翌日は朝から入れ替わり立ち替わり専務室のメンバーが顔を見せてくれて、入院患者の身の上でありながら満足に休んでもいられない有様。とうとう最後には看護師から「おひとり十分以内でお願いします」と言われてしまった程である。自分ひとりには広すぎると思っていた病室であったが、次から次から見舞いの品が届けられては今に足の踏み場もなくなってしまう。 「あらまあ、間違えて花屋さんに来てしまったのかと思ったわ」 ようやく人足の途絶えた昼下がり、そう言いながら入ってきたのは佐々木営業部長の奥様。ご主人の方はもっと早く、何と出勤前の忙しい時間に立ち寄ってくれていた。そこで同じく出勤途中だった三鷹沢室長と鉢合わせ。「それでは」とふたり連れだって会社へと向かっていった。 「大変だったわね、小夜ちゃん。主人に話を聞いてとても驚いたのよ。昨夜は親戚の法事に出席していて、連絡を受けたのが遅かったの。本当はすぐにでも駆けつけたかったわ」 今日も初夏らしい品の良い装いの彼女であるが、珍しいパンツスーツであることからもしばらくの時間はこの場所に滞在して世話を焼くつもりなのだと言うことが分かる。朝、佐々木氏からそのことを申し出てもらっていたが、とんでもないことだとすぐにお断りしていた。しかし、簡単に引き下がる様な相手ではない。 「そんなことを言っても、このような場所にひとりでいたら気が滅入ってしまうだろう。妻の方も話し相手が欲しくて仕方なかったところだ。小夜ちゃんを思う存分独り占め出来るのだから最高だよ。君のご両親も、遠いところを頻繁に訪れるのは大変だろうしね」 まあ、言われることはもっともだと思う。だが自分は何も大病を患った訳ではなく、医師の診断でもちょっと体調を崩した程度と言うこと。ゆっくり横になっていればほどなく治るものであり、周囲の皆に必要以上に心配を掛ける様な感じではないのだ。 「本当はふたりで美味しいケーキでも楽しみたいところだけれど、残念ながら食事制限があるようね。それはまたの機会にしましょう。だから私からのお見舞いはこれ、手持ちで気に入っているものを何冊か選んでみたの」 花柄の紙袋から取り出されたのは、美しい装丁の画集たち。それから写真集もあった。 「私は風景画を眺めるのがとても好きなの。一度訪れたことのある場所も、まだ足を踏み入れたことのない場所も、自分で肉眼で見るのとは全く違っているのね。芸術家の心の目は、本当に素敵。だけど主人は、あまり夢中になるとまた『出掛けたい病』になるぞと言うのよ」 夫人の話はそこから始まり、やがて旅先での様々な出来事へと発展していった。国内外を問わず、思い立ったときに友人知人と自由な観光を楽しんでいるらしい。習い事も多く、そこで知り合った仲間達と次々に交流の輪が広がっていると言う。何とも優雅な余暇の過ごし方に、小夜子は別世界の話をされているとしか思えなかった。 「じゃあ、また明日も来るわね。午後からはパッチワークの教室があるから、午前中になると思うわ」 腕時計を確かめて驚いた表情になった夫人は、そそくさと帰り支度をしていとまを告げる。その姿を笑顔で見送った小夜子は、やがて目の前のドアが閉まるとまたひとりに残された。
折りたたみ式のサイドテーブルの上には出来たての夕食が置かれていたが、あまり食欲も湧かない。それより今は、少し横になって休みたかった。 ―― やっぱり、住む世界が違う人たちなのだわ。 思いがけない成り行きで一籐木の本社で働き出してからというもの、周囲との違和感に始終戸惑い続けていた。佐々木夫婦との交流は以前から続いているものではあったが、このように頻繁にお会いする機会もなかったからそう気にする必要もなかったのだろう。何気ない会話の中に感覚のズレを感じたとしても、次に再会するまでの間に自分なりに納得して受け入れることが出来た。 早く戻らなくては、帰らなくてはと思う。自分に合わない生活をいつまでも続けていけるはずもない。ここは本来いるべき場所じゃないのだから。だけど……。 小夜子は自分自身の中に、覚えのない引っかかりの様なものがあることに気付いていた。その正体はまだよく分からない。しかし、以前の自分だったら躊躇なく出来たはずの選択が難しくなっている。仕事の内容からすれば、自分と同様にもしくはそれ以上の働きが出来る人材はいくらでも探すことが出来るだろう。だけどまだしばらくはこの場所に留まりたい。もしもそれが叶うことであれば。 病室は今や甘い花の香りでむせかえるほどだ。切り花は看護師や佐々木夫人が花瓶やバケツをかき集めて活けてくれたが、とてもこれ以上の量は無理だと思う。もしも蓉子が帰宅途中に寄ってくれたら、いくつかの束を持ち帰ってもらおうと考えている。 掛け時計の文字盤は五時半を差している。残業がない日ならそろそろ仕事を上がる頃だ。こうしてひとりでいると、時間の流れるのが恐ろしく遅い。会社にいればあっという間に過ぎていく一日、片付けなくてはならないことは次から次へとやってくるのにそれを全部仕上げる前にまた別の仕事が舞い込んでくる。多くの事柄の中からより重要なものを抜き出し、優先順位を決める技も学んだ。 常に決断を迫られている状況ならば、心も鍛えられていくのだろうか。やがて何事にも動じない強い精神を持つことが出来るのか。 「切れ者」と呼ばれるメンバーの中に放り込まれ日々彼らと接していても、小夜子にはいつでも漠然とした不安が付きまとっていた。自分ではとても耐えきれない、食うか食われるかのギリギリの状況でより会社のためになる決定を下し続けるなんて。そもそも人間としての気質が異なるのだから、心配などする必要もないのだろうか。だがもしも、人知れず苦しんでいる誰かがいるとしたら。 ―― ああ、自分はなんて愚かなんだろう。こんなこと、心配する方がどうかしてる。 額に添えた指先がひんやりと冷たく感じられた。もしかしたら、心までがこんな風に冷え切っているのかも知れない。そう思えてくるほどに。 「……はい?」 蓉子が来てくれたのだろうか、とすぐに考えた。昼前に一度、彼女は近所へ届け物があったついでにと顔を見せてくれている。だから、もしかしたら今日はもう来ないかとも諦めていた。昨夜は遅くまでここに残っていてくれたのだ、あまり迷惑をかけ続けることは出来ない。 「やあ、……具合はどう?」 しかし、ドアの向こうから姿を見せたのは想像していたその人ではなかった。小夜子は思わず息を飲む。そして、回転の遅くなった頭で今日の彼のスケジュールを思い起こしていた。 「その、幹彦様。今はまだ、合同会議のお時間では?」 専務のスケジュールの調整をしているのは、主に蓉子と大竹である。だがホワイトボードの一番目立つ場所に書かれている一日の流れは、室内の誰もが常に把握できるようになっていた。他のメンバーのスケジュールにも細かく関わってくるため、小夜子としても始終気に留めていることである。 「いや、実は大阪からの新幹線が何かの故障で遅れていてね。急遽開始が一時間繰り下がったんだ、だからまだ大丈夫だよ。もちろん、すぐに戻らなくてはならないけどね。どうしたかなと心配だったから」 今日は小さな花かごを手にしている。持ち手つきの可愛らしい籐かごにびっしりと挿された可愛らしい花々が、瑞々しい香りを放っていた。 「そ、そんな。申し訳ございません、本当にっ、……その、大丈夫ですから……!」 わざわざ顔を見せてくれたことは、本当に嬉しかった。でも、もちろん期待していたことではなかったし、喜びよりもむしろ戸惑いの気持ちの方が上回ってしまう。この人が想像を絶するほどお忙しい状況に置かれていることは、よく分かっている。だから、こんな風に無理をして欲しくはないのだ。 「いや、そんな訳にはいかないな。ここに残ってもらったのは僕の判断でもあるのだからね。君のご両親の辛いお気持ちを考えたら、これくらいのこと何でもないよ」 そこまで告げたあと、彼はふと顔を歪ませた。ああ、そうなのだと気付く。この人もやはり昨夜のやりとりを気にしていたのだ。確かにあそこまでの口出しは普段の穏やかな人柄から考えたら信じられないものに思えたし、実際彼自身も驚いたに違いない。 そのあともすぐには口を開かず、彼の目はうずたかく積まれた見舞いの品に向けられていた。 「ああ、みんながここに来たというのは本当だったんだね。それにしてもよくこんなに集まったものだね、これはすごい、飾りきれないほどの花じゃないか」 花束に添えられたカードのひとつひとつを眺めながら、幹彦氏はどこか嬉しそうに目を細める。今日も一寸の乱れなく整えられた柔らかい髪、ライトブラウンのスーツをここまで完璧に着こなせる人を小夜子は他に知らない。 「ええと……何だかもう、本当に皆さんにご迷惑ばかりお掛けして……」 社会人でありながら自分自身の体調管理も出来ないなんて、情けないにも程がある。少しずつ疲れが溜まっているのは分かっていたのだ、こんな風にひどくなる前にもっと方法があったはずなのに。 「ほら、駄目だよ。そんな風に考えすぎるのが一番良くないのだから。お医者様からも言われたでしょう、気を楽にしてのんびりと過ごせばいい。余計なことは何も考えないでね」 そんな言葉、掛けてもらう必要はない。お前なんかもういらない人間だと切り捨ててくれた方がどんなにいいか。優しくされるとかえって辛くなる、どうしてこんなにひねくれた考え方をするようになってしまったのだろう。 最初から分かっていた、自分があの場所にどんなに不自然な存在であるかを。いくら努力したところで決して同じ色に染まることは出来ない。なのにどうして、まだ留まり続けようとするのだろうか。無駄なあがきなど甲斐もないことなのに。 「さ、そろそろ戻らないといけないな。じゃあ、お大事に」 腕にしっくりと収まる時計は、外国の老舗メーカーのもの。小夜子などにはその価値が分かるはずもないが、とても稀少な品であることは間違いない。 最後にもう一度淡く微笑んで、彼は訪れたときと同じ落ち着いた姿でドアの向こうに消えた。
◇◇◇ 「しかし、ご自宅に戻られたらまた無理をなさるでしょう。せっかく良くなりかけているのに、それでは元の木阿弥です。前にも申し上げた通り、腎臓は一度悪くしてしまうと後が厄介ですからね。患者さんは皆ご自分の身体のことはよく分かっていると仰いますが、それはとても危険な考え方なのですよ」 まるで見てきたような物言いには言い返すひとことも思いつかなかった。全く医師の言う通りではある。もしも自宅に戻れば今まで迷惑を掛けた分を取り戻したくて必死に頑張ってしまいそうだ。でもそれは、自分にとって当然のことで、誰かに制限されることではない。 心配の材料はそれだけではない。入院期間が延びるにつれて次第に訪れる間隔の空く見舞客達の中で、ただひとり一日も欠かさずに足を運んでくれた人がいた。それが他でもない、あの幹彦氏なのである。
その日は午前中にレントゲンなどの検査が続き、緊張したせいかすっかり疲れてしまった。昼食もそこそこに横になると、すっかり眠ってしまっていたらしい。目覚めたときはもう辺りが暗くなり始める刻限であった。 「……?」 とろとろと眠りの淵より這い出る刹那。瞼を開ける前から、何かが違うと感じていた。しかし視界が開けて最初に目に飛び込んできたその人に、驚きのあまり固まってしまう。 「気がついた?」 いつもよりももっと近い場所に彼の顔があることに気付いた。そうか、椅子に座っているのだと少ししてから気付く。この人にとってそれはとても珍しいことであり、だからだろうか普段のせわしない訪問にはない安らぎが感じられた。 「は……はい」 喉の奥でくぐもっていた声が、果たして相手まで伝わるものであったかどうかは分からない。しかし彼は確かにこちらの意を受け取ってくれたように、にっこりと微笑んだ。 「随分顔色が良くなってきたね、この分だと週末には退院できるだろうと先生も仰っていたよ。それを聞いて、安心した。君には本当に大変な想いをさせてしまったからね」 そんなことないです、と言いたかったのに声にならなかった。小さく首を横に振るだけで精一杯。自分のために発せられる言葉の一音一音が美しい光の粒になり心に柔らかく注ぎ込んでくる。こんなに穏やかな気持ちになったのは久しぶりだ。この人の声は、全てを温かく包み込んでしまう。もしも今、何かひとことでも口にすれば、きっと感激のあまりに泣き出してしまうだろう。 こんな人に今まで出会ったことがなかった、だからこそこれほどまでに戸惑っている。 「さあ、そろそろ行かなくては。起こしてしまって済まなかったね、またゆっくり休むといい」 彼が立ち去ったあと、見慣れない白い箱がサイドテーブルの上に置かれていた。ずいぶんと古びた品物で、全体に美しい装飾が施されている。よく見ると色が付いている部分は陶器を埋め込んでいるらしい。手にとって蓋を開けてみると、それがオルゴールであることが分かった。優しい音色が、途切れ途切れに響いてくる。一度蓋を閉めて裏に返してネジを巻けば、またしばらく心地よい音楽が楽しめた。 しかし、その幸せな時間も程なく終わる。最後の音が鳴り終えたあとも、小夜子は蓋を開けたままの箱を膝の上に置いてぼんやりとしていた。
◇◇◇ 「ちょっと聞いてよ、片岡さん。幹彦様がね、昨日出張先での会合に連絡もなく遅れてしまったの。もちろん先方はカンカンで、こちらとしてもどうしたらいいのか途方に暮れてしまったわ。仕方なく大竹君が急遽向かうことになったのだけれど……本当にどうされてしまったのか、私にも分からないわ」 もう済んだ話だからいいのだけれど、とは告げながらもまだ気持ちが高ぶっている様子だ。昨夜はそのことで遅くまで奔走したのでこちらに寄れなかったのだと詫びられたが、そのようなこと別に気にしてもらうことでもない。 「昨日の……夜のことなのですか?」 心に浮かんだシミの様な不安に、そう口にせずにはいられなかった。何も知らない蓉子は小夜子の青ざめた顔にも気付かず、さらに話を続けていく。立場上どうしても公に出来ない鬱憤を身内の気安さで吐き出してしまいたいのだろう。 「ええ、車だと行きにくい場所だからと現地までは電車を使うことになって手配したのだけど……幹彦様はうっかり間違えて他のホームに停まっていた車両に乗車してしまったと仰るの。でも本当にそんなことってあるかしら、信じられないわ」 あとに続く言葉は、もう小夜子の耳には聞こえていなかった。昨日の午後、彼は確かにここにいたのである。確かな時間は覚えていなかったが、もう暗くなる刻限。自分はずっと眠っていたから、いつからいらっしゃったのかも分からない。もし……彼が、自分のせいで予定に遅れてしまったのだとしたら。 しかし、そんなことが本当にあるのだろうか。いや、あっていいはずない。それに今までだって、彼は誰にも告げずにここに通ってきていた。倒れてすぐに訪れてくれたときの蓉子の様子からも、それが周囲から見て許容範囲でないことは明らかである。 ―― もう、甘えてはいけないのだ。 小夜子は今、この上なく自分自身を恥じていた。幹彦氏が自分のことを気遣ってくれることを申し訳なく思いながらも、その一方でこの上なく嬉しく感じてはいなかったか。そのような浅はかな想いがあったからこそ、強く出ることが出来なかった。それが、彼自身の日常を狂わすことに繋がったのだとしたらもう許されないことだ。
しかしその日も。 「……もう、止めていただけませんか?」 震える唇でどうにか口にすることが出来たのは、そのひとことだけだった。こんな風に前後の脈絡のない言葉ではなにも伝わるはずはない。幹彦氏は何が起こったのか分からない様子で、戸惑い気味の視線を向けてきた。 「その、すごく……迷惑なんです。こんな風に気遣われると、かえって負担になります。もう、お願いですから私のためになんて、何かしようと思わないでください! 私、大丈夫です。だから、もう……二度とここには来ないでください……!」 もっとたくさん言いたいことはあった、「ありがとう」とか「ごめんなさい」とか。でもそんなことすら思いつかないほどに、そのときの小夜子は追い詰められていた。自分の存在が誰かの負担になる、そのことが許されなくて、どうにかしたくて。ただただ、それだけだった。 その後に続いた沈黙がとてつもなく重く息苦しく思えた。一瞬とも永遠とも感じられる時間。世界中の全ての音が消えてしまったかのように静かに流れていく。 「……言いたいのは、それだけ?」 かろうじて返ってきた言葉は揺れていた。思わず視線をそらしてしまったあとでもはっきりとそれが分かるくらい。でも、小夜子に出来ることは、ただ大きく頷くことだけであった。
それきり、彼は二度と言葉を発することもなくただ静かに部屋を出て行った。 遅れて耳に届いた、ドアの閉まる音。小夜子はぽっかりと空洞の空いてしまった心を抱えながら、だけどこれで良かったのだと自分に言い聞かせていた。
つづく (080423)
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