「荷物はこれで最後ね。忘れ物はない? こっちは私が下に運ぶから、あなたは最後にもう一度確認して」 二週間ほどの入院ですっかり馴染んだ部屋も、母親の一時間足らずの奮闘であっという間に元のがらんどうに戻っていた。今日も伯父に車を出してもらったのだという。普段よりもめかし込んだ姿で現れた彼女は、ここ半月で一番晴れやかな顔をしていた。 「だって、そりゃそうでしょう。何と言っても家族が全員揃っていることが一番よ。小夜子がいなくて家がとても広く感じたわ、お父さんもとても寂しそうだったのよ」 家族経営の町工場を切り盛りする両親が連れ立って見舞いに訪れることはなかったが、それでも一日おきにそれぞれが顔を見せてくれた。部屋に滞在するよりも移動時間の方が遙かに長いことに申し訳なく思いつつも、やはり肉親の顔を見ると張り詰めていた気持ちが和む。兄や姉たちも週末を利用して上京してくれた。 「週明けから仕事に復帰するそうね。もう少し休ませてくれてもいいのに、慌ただしいこと。入院費を負担したのだから、その分きっちり働けって言うのかしら?」 ナースセンターにお礼を言って運びきれない花を引き取ってもらってから、エレベーターに乗る。一台のベッドがそのまま積み込める広々としたその場所に、母親の遠慮ない声が響いた。小夜子は一度口を開きかけたものの、すぐに唇を噛みしめて押し黙る。母の言うことはもっともだ、両親は今回のことで一籐木本社での今後の仕事がなくなると信じていたのだから。 「お医者様はもうすっかり大丈夫だと言ったけど、私は信じませんからね。全く大きな会社が何を考えているのかしら。大切な娘をこんなになるまで働かせて平気な顔をしているなんて、いくら工場のお得意様でも許せないわ」 今日は会社の人たちに来てもらわなくて良かったと小夜子は思っていた。蓉子から退院時の片付けを手伝うとの申し出があったとき、とんでもないと辞退したがそれは正しかったのである。どんなに取り繕ったところで、母の怒りがここまで膨らんでいては隠しきれないだろう。何も悪くない人たちに不快な思いをさせることは出来ない。 ―― それに、幹彦様だって……。 あの日以来、彼が病室を訪れることは二度となかった。あれだけはっきりと言葉にしたのだから、当然と言えば当然である。日にちにすればたった数日の期間であるが、小夜子にはそれが途方もなく長いものであるように感じられた。 ―― ああ、だったら一体、どうなればいいと言うの? 自分の感情が上手に操作できなくなっている。とっくに終わってしまったことなのに、小夜子ひとりだけがまだ綱渡りの心を持て余していた。お目にかかれるのはとても嬉しい、今日はもう会えないのだと思うとたとえようもなく空虚なものに胸が満たされる。だけど、そのために彼の貴重な時間を犠牲にするのは許せない。 「今日は盛大にお祝いしましょうね、夕食にはみんな集まるはずよ」 母親は相変わらず上機嫌であった。まだ一籐木での仕事は残っているにせよ、とりあえず我が子を自分たちの元に取り返すことが出来たのが嬉しくて仕方ないらしい。最初の夜に病院で繰り広げられたやりとりは、想像以上に深いものを彼女の中に植え付けていた。普段はここまで感情を荒げる人ではないことを知っているだけに、小夜子としても辛いものがある。 いろいろ迷惑を掛けてごめんなさい―― 小夜子は後部座席のシートに気だるくもたれながら、助手席であれこれ話し続けるその人に心の中で呟いた。
◇◇◇
「まあ、片岡さん。今日はもっとゆっくりで構わなかったのよ。顔色はすっかりいいみたいだけど、大丈夫? もしも疲れを感じたら、遠慮なく休憩してちょうだいね」 何本か早い電車に乗ったので、部屋には一番乗りの出勤だった。入院前の日常と同じように掃き掃除から始めていると、程なくして蓉子がやってくる。欠勤中の詫びと入院時の礼を告げれば、彼女はいつもの笑顔で明るく応えてくれた。 「本日の予定はボードにある通り、今のところ変更の連絡は受けてないわ。先週末までに企画のいくつかがまとまって担当部署に移ったから、今週は少し楽になるかと思っているの」 届いた郵便物をてきぱきと仕分けしながら、蓉子が説明してくれる。入院中は回復の妨げになってはいけないからと、その間の仕事のことは何も教えてもらえなかった。先行きを密かに気にしていた事業もどうにか軌道に乗ったと知り、ホッとする。そこに至るまでの皆の苦労を知っていただけに、まるで自分のことのように嬉しかった。 「それとね、見ての通りで幹彦様は先週末からまた福島に滞在されているの。いつも通りに三鷹沢室長もご一緒にね。建設地の視察はもうお済みだから、今日は地元業者との打ち合わせに同席して夜にはこちらにお戻りになる予定よ。でもその先もお忙しいわ、良く確認して頭に入れておいてね」 蓉子の言葉通り、幹彦氏の今週のスケジュールはこれ以上の予定が入る隙は全くないほどにぎっしり詰まっていた。今夜は一度東京にお帰りになるが、明日は午前中に央都ホテルでの合同会議に出席のあと長野へ。そのあと大阪・神戸を回り、週末は高知となっている。その中にはご自身の「専務」という肩書きではなく「社長代理」の名で出席されるものも含まれていた。 ―― もしかしたら、このまま二度とお目に掛かることもないか知れないんだわ。 たとえ在室されている日であっても、すれ違うのは日に数度。それも会釈のみのことがほとんどで、言葉を交わす回数になれば一度あるかないかのこともある。お互いに気まずい思いを抱いていれば、それすらも素っ気ないものになるだろう。スケジュールの調整は主に蓉子や大竹の仕事なので、自分の様な下っ端が出しゃばる場面などそうあることでもない。 その後も出勤してくるそれぞれから声を掛けられ、和やかな時間が過ぎていく。昼前には佐々木営業部長も顔を見せ、しばしの会話の後にまたゆっくり食事でもと誘ってくれた。入院中にはこの人にも奥様にも大変お世話になった、ご都合の良いときに喜んでとお返事する。
「あら、急に陰ってきたみたいね。今日はいいお天気だと思っていたのに」 蓉子の声に窓の方を振り向くと、先ほどまでのオレンジの風景は消えていた。空は別物のように黒い雲で覆われ、大都会を早すぎる闇色に変えようとしている。半開きの窓からは、生暖かい風が吹き込んできた。いつも通り、他のメンバーは皆おのおのの抱えた仕事で出払っている。 「本当ですね」 家に着くまでに降り出すだろうかと不安になりながら、小夜子は静かに席を立つ。強い風に大事な書類が飛ばされたら大変だと考えたのである。そして窓の方へいくらか歩き出したとき、デスクの上の電話が鳴った。蓉子と一瞬目を合わせたあと、近い場所にいた自分の方が受話器に手を伸ばす。 「お電話ありがとうございます。こちらは一籐木本社、専務室です」 普段から緊張する外線着信であるが、どうやら合格点の受け答えが出来た。電話口での第一声は、一籐木を代表する者としての心構えで臨まなくてはならない。それは勤続何十年のベテラン社員であろうが、小夜子のような新入りであろうが変わりはないのだ。 『あれ、……小夜子君?』 たったそれだけの短い言葉でも、相手が誰であるかは容易に察しがついた。意外と言えば意外、当然と言えば当然の人物である。しかし、それにしてはなにやら様子がおかしい。小夜子が二度三度と瞬きする間に、あちらでも何やら思案するような沈黙が流れた。 『その……近くに富浦か大竹はいるかな? いたら、ちょっと替わってもらいたいんだけど』 躊躇いがちな言葉に雑音が重なる。だいぶ背後が騒々しい様子だ。この人にしては珍しく軽口のひとつも叩かないことからも、ただごとではない雰囲気を感じる。分かりましたと短く応えてから、小夜子は保留ボタンを押した。 「富浦さん、三鷹沢室長からです」 受話器を手渡しながらそう告げると、蓉子も一瞬不思議そうな顔になる。しかし彼女はすぐに気持ちを切り替えた様子で、ボタンを押した。 「はい、富浦です。如何なさいましたか、室長―― えっ……!?」 もしも肉声で聞かなかったら確認できなかったであろうささやかな揺らぎ。でも応える蓉子の顎が大きく震えたことで、その驚きの大きさがうかがえた。受話器を強く握る手が、白く色を変えている。 「はい、……はい。はい、承知いたしました。……はい」 片手でメモを取りながら話を続ける蓉子の横顔は影になり、その表情が窓際にいる小夜子からは確認することが出来なかった。しかしその指先すらも震えている。普段なら用件のみで手短に済ませるように心がけているはずの通話は数分に渡り、蓉子はその間に幾度となく額に手を当てていた。 「ええ、……先方にはその旨お伝えします。そうですか、……分かりました。はい、それでは……。―― あっ、ちょっと待って下さい」 そこで会話を終えかけた彼女であったが、急に何かを思い出したらしい。小夜子に身振りで、側にあるファイルを取ってくれるようにと告げる。そして手にしたそれをすぐさま開くと、注意深くページをめくっていった。 「あの、室長。明日の会議に必要な書類のひとつに幹彦様のサインが必要なものがあるんです。こちらをどうしましょうか。その、これは認証のものですからご本人のものでないと受理されません。提出されない場合は会議そのものを中止しなければならなくなりますが、それも今からでは……」 何か大変なことが起こっているのは分かる。このように取り乱す蓉子を見たことは一度もなかったし、その反応からも彼女自身がかつて経験したことのない状況に置かれているのは間違いない。持ち合わせた聡明さでどうにか切り抜けようとしている様子ではあるが、それでもギリギリの立場にあることは明らかだ。 「……はい、ではそのように。申し訳ございません、お待ちしています」 それだけ言い終えると蓉子は受話器を戻し、そのまま糸の切れた操り人形のように椅子に崩れ落ちた。やりとりの内容が全く分からないまま立ちつくしていた小夜子であったが、金属のきしむ大きな音にハッと我に返る。輪郭を縁取っていた髪が微かに揺れ、また風が強くなってきたことを気付かせてくれた。 「……その……」 普段の生活の中であれば、相手が何か切り出すまでは辛抱強く待つことが出来た。だが、今は状況が違う。この部屋の責任者とも言える三鷹沢室長が伝えてきた重要事項であれば、立場上きちんと把握していなければならないのだ。しかし、ここまで張り詰めた空気の中ではいつもに増して舌が滑らかに動かない。 「―― あ、ごめんなさい。駄目ね、こんな風にしている場合じゃないのに」 蓉子としても自分が次に成さねばならないことは分かっているのだ。何かを振り払うかのように幾度か首を横に振ったあと、毅然とした態度で向き直る。しかしその頬からは色が消え、唇も一文字に閉じたままであった。 「あのね、片岡さん。驚かないで聞いて欲しいのだけど……」 そんな風に切り出されたら、逆に緊張してしまう。小夜子は息を呑んで、次の言葉を待った。 「その……、幹彦様が怪我をされて動けない状態にあるそうなの。まだ詳しいことは分からないけれど、ただ今は処置のために麻酔で眠っていらっしゃるとか―― 」 ……え、何? 話はそのあとも続いている様子であったが、小夜子の耳にはそれ以上のことは入ってこなかった。「幹彦様」「怪我」その二文字だけが、頭の中をぐるぐると回っていく。駄目だ、きちんと話を聞かなければ。そう思うのに、膝ががくがくして今にも身体ごと床に崩れ落ちそうだ。 「でね、もちろん幹彦様のことも心配だけど、私たちは今後の対処をしっかりしなくてはならないの。明日の会議もきちんと書類が揃っていないと開けないから、今のままでは無理。だから中止になった場合の手配も取り急ぎ考えなければ……まずは連絡の付くメンバーに片っ端から伝えなくちゃね。室長も担当医に確認次第電話をくれることになっているのだけれど」 机に手をつくことで、かろうじて身体を支えていた。瞬きをする間すら恐ろしい、暗闇の中に想像してはいけない光景が現れてしまう。すぐにこちらにもどれる状態にないということは、どれくらいの重傷なのだろう。ああ、全く見当が付かない。 だが、それで全てが終わった訳ではない。すぐに今後の対策を立てなければならなかった。その頃には総務に出向いていた大竹が戻り、その他にも数名が部屋に戻ってくる。皆、一様に緊張した面持ちで、普段の和やかな雰囲気は何処にもなかった。 そして、不安の渦の中に無機質な呼び出し音が鳴り響く。 「お電話ありがとうござい……、あ、室長!」 飛びつくように受話器を取った蓉子の声に、小夜子はもちろんのこと部屋にいたメンバー全てが振り向いた。会話の詳細は分からない、でも受話器を持つ人の表情に明らかな安堵の色が広がっていくのが分かる。 「……そうですか。はい、分かりました。今、すぐに確認を取りまして手配します。では、お気を付けて。ありがとうございました」 受話器を戻した蓉子はすぐには口を開かず、先ほどから何度もしているようにまた額に手を当てた。その仕草は彼女を落ち着かせ、物事を順序立てて考える助けになるらしい。部屋にいたメンバーは皆、固唾を呑んでその姿を見守っていた。 「会議は中止しなくて大丈夫。あと数時間で幹彦様の麻酔が切れるから、その頃ならば短い会話も可能という診断よ。もちろん―― 、いえ、何でもないわ」 そこで蓉子は首を横に大きく振る。全身麻酔とは気軽に考えて良いものではないのだ。彼女はそれを告げようとしたのだろう。しかし不用意な言動はさらなる混乱を招く。それに気付いた理性が、言葉を押しとどめた。 「大竹君、まずは坂田運転手に連絡を。今日は電車でお戻りになることになっていたから、車は先に社の方に戻っているそうなの。今、幹彦様は那須の別荘にいらっしゃるのよ、彼なら何度も行って場所がよく分かっているでしょうからすぐに車が出せるかどうか聞いてみて」 どうも車に書類を積んであちらに向かい、無事サインをもらったらすぐにとんぼ返りをしてもらうということらしい。何とも忙しい話ではあるが、二十名以上の出席者のある会議をフイにするよりはいくらかましである。坂田という運転手はこの間自宅まで送ってくれた人だろうかと、小夜子はふと考えた。あのときも車は那須に行く途中であった。 「それから誰かひとり、説明のために同行した方が良さそうね。室長は明日の会議のために今日中にこちらに戻らなくてはならないから。きっと車が着くのとは入れ違いになってしまうわ」 そのとき、部屋には小夜子を含めて六名ほどのメンバーが戻ってきていた。蓉子はそのひとりひとりを見渡しながら、思案している様子である。 誰ひとりとして自分から口を開く者はない。重苦しい空気の中で、壁に掛けられた時計の秒針だけが妙に大きな音を立てて回り続けていた。 「……あの」 そのとき小夜子は、皆から少し下がった場所に立っていた。別に騒動から逃れたいと思った訳ではなく、一歩引いた場所から自分に出来ることを見極めようとしていたのである。人垣になった男性陣の背中が大きくて、ここからでは蓉子の姿もよく見えない。 「そのお役目、私にさせて下さい」 静まりかえっていた室内に、か細いはずの自分の声が妙に大きく響いた。さっと、いくつかの顔がこちらに振り返る。だが、その誰のものよりも皆に注目されている小夜子自身が一番驚いた顔をしていた。
つづく (080509)
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