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 翌朝、小夜子が目覚めと共に感じたのは、額に当たるひんやりとした空気だった。さらりと乾いて感じられるそれはクーラーの冷気のようにも思えるが、そうではない。サイドテーブルに置いた腕時計で確認するとまだ六時前。そっとカーテンを開けると、窓の向こうにはなだらかな丘に白樺の雑木林、透き通った朝の風景がどこまでも続いていた。
  自分が一体何処にいるのか、そしてその理由は何であるのか。疲れの取れないままの頭で昨日の記憶をゆっくりと反芻する。
「何と言っても都会とは空気の匂いが違いますし、本当に素晴らしい場所です」―― 見知らぬ風景を眺めていると、昨晩の坂田運転手の言葉が蘇ってきた。確かに美しく、まるで別世界に迷い込んだように感じられる。しかしその一方でどこまでもよそゆき顔で、なかなかうち解けてくれないようにも思えた。

 ―― どうして、こんなことになってしまったのだろう……?

 大海原にこぎ出でた行き先の分からない船。自分以外の乗組員たちは腕も確かなベテランばかり、突然の荒れ模様にも毅然とした態度で向き合っている。どこまでも場違いとしか思えないのに、今更降りることも出来ない。何も出来ないからといってただうろたえるばかりであれば、皆の足手まといになってしまう。でも、何の取り柄もない自分に出来ることなど果たしてあるのか。

 

「……え?」

 待機している看護師のあとについて入室すると、予想通り当惑の眼差しに迎えられた。朝の診察を終えたばかりだという彼は昨夜とは違い、身支度も整えすっきりとした姿になっている。それでもまだ、どこかやつれた印象は否めなかった。

「……おはようございます」

 このようなやりとりになることは覚悟を決めていたものの、やはりその場になると躊躇いを隠しきれない。小夜子は俯きがちのままで、昨晩の蓉子とのやりとりをかいつまんで説明した。しかし、ひとこと伝えるたびに声が震え、どうにも格好が付かない。ようやく、これからすぐに須藤氏が訪れることを告げ終えると、彼は小さくひとつ溜息を落とした。

「まあ、……皆が決めたことなら仕方ないね。片岡君も何かと不便だろうけど、よろしく頼むよ」

 その響きからはすべての感情が排除されていて、一体どのようなお気持ちで仰っているのか小夜子には全く分からなかった。やはり迷惑に思われているのだろうか。自分などでは役に立たないと思われているのだろうか。不安のあまりに顔を上げてしまいたくなるが、そんな自分の心内を悟られるのも嫌だった。

「その……、片岡君?」

 一度客室に戻って須藤さんを迎えよう。そう思って退座を申し出た小夜子を、幹彦氏は強すぎない口調で呼び止める。立ち止まった小夜子に、少し遅れて髪の流れが追いついた。

「もしかして、それは道子さんの服かな? 何だか、……いつもとイメージが違うから」

 慌てて、自分の姿を改めてみる。やはり不格好だっただろうか、突然のことで着替えも準備していなかったため坂田の妻の厚意に甘えて彼女のものを借りたのだ。アイボリーを基調とした小花模様のワンピースは年齢を問わず着られる感じであったが、やはり自分には少し大きすぎる。

「やはり、お……おかしいでしょうか?」

 注目されていると思うと、本当に身の置き場がなくなる。しかし、……そのとき。確かに、くすりと低い笑い声が耳に届いたのだ。

「いや、その服は実は僕の母が道子さんにプレゼントしたものでね。そう教えてもらったから覚えていたんだ。おかしくなんかないよ、とてもよく似合っている」

 今、自分はきっと耳の先まで真っ赤になっていることだろう。全く格好が悪いにも程がある。勢いで那須行きを志願してしまったのはいいが、その先のことを全く考えていなかった。もう少し思慮が深い人物であれば、最初からこのような成り行きを予測していただろうに。

「す、すみません。失礼いたします」

 何も自分自身が誉められた訳ではない。確かに仕立ての良い服だなと言うことは袖を通した瞬間に分かったが、一籐木の社長夫人の見立てならそれも当然だ。年齢を問わず誰にでも似合うというのも、一枚の服を大切に長く着て欲しいという願いがこもっているからこそのような気がする。その服がたった今、場違いな使われ方をしてしまった。幹彦様はそのことを内心ではひどく嘆かれているのではないだろうか。
  こういう後ろ向きな考え方しかできない自分が悲しい。この人の前に出ると、我が身がとても貧弱で心許ないものに思われてしまう。それが辛くて、だから出来るだけ離れていようと決めたのに。こうしてまた、思いがけずに近くに来てしまうなんて。

 

◇◇◇


 幸いなことに、その後もの思いに耽っている時間はそれほど多く与えられてなかった。客間に戻ればすぐに蓉子から連絡が入り、昨夜からの本社での動きを詳細に説明される。長いやりとりのあと間違いがないように復唱してようやく電話を切ると、今度は須藤の乗った車が別荘の玄関前に到着した。

「早速だが、すぐに幹彦様にお会いできるかな。昼過ぎには本社に戻らないといけないんだ」

 一通りの挨拶を交わしたあと、勧められたお茶も断り彼は言った。あいにく坂田の妻・道子が近所に出掛けていたため、小夜子が直接奥の部屋へと案内して看護師に取り次ぎを頼む。しばしのやりとりののち、長時間にならないようにと念を押されて面会を許された。

  須藤氏に続いて小夜子も部屋に入る。仕事の話に第三者が立ち入ってはならないから席を外すが、何かあったときにはすぐに呼ぶようにと看護師から言われたのだ。すぐに書類が取り出される。相変わらずびっしりと数字が並んでいるが、幹彦氏は一目で訂正箇所に気付いた。その後、専門用語を交えた説明が続いていく。
  会話のほとんどは須藤氏の間で行われるため、小夜子はその場に待機するのみ。いけないと思いつつもふたりの話が頭の上を通り過ぎていく。具体的な数値が示されても、自分にはそれが何を意味するものなのかさっぱり分からない。ひとりだけ蚊帳の外に置かれた気分がする。

 この部屋は自分のために用意された客間とは異なる方角に窓があるらしい。明るい朝の風景の中、柵の中に放された馬たちがのんびりと草を食べている。果たして彼らは「悩み」というものを感じたことがあるのだろうか。あるがままを受け入れる風景とそこに生きるものたちが羨ましくてならない。

「……あ、片岡君」

 不意に自分の名を呼ばれ、ハッとして向き直る。すぐに視界に心配そうなふたりの眼差しが飛び込んできて、とても恥ずかしくなった。ついぼんやりと、窓の外を眺めていたらしい。瞼の裏にはまだどこまでも続く緑色の残映が残っていた。

「すまないね、こちらの資料を全ページ一部ずつコピーしてもらいたいんだ。手前の部屋にコピー機があるから」

 承知いたしましたと書類を受け取って、そそくさと部屋を横切りドアをすり抜ける。置かれていたのは幸運にも専務室に設置されているものと同じ機種であった。蓉子の話では同様のコピー機であってもメーカーによっては使用手順が大きく異なったりするらしい。一からマニュアルを読まなくてはならないとしたら、どうしても余計に時間が掛かってしまう。
  機械の電源を入れ準備が整うまでの間、他にすることもないままつるりとしたその表面を指で辿った。一籐木の本社ですら、ようやく導入が始まったばかりだという最新機種。それが余暇を楽しむはずの隠れ家に当然のように置かれている。それはすなわち、日本を代表する一族には真に仕事を離れた生活など考えられないのだと言うことを告げているのだ。

 この別荘の管理を任されている坂田の妻・道子の話では、昨日仕事の合間を見て幹彦氏が連絡もなくこちらに訪れたのだという。予定ではまだ滞在していたはずの母親を見舞うのが目的だったらしいが、あいにく彼女は急な検査が入って帰京したばかり。しかもそれが数時間前のことだと言うのだから、間が悪いとしか言いようがない。その後、彼は裏庭から山林に続く道を出掛け、そこで事故に遭ったらしい。

「とくに物珍しい風景というわけでもないのですよ、どうしておひとりでそのような場所にお出でになったのか」

 昼食の支度が整ってもお戻りにならないため探しに出掛けたところ、だいぶ奥まった場所で座り込んでいる彼を見つけたのだとか。特に痛みを訴えることもなく木の枝を杖にしてご自分で歩くことが出来たことに安心してしまい、念のためにと医者の診断を受けるまでは彼女自身もここまで大事だとは思っていなかったらしい。

 ―― どうしておひとりでそのような場所に……。

 幼い頃から休暇のたびに訪れたという思い出の場所。今や押しも押されもせぬ大企業に上り詰めた一籐木も、彼が子供の頃にはまだ急成長の過程にあったはずだ。一攫千金のチャンスを掴むためにそれこそ寝る間も惜しんで働いていた現社長の月彦氏であれば、家族との余暇を楽しむ機会もそう多くはなかっただろう。
  だが、それでもここには家族の歴史が眠っている。何十年も変わることのない風景であれば、その中に幼い頃の自分たちの姿を思い描くのはそう難しいことではないはずだ。やはり彼は、ここに何かを探しに来たのか。

「小夜子君、そろそろいいかな? 急ぎ資料を照らし合わせたいのだけれど」

 また声を掛けられて、ハッと自分を取り戻す。見ると、須藤がドアの向こうから心配そうに顔を覗かせている。
  窓明かりの差し込む部屋で、自分自身も知らないどこかに連れ込まれて行きそうになっていた。慌てて首を横に振って、雑念を振り払う。その頃には複写は全て完了していた。

 

 小一時間も過ぎると、須藤氏は慌ただしくいとまを告げた。和やかな時間もこれで終わるのかと思うと、名残惜しくてならない。だが帰京したあとに仕事のたくさん控えている彼を無理に引き留めることは出来なかった。

「どこか具合の悪いところがあったら、すぐにお医者様に相談するんだよ。でもそんな心配もないようだね、こちらの空気は療養にももってこいなのだろう」

 自分の父親とも言えるほど年の離れた初老の紳士は、小夜子の身体を労りながらそう言った。小さな手を振って車が角を曲がって見えなくなるまで見送ったあと、ふと広い空を見上げる。透き通ったその色は、過去に見たどの色とも違う。懐かしいのか、よそゆき顔なのか、それも判断が付かなかった。

 

◇◇◇


 別荘に戻ると、道子がお茶の支度を整えているところであった。花模様のティーポットになみなみとお湯がつがれ、それをシルバーのワゴンに乗せていく。ああそうか、幹彦様のところに運ぶ分なのだと納得したとき、すぐ側の電話が鳴り出した。
  普段、社内のことであればすぐに飛びつく小夜子であったが、ここはいわば個人の邸宅。その仕事は道子に任せた方が良いだろう。彼女もそれに同意しているらしく、そそくさと受話器を取った。

「はい、……あ、お世話になります。はい、ええ、分かりました。はい……」

 短い受け答えのあと、受話器を戻した道子は少しそわそわした素振りになる。時計を見ながら何かを思案している様子だ。どうしたのだろうかと見守っていると、そのうちにふたりの目が合った。

「あ、ああ、そうだわ。あなたにこちらを運んで頂こうかしら。食材をお願いしている農場の方がこれからすぐに見えるそうなの。私もそれが済んだらすぐに行きますから、それまで幹彦様のお相手をお願いします」

 咄嗟のことに、小夜子は同意の言葉も否定のそれも発することが出来なかった。そうしているうちに玄関先に軽ワゴンが横付けされる。道子は一度振り返ると、そのまま出迎えに行ってしまった。

 ―― いいわ、すぐにいらっしゃると言ってくれたもの。

 しばらくは途方に暮れていた小夜子であったが、いつまでも時間を持て余していればせっかくのお茶が冷めてしまう。あとからあとから、思いがけない出来事が湧き上がってくる。一体それの始まりはいつだったのだろうかと、思い出そうとしても上手くいかない。

 

  わざとのろのろ歩いてみても、慣れてみれば大した距離ではない。あっという間に幹彦氏の休む部屋の前に到着してしまう。そこにはいつも取り次ぎをしてくれる看護師の姿もなかった。

「やあ、すまないね。須藤は無事に戻ったかな」

 声を掛けて部屋に入ると、それまで窓の外を眺めていた人がこちらを振り向いた。やはり小夜子の知っている専務室での顔とは違いすぎる。どこかに心を置き忘れてきたかのような瞳がゆっくりと自分の方を向いて止まった。

「はい、社に到着した後、またご連絡下さるそうです」

 普段使っているお茶道具とはあまりに勝手の違う品ばかりではあったが、幾度か道子が扱っているのを見ていたのでどうやら上手にカップに注ぐことが出来た。明るい色の品の良い紅茶である。茶葉もその用途によって変えるので、たくさんの種類を置いているという話だった。
  サイドテーブルを運び、その上にティーカップと菓子皿を乗せる。一口大のチョコレートや焼き菓子が乗せられたそこにはレースペーパーが敷かれ、道子のきめ細やかな心遣いを感じさせた。

「……で、では。私はこれで失礼します」

 道子には自分が到着するまでのお相手をしてくれと言われたが、どうしてもそのようなことは出来ない。ここまで支度するまでにも必要な問いかけ以外は応えずに始終無言で通していた。その理由まで第三者に告げる気にはなれないが、お互いに気まずい想いで過ごしていることには間違いない。このまま小夜子がこの場所に留まっていては、せっかくのお茶がまずくなってしまうだろう。

 この人がくれる優しさが辛くて仕方なかった。だが、もう二度と与えられることはないと知れば、今度は寂しさに耐えられなくなる。自分自身にも説明の付かない感情が今も心の中で渦巻いていた。須藤氏を相手にしているときの彼は、小夜子が良く知っている社内での顔だった。穏やかで慎み深くて、それでいて親しみやすくて温かで。一度お会いしただけで、その印象が深く心に刻み込まれる。
  あまたの人の心を捉える眼差しに、自分も例外なく引き込まれてしまった。だけどもう、忘れなくてはならない。これ以上、傷が深くなる前に。

「―― 待って」

 ドアの方に向き直って歩き出してすぐ、鋭い声に呼び止められる。立ち止まってから振り向くまで、それが一瞬のことのようにも途方もなく長い時間のようにも感じられた。

「あ、……その。何と言ったらいいのか、こちらとしても困ってしまうのだけど」

 自分の頬が凍るように冷たい。どんなにか怯えた目をしているのだろう。そのことは彼の戸惑う視線が教えてくれた。

「しばらくの間、僕たちは休戦した方がいいと思うんだ」

 てっきり、自分などでは役に立たないから代わりの者を寄越してくれと言われるのだとばかり思っていた。あまりに意外な言葉を告げられて、小夜子は大きく瞬きしてしまう。その後、ようやく焦点を合わせた向こうには、真っ直ぐな眼差しがあった。

「……君の気持ちは分かるけど、こんな風にしていては道子さんに余計な負担が掛かるでしょう。母のときとは違って、僕には付き添いのメイドもいない。病院から派遣されている看護師も夕方には引き上げると言っている。この先、僕と君とのことを気遣って彼女が何もかもをひとりで抱え込んでしまっては、きっとやりきれないと思う。そうでなくても今回のことで、彼女は全てが自分の責任だと思いこんでいるのだから」

 そんなはずはないのにねと、あとに小さく続けて、彼は一度言葉を切った。

「……」

 何か答えなくてはならない、そうは思っても一体どんな風に切り出したらいいのかが分からなかった。すっかりしおれてしまった小夜子をどう思ったのか、幹彦氏は再び口を開く。

「そう長い時間ではないと思う。医師の許可が出れば、すぐにでも東京に戻りたいんだ。いつまでも皆に迷惑を掛ける訳にはいかないからね。だからそれまでの間だけ、僕との間のわだかまりは忘れた振りをしていて欲しい。これは―― 上司としての指示だと思ってくれていいから」

 小夜子はハッとして顔を上げた。いつか見た、やりきれない想いを秘めた視線がそこにある。一体それがどのような場面だったのか、咄嗟には思い出すことが出来なかった。

「わ、……分かりました」

 他にどんな答えがあると言うのだろう。彼は今、自分に対して同意の言葉しか求めていない。もしも異を唱えれば、部下として即刻解雇を申し渡されても当然なのだ。
  幹彦氏と坂田夫妻の繋がりの深さは、彼らのやりとりを見ていればよく分かる。深い信頼の絆で結ばれた相手を気遣うのは当然のことであろう。そのために自分の心を抑え込むことくらい、彼にとっては朝飯前なのだ。

「良かった、分かってもらえて嬉しいよ」

 そのとき、目の前に彼の手のひらが差し出された。一体何事だろうと思ってそれをじっと見つめていると、やがて軽い笑い声が聞こえてくる。

「仲直りの印だよ、約束はきちんと守ってもらわないとならないからね」

 握手を求められているのだと言うことに、しばらく経ってからようやく気付いた。おずおずと腕を伸ばすと、温かい場所にふわりと触れる。その上に、もうひとつの手のひらが重なった。

「僕たちのことは、ふたりだけの秘密だ。だから、他の誰にも気付かれないように、完璧に演じなくてはならないよ」

 

つづく (080607)

 

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