―― この人たちの活力が、日本の将来を担っていくんだわ。 現場の隅に身を置きつつも、小夜子の瞳が捉えるものはガラス画面の向こうで展開するドキュメンタリー番組の一幕のようであった。時代の最先端とはこういう状況のことを言うのか。百聞は一見にしかずとはよく言ったものである。皆の足元にも及ばないことは分かっているが、せめてその足を引っ張らないように心がけていきたいと思う。
「ただいま戻りました」 総務へ書類を届けて戻ると、半開きのドアの前で一度立ち止まって声を掛けた。その後にドアストッパーを少しだけ動かし、空いた隙間から身体を滑り込ませて室内を確認する。先ほど出て行くときにはデスクに向かっていた数人の姿が消えており、代わって意外とも思える人影が給湯室の前にあった。 「やあ、お帰り。ご苦労様」 振り向いて、こぼれる笑顔。そして柔らかく深みのある声。しかし小夜子の視線を捉えたのは全女性社員の心を釘付けにするすらりとした長身でも、洗練された身のこなしでもなかった。 「おっ、お帰りなさいませ。そのっ、……お茶の支度でしたら私が。幹彦様はデスクにお戻りになって下さい」 その手に茶道具があることに驚いて、小夜子は普段よりもうわずった声を出してしまった。しかし彼は軽く首を横に振ると言う。 「いいや、たまにはこういうことも楽しいものだ。君も一緒にどう? 僕はコーヒーには結構うるさいんだよ、まあ見ていてごらん」 そう言い切られてしまっては、でも私がと出しゃばる訳にはいかない。その上、幹彦氏が棚の奥から取り出したのは見慣れないレギュラーコーヒー用の一式で、小夜子には扱い方が全く分からなかった。 「緑茶や紅茶ではとても君には敵わないけどね、ほらこうやってお湯を注ぐんだ」 やかんはすでに煮立っていて、もうもうと湯気を上げている。大きめのガラスのポットの上に器具を乗せ、そこに紙製のフィルターと粉状のコーヒーが置かれた。小夜子が普段見慣れているインスタントコーヒーのそれとは全く違う。さらに湯を加えられることで辺り一面に豊潤な香りが漂い、もこもこと泡のように変化していく姿がとても興味深かった。 「留学先でコーヒーショップでアルバイトをしたこともあるんだよ。仕事の飲み込みがいいってマスターに誉められたんだ。コーヒー豆も紅茶と同じようにいろいろな種類があって、また産地によって味が異なる。それらの長所を引き出すようにブレンドするのも楽しかったな」 上司に、しかも部屋の最高責任者である人にお茶の支度をさせるなど、とんでもないことだとは思う。でも、いつの間にか小夜子はすっかりと幹彦氏のペースに巻き込まれていた。 「幹彦様は……何でもお出来になるのですね」 間の抜けた受け答えしか出来ない自分が情けない。他のメンバーとならかなりうち解けて来たが、やはりこの人を前にするとたとえようのない威圧感があり身構えてしまう。もちろんあの夕べのことは今も気になってはいるが、当人から立ち入らぬようにと言われてしまった手前、諦めるしかない。 「いや、これは下手の横好きって奴さ。ほら出来た、あっちに行って一緒に飲もうか」 そこで幹彦氏が迷いもなく小夜子のカップを手にしたことに、また驚いてしまった。給湯室の食器棚にはメンバー全員のプライベートカップが並んでいる。色もかたちもそれぞれ、しかもどこにも記名のないそれをすべて覚えるまでかなり苦労した。 「砂糖とミルクは適当に持っていくよ。僕は濃いめが好きだから、君にはちょっと苦く感じるかな?」 当たり前のように自らがトレーを運ぶ後ろ姿に、とても信じられない気持ちがした。自分は古いタイプの考え方の人間なのかも知れない。男性が炊事場に立つことも、自らの手でお茶の支度をすることも、不思議な出来事である。その上、彼は社長の息子であり、ゆくゆくは父親のあとを継いでトップに立つ人間だ。そんな人が、時しのぎで雇った部下のために働くことを全く苦にしないなんて。 応接セットのテーブルの上にトレーが置かれたそのときに、入り口でノックの音を聞いた。 「すみません、急ぎの用事ではないのですが……こちらとこちらの書類に必要事項を記入して戻してください。わざわざお呼び立てをすることもないと思ってお持ちしました」 彼女が自分に説明を続けながら、その視線をドアの向こうへと送り続けていることに気付いていた。頬が淡くピンクに染まっている。こういう光景は人を変えて何度も見ていた。 「ありがとうございます、わざわざすみません」 書類の形式は過去に何度も同じものがあったとのことで、担当のメンバーならばすぐに対応できるだろう。もう一度きちんと確認して、礼を言った。だがまだ、彼女はその場所を動かない。一体どうしたらいいのだろう、全く知らない相手ではないだけに困っていると窮地を救うように内線電話の呼び出し音が鳴りだした。それに対応するのはもちろん小夜子の役目だ。 「幹彦様、大塚物産の林様が到着されたそうです。予定通り第二応接室にお通しします」 受話器を置いた小夜子がそう告げたとき、いつの間にか総務の彼女の姿は消えていた。何とも言えない後ろめたさが胸を覆う。一体自分は彼女にどんな風に思われているのだろう。当座の勤務であると分かっているだけにあまり深入りする必要はないと考えているものの、やはり不安になった。 「そう、ありがとう。でも約束の時間よりも早かったな、残念だ」 彼は少し首をすくめると、空になったカップを手に立ち上がる。トレーの上には小夜子のカップだけがぽつんと残されていた。 「あ、そうだ。今夜のお祝いには君も一緒に行くんでしょう?」 必要な書類をまとめて奥から出てきた彼は、すれ違いざまに再び口を開いた。 「はい、それほど遅くならないとうかがったので」 延び延びになっていた三鷹沢氏の二世誕生を祝う会が今夜開かれることになっている。新参者の身で図々しく参加していいものかと迷ったが、相手はあの室長だ。理由もなく断るのも失礼に当たると思い、ほんの少しだけ顔を出すことにした。 「そう、それは良かった。君の歓迎会も兼ねているからね、楽しみにしているよ」 軽く肩に置かれた手は、挨拶代わりのものだったのだろう。だが、小鳥の羽が舞い降りるほど柔らかいその感触がじんと胸に響いた。
◇◇◇
「さあさあ、みんな入って。今、お母さんは町内の会合に出ていて留守なんだ。何のおもてなしも出来ないけど、とびきりのお姫様をご披露するよ」 いつもに増してテンションの高い室長に案内されて、幹彦氏を先頭に十余人のメンバーがぞろぞろと格子戸を中に入っていった。こんなに大勢で押しかけてご迷惑じゃなかったのだろうか。少し気後れしながらも、小夜子は列の一番最後に続いた。蓉子が一緒にいてくれるから、少しは心強い。今夜はお子さんをご主人に任せてあるんだと言った。 「まあまあ、何て色が白いんでしょう! それにとても可愛らしいわ」 最初に赤ん坊を抱き上げたのは蓉子で、慣れた手つきであやしている。髪を整えスーツ姿の彼女から、母親らしい一面が漂ってくるのがとても不思議だった。 「片岡さんも遠慮してないで抱っこさせてもらいなさいよ。ほら、将来に向けての予行練習だと思って」 傍らから興味深く覗き込んでいたら、不意に手渡されてしまう。自分の知っている赤ん坊の重みとは違う軽すぎるそれに最初は戸惑ったが、ミルクの香りのする清らかな口元がとても神秘的だった。ぎゅっと握りしめられた小さな手のひとつひとつに桜貝色の爪が付いている。 「まあ、上手ね! とても初心者とは思えない手つきだわ」 蓉子に大袈裟に誉められて恥ずかしかったが、それもそのはずである。姉の子供の面倒を寝返りも打てない月例の頃からほとんど日常的に見てきたから、同年代の友人たちよりもずっと赤ん坊のことは知っている。でも今はそれをひけらかすこともないと思い、黙って下を向いていた。 「本当に、宵子さんは偉大だと思ったよ。父親になるって想像していたよりもずっと素晴らしいね、何というか自分のDNAがしっかりとしたかたちで受け継がれたって気分になるんだ。これぞ、生命の神秘ってやつかな」 室長は普段披露している惚気ぶりに似つかわしい態度で奥様に接し、見ているこちらが恥ずかしくなってしまうほどである。人目も憚らず肩に腰に手を回し抱き寄せる様は、とても直視できない。 再び格子戸をくぐり抜けて外に出ると、そこで上品な初老の女性と出くわす。身につけている着物は質素なものであったが、しゃんと伸びた背筋や身のこなしから育ちの良さをはっきり感じさせられた。 「あら、残念。皆さんもうお帰り? これでも急いで戻ってきましたのに」 薄いショールを掛け直しながら残念そうに告げる女性に、室長と幹彦様が対応する。どうもこの方が室長の奥様のお母様であるらしい。一通りの話が終わり、最後は会釈と笑顔で別れた。 「あの、……もしかして」 一団の最後から歩いていく小夜子の背中に、先ほどの女性が声を掛けてくる。控えめな、でも凛とした響きであった。 「あなたが真之さんの話していた新しい方? ……そうでしょう」 慌てて振り向いた小夜子の髪が揺れる。彼女の眼差しはその漆黒の流れに向けられていた。小さく頷くと、女性も応えるように頷く。温かな瞳がゆっくりとやがて小夜子に届いた。 「そう、やっぱり。すぐに分かったわ。……ほら、皆様が先に行かれましたよ? 今夜は残念でしたが、またゆっくりいらっしゃい」 黒目がちの綺麗な眼差しに、つい魅入られてしまう。やがて遙か向こうから蓉子の呼ぶ声がして、小夜子はハッとして我に返った。
◇◇◇
「そんなに隅っこの方でちっちゃくなってないで。今日は片岡さんが主役なのよ?」 蓉子はビールが進んでいるらしく、頬が赤くなっている。男性と同じ席で対等にグラスを空けていく彼女を、新鮮な気持ちで眺めていた。小夜子自身はアルコールが全く駄目だし、母親も姉も嗜まない。そう言えば佐々木氏の奥様も食事中にワインを楽しまれる。やはり都会の女性は進んでいるのだと思った。 「ち……小さくなってはいませんから」 もともと小柄なので、このような賑やかな席では存在がなくなってしまうのだろうか。気を遣って貰うのは申し訳なく、どうしたらいいのか分からなくなってしまう。自分の方から回らなくても、皆が次々にお酌をしに来てくれる。とにかく勝手が分からずに途方に暮れるばかりであった。 ―― 私、本当にこの場所にいていいの? 自分を映す窓ガラスに、昼間見た総務部の彼女の姿が重なる。あのような光景には、彼女に限らず人を変え時間を変えて何度も何度も数え切れないほど出会っていた。幹彦氏が地方から戻ってから役員フロアには行き交う人の数が急に増えたと思ったが、その中には女性社員の姿も多くあった。
二時間ほどで会がお開きになり、外に出る。時間は八時をちょっと回ったところで、メンバーの中には「もう一軒」などという声も上がっていた。小夜子はちらと腕時計を覗く。まだそう遅い時間ではない、しかし通勤時間帯を過ぎると電車の数が極端に減るのでそれが少し心配だった。 「じゃあ、私はもう帰るわ。片岡さんは地下鉄だったわよね、お気を付けて」 二次会の誘いは断ったので、皆が次第に散っていく中で小夜子も地下鉄の階段を探すことにした。確か少し歩いたところに駅があったはず。でもどちらの方角だろう、いつもは地下の暗闇の中を走っているので全く見当が付かない。とりあえずは適当に歩いてみようと足を前に出したところで、背後に気配を感じた。 「もう帰るなら、ご自宅まで送ろうか。車が迎えに来ているんだ」 その言葉に、小夜子は何重にも驚いていた。もちろん、いきなり「家まで送ろう」にもびっくりしたが、その前に「車が迎えに来る」という感覚が信じられない。でもよくよく考えてみれば当然のことで、社長の息子であり重役である彼は日常的に送迎の車を使っているのだ。そのための専任運転手もいるのだという。 「え、……そんなっ、結構です! 大丈夫です、まだ電車もありますし自分で帰れます」 どうにかお断りしようと慌てて首を横に振ってみたが、それと同時に目の前に黒塗りの車が止まる。ピカピカに磨き込まれたボディー、車体に付いたマークから高級外国車であることが分かった。 「うん、でも通り道だから遠慮しないで。今夜は那須まで行って泊まることになっているんだ。母がしばらく別荘で静養していてね、久しぶりに顔を見たくなって」 白い手袋をした運転手が降りてきて、後部座席のドアを開ける。お先にどうぞと促されて、仕方なく乗り込んだ。その後、幹彦氏が運転席の真後ろのシートに座る。一番事故死亡率の低いと言われているその場所が「社長席」であることは誰かに聞いて知っていたが、実際に意識して用いられている場面を見るのは初めての経験だ。 「お母様、どこかお悪いのですか?」 あまり立ち入ったことを聞いては失礼だとは思ったが、耳にしてしまった手前無視するのも良くないだろう。幹彦様のお母様ということは、他でもない社長夫人という地位にある人である。今の小夜子にとっては全く関わりがないとは言えない相手なのだ。 「いや、母は以前から病弱な方でね。末の妹が生まれてからは床についていることが多くなってしまったんだ。那須には良く行かれるんだよ、本人もとても好きな場所だから年の半分くらいはあっちで過ごすんじゃないかな。他の弟妹はもっと頻繁に会いに行ってるみたいだけど、僕はなかなか時間が取れなくて母を悲しませてばかりだよ」 小さく落とされた溜息が、彼の心情を物語っているようだった。ここまで多忙になってしまうのは決して本人の意志ではない。ただ「次期後継者」という肩書きが彼に重くのしかかっているのだ。 「母は那須にいるときの方が容態が安定するんだ。気分のいい日には土いじりなどもすると言うから驚きだよね。もちろん世話をしてくれている皆は生きた心地がしないだろうけど、やはり母自身が楽しめることが一番大切だと思うんだ」 小夜子は夕方に確認した明日の幹彦氏のスケジュールを思い返した。確か十時に商談がひとつ入っている。それまでには本社にお戻りになるつもりなのだろうか、何とも気ぜわしい限りである。もっと長く側にいたいと思っても、叶うことではないのだ。 「幹彦様はお優しいのですね」 小さな受け答えに、彼はただ無言の微笑みで応えた。 都心から高速を使って小夜子の家から最寄りのインターまでは三十分以上はかかる。那須までならばそのまま乗り続ければよいが、一度一般道に降りて貰わなければならないのも気が引けた。しかし、乗り込んでしまったものは仕方ない。でもこんなことがもしも社内の誰かに知られたらどうなってしまうのだろう。 「今日のスーツもとても綺麗な色だね。君は淡い色がとてもよく似合うなと思っていたんだ、富浦君ははっきりした色味のものを好むから本当に対照的だ」 シャーベットグリーンの上下はフォーマルな雰囲気ながら女性らしさを匂わせるデザインで、初夏にはぴったりの一枚だ。勧めてくれた佐々木の奥様もそう仰ったし、小夜子自身も思った。 「あ、……ありがとうございますっ」 本来ならば「とんでもありません」と謙遜したいところであるが、これは佐々木夫人のくれた一枚だ。彼女の名誉のためにもきちんと礼を述べるべきであろう。 「君のご実家の工場はとても設備が良くて仕事が正確だと佐々木から聞いているよ。今日は遅くなってしまったし突然お邪魔する訳にも行かないけど、今度是非中を見せて貰いたいものだな。そのときは是非、君からも口添えを頼むよ」 ほとんどこちらが説明するまでもなく車は国道から県道に入り、やがて狭い私道の手前で止まった。玄関先でご挨拶をとの申し出には有り難くも辞退する。突然自宅に一籐木の次期社長が現れたら、両親は驚きのあまり気を失ってしまうかも知れない。彼はそんなことはないだろうと一笑したが、決して冗談で申し上げたことではないのだ。 「じゃあ、また明日。おやすみ」 右側のドアから転げ出た小夜子を見送るために、彼は傍らのウインドを開けてくれる。 「は、はいっ。幹彦様もお気を付けて」 ふたりの間を夜風がすり抜けていく。そして夢の時間は終わった。
つづく (080305)
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