TopNovel赫い渓を往け・扉>白い約束・15




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 その瞬間、自分を取り巻く空気が凍り付いた。

 数日ぶりに目の当たりにした大都会。のんびりとした避暑地の雰囲気に溶け込み始めていた小夜子にとって、めまぐるしい時間の流れを感じる空間は一籐木本社へ初めて訪れたその時よりももっと異質なものに映った。本社ビルのエントランスを入ったあとも、こめかみの辺りに感じるたとえようのない違和感を伏し目がちにやり過ごすのがやっとである。
  だから、そのせいだとばかり思っていた。急に何かが変わったような不思議な感覚が続き、警笛にも似たそれは自分が唯一馴染んでいた専務室のドアを開いてからも止むことはない。今日は無理に出勤することはない、このまま一度自宅に戻ってゆっくりした方が良いのではないかという提案は有り難くも辞退した。

 何かが迫ってくる、そんな気がして怖かった。

 

「……え?」

 一通りのねぎらいの言葉を告げたあと、それまでのにこやかな表情が一転し蓉子は鉄の面をかぶったような硬質な顔を見せた。そして再び彼女の唇が動き、事務的に言葉の羅列が伝えられる。しかしそれはほんのひとしずくほども小夜子の耳には届かず、さらさらと風のように彼女の脇から背後へと通り過ぎていった。

 ―― そんな、馬鹿な。

 しばしの空白を心が占めてしまう一瞬前、確かに自分の心がそう呟いた。だが、一体どんな内容の話に対してそういう感情を抱いたのかが思い出せない。普段通りに降り注いでいる窓からの日差し。梅雨の晴れ間の太陽は気が早く真夏の輝きを伝えている。

「ごめんなさいね。大変な役目を任せてしまったばかりか、戻るなりこんな重要なことを伝えなくてはならなくなって。でも日程が差し迫っているだけに、こちらとしてもどうにもならないの。とにかく上の決定は絶対だから。ここは今月末で解散、来月一日付けでメンバーは全て新しい部署に替わることになるわ。残念ながら、ゆっくりと休んでもらう余裕もないわね」

 心配そうに顔を覗き込まれるが、正直周囲に気遣われるほど体調に不安は感じていなかった。空気の良い静かな場所で数日間を過ごすことが出来たことが幸いしたのだろう。退院してから程ないというのに、驚くほどすっきりした気分だった。

「今月末で……この部屋が解散、ですか」

 もっと気の利いた返答が出来ればいいのに、ただ蓉子の言葉の一部をオウム返しすることしか出来ない。何て情けないのだろう、短期間ではあったが一籐木の本社で身につけた仕事に対する姿勢はしっかりと自分の中に植え付けられていると思っていたのに。

「ええ、社長としては前々からお考えになっていたことのようね。考えようによっては当然のことかも知れないわ。やはり幹彦様はひとつのところに長く留まるような立場の方ではないのよ。もちろん周囲の者たちもね、今までも驚くほど短いほどの周期でがらりと顔ぶれが変わることが当たり前だったし。だけど……今回ほど大がかりなことは初めてね。だからそれこそ社内じゅうが戸惑っているの」

 小夜子としても、近い将来に自分が確実にこの場所からいなくなることは分かっていた。前任者が突然退社したことで出来た空席をひととき埋めるだけの人材、もしも適任者が現れたときにはあっさりと席を譲ることになる。それが自分に与えられた立場だったのだから。
  でも、まさか。時を同じくして、この専務室そのものまでがなくなることになるなんて。そんな馬鹿な、これほどに重要なことがどうしてほとんど一週間後に迫った期日に合わせて執り行われるのだろう。しかし、部屋のメンバーは普段と変わらず淡々としたもの。今日も半分以上のデスクが空席で、皆が与えられたプロジェクトに合わせて忙しく立ち働いている。

「三鷹沢室長は幹彦様の直属の部下として数年来やって来たし、この先も長くその関係が続くと誰もが信じていたから。まさかおふたりの関係を断ち切るなんて、予想もしなかったわ。もちろん、室長ほどの逸材であればどんな部署に移っても期待以上の成果を上げることが出来るでしょう。でも……どうしてそのようなことになったのか、室長ご自身も理解できていないみたい」

 彼自身に落ち度があるとは到底思えない。見た目は軽々しく飄々としているように見える室長であるが、その仕事は迅速かつ確実で間違いなかった。どんなに仕事が山積みになっていても独特の余裕を忘れず、一歩間違うと殺伐としてしまいそうな雰囲気を和らげてくれる。その絶妙なさじ加減には、ただただ舌を巻くばかりであった。

「……そう、なのですか」

 小夜子はぽつりと呟いたあと、今は人気のない奥のスペースにふと目をやった。途中、ひどい渋滞に巻き込まれてしまったために、こちらへの到着は会議の始まるギリギリの時間になってしまった。部屋には一歩も足を踏み入れることなく、幹彦様は三鷹沢室長と共に重役室に向かう。痛々しく松葉杖をついているものの、その歩みには危なげなど少しも感じられなかった。
  多分、と小夜子は思う。幹彦様は昨日の朝の時点で、今回のことを知らされていたのだろう。でもそのことをついに口にすることはなく、最後の一日をゆったりとした気分で過ごされた。これだけ周囲の皆が驚き慌てる決定に、当の本人が動揺しないはずはない。だが、全ての感情を彼は自分の胸の内に留めてしまったのだ。

 結局、自分に出来ることなど何もなかった。彼の地にあっても、支えにも癒しにもなれず、それどころか気を遣わせることばかりだった気がする。人としての器を考えれば、それも致し方ないことだと思う。でも、やはり口惜しかった。幹彦様を責めるわけにはいかないが、何故、明日にも分かることをひた隠しにする必要があったのだろうか。そこまで見くびられていたと言うことなのか。

 ―― 否。それもまた違う気がする。

「……あ、それでね。佐々木営業部長からの伝言で、片岡さんがこちらに戻ったらすぐに連絡をくださいって。とてもご心配なさっているご様子よ、那須行きの件も随分驚かれていたし。小夜ちゃんにしては根性があるなって、仰っていたわ」

 ふとした瞬間に陥りそうになる物思いも、蓉子の軽快な言葉が断ち切ってくれる。こんなところでごちゃごちゃ思い悩んでいても駄目。何かを吹っ切るように首を横に振ったあと、小夜子はこの件についてはこれ以上深く考えないようにしようと心に誓った。

 

◇◇◇


  専務室の解散が決まったあとも、見た目は以前と何ら変わりない日常が続いていた。
  メンバーそれぞれが請け負っている各プロジェクトはそれまでと何ら変わりなく進められていく。期限がくれば、次の担当部署にそれぞれ引き継ぐことになるのだが、その行き先もギリギリまでめどが立たない慌ただしさだ。各自のデスクの整理などはしてもらわないとならないが、その他の膨大な資料の整理や移動は全て部屋に常駐している蓉子と大竹、そして小夜子の三人が分担して行うしかない。
  忙しさは時として有り難いものだ。余計な物思いにふける暇もなく、ただ機械的に体を動かしているだけで退社までの時間があっという間に過ぎていく。途中、荷造り紐や紙の端で指を切り、絆創膏の数が二つ三つと増えたが、それは何も小夜子ひとりの失態ではなく他のふたりも同様だった。

 めまぐるしいスケジュールをどうにかこなして家路につくのは、夕方の通勤ラッシュがとうに通り過ぎた時刻になる。しかし幸いなことに家族からのクレームはあまりなかった。心配していないはずはないのだが、この仕事が済めば全ては元通りの生活に戻るという期待が彼らをなだめているのだろう。元より感情をあまり表には出さない大人しい気質の娘であったが、月末が近づくにつれてさらに無口になっていった。
  しばし休息が与えられることで、心の奥に押し込まれていた様々な感情が一気に噴き出してくる。しかしそれを一体どこに逃したらいいのか、小夜子には全く分からなかった。自分の周りの皆が一様に混乱して、それでも目の前の事柄を必死にこなしている。だったら自分もそれに倣うしかないのだ。もう少し、もう少しと自分に言い聞かせながら、不安はさらに大きく膨らむばかりである。

 遅い夕食を終えて部屋に戻ると、これ以上一歩でも動いたら手と足がバラバラになるほどに疲れていた。でも小夜子にはその先にもう一仕事が待っている。丁寧に一枚一枚を薄紙に包んで重しをした十余枚の四つ葉は、気づけばささやかすぎる惜別の贈り物になってしまった。どうにかしてこれを最後の日までにきちんとしたかたちに仕上げなければならない。機会を逃せば、二度と巡り会うことの出来ない人々なのだから。
  頼まれごとで外出したついでに立ち寄った文具店で美しい手漉きの和紙を見つけ買い求めてあった。それを適当な大きさに切って隅に穴を開けてリボンを通し、一枚一枚の葉を丁寧に貼り付けていく。言葉で説明するだけならば単純な作業ではあるが、なにぶん慣れないことでもありひどく気を遣った。それでも不思議と煩わしさは感じられない。一日のうちでは本当にささやかなその時間が唯一の安らぎであった。

 ―― 最後には、全てを忘れることが出来る。

 指先に神経を張り巡らせて作業を続けていると、いつの間にかそんな思考にたどり着いていた。自分でもどうしてなのか不思議になる。だが、無意識のうちに何度も何度も言い聞かせるように反芻しているのだ。忘れる、一体何を、何のために……? 通り過ぎてしまった感覚を取り戻せるはずもなく、小夜子はただ目を閉じる。そしてそこに浮かんでくる状況を必死に振り払うように大きく首を横に振った。

 

「良かったよ、思っていたよりも元気な様子で」

 このたびの大幅な人事異動がもたらした混乱が一籐木の全社に及ぼした影響はあまりに大きく、当事者ではなくともかなりの時間を取られてしまうようだ。普通の時であってもなかなかすれ違う機会もない「佐々木のおじさま」であったが、ここしばらくのスケジュールは誰から見ても尋常ではない。ほんの数分の面会ですら二度三度と先送りになり、そのたびに詫びられるのが申し訳なくてならなかった。

「本当に……なんと言ったらいいのやら。まさかこんな事態になってしまうとは思わず、気軽に声を掛けてしまったことをとても後悔しているよ。小夜ちゃんには大変な経験ばかりをさせてしまったね。もう少しのんびりと過ごせるものだとばかり思っていたのだが」

 自分のことを心から気遣ってくれる言葉たちをひとつひとつ受け止めながら、小夜子はゆっくりと首を横に振った。

「いいえ、そのようなことはありません。自分だけの力では到底叶わないような貴重な経験を数多くさせていただいたと思っています。……ただ」

 お目にかかれたらまずは感謝の言葉を伝えよう、ずっとそう思っていたから準備していた台詞は滞りなく唇から溢れてきた。しかし、そのさきはやはり口ごもってしまう。わずかに俯いた彼女の頬に、滑らかな黒髪がしっとりと流れた。

「ただ?」

 吐息ほどにかすれる言葉に、佐々木氏は反応する。明るいラウンジの一角、テーブルに置かれたカップの中でミルク色の紅茶がゆっくりと冷めていった。軽く唇を噛むと、ちりりと胸が痛む。急に自分の周りの支えが全部消え、心許なくなってしまった気分だ。

「私に、もう少し能力があれば、もっと皆様のお役に立てただろうと思うと……それがただただ申し訳ないです」

 家事手伝いに毛が生えたようなただの田舎娘のやることだ。周囲の皆もそれほどには期待していなかったであろう。実際、基本の「き」の字もよく分かっていない小夜子に蓉子を初め専務室のメンバーは優しい言葉でかみ砕きながらひとつひとつの事柄を丁寧に教えてくれた。「分からない」ことが当然であったから、許されたことである。
  このようなことを口にするのはやはりはばかられる。でも、長年家族同然に接してくれてきた「佐々木のおじさま」にはつい押さえ込んでいた本音が顔を出してしまった。

  思えば、幼い頃からどんな場面でも人から外れないように出過ぎないようにとばかり考えて来た。もしかしたらもう少し頑張れるかな、という余力があっても何となく押し込めてしまう。その方がきっと全てが上手くいく、無理をして面倒ごとに巻き込まれることはない。
  周囲の皆から外れて目立つことがたまらなく恐ろしかった。そんな風にしてたとえ結果がかんばしいものであったとしても、その時に自分に向けられる視線を考えたら気後れしてしまう。期待されることも蔑まれることも回避して、ただただ平穏な人生を送りたかった。そんな後ろ向きの思考が身につきすぎた自分が今はとても恨めしい。

 ―― 一籐木本社。

 ここに携わる全ての人々は、幼き頃から類い希なその才を認められて、さらに努力を惜しまなかった言葉通りに「選ばれた」者ばかりだ。同じ場所で働いていても才能の差を始終見せつけられ、そのたびに頭から冷水を浴びる心地がした。でも、逃げるわけにはいかない。このたびのことを引き受けたのは他ならない自分自身なのだから。

 でも、今少し。今少しの能力が自分にあればと、どうにもならない後悔ばかりが心に涌いてくる。こんなにも自身のことを不甲斐なく思ったことは今までになかった。少しでも努力したいと思っても、その方法が全く分からない。たとえそれを誰かに教えてもらったところで、今更どうにもならないのだが。

 ふわりと、肩先が温かくなる。その場所を見れば、佐々木氏の大きな手のひらが置かれていた。

「駄目だよ、そんな風に考えていたら。小夜ちゃんは小夜ちゃんに出来ることをすればそれでいいんだ。今いる場所がどこだからとか、周囲の人々がどうだとか、そう言うのは関係ない。ただ、君が君であること。私はそれだけが大切だと思うよ」

 恐る恐る顔を上げて、その人の眼差しと向かい合う。年輪を重ねた面差しは揺るぎない自信に満ちている、しかしその奥にある瞳はどこまでも優しかった。

「自分を過小評価するのが、小夜ちゃんの悪い癖だね。君があまりそんな風でいると、周囲の人たちに余計気を遣わせてしまうことになるよ。それじゃあ、自分にとっても相手にとっても良い結果にはならないだろう」

 しっとりと諭されたものの、返す言葉はどうしても思いつかなかった。ただひたすらに胸が痛い。自分に出来ないことばかりを思い知らされて絶望に打ちひしがれる日々。そうであっても容赦なく朝は訪れ、また忙しい一日に追い立てられる。焦りばかりが胸に溢れ、感情が収集できないままであった。

「小夜ちゃんを推薦したのは私だよ。ただの知り合いと言うだけで適当にあてがったとは思われたくないな。これはあくまでもビジネスのひとつだ。社長から話を切り出されたときにすぐに小夜ちゃんのことが浮かんだのは、長年培ってきたひらめきだと思いたいね。そう、この場所で小夜ちゃんらしくいて欲しかったんだ。そんな風に縮こまっている臆病な姿は、本来の君ではないのだよ」

 優しい眼差しの奥にある強い光を、小夜子は今までにない不思議な気持ちで感じていた。こんな風に言い切られたところで、すんなりと答えが生まれるはずもない。結局は何ひとつ変わらないのだ。だが、どうしたことだろう。自分の中で確かに今までとは違う感情が生まれかけている。

 ―― 私が、私であること……?

 心理学のように難解でなぞめいた言葉が、小夜子の中にしっかりと息づいた。だからといって、突然飛躍的に何もかもが改善されることはない。迷いの全てが消えることもなかった。

 

◇◇◇


 日を追うごとに渦巻く後悔の念。その一番根本的な部分にあるものを、小夜子は承知していた。誰よりも一番に心を穏やかに休めて欲しかった人、その人のために何も出来なかった自分が中途半端な存在として残されている。

 だが、またもうひとつの真実も逃れようはない。ここは那須の別荘地ではない、大都会の一流企業の本社ビルの一角だ。小夜子の想うその人の周囲には自分など足下にも及ばない優秀な人材ががっちりとガードを堅め、かけがえのないただひとりを守っている。だから、何も心配することないのだと思う。それなのに何故、心がそこから離れることが出来ないのだろう。
  もちろん、同じ空間で働く者としての必要最低限の会話はしている。伝達事項などを直接お知らせすることもあった。でもそれは、今の小夜子にとってはあまりに寂しい距離感である。よくよく考えてみれば、依然と少しも変わらないはずなのに、どうにも心許なく物足りない。

 ―― 何故、あのとき。もっとたくさんのお話をさせていただかなかったのだろう……?

 佐々木のおじさまの言葉ではないが、もうしばらくは静かな時間を過ごせるものだとばかり思っていた。その間に自分の出来る限りのことをしよう、そう思ってこの地に戻ってきたのである。しかし、もう全てが遅い。今更時計を逆に回し、過去に戻すことは出来ないのだ。
  こんなこと、本当に情けないばかりの自分の身勝手な考え方だと思う。他の誰も、そして当のご本人でさえもそのようなことを望んではいないのに、何て往生際が悪いのだろうか。もちろん多くは望まない、でももう少しの間お側にいたかった。そうして得るものは自身の自己満足でしかないことは分かっている。でも、このまま終わるのはやはり悲しい。

 そうは言え、かの人が自分にとってあまりに遠い存在であることには変わりない。どんなに努力したところで、今更近づくことなど不可能。せめてこうして同じ場所に身を置けることだけでも幸せに思わなくてはならないだろう。

 悔しさが、やるせなさが、絶えず心の中で満ち引きする。こんな浅ましい感情、絶対に周囲には悟られたくない。それどころか、自分の中に湧いてくるこの気持ちすらおぞましい。どうか早く解放されたいと思う。でも、そうなってしまったら、今抱いている数倍も数十倍もの寂しさが襲いかかってくるに違いない。

 ―― 忘れなければ。どうにかして、この想いを消し去らなければ。

 幾度となく覚悟を決め、でも最後の最後で決心が付かずに曖昧に過ごしてしまう。こなさなければならない仕事はいくらでもあり、そこに身を置いているだけで精一杯であるはずだ。実際、最後の数日のスケジュールはおよそ人間のちからではさばけるものではなかったと思う。書類を手にした瞬間に、その振り分け先を判断する。そうしているうちに新しいものがまた手渡されて来るのだ。

「行ってらっしゃいませ」

 ここを去れば、二度と巡り会うことは叶わない。松葉杖に助けられながら不自由な片足を引きずる背中を見送りながら、これが永遠の別れになるのかも知れないと毎回のように思った。以前と少しも態度を変えず穏やかすぎる人を恨むことなど出来ない。そんなの、筋違いもいいところ。分かってる、全部分かってる。

 息をつく暇も忘れるほどに慌ただしい時間の中で、ふと何かに呼ばれた気がして手を止める瞬間がある。顔を上げれば、大きな窓から見えるのは遙か下に見える大都会の風景。初めの頃よりは身近に感じるようになったそれとも、もうすぐ会えなくなるのだ。

 そして、この景色を今後もずっと気が遠くなるほどに眺めていく人がいる。

 

◇◇◇


 別れの一日は、おあつらえ向きの雨空だった。

 絶えず緩い雨音が窓の向こうで響き、湿っぽい風景がどこまでも続いている。最初の日の、あの明るい日差しは一体どこに行ってしまったんだろう。自分の心と同じ色に空もまた泣いていると小夜子は感じていた。

「俺は総務の方に戻ることになったんだ。もともとはそっちの担当だったしね、でも有意義な経験をさせてもらったと感謝してるよ」

 空っぽになった部屋をあとにして、メンバーが顔をそろえてのささやかな食事会。それは専務室全体の解散式と言うよりは、小夜子ひとりのために開かれた送別会であるように思われた。手渡された花束はこぢんまりとまとめられ、これから電車に揺られて帰路につく彼女への温かい気遣いが感じられる。

 隣の席に着いた大竹がそう告げたことがきっかけとなり、その場にいた皆が口々に自分たちの新しい職場についてを語り出した。そうしてみると、今更ながら個性豊かなメンバーが集められていたことに驚かされる。でも昨日まではその存在すら知らなかったお互いも、揺るぎない想いがあったからこそ迷いなく志を共にすることが出来た。

 ―― でも。

 ただひとり、その席にいない人がいた。それを寂しいと思ってはならない。正直、彼以外の全てのメンバーがこうして予定をそろえてくれるとは思わなかったのだから。こんな風に大切にされて、本当に有り難いことだと思う。

「でも、このまま元の仕事に戻ってしまうなんてもったいないわね。せっかく色々覚えてきたのだもの、もうしばらくここに残れば良かったのに」

 そんなもったいない言葉を掛けてくれたのは、社長室秘書のひとりとして抜擢された蓉子である。元々別の重役秘書を務めていた彼女にとってまさに機が熟した、ということなのだろう。

「いいえ、これは初めから決まっていたことですし」

 自分さえ望めば、道が拓けるかも知れないという期待は確かにあった。だが、そんな風に先送りにしたところで結局は同じ結果しか得られないと思う。

 皆、最後までとても優しかった。それだけではない。ギリギリになって慌ててもいけないと思って昨日のうちに渡した四つ葉のしおりもとても喜んでもらえた。もちろん、そこには田舎育ちの娘の気持ちを大切にしようという気遣いもプラスされていたのだろう。でも、言葉にして感謝されることはやはり嬉しい。

「名残惜しいけど、そろそろお開きにしないといけないね。よし、僕が途中までお姫様をエスコートしよう。ラッキーなことに同じ路線だしね」

 三鷹沢室長の言葉で、楽しい時間は終焉を迎えた。いつかは誰かが切り出さなくてはならないこと、その役回りを務めるのはいつも彼である。何も気にせずに飄々と見えるが、ここまでさっぱりと切り抜けるためには色々と気苦労もあるのだろう。

 

「本当に……最後までお世話になりました。私、その……」

 ふたりきりになって、ふと会話が途切れる。こんな場面では普段よりもずっと沈黙が怖い。何か話題を提供しようと思っても、浮かんで来るのはつい数分前に優しい人たちに最後に告げたものと何ら変わらないものだった。
  室長の性格からいって、こちらが押し黙っていてもやんわりと切り抜けてくれるだろうと言う安心感はあった。でも、ほんの数秒の間合いにすら怯えてしまう。

 あとに言葉をつなげたくても、上手に出てこない。無理をして絞りだそうとすれば、そのまま涙声になってしまいそうだった。駄目だ、湿っぽくなっては。明るく、当たり前のようにおしまいにしなければ。

「あのね、実はメッセージを預かっているんだ」

 戻ってきた言葉は澄み渡った夏空のように明るく、俯いたままでいた顔を思わず上げてしまうほどのすがすがしさだった。

「……メッセージ、ですか?」

 予想もしないひとことにぼんやりと佇む小夜子の両手に、白い洋封筒が置かれた。封はされていない。その隙間からちらりとのぞいた中身を悟ったとき、思わず小さな叫びを上げそうになった。

「君に、渡して欲しいって。何のことなのか、僕にはさっぱり分からないけどね」

 

つづく (081110)

 

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