「お疲れのご様子ですね」 穏やかな問いかけに、ハッと我に返った。いつの間にか寝入っていたらしい。体調を心配した運転手から座席をリクライニングさせるようにと言われその通りにしたところまでは覚えている。ゆったりと造られた車内はあまりに心地よく、身体が柔らかく沈み込むシートに身を任せているうちにうとうとしてしまったのか。 「ああ、いいですよ。もう少しで到着しますから、それまでゆっくりしていて下さい」 そうは言われたものの、うっかりと気を抜いてしまった自分が情けなく再び背もたれに寄りかかる気にもなれない。暗い窓の外に目をやれば、車はすでに高速を降りて一般道を走っていた。ライトに照らされた道路脇の林は、青々と葉を付けた白樺。高速道が開通するまではかなりの時間を要したという道のりも今では四時間足らずだと言う。 ―― 本当に、こんな場所まで来てしまうなんて信じられない……。 ほんの数時間前の専務室でのやりとりが、遠い記憶のように思い起こされる。後先を考えず名乗りを上げたものの、自分は病み上がりでようやく再出勤した身の上。蓉子を始め専務室のメンバーが難色を示すのは当然のことで、すぐに別の者が「それならば自分が」と手を挙げた。普段であれば、その成り行きに納得していただろう。しかし、今回に限っては小夜子はどうしても引き下がることが出来なかった。 「分かったわ、そこまで言ってくれるなら片岡さんにお願いしましょう。でもくれぐれも無理はしない様にね。あちらにはお医者様も待機していらっしゃるから、何か変わったことがあればすぐにお伝えして」 三鷹沢室長が不在の今、部屋を取り仕切るのは蓉子である。その彼女が、最後の最後に折れた。それでもまだ、少なからずの不安があったのだろう。彼女は自分の出した決断に迷いを残している様子だった。 「……静かな場所なのですね」 車窓から見える街明かりもまばらで、都内ならまだまだ繁華街がにぎわっている時間にありながらここでは全てが眠りに就いてしまっているように思えた。 「ええ、そうですね。こちらは私が初めて訪れた時分から、街並みもほとんど変わりません。もう二十年ほどになりますか、まだ幹彦様が学校に上がらないほどお小さかった頃ですよ」 バックミラーに映る面差しは、初老の穏やかな紳士のものだった。ぱりっと糊の利いた手袋で握るハンドルさばきはとてもスムーズで、ほとんど揺れを感じず乗り物の中にいることも忘れてしまいそうになる。大会社の重役を乗せる車であるからそのものが立派な造りであることももちろんのこと、やはり運転するその人が一流の腕前なのだ。 「今は暗くてよくお分かりにならないかと思いますが、今はこちらが一番眩しい季節ですからね。何と言っても都会とは空気の匂いが違いますし、本当に素晴らしい場所です。一籐木の皆様がことのほか好まれるのも当然のことだと思います」 小夜子は今一度、窓の向こうを眺めた。しかし暗闇の中には何も見当たらず、その代わりに少し青白い自分の顔が浮かんでいる。入院の間に細くなった輪郭は、まだ完全には戻っていない。それを知っている家族は今頃知らせを受けてどんなに心配しているだろう。でも、やはりこの場所に来たかった。どうしても来なければならないと思った。 「ご安心下さい。幹彦様はとてもお強い方です、そのようにご心配なさらずとも大丈夫ですよ」 ミラー越しに告げられる言葉が、変わらず穏やかな響きで小夜子の元に届いた。
◇◇◇
車が山の裾野にある別荘に到着すると、待ちかまえていたようにドアが開いた。にこやかに迎え入れてくれた女性は、驚いたことに小夜子をここまで運んでくれた坂田の妻だと言う。夫婦で一籐木に仕え、夫人の方は主に別荘の管理を任されていると説明される。「夏の間は妻の方が単身赴任なんですよ」とあとからやって来た運転手が笑いながら告げた。 「あ、あの。幹彦様は、今……」 ドアを入ってすぐの場所がリビングのように造られていた。ここは大勢の客をもてなすためではなく、家族が休暇を過ごす個人的な建物らしい。置かれている家具も相当の値打ちものであることは間違いないが、落ち着いた雰囲気のものでまとめられている。大きな薔薇模様の椅子を勧められたものの、どうしても腰を下ろすことは出来なかった。 「あらあら、そのようなお顔をなさらないで。今は薬で眠っていらっしゃいますけど、もうすぐお目覚めになるでしょう。そうしたら普通にお話になれるということですよ。ただ、しばらくは動くことが出来ないでしょうけど……」 受け答えはあくまでも穏やかなものであった。小夜子が髪を緩く揺らしながら声の主を振り向くと、坂田の妻はおやおやという表情になった。 「まあ、もしかして本社の方には詳しいことが何も伝わっていないのかしら。それならば、仕方ないわ。道中どんなにか気を揉んだでしょうね」 小夜子は黙ったまま、優しい輪郭を見守った。包み込むような笑顔の持ち主は、まるで内緒話でも打ち明けるかのように声を潜める。 「あれほど慎重な方がどうしたのかしら、目を瞑っていても歩けるほどの石段で足を踏み外すなんて。右足首が不全骨折―― つまりヒビが入っていてしばらくは安静が必要との診断です。ご本人はどうしても東京に戻ると仰るので、落ち着いていただくまで一苦労でしたわ」 目の前の風景が一瞬大きく揺れたように感じられた。自分の身体が大きく傾いていることに気付いたのは、その一瞬あと。幸い、床に崩れ落ちる前に坂田の妻の手が添えられ椅子に納まることが出来た。 「足を……お怪我なさったのですか」 実のところ、もっと悪い状況を考えていた。すぐに動けないなんて、相当なことではないかと。そんなこと想像するのも恐ろしくて仕方なかったが、今まで親戚や知人の身に降りかかった様々な災難が次々に思い浮かんでいた。そのどれかをあの方の身に置き換えると考えたら、胸が張り裂けてしまいそうになる。 「ご心配してくださったのね、あなたは何てお優しい方。さあ、気を楽にして。今、温かいものをご用意しましょうね」 柔らかい背もたれに身を預けても、まだぐるぐると頭の中が回っている。恐怖と安堵の色が入り交じって、身体の不安が止まらない。どうにか気分を落ち着けようと額に手をやったとき、出て行ったばかりだと思っていた坂田の妻が足早に戻ってきた。 「片岡さん、幹彦様がお目覚めになったそうです。どうぞこちらへ、ご案内いたします」
ほんのりと照らし出された長い廊下を進んでいった。突き当たりを右に折れて、なおも奥に道は続く。こぢんまりとした山荘風の建物だとばかり思っていたが、そこは天下の一籐木一族の別荘。間口は狭いが奥行きがかなりあるらしい。一体、部屋数はいくつあるのだろう。なるほど、口で説明されただけではとても自力では辿り着けないなと小夜子は思った。 「さあ、こちらです。―― 先生、東京本社の方をお連れしました」 その部屋は、ドアを入るとまたその奥にもうひとつのドアが見えた。そこが寝室になるのだろうか。先を行く坂田の妻が声を掛けると、程なくして内側から看護師らしい女性が顔を覗かせる。彼女はすぐにドアを大きく開けて、中へと招き入れてくれた。 「……」 小夜子は戸口の辺りに立ちつくしたまま、幻影の様な世界を見つめていた。医師の動きに合わせて、壁に映る影が大袈裟に揺れる。微かな話し声の他は物音ひとつしない静寂が辺りをすっぽりと包んでいた。 「……え、どうして……」 その声が耳に届くのと、弱々しい眼差しを感じるのとどちらが先だっただろうか。目の前で繰り広げられる光景が、現実のものとは思えない。まるで、まだ夢の続きにいるようだ。 「書類、……君が持ってきてくれたの?」 慌てて起き上がろうとした彼を、医師が制する。あまり急に動いては身体に負担が掛かるということなのだろう。そのやりとりですら、ぼんやりと霞んでいく。 「は、……はい」 唇が震えて、上手く言葉が出てこない。自分が何のためにこの場所に来たのか、それは十分承知しているつもりだったのに、一体どうしてしまったのだろう。 「こちらです」 そこまで辿り着くまでの足取りは、ひどく不格好なものになってしまったと思う。真っ直ぐに横切ればほんの数歩の距離が、とてつもなく遠く感じる。小夜子は未だに震えの止まらない指先で、手にした封筒から数枚の書類を取り出した。そこに確かな視線を感じる。教えられた通りにきちんと説明しなければと口を開いたが、すぐに柔らかい声に遮られた。 「もともと僕が指示して作らせたものだから。内容は分かっているよ、―― これさえあれば明日は大丈夫なんだね」 医師と看護師に両脇から支えられ、彼はゆっくりと身を起こす。食事用の可動式テーブルの上で、さらさらと見慣れたサインが書き込まれた。 「こんなに遠くまで、本当に申し訳ないことをしたね」 元の通りに揃えられた書類をこちらに返しながら、彼は淡い微笑みを浮かべた。でも、それは小夜子の知っている普段通りのものとは全く違う。今にも消えそうな、頼りない輝きしかない。 「いいえ、そんな」 書類を受け取るその瞬間に、互いの指先がかすった。ひんやりと氷のように冷たい指先。小夜子は俯いて、唇を噛みしめた。ようやくお目にかかれたのに、この人はあまりに遠い場所にいるような気がする。その理由はとうに分かっていた。あのとき、最後に病室で投げつけてしまった自分の言葉がふたりを遠く隔てている。 「その、……幹彦様こそ大変でした。このようなときに押しかけてしまってすみません。この先はどうかごゆっくりお休みになって下さい」 足は痛むのだろうか、他にどこかお怪我はないのだろうか。訊ねたい言葉が、喉の奥で詰まる。もう自分の仕事は終わった、あとは一刻も早くこの書類を本社に持ち帰るだけ。そう分かっているのに、身体が思うように動いてくれない。 ―― 私はただ、幹彦様にお会いしたかったんです。 ふわりと胸に浮かんできた言葉。ああ、そうだったのだと自分自身で納得する。私はこの方にお目に掛かりたかった。ただそれだけの気持ちを抱えて、無理を通してしまったのだ。だけど今、それを口にすることなんて出来っこない。否、今だけでなく―― 遠い未来まで、自分にそのような権利はないのだ。 「では……確かにお預かりします」 元の通りに横たえられたその人に、小夜子はどこまでも深く頭を下げた。伝えきれない気持ちを、どうにかして届けたくて。 坂田の妻は先に戻ったらしい。廊下に出ると人影はなく、ただ自分ひとりの影だけが大きく壁に映っていた。ホッと気を緩めたそのとき、頬にぬるいしずくが流れていく。あとからあとから溢れ出てくる想いを留める術も知らず、小夜子はその場に泣き崩れた。
「ああ丁度良かった、お電話が入っていますよ」 人の気配を探しながら歩けば、戻り道はそれほど難しいものではなかった。明るい光の漏れるドアを軽くノックしてから開くと、坂田の妻が受話器に手を当てながらこちらを振り向く。 「本社の、富浦さんからです」 その言葉に、あっという間に現実に引き戻される。小夜子は受話器を渡されると、一息ついてからそれを耳に当てた。 『ああ、片岡さん? そろそろ到着する頃かと思って連絡してみたの。そちらはどう?』 蓉子の声はかなり緊張していた。小夜子が専務室を出てからの数時間にも様々な出来事があったのだろう。時計の針はそろそろ夜の十一時を回ろうとしていたが、まだ彼女は社内に残っているらしい。 『そう、それは良かったわ。ええ、もちろん坂田運転手には少し休息を取ってもらってちょうだい。書類は会議の時間までに届けばよいのだから、大丈夫よ。それから―― あ、ちょっと待って』 何かを言い掛けたところで、誰かに呼び止められたらしい。部屋にいるのはひとりふたりという人数ではなさそうだ。もしかしたら他の部署からも応援が来ているのかも知れない。すぐに保留音に切り替わってしまったため会話の詳細は分からなかったが、だいぶ混乱が続いている様子だ。 『ごめんなさい、片岡さん。ええと、そう、それでね、今度は明朝に福島の開発現場に出向いている須藤さんがそちらに伺うわ。何でも建坪の件で修正が必要なんですって。あと、先ほど最終便で書留を速達で送ったわ。これは四国の開発事業に対する調査報告の詳細、以前お見せしたものから若干の訂正があったのでそこをご確認いただきたいの。早ければ明日遅くには届くでしょう。それから……』 ひとつひとつ確認しながらメモを取っていくと、あっという間に空欄が埋まってしまう。もしも取りこぼしがあったら大変だ。小夜子はペンを強く握りしめて、蓉子の言葉を一言一句聞き漏らさないようにと意識を集中した。こんなにたくさんの事柄を、別荘に残る坂田の妻に分かりやすく説明できるだろうか。そんな不安が胸に大きく広がってきたそのときだった。 『連絡事項は今のところ以上よ。……それでね、片岡さんは体調に変わりない?』 小夜子が大丈夫です、と答えると受話器の向こうでしばしの沈黙が訪れた。蓉子が何かを思案し、そして躊躇っている。微かな間合いからそんな状況が手に取る様に伝わってきた。 『その……もしも片岡さんさえ大丈夫なら、急で申し訳ないのだけどしばらくそちらに残ってもらえないかしら? 今週の幹彦様のスケジュールは部屋のメンバーで手分けして代理を務めることになったの。でも、もしも打ち合わせなどのときに緊急に幹彦様ご本人にご連絡したいことも出てくるでしょう。そう言うとき、やはり事情がよく分かる人間がお側にいた方がいいと思うの。いちいちご本人を電話口に呼び出すのも気が引けるし、第一お身体の回復にも支障が出てしまうわ。 小夜子はもう少しで手にしたペンを落としそうになった。この場所にしばらく残る? そんなのとんでもないことだ。だけどもしも自分が断れば、蓉子が役割を代わることになる。しかし、彼女には家族があって幼いお嬢さんを抱える身の上だ。身軽な小夜子とは立場が違う。 『片岡さんのご自宅にもこの上どう申し上げていいのか分からないわ。でも……これは社長命令でもあって……』 社長としては、この度のことを専務室に一任すると言ってきているらしい。そのために集めた人材であり、緊急事態にあっても滞りなく対応できるようでなくては重役のサポート役としては失格だと言わんばかり。これには前途洋々と言われたエリート集団が震え上がってしまうのも無理はない。 一体、社長は何をお考えなのだろう。幹彦様は一籐木という大企業の重役であるだけではなく、ご自分の息子であり後継者である人間ではないか。それなのに苦境にあっても手を差し伸べることもなく、それどころか我が子を谷底に突き落とす虎の如く冷たく突き放す。 「―― 分かりました、出来る限りやってみます」 ようやく絞り出した自分の声はひどく震えていた。だが、もうこのあとに一歩も下がることは出来ない。ここで弱音を吐いてしまえばすぐに重責から解放される。しかしその結果、他のメンバーに迷惑を掛けることになるのだ。 また何かあったら連絡を入れる、と告げて電話が切れる。しばらくは受話器を元に戻すことも忘れ、小夜子はぼんやりと蓉子とのやりとりを振り返っていた。おびただしいメモ書き、そして今後自分に課せられた責務。そして、この場所であの方と共に過ごすことになるという事実がようやく胸に広がってくる。鮮明に意識の蘇った部分は、次の瞬間には焼ける様な痛みに代わった。 ―― 明日も、そして多分その次の日も、お目に掛かることになるなんて。 逃げることなど出来ない、もう引き受けてしまったのだから。それに体調のことならともかく、精神的なことをいちいち気に留めている今ではないのだ。そんなこと、自分の中で勝手に思い悩んでいるだけ。他の誰にも関係ない。 ゆっくり顔を上げると、カーテンの隙間から漆黒の闇が見えた。自分の罪の深さを嘆く場所すら、小夜子には残されていない。想いの全ては、胸の奥深くにしまい込むしかなかった。
つづく (080520)
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