「思っていたほどのものでもないでしょう、どこまで行っても同じ風景ばかりで退屈してしまったんじゃない?」 車椅子に乗った人が、さり気なく話しかけてくる。久しぶりに屋外に出たことで、その声も心持ち明るく聞こえる気がした。 「いいえ、そのようなこと。どちらを見ても、とても美しいです」 舗装されていない山道だと聞いて車輪の進みにくい道だったらどうしようかと出掛ける前は心配だったが、今のところは上手に誘導できている。もともとこの辺りは療養地として利用されることが多かったから、その辺の手入れはぬかりなくされているのかも知れない。腕力にはあまり自信がある方ではなかったので、内心ホッとしていた。 散歩に誘ったのは小夜子の方だったが、いつの間にか話が大きくなり気付けばランチ付きの遠出になってしまった。それなりの服装でなければならないのかと心配になり訊ねると、別に普段通りの格好で構わないと言われる。 「仕事の途中で立ち寄って、そのままの服装で歩いて行けるくらいの場所だから。靴もヒールの極端に高いものではなければ大丈夫だよ」 とはいえ、手持ちの服や靴はここに着いた当日に身につけていたものだけ。今回もまた動きの楽なワンピースを道子から借りることになった。若草色にモスグリーンのチェック柄。のんびりとした風景にはお似合いの一枚だが、自分がまとうと少し大きめなせいもありひどく野暮ったく見える気がする。 ―― 外歩きの介助をするだけのつもりだったのに……。 目的地はそう遠くない場所だと聞いていたが、実際にはどれくらいの距離なのか分からないだけに不安になる。彼の膝の上に置かれたランチボックスには、ふたりではとても食べきれないほどのお弁当が詰まっていた。 「こうして眺めていると、昔から何も変わっていないように思えるけどね。それでも、当然のことながら少しずつ土地の様子も変化しているみたいだ」 今は綺麗に刈り込まれている原っぱも、以前は何十頭もの馬が放牧されていた。彼らがなだらかな斜面を気ままに走り回ったり草をはんでいるのを眺めているだけで、何時間も飽きずに過ごすことが出来たという。時代の流れと共に姿を消していった風景が、今もなお彼の脳裏には鮮明に焼き付いているのだ。 ―― 否、違う。今置かれた立場も、決して彼自身が望んだものではないのだ。 「さあ、先を急ごう。もう少し早く出発できると良かったのだけれど、……申し訳なかったね」
小夜子が身支度を整えて玄関前の部屋に向かうと、幹彦氏は電話の応対の最中であった。何か込み入った内容らしく、話はなかなか終わらない。この電話は彼が丁度前を通りかかったときに鳴り出したのだろうか。キッチンにいた道子に訊ねてみたが、彼女にも電話の相手は分からないと言われる。ほどなくして電話は切れたが、その内容について彼の口から告げられることはなかった。 「私たち専務室の人間にとって大切なことはね、ただひとつ。ボスである幹彦様が気持ちよく仕事が出来るような環境を整えることだけなの」 一籐木本社に初めて足を踏み入れたその日のことを思い出す。あのとき上司となった蓉子は確かにそう言った。しかしメンバーの皆が頑張れば頑張るほど、彼自身の仕事は確実に増えていく。プロジェクトの成功と引き替えに人間らしい生活を削り命を縮め、そしてさらに走り続けることを要求される。 ……それに。もうすぐ、私はこの方の元から去っていく人間なのだから。 その日が一日も早く訪れるようにと願った日もあった。しかしそれは決して本心からではなく、気づきかけた想いに蓋をしてしまうための方法だったのである。何も出来っこない、だから目を瞑って通り過ぎるのだと自分に言い聞かせるのに、いつの間にかまた薄目を開けてしまう。諦めの悪すぎる己が嘆かわしくて仕方ない。
「この道を右に折れてもらえる? ここまで来れば、程なく到着だよ」 すぐに薄暗くなる小夜子の心とは裏腹に、幹彦氏の声はいつになく晴れやかだった。澄んだ空にそのまま溶けていきそうな言葉は、彼自身が今日の外出を楽しいものにしようという決意の表れにも思える。多分、心内では仕事のことで気になることがたくさんあるのだろう。しかしそれを微塵も感じさせないのが、この人の度量である。 ―― 今日は、今だけは自分の気持ちを信じてみよう。 何度目かの決心を心の中で呟く。鮮やかな夏色の風景たちが、そんな小夜子を遠くから静かに見守っていた。
◇◇◇ 「……すごい」 見渡す限り、花、花、花。色とりどりの野の花が咲き乱れ、奥の方まで広がっている。そこここでミツバチたちの羽音が響き渡り、柔らかい葉先にはテントウムシがちょこんと止まっていた。 「ふふ、驚いたでしょう。ここは僕たち家族の秘密の場所なんだ、もっとも最初に見つけたのは母上なんだけどね。……ああ、久しぶりだな。先日はここまで辿り着くことが出来なかったから」 白爪草にれんげ草、その向こうに見える名前の分からない黄色い花は高山植物の一種なのだろうか。近頃ではこんな風に自然のままに残された野原を見ることもなくなった。何だか懐かしいような目新しいような不思議な気分になる。 「片岡君」 どれくらいの時間、ぼんやりと目の前の風景を見つめていたのだろう。不意に名前を呼ばれて、ハッと我に返る。振り向けば、そこには変わらない優しい笑顔があった。 「悪いけど、ちょっと手を貸してもらえるかな? 少し松葉杖の練習をしたいんだ」 専門のスタッフが派遣されてのリハビリは、数日前から行われていた。もともと飲み込みの良い方のだろう、今ではほんの少し手を添えるだけで真っ直ぐに立つことが出来る。石膏で固定されている右足を地面から少しばかり浮かせて、一歩、また一歩と前に出る。普段通りに歩くのと比べたらいささか心許ないものの、これだけ自力で移動することが出来れば車椅子を使うよりもよほど気が楽だろう。 ゆっくり確実にご自分で感触を確かめながら進んでいく背中を、小夜子はただ静かに見守っていた。何かあればすぐに手をお貸ししなければならないが、あまり先回りして心配しすぎてもご自身のためにならない。柔らかな風が通りすぎるたびにむせかえるような花の香りが辺りに漂い、その刹那ふわりと気が遠くなる。 ここにいると時間の概念がなくなってしまう。そして追いかけてくる仕事もない。急な電話の呼び出しも、突然の来訪者も存在しない。 広すぎる空、遠すぎる風景。何もかもが非現実過ぎすぎて、気が遠くなりそうになる。だが、これも事実。昨日から明日へ続くそのつなぎ目の今日という一日だ。二度と戻ることのないこの瞬間を心ゆくまで楽しもうと彼が思うのなら、小夜子としてもその願いに喜んで手を貸したい。 「幹彦様」 ふと目をそらしたうちにあっという間に遠のいていた人に呼びかける。振り向いた笑顔には、自然な笑みで応えることが出来た。 「そろそろお弁当を広げましょう、こちらまでお戻りいただけますか?」
道子の腕によりを掛けたランチを前に、ふたりでたくさんの話をした。 「そうだね、片岡君を見ているといつも温かいご家族の存在が背後に感じられるよ。たくさんの笑顔の中で育ってきたんだなって、そんな気がする」 さり気なく落とされた言葉に、ハッとする。気付かずに通り過ぎることも可能だったのに、その一言がひどく大きく心に響いた。 「……そんなこと、ありません。本当に、ごくごく普通の家族です。特別のものなんて、何もありませんから」 もしかしたら思い出を美化して話しすぎたのではないだろうかと、急に気恥ずかしくなる。しかし、幹彦氏は軽く頭を振ると、もう一度念を押すように告げた。 「いや、気がつかないほど自然なことが一番大切なんだと思う。意識して家族でいるなんて、やはり間違っているような気がするからね」 その言葉に秘められた想いを小夜子が全て汲み取ることは不可能だった。だが、多少は想像することが出来る。彼の父親はあの社長だ。息子がどんな苦境に立たされようと容赦なく冷静な判断を下せる方。それは大企業にとっては不可欠な切り札であるのだろうが、ひとりの人間として子供の父親としてはいささか冷酷すぎる気がする。 血を分けた身内同士が争い合うことなど、この上なく悲しい出来事である。表面上は平静を保っていても、面の皮を一枚剥いだ部分ではどろどろとおぞましい欲望が渦を巻いているのだ。そう言う状況を楽しめる性格なら良いだろうが、もしも違った場合は人知れず苦悩を味わうことになる。 「……そう、ですね。やっぱり私は恵まれているんだと思います」 家族は、両親も祖父母も兄や姉も、皆自分を庇護してくれた。何か困ったことがあれば、口に出す前から顔色でそれを察し温かく手を差し伸べてくれる。皆が自分よりも年長であったから、彼らの言葉に従ってさえいれば危ない橋など渡る機会も訪れなかった。 ―― しかし。 その考えが、どこか窮屈であることにいつか気づき始めていた。家族と自分との気持ちにすれ違いを感じ始めたその頃から、確実なものと思っていた理想郷が崩れ始めている。そちらに手を伸ばしてはいけないと頭では分かっている、早く戻らないと取り返しの付かないことになると自分に言い聞かせるのにどうしても上手くいかない。 「でも……私としては、自分が一番正しいと思った方向に進めることが大切だと思えてならないんです」 思いがけず一籐木の本社に出向くことになって、今まで当然のことと信じていた価値観が揺らぎ始めた。あの場所には自分というものをしっかりと持って確実に歩み続ける人たちがたくさんいる。皆希望と自信に満ち溢れ、大きな障害にぶつかったとしてもどうにかして乗り越えようとする野心を備えていた。しかも置かれた状況を気負うことなく、楽しんで続けている人たちばかりである。 小夜子の言葉を受けて、幹彦氏はその日初めて意外そうな表情に変わった。ほんの一瞬の間ではあったが、彼自身がひどく驚いたことは確かである。柔らかい前髪が揺れ、長いまつげが微かに震えた。 「そう、……それも正しい意見であるね」 何かもっと伝えたいことをその奥に秘めた、ひどく曖昧な受け答えであった。それを聞いて、小夜子は初めて自分の発した言葉の強さに気付く。にわかに鼓動が早くなり、走り始めた感情をこのまま胸奥に押しとどめるのが難しく感じられた。 「いっ、いえっ! ちょっとおしゃべりが過ぎました。すみません、こんな面白くもないことを……」 自分が恥ずかしくてならない。どうしてこんなちっぽけな存在でありながら、何もかもを見知ったような生意気な口を利いてしまったのだろう。きっと幹彦様も呆れていらっしゃるに違いない。お優しい方だから直接言葉には出さないが、心内では何も知らない小娘が飛んでもないことを言い出したと思っていらっしゃるだろう。 「ええと、……その。……あ、こちらを見て下さい!」 苦し紛れに視線を泳がせて見れば、草むらの中に偶然四つ葉のクローバーを発見した。急に話題を変えて申し訳ないが、何だか重苦しい空気になってしまったし、このままでいるよりは少しはマシである。そうして眺めているうちに、一枚、また一枚と新しいものを見つけることが出来た。 「すごい、こんなに一度に見つけたのは初めてです。これだけ広いのだから、探せばまだいくつもありそうですね。ああ、そうです。せっかくだから専務室の皆さんへのお土産にしましょう。押し花にしてしおりにすれば素敵です」 驚き顔を隠せない幹彦氏をあとに、小夜子は花の咲き乱れる野原に飛び込んでいった。どれも同じように見えるクローバーの葉だが、じっと目をこらしていると他とは違う一枚を見つけることが出来る。細かい作業は大好きだから、このような単調な探し物も得意であった。 「片岡君、そんなに根を詰めちゃ駄目だよ。とっくに忘れているかも知れないが、君自身も病み上がりの身の上なのだからね。全員分なんて欲張る必要はないから、適当なところで終わりにした方がいい」 そんな風に言われても、かなり効率の良い仕事なのでなかなかこの辺でと見切りを付けることは出来ない。ひとつ見つけると幹彦氏の座る場所まで届けに行き、また別の場所へと探しに出る。そうしているうちに何を言っても無駄だと諦めたのだろう、いつの間にか彼自身も草原をかき分け始めた。昼下がりの穏やかな日よりの中。しばらくはかさかさと草のこすれ合う音だけが辺りに響いていた。
「ほら、もうだいぶ集まったよ。そろそろ戻った方がいいかも知れない。夕方にもリハビリの指導員が来ることになっているからね」 そう声を掛けられたのはどれくらいの時間が過ぎてからだろう。ハッと我に返ると、日はだいぶ西に傾いて風の匂いも変わってきている。そう長い時間を過ごしたつもりもなかったが、もう夕暮れが近づいているらしい。 慌てて幹彦氏の元に戻ると、彼はふたりで集めた四つ葉をハンカチの上にひとつずつ丁寧に並べているところだった。 「……全部で十二枚。すごいね、よくこれだけ集めたものだ」 その言葉を聞いて、小夜子はとても嬉しくなった。こんな偶然、なかなかあるものじゃないと思う。 「良かった! 見て下さい、これが今見つけた十三枚目。これで皆さんの分が全部揃いましたよ!」 この上ない達成感に頬が熱くなる。しかし、笑顔で見上げた彼の表情は自分と同じものではなかった。 「……片岡君、これではひとり分足りないよ? ウチのメンバーは全部で十四人だ」 その言葉には今度は小夜子の方が驚く番だった。瞬きをいくつか繰り返したあと、当然のように告げる。 「え、十三でいいですよ。だって、私の分は初めから入ってませんから。これは、私から皆さんへの幸せのお裾分けです」 何でこんな当たり前のことをわざわざ説明しなくちゃならないのだろう。そんな考えが胸をかすめていた。 「私、短い間ではありましたけど、本当に皆さんに良くしていただきました。残念ながら力不足で期待されるだけのものを返すことは出来ませんでしたが、それでも気持ちだけでも。……私のこと、皆さんが少しでも長く覚えていて下さったら嬉しいのですけど」 それはちょっと期待しすぎかなと、言い終えたあとで少し気恥ずかしくなった。自分が去ったあとに何かを残そうなんて、ちょっと虫のいい話かも知れない。でも、やっぱり、このまま思い出の全てが消え去ってしまうのはやはり寂しかった。 「ほら、この一番大きいの。葉っぱが六枚もあるんですよ? こちらを幹彦様に差し上げましょう、きっと幸せがたくさんたくさん舞い込んでくるはずです」 これはただのおまじないでしかない。確かな裏付けなんてあるはずもないし、四つ葉という存在そのものが突然変異で現れただけのものだと聞いたこともある。でも今はまやかしでも何でも、信じていたかった。たとえ手に届かない幸せであっても、願う間は心が軽くなれるから。 「……片岡、君……」 そのときの彼の顔を、もっとゆっくりと眺めていたかった。だが、次の瞬間。小夜子はそれまで感じていた花の香りから引き離され、逞しいぬくもりの中に包まれてた。 「どうして、……どうして、君は。……どうして、いつも……」 彼の腕は、声は、激しく震えていた。突然の出来事に小夜子は言葉を失い、どう反応していいのかも分からなくなっている。しかし、この場所は温かい、そして深く吸い込まれて行きそうだ。まるで、今頭上に広がる青空のように。 「……小夜子……」 どこか遠くで、自分の名前を呼ばれている、そうは思っても返事が出来ない。もしもひとこと言葉を発したら、その瞬間に全ての夢が覚める。何故かそう思えてならなかった。
◇◇◇ 結局、ふたりが帰路についたのは、それからだいぶ時間が経ってからであった。 「社長から直々に電話があってね、何でも急に大幅な人事異動が決まったそうなんだ。その席に僕がいないわけにもいかないし、まあ……長い休暇が終わったということかな」 心ごと、花野に置いていけばいい。永遠の場所をあとにして、ひとつの別れが訪れることを小夜子は確かに予感していた。
つづく (080812)
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