彦様は一籐木月彦社長のご子息なのよ。しかも、ご長男。生まれながらに将来の椅子を約束されていた方なの。それだけ言えば、あの方がどれだけ素晴らしい方かお分かりになるかしら?」 手にした湯飲みをうっかり滑り落とさなかったことは幸いだった。もちろん、蓉子の言っていることは全てが理解できる。それほど難解な話をされた訳ではないのだから。 でも……本当に? ご本人に直接お目に掛かった今でも、とても信じられない。あのように穏やかな優しい方が、威厳のある立ち振る舞いで知られる社長のご子息とは。面差しもそれほど似ているとは思えない。社長の方はがっちりとした骨格で、双方に似ている部分があるとすれば身長の高さぐらいだろうか。 「まあ、本当に何も知らないのね。片岡さんは我が社の女子社員の中では天然記念物ものだわ、しかも絶滅寸前の。ふふ、そう言う意味では佐々木部長の人選は間違いなかったのね。さすが凄腕の営業部長、人を見る目は確かだわ」 他のメンバーが出払っていて、女二人だけの空間になった開放感もあったのだろう。こちらに身を乗り出して次々と繰り広げられる蓉子のおしゃべりには先輩面した気取りもなく、まるで同世代の内緒話のような親密な雰囲気があった。 「小村さんがお家の事情で常勤を続けるのが難しくなったと言うことが公になる前からね、彼女の後釜を狙っている社員は本当にたくさんいたの。それとなく打診してくる子もいたし、人事課の方に直談判をした子もいたわ。皆、どうにかして幹彦様とお近づきになりたくて必死なのよ」 何だか雲を掴むような話だと小夜子は思った。もしかして自分はとんでもない場所に来てしまったのではないだろうか。後任の方が決まるまでの当座の仕事とは聞いていたが、それにしても荷が重すぎる。いきなりこのような仕事を任されて、本当にやっていけるのか分からない。実家の工場でそろばんを弾いているのとは訳が違うのだから。 「あらあら、またそんな硬い顔になっちゃって。緊張しすぎるとやっていけないわよ。この仕事は長期戦、しかも複数のプロジェクトを同時に手掛けて行かなくてはならないの。どこまで行ったらおしまいという区切りが永遠にないのだから」 蓉子は飲み終わった湯飲みをトレイに戻すと、さっと立ち上がった。そして、小夜子の肩をポンと軽く叩く。その笑顔は親しさに溢れていて、少しだけ心が軽くなった。
◇◇◇
「外線は普通の呼び出し音だけど、内線は短めの音だからすぐに聞き分けられると思うわ。こちらに外部から直接掛かってくるのは、内部の社員か現在関わっている事業の担当者くらい。そのほかは全て総務を通してもらうことになっているから、そう面倒なことはないわ。それでね……」 クリーム色のプッシュ式電話には見たこともないいくつものボタンが付いていて、その操作を覚えるだけでも大変そうだ。保留ボタンなんて、実家の黒電話には付いていない。お待たせするときには専用の台に受話器を置くとスイッチが入って、オルゴール音が流れるようになっているのだ。 小一時間くらい説明を受けたところで、早くも軽い頭痛がしてきた。本当にどうして自分にこんな仕事が回ってきたのだろう。佐々木のおじさまの「プレゼント」としてはあまりに冗談が過ぎる。蓉子の言葉は小さなひとことまできちんと手帳にメモしていたが、小夜子は始終落ち着かない心地でいた。 昼前には社長室に呼ばれていた大竹が戻ってきた。彼は蓉子と同様にこの部屋で常時待機し、場合によっては幹彦氏の代理として社内の会合や各種レセプションなどにも参加することがあるという。見た目は二十代半ば。下の兄と同じくらいかなと小夜子は考えた。 「いわば、幹彦様の影武者ってところかな? まあ見た目は全然違うけど」 その言葉通り、大竹の上背は蓉子と大して変わらない。とはいえ、小夜子は平均よりもかなり小柄な部類に入るため、どちらにせよ相手を見上げなければ話も出来ないのは同じことである。彼は初対面の小夜子に対し、親愛溢れる笑顔を向けてくれた。 「よく来てくれたね、小村さんの後任がこんなに可愛い子で本当に嬉しいな。男性陣では俺が一番手? いやー、役得だ」 大袈裟にも思える物言いにも、全く不自然なところがない。そこに蓉子がコーヒーのカップトレーに乗せてやって来た。綺麗にかたちを整えた眉が、少しつり上がる。 「残念でした、幹彦様の方が先にお会いになったわよ。あ、そこに朝の資料を訂正してもらったから、至急訂正して打ち出して。午後一で社長室に届けないといけないの」 大竹は大袈裟に首をすくめると、礼を言ってカップを受け取った。そしてそそくさと自分の席に戻っていく。机の上に置かれた書類に目を通しながら、タイプライターに向かう。そのとき、小夜子は初めて気付いた。先ほどの書類はその文章の全てを英文で書かれていたのだ。しかしそのことも、ここでは当然の成り行きらしい。キーを打ち込む大竹の手元にも全く迷いがなかった。 「では、片岡さんにはコピー機の使い方を説明しましょうね。とは言っても、まだ導入間もないから私も説明書片手に悪戦苦闘している状態なの。でも楽になったわ、今まではいちいち資料室や秘書室まで借りに行かなければならなかったから」 業務用のコピー機は瞬きする間もないほどのスピードで次々と印刷を終えた紙を吐き出している。実家の近くのコンビニエンスストアにもようやくコピー機が設置されたが、とても同じ機械とは思えない。あっという間に一抱えほどの印刷物が仕上がり、今度はそれを資料にまとめていくという。種類別に山をつくり、順番を確認した上で一枚ずつ重ねていく。 「午後の社内会議に使うものだから急いでね。部数はそれほど多くないけど、枚数があるから。そうね、大きなホチキスを出してきた方がいいかしら」 ひとつの作業を進めながら、蓉子はさらに電話の受け答えをし様々な雑用も同時に片付けていく。艶やかな指先はいつも的確に動き、その上パーテンションの向こうの大竹に軽口を叩くゆとりもあった。自分も頑張らなければと思いつつも、つい彼女のスカートの裾に付いた花びらのようなフリルが可憐に揺れる様に魅せられている。
午後からは三件の来客があり、その都度お茶をお出しし言われるままに指定されたファイルを棚から探し出して必要があればコピーした。この部屋の主である幹彦氏が不在であることは先方もあらかじめ承知している。対応には蓉子や大竹が当たり、もちろん全てが滞りなくすまされた。 ―― 私たち専務室の人間にとって大切なことはね、ただひとつ。ボスである幹彦(みきひこ)様が気持ちよく仕事が出来るような環境を整えることだけなの。 先に告げられた蓉子の言葉が、任された仕事の合間に折に触れ呪文のように蘇ってくる。 夕方の退社時間までには「専務室」の人間が六名まで増えていた。外回りから戻ってくる社員たちに自己紹介を済ませ、小夜子は桜の下の記念写真での取り澄ました顔が微笑みに変わる瞬間をその都度確認した。やはり佐々木氏の紹介だという信用が大きいのだろう。個人的にお目に掛かっていた頃から彼には常人にはない大きなものを感じていた。一籐木という大企業の中であってもそれは健在であったらしい。 「さ、今日はもう来客の予定もないし、私たちはこの辺で失礼しましょう。いいのよ、残っている人たちに遠慮しなくても」 定時のチャイムが鳴ったあと、机の上を整頓した蓉子がそう言ってさっと席を立った。そして、隣の机の小夜子にだけ聞こえるように小声で耳打ちする。 「娘を保育園に迎えに行かなくちゃならないの」 さりげなく告げられたその一言に、すぐに反応することは不可能であった。思わず、彼女の頭の先からつま先までを見渡してしまう。 「え……、ご結婚されていたんですか?」 彼女は絵に描いたようなキャリアウーマンだとばかり思っていた。もちろん、同世代の女性だったらそのほとんどが家庭に入っている年齢であるが、これだけの仕事が出来る人なのだから一般常識の枠に収まらないのは当然だと考えていた。それなのに……。 「あら、それは誉め言葉と受け取っていいのよね?」 部屋を出て役員フロア専用のロッカールームに向かいつつ、彼女はスーツの内ポケットから皮の定期入れを取り出した。 「先日、二歳の誕生日に撮ったものなの」 そこに写っていたのは、確かに蓉子の面差しを写し取っていると分かるお人形のように可愛らしい女の子だった。たくさんのフリルの付いたワンピースを着て、くるくるカールの薄茶の髪にリボンが結んである。両手に抱えきれないほどの愛情で育まれたさながら小さな宝物だった。 「こんなに小さな子供がいるのに、どうしてフルタイムで働いているのかと不思議に思うでしょうね。でも私は今の自分にとても誇りを持っているの。口の悪い人にはただの小間使いだと言われたりもするけど、女性にしか出来ない素晴らしい仕事だと思うのよ」 本当に何もかもが、今まで自分の置かれていた日常とは違うものなのだと小夜子は思っていた。どちらが正しくて、どちらが間違っているという勝敗を見つける必要はどこにもない。だが確かに、今日一日だけで自分の価値観が一気に塗り替えられている。 「―― あら」 ふたりでエレベーターを待っていると、一階から上がってきたそれが丁度目の前で開いた。中から出てきた人影を見て、蓉子が小さく声を上げる。その反応を見て取って、相手の男性は思わせぶりな微笑みを浮かべた。 「産まれたよ、ふたりともとても元気だ。やっぱりみんなに一番に報告したくてね、面会時間が終わった後にすっ飛んできたんだ。僕たちの天使は世界一可愛い女の子だよ」 いったい何の話をしているのか分からずにひとり蚊帳の外にいた小夜子に、蓉子が気付いて耳打ちする。 「片岡さん、こちら三鷹沢室長よ。朝、幹彦様のお話にも出てきたでしょう? 今日、待望のお子さんが誕生されたばかりよ。その喜びようはこの姿を見ればあなたにも分かるわよね?」 その言葉に、彼は蓉子の影になっていた小夜子にようやく気付いたらしい。興味深そうな眼差しを浮かべ、どれどれと覗き込んできた。一流企業としてはやや砕けたヘアスタイルは艶やかな黒髪を少し長めに切りそろえただけのもの、こちらを見つめる眼差しはその髪と同じく夜のとばりの色だ。 「へえ、君が噂の新入りさんか」 彼は自然な仕草で握手を求め、もう一歩ふたりの間の距離を縮めた。 「ふうん、確かに可愛い子だね。ウチの宵子さんの次に素敵だ。……ああ、違うな。今の僕には可愛い天使もいるから、君は世界で三番目だ」 呆気にとられる小夜子のことなど気にもとめず、彼は他の仲間たちにも朗報を伝えようときびすを返す。傍らでは蓉子が可笑しそうに笑いをかみ殺していた。 「ごめんなさいね、室長はいつもあんな風なの」 ひとこと断ってから、彼の背中へと声を掛ける。 「三鷹沢室長、現場の方は無事済みましたか? ビッグニュースはもちろんですけど、皆はそれも知りたいはずですよ」 だがその言葉には最初から肯定の意が含まれていた。ゆとりのある語尾からもそれがうかがえる。 「もちろんだよ、―― ただ幹彦様はしばらく現地に残って担当者との詳細な打ち合わせを続けるそうだ。それも予定通りだよね、僕の代わりに今夜には須藤がサブにはいることになってる。お帰りはこのまま順調にことが運べば三日後だ」 すでに決まっていることの確認なのだろう。蓉子は大きく頷くと、最後に付け足した。 「では、お戻りを待って皆で室長のお祝いをしましょう。いえ、正確には室長と宵子さんの元にやって来たエンジェルのお祝い、ですね」 長い長い一日はとりあえず無事に終わった。地上に降りてから改めて一籐木本社ビルを見上げると、ガラス張りの巨塔は暮れかけた夕闇の中にあって、やはり異質の存在として浮かび上がっているように思えた。
つづく (051026)
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