―― 何で? お昼はきちんと食べたはずなのに。 意識が途切れる刹那、脳裏に浮かんだのは馬鹿馬鹿しいほどにありふれた疑問であった。この脱力感には確かに覚えがある。小夜子は大抵の場合は相手に合わせてしまうたちであったので、食事の時間などもいつも人任せであった。学校や職場などで食事の時間が最初から決められている場合は良いのだが、外出先などで空腹を言い出せず困ってしまうことが多い。 食事のことに限らず、何事に対してもそうであった。相手が家族であろうと他の誰であろうと、自分に出来る最大限の譲歩をすればたいていのことは上手くいく。そう信じて疑わなかったし、それを覆すほどの出来事にも遭遇したことはなかった。あまり多くを望んではいけない、今のままで十分なのだから。いつもいつも、自分にそう言い聞かせてきた。
深い場所に沈み込んでいた意識が、何かに導かれて浮上する。だが、そこにはたとえようのない違和感があった。普段の目覚めとは確かに違う、お仕着せの作為的なものが感じられる。我慢できない程ではないが、あまり気分の良いものではなかった。 「まあ、良かった。気がついたのね」 最初に視界に飛び込んできたのは、真っ白な天井だった。それから同じく真っ白な壁、薄桃色のカーテン。全く見慣れない場所に自分がいることに驚く。しかしすぐに聞き慣れた声がしたので、ホッと胸をなで下ろした。 「富浦さん、……ここは?」 呼ばれた方向に首を動かす。たったそれだけの行為にひどく体力を消耗した様な気がした。どうしたんだろう、私は。確か、先ほどまでは一籐木の本社にいたはずなのに。そして―― 。 「あ、動いちゃ駄目。すぐ先生に来ていただくから。お家の方にも連絡したからご家族の方がもうすぐ見えるわ、あなたは何も心配することはないの」 柔らかい言葉とは裏腹に、強い力で動きを止められる。そのとき初めて、小夜子は自分の左腕から細い管が伸びていることに気付いた。それは吊り下げられた点滴の容器に繋がっている。あまりのことに驚いて起き上がろうとしても、身体には全く力が入らないのだ。 「ほら、静かになさい。ここは一籐木グループが提携している総合病院なの、片岡さんはエレベーターホールで倒れて運ばれたのよ。しばらく体調が優れなかったでしょう? あなた、無理をするから」 壁時計が八時過ぎを示していた。意識がなかったのは三時間ほどであったらしい。その間ずっと蓉子が付き添ってくれたと聞かされ、大変恐縮してしまった。彼女には他に大切な用事があったはずなのに。 「いいの、気にしないで。面倒なことは全部ダンナに押しつけたから」 優しく微笑み返してくれるその顔を見ていたら、視界がぼんやりと霞んだ。一体どうしたことだろう、確かに疲れは溜まっていたが、この程度でへこたれる身体ではなかったはずなのに。こんな風に周囲に迷惑を掛けるなんて、本当に申し訳ない。 「腎機能が低下しています、あなたは急性腎炎を起こしかけていたんですよ。もう少し発見が遅れたら大変でした。腎臓は人間の身体にとってとても大切なものですからね、一度悪くしてしまうと完治までに気の遠くなる様な時間が掛かりますよ」 とりあえずは大事にはいたらなかったということで、ホッと胸をなで下ろした。しかしすぐに家に戻れる訳ではなく、念のために数日間は入院しなくてはならないと告げられる。 「いえ、でも……」 とんでもないことだ。このような大病院に何日も入院したら、大変な費用が掛かってしまう。ただ横になって休んでいればいいのなら、自宅の布団で十分だ。自分のために家族に無駄遣いをさせる訳にはいかない。 「あらあら何を遠慮しているの、おかしな人ね」 戸惑う小夜子の表情に気付いたのか、蓉子は大袈裟なほどに首をすくめた。 「今回は勤務時間内のことだし、労災として処理されるはずよ。一籐木は社員に対する各種保障がとても充実しているの、あなたの場合も会社のお金ですべてをまかなってもらえるわ。それって、とてもおいしい話じゃないの。他の企業じゃ、こうはいかないわよ」 その言葉に、今度は小夜子の方が驚く番であった。そんな話は聞いていない、それに正式な手続きを踏んで入社した者ならいざ知らず、自分はその場しのぎで雇われた身の上である。契約した通りの働きが出来なければすぐにでも首を切られて当然だ。 「そんな顔、しないの。片岡さんには早く良くなってもらわないと困るわ。今日はもう遅いし三鷹沢室長だけに連絡をいれてあるの。室長は明日の朝一でお見舞いに来るそうよ。他のメンバーも話を聞いたら我先にと駆けつけるでしょうね。明日は仕事になるかどうか心配よ、部屋に誰もいなくなってしまったらどうしましょう」 こちらを元気づけてくれているつもりなのだろう。努めて明るく振る舞っている蓉子の姿が胸にかすかな痛みを落とす。違う、そうじゃない。私はとてもそこまでの人間じゃないのだから。そう返答したいのに、喉が詰まって言葉が出ない。 「じゃあ、そろそろお家の方をお迎えに行こうかしら。一階のロビーでお待ちしていた方がいいわね、入院病棟は入り組んでいて分かりにくいから。―― あら?」 蓉子が入り口へと向き直ったのとほぼ同時に、控えめにドアをノックする音がした。彼女はホッとした表情で、小夜子に振り向く。 「あら、ご到着されたようね。どうぞお入り下さい……っ!?」 ドアのところまで出迎えに行った蓉子が、ノブを回すと同時に小さな声を上げる。驚いてそちらを見た小夜子の目に映ったのは、開きかけたドアから覗いている見たこともないほど大きな花束であった。 「え……どうして」 花影からようやく現れたその人に、蓉子は驚きのあまり言葉を失っている。それは小夜子も全く同じであった。ただし、彼女の場合はあまりのショックに押し黙ったままであったのだが。 ―― 何故? そんなはず、ない。 ミルクチョコレート色のスーツを着込んだ人が心配そうな面持ちでこちらをうかがっている。しっかりとその姿が自分の瞳に映っているはずなのに、小夜子はそれでもまだ目の前の事実が信じられなかった。 「話を聞いて驚いてね。大変だったでしょう、気分はどう?」 何かお答えしなくてはならないのは分かっている。だけど、駄目。唇が震えて、役に立たない。何でこの人がここにいるの? 「その……幹彦様。今日は上層部の定例会のご予定ですよね。一体誰がお知らせしたんです、室長も明朝お伝えすると言ってらしたのに。それに、まだお食事会が続いている時間ですが……」 小夜子の疑問を、そのまま蓉子が代弁してくれた。メモ書きがなくとも、自分たちのボスであるこの人のスケジュールは三日先までそらんじることが出来る。それくらいのことが当たり前にならなければ、多忙な人の下で働くことなど不可能なのだ。 「そうだな、でもこれは社長命令なんだ」 ちらと時計盤に目をやってから、彼はなおも続ける。 「連絡を受けたのは、僕ではなく社長の方でね。室長の竹内が念のためにと知らせてくれたらしい。裏口とはいえ救急車が本社に横付けされたのだから、他から話を聞いて悪戯に心配するのも良くないと判断した様だね。倒れたのは僕の部下だから、すぐに様子を見に行けと言われたんだ。それでどう? 先生は何と仰った?」 蓉子の質問に答えるかたちのその言葉にも、隠しようのない苛立ちが感じ取れた。最後の問いかけだけは普段通りの穏やかなものに戻り、小夜子に向けられている。だが、どうにも身の置き場のない心地で、すぐには返答することが出来なかった。 「そ、そのっ……申し訳、ございません」 もっと他にいくらも言いようがありそうなものなのに。ややあってようやく発した言葉に、さらに落ち込んでしまう。ああ、もう嫌だ。どうしてこんな風にたくさんの人に迷惑を掛けなければならないのだろう。口惜しくて悲しくて仕方ない。 「幹彦様、そちらのお花を貸していただけますか? あいにくこちらには花瓶の準備がないようですので、ナースセンターで聞いてきます。せっかくお持ちになったのですから、飾りましょう。ここは素敵な部屋ですけど、広くて殺風景ですから」 てきぱきと告げる蓉子の表情には、まだ幾らかの躊躇いが残っている様であった。だが、彼女はあえてそれを口に出したりはしない。この揺るぎない聡明さがあるからこそ、企業の明日を担う人材を支える役目を与えられているのだろう。 「あ、……ああ、そうだね。すっかり忘れていたよ、頼んでいいかな」 その花束が女性の細腕には有り余るほどの大きさであったことが、蓉子の手に移ったことで改めて知らしめられる。色とりどりの花が一体何十本束ねられているのだろう。まるで花屋のケースの中を丸ごとごっそりと引き抜いてしまったようだ。 再び静寂が訪れて、ひとりで使うにはあまりに広すぎる部屋に小夜子と幹彦氏のふたりだけが残された。その事実にハッと気付いて、どうにも身の置き場がなくなってしまう。 「その……大丈夫? 突然のことで驚いたでしょう、でももう何も心配はないからね」 こちらは恥ずかしくて消えてしまいたい程なのに、どうして気付いて下さらないのだろう。こんな風に急いで来ていただくことはなかった。ちょっと疲れが溜まっただけなのだ、何も命に別状がある訳ではないのだし。 「いえ、こちらこそ。……大事な会合だったのに、すみません」 全ては自分の至らなさが招いたことなのだ、他の誰の責任でもない。それなのに、事実として起こってしまったことが、たくさんの人の手を煩わせることになってしまう。人助けだと言われて、慣れない仕事に就く決心をしたのだ。それなのに、……これでは何にもならないではないか。 「何を言っているの、君が気に病む必要など何もないよ。ここに来たのは僕の意志だ、それに今夜はそう大切な話も出なかったしね。正直とても退屈していたんだ、皆よりも早く抜けることが出来たことに感謝したいくらいだ」 驚いて見上げた小夜子の視線に気付いて、彼は慌てて自分の唇に人差し指を当てる。これは内緒だよ、と告げる様に。 「社長にも叱られてしまったよ、部下の健康管理に気を配るのは上司として当然のことだろうって。本当にその通りだ、もっと僕が君のことを気遣っていればこんなことにはならなかったのに」 そんなことはない、現実はむしろその逆だ。幹彦様はいつも部屋のメンバーひとりひとりを気遣って下さってる。あんなに忙しいスケジュールの中でどうしてそこまで出来るのかといつも不思議だった。すごく尊敬していた、足下にも及ばない身の上ではあるけれど少しでも真似できたらいいなと思い続けている。 「どうしたの、どこか痛む?」 次の瞬間、とても信じられないことが起こった。ひんやりとした手のひらがそっと頬に触れる。これは夢? 探る様に、慈しむ様に、全ての想いが指先から伝わってきた。 「いっ、……いいえ。大丈夫です」 微かに身じろぎをすると、ハッとして指先が離れる。ほとんど無意識の行為だったことを、驚きの滲む瞳が伝えていた。 「その……」 何かを言い掛けた口元が、そこで止まる。にわかにドアの向こうが騒がしくなって、ふたつの足音が部屋に入ってきた。 「小夜子! 一体、どうしたというの……! 驚いたわ、もうこの子ってば……」 よもぎ色の作業着が小夜子の目に映ったそのときには、もう母親の叫び声が耳まで届いていた。他の何も目に映らない様子で、彼女は一直線にベッドへと駆け寄る。 「今そこであなたの上司だって方にお会いしてね、だいたいの話は聞いたわ。驚いたでしょう、怖かったわね。もう何も心配しなくていいから安心して」 そう励ましてくれる母の方が今にも倒れそうだ。急な知らせを聞いて、慌てて駆けつけてくれたのが分かる。本当に着替える暇もなく来てくれたようだ。 「お父さんは工場の方でどうしても手が離せなくてね、仕方ないから南町の兄さんに車を出してもらったの。途中が渋滞で大変だったわ。今、下で待っていてもらっているから。荷物はどこ? さあ、一緒に帰りましょう。大きい車だから、後ろの座席に横になっていられるわ」 すぐに起き上がるようにと言われるが、それは無理な相談である。でも出来ることなら、今は母親の言葉に従いたかった。こんな場所にいても、少しも休んでいられない。自宅に戻った方がずっといい。ああ、思い通りに動かない身体が恨めしい、どうにかならないものか。 「申し訳ございませんが、それは出来ません。医師の診断では、しばらくこちらに入院する必要があるそうです」 ふたりの間に割って入ったのは幹彦氏であった。もう一瞬遅かったら、多分蓉子の方が口を挟んでいただろう。小夜子の母はそこで初めて彼の存在に気付き、表情を硬くした。 「あの、……どなたですか?」 無理もない反応だと思う。娘の病室に見知らぬ男がいたら、不審に思わない方がおかしい。だが、相手が相手だ。今回の場合はあまりにも失礼に当たる。 「申し遅れました、私は一籐木幹彦と申します。小夜子さんにはいつも大変お世話になっております。またこの度はご家族の皆様に大変なご心配をお掛けいたしました、社長に代わり謹んでお詫び申し上げます」 愁いを含んだ眼差し、柔らかな礼を尽くした物腰。対する小夜子の母親の方は先ほどまでの勢いはどこへやら、あんぐりと口を開けたまま立ちつくしている。 「いち……とうぎ、ではあなたは……」 刹那、小夜子は哀れな母親の姿に自分自身を重ね合わせていた。ああ、そうだ。私だって、母と同じ立場の人間。今は仮の姿でいるけれど、本来は向こう岸に佇んでいるだけの存在なのだ。 「こ、これは。大変な失礼を! こちらこそ、何も出来ない娘がいつもご迷惑をお掛けしております……!」 小さな身体をさらに縮めて詫びる母に、小夜子は自分が立場を代わってあげたいと願った。またひとり、私のせいで辛い思いをする人がいる。それがかけがえのない自分の母親だとしたら、こんなに辛いことはない。 「もしも入院が必要だとしても、こちらにはお世話になれません。その……家からあまりに遠すぎますから。私にも仕事がありますし、娘の世話に通うことも難しいです。こちらの勝手で申し訳ございませんが、ご理解下さい。娘は連れて帰ります、お医者様にもそうお伝え下さい」 深々と頭を下げた小夜子の母が再び顔を上げたとき、目の前の男は先ほどと全く変わらない表情のまま彼女を見つめていた。 「いいえ、それは出来ません」 ゆっくりと首を横に振って、拒絶を伝える。そこにはさらに異を唱えられるだけの優しさは残されていなかった。 「彼女にとって今一番必要なのは快適な環境での十分な休養と適切な栄養補給です。幸いこちらの施設は完全看護ですし、ご家族の方に余計なお手間は取らせません。小夜子さんが今回このようなことになったのは、全て私どもの責任です。一籐木の名に恥じぬ様なお世話をさせていただきたく思います」 それでも再び「でも……」と口を開きかけた小夜子の母であったが、やがて力なく頭を振ると青ざめた顔で娘の方へと向き直る。母娘はしばらく無言のままお互いを見つめていた。 「……ごめんね、小夜子」 ハッとして母親を見つめ返したとき、もうその輪郭は捉えられないほど遠ざかっていた。すぐに声を掛けたいのに、震える肩先に伝えるべき言葉が見つからない。いや、一番言いたかったそのひとことは、一瞬先に母親に言われてしまった。
―― 私の方こそ、ごめんなさいって言いたかった。
どうしてあの場面で泣き出さずに済んだのか、自分でも分からない。 母はもっともっと伝えたいことがあった、そして自分も……言わなくてはいけないと思った言葉を無理に飲み込んでいた。初めて気付いた心の変化に、戸惑うばかりだった頃。ひとりぼっちに戻った部屋で、小夜子はようやく声を上げて泣いた。 その涙の意味にさえ、気付かないままに。
つづく (080411)
|
|
|