TopNovel赫い渓を往け・扉>白い約束・14




1/2/3/4/5/6/7/8/9/10/11/12/13/14/15/16

          


「一点の曇りもない青空」とはこのような様子を示した言葉だったのだ。イメージだけで捉えていた情景を目の当たりにして、小夜子は自分の貧弱な想像力を心底恥ずかしく思った。
  透明なキャンバスにムラなく伸ばした水色は、吸い込まれそうに高く天全体をすっぽりと覆っている。その下に広がる風景もくっきり鮮やかに浮かび上がり、どこを四角く切り抜いてもそのまま美しいポストカードになりそうだ。白樺の並木、続いていく遊歩道。なだらかな山肌には季節の花がそよぎ、涼しい高原の風を見送っていた。

「思っていたほどのものでもないでしょう、どこまで行っても同じ風景ばかりで退屈してしまったんじゃない?」

 車椅子に乗った人が、さり気なく話しかけてくる。久しぶりに屋外に出たことで、その声も心持ち明るく聞こえる気がした。

「いいえ、そのようなこと。どちらを見ても、とても美しいです」

 舗装されていない山道だと聞いて車輪の進みにくい道だったらどうしようかと出掛ける前は心配だったが、今のところは上手に誘導できている。もともとこの辺りは療養地として利用されることが多かったから、その辺の手入れはぬかりなくされているのかも知れない。腕力にはあまり自信がある方ではなかったので、内心ホッとしていた。

 散歩に誘ったのは小夜子の方だったが、いつの間にか話が大きくなり気付けばランチ付きの遠出になってしまった。それなりの服装でなければならないのかと心配になり訊ねると、別に普段通りの格好で構わないと言われる。

「仕事の途中で立ち寄って、そのままの服装で歩いて行けるくらいの場所だから。靴もヒールの極端に高いものではなければ大丈夫だよ」

 とはいえ、手持ちの服や靴はここに着いた当日に身につけていたものだけ。今回もまた動きの楽なワンピースを道子から借りることになった。若草色にモスグリーンのチェック柄。のんびりとした風景にはお似合いの一枚だが、自分がまとうと少し大きめなせいもありひどく野暮ったく見える気がする。
  傍らにいる人が何を着てもすっきりと似合ってしまうだけに、何とも気恥ずかしい。今日の彼は綿のシャツにゆったりめのスラックスといういでだちでくつろいでいるものの、やはり気品があり常人とはどこか違って見える。

 ―― 外歩きの介助をするだけのつもりだったのに……。

 目的地はそう遠くない場所だと聞いていたが、実際にはどれくらいの距離なのか分からないだけに不安になる。彼の膝の上に置かれたランチボックスには、ふたりではとても食べきれないほどのお弁当が詰まっていた。
  東京本社での皆のことを考えたら、こんな風にのんびりしているなんてとんでもないことである。こんな風にしているうちにも急ぎの電話が来たらどうしよう。そう考えているうちにも一籐木の別荘はどんどん遠くなる。

「こうして眺めていると、昔から何も変わっていないように思えるけどね。それでも、当然のことながら少しずつ土地の様子も変化しているみたいだ」

 今は綺麗に刈り込まれている原っぱも、以前は何十頭もの馬が放牧されていた。彼らがなだらかな斜面を気ままに走り回ったり草をはんでいるのを眺めているだけで、何時間も飽きずに過ごすことが出来たという。時代の流れと共に姿を消していった風景が、今もなお彼の脳裏には鮮明に焼き付いているのだ。
  少しずつ変わりゆく全てを、止める術もないままに口惜しく思う。端から見れば、何の不自由もない身の上。望むもの全てを手に入れ、さらに高みを目指すという時代の申し子にも叶わぬ夢は確かにあるのだ。

 ―― 否、違う。今置かれた立場も、決して彼自身が望んだものではないのだ。

「さあ、先を急ごう。もう少し早く出発できると良かったのだけれど、……申し訳なかったね」

 

 小夜子が身支度を整えて玄関前の部屋に向かうと、幹彦氏は電話の応対の最中であった。何か込み入った内容らしく、話はなかなか終わらない。この電話は彼が丁度前を通りかかったときに鳴り出したのだろうか。キッチンにいた道子に訊ねてみたが、彼女にも電話の相手は分からないと言われる。ほどなくして電話は切れたが、その内容について彼の口から告げられることはなかった。
  結局、彼が仕事から百パーセント切り離されることは不可能なのである。そもそも全てから解き放たれた自由な生活など、彼自身が願うとも思えないが。

「私たち専務室の人間にとって大切なことはね、ただひとつ。ボスである幹彦様が気持ちよく仕事が出来るような環境を整えることだけなの」

 一籐木本社に初めて足を踏み入れたその日のことを思い出す。あのとき上司となった蓉子は確かにそう言った。しかしメンバーの皆が頑張れば頑張るほど、彼自身の仕事は確実に増えていく。プロジェクトの成功と引き替えに人間らしい生活を削り命を縮め、そしてさらに走り続けることを要求される。
  自分のような身の上で、同情するなんてとても失礼なことだ。それは今更誰に言われるまでもなく承知している。もとより人間としての器の大きさが違いすぎるのだ。自分の物差しで測ったところで見えてくるものは何もない。

 ……それに。もうすぐ、私はこの方の元から去っていく人間なのだから。

 その日が一日も早く訪れるようにと願った日もあった。しかしそれは決して本心からではなく、気づきかけた想いに蓋をしてしまうための方法だったのである。何も出来っこない、だから目を瞑って通り過ぎるのだと自分に言い聞かせるのに、いつの間にかまた薄目を開けてしまう。諦めの悪すぎる己が嘆かわしくて仕方ない。

 

「この道を右に折れてもらえる? ここまで来れば、程なく到着だよ」

 すぐに薄暗くなる小夜子の心とは裏腹に、幹彦氏の声はいつになく晴れやかだった。澄んだ空にそのまま溶けていきそうな言葉は、彼自身が今日の外出を楽しいものにしようという決意の表れにも思える。多分、心内では仕事のことで気になることがたくさんあるのだろう。しかしそれを微塵も感じさせないのが、この人の度量である。
  ちょっと歩いたかと思えば立ち止まり、今の進行方向で正しいのかと前後左右を確認してしまう。そんな癖が子供の頃から抜けないために、何をするのにも人の二倍も三倍も時間の掛かる小夜子だった。慎重すぎる性格は「石橋も叩きすぎると終いには壊れてしまうわよ」などと友人に指摘されたこともある。
  熟慮することは決して悪いことではない。だがしかし、周囲の皆に分かるほどそれがあからさまであるのなら多少考え直す余地がありそうだ。

 ―― 今日は、今だけは自分の気持ちを信じてみよう。

 何度目かの決心を心の中で呟く。鮮やかな夏色の風景たちが、そんな小夜子を遠くから静かに見守っていた。

 

◇◇◇


 角を折れて少し進んだところで、急に風景が変わった。突然現れた平原に、小夜子は思わず息を呑む。

「……すごい」

 見渡す限り、花、花、花。色とりどりの野の花が咲き乱れ、奥の方まで広がっている。そこここでミツバチたちの羽音が響き渡り、柔らかい葉先にはテントウムシがちょこんと止まっていた。

「ふふ、驚いたでしょう。ここは僕たち家族の秘密の場所なんだ、もっとも最初に見つけたのは母上なんだけどね。……ああ、久しぶりだな。先日はここまで辿り着くことが出来なかったから」

 白爪草にれんげ草、その向こうに見える名前の分からない黄色い花は高山植物の一種なのだろうか。近頃ではこんな風に自然のままに残された野原を見ることもなくなった。何だか懐かしいような目新しいような不思議な気分になる。

「片岡君」

 どれくらいの時間、ぼんやりと目の前の風景を見つめていたのだろう。不意に名前を呼ばれて、ハッと我に返る。振り向けば、そこには変わらない優しい笑顔があった。

「悪いけど、ちょっと手を貸してもらえるかな? 少し松葉杖の練習をしたいんだ」

 専門のスタッフが派遣されてのリハビリは、数日前から行われていた。もともと飲み込みの良い方のだろう、今ではほんの少し手を添えるだけで真っ直ぐに立つことが出来る。石膏で固定されている右足を地面から少しばかり浮かせて、一歩、また一歩と前に出る。普段通りに歩くのと比べたらいささか心許ないものの、これだけ自力で移動することが出来れば車椅子を使うよりもよほど気が楽だろう。

 ゆっくり確実にご自分で感触を確かめながら進んでいく背中を、小夜子はただ静かに見守っていた。何かあればすぐに手をお貸ししなければならないが、あまり先回りして心配しすぎてもご自身のためにならない。柔らかな風が通りすぎるたびにむせかえるような花の香りが辺りに漂い、その刹那ふわりと気が遠くなる。
  空はやはりどこまでも高い。見上げてその天井を探しても、深みのある水色に奥へ奥へと吸い込まれて行きそうだ。他に誰もいない、ふたりだけの世界。普通に考えたら想像も付かない、異様な光景だ。
  東京の本社にあっては、幹彦様は始終仕事に追われご自分のデスクにゆっくりと腰を下ろす間もないほどの忙しさであった。専務室のメンバーであっても、彼に仕事上の意見を聞くためにあちらこちらを探し回ったり長時間待機しなければならない有様である。それが今、切り取られた空間にふたりきり。あまりにも有り得ない瞬間が、心許なくて落ち着かない。

 ここにいると時間の概念がなくなってしまう。そして追いかけてくる仕事もない。急な電話の呼び出しも、突然の来訪者も存在しない。

 広すぎる空、遠すぎる風景。何もかもが非現実過ぎすぎて、気が遠くなりそうになる。だが、これも事実。昨日から明日へ続くそのつなぎ目の今日という一日だ。二度と戻ることのないこの瞬間を心ゆくまで楽しもうと彼が思うのなら、小夜子としてもその願いに喜んで手を貸したい。

「幹彦様」

 ふと目をそらしたうちにあっという間に遠のいていた人に呼びかける。振り向いた笑顔には、自然な笑みで応えることが出来た。

「そろそろお弁当を広げましょう、こちらまでお戻りいただけますか?」

 

 道子の腕によりを掛けたランチを前に、ふたりでたくさんの話をした。
  気持ちのいい空気のせいか、小夜子もいつになく饒舌になっている。対する幹彦氏の受け答えも快く、こちらが言葉に詰まるとさり気なく話題のきっかけを導き出してくれた。本当に、初めて出会ったときの印象がそのままに他人に対する心配りに長けたお優しい方なのだと感心する。
  こんな風に気負うことなく話が出来るのはとても珍しい。誰が聞いても少しも面白くないような子供時代の話でも、彼はとても興味深く身を乗り出してくる。初めて自転車に乗れた日のこと、小学校までの道が遠くて、何度も何度も立ち止まってしまったこと。初めての宿泊学習で家族と離れ、心細くて一晩中涙が止まらなかったこと。
  ひとつひとつ思い出を紐解きながら、もうとっくに忘れていた昔のことがまるで昨日のことのように蘇ってくる。自分がどんな風に生まれ育ち、その過程でどんな人と触れ合ってきたのか。その会話と笑顔と、そして別れと。いつの間にか、小夜子は今日までの自分の全てがこの上なく愛おしいものに感じられていた。

「そうだね、片岡君を見ているといつも温かいご家族の存在が背後に感じられるよ。たくさんの笑顔の中で育ってきたんだなって、そんな気がする」

 さり気なく落とされた言葉に、ハッとする。気付かずに通り過ぎることも可能だったのに、その一言がひどく大きく心に響いた。

「……そんなこと、ありません。本当に、ごくごく普通の家族です。特別のものなんて、何もありませんから」

 もしかしたら思い出を美化して話しすぎたのではないだろうかと、急に気恥ずかしくなる。しかし、幹彦氏は軽く頭を振ると、もう一度念を押すように告げた。

「いや、気がつかないほど自然なことが一番大切なんだと思う。意識して家族でいるなんて、やはり間違っているような気がするからね」

 その言葉に秘められた想いを小夜子が全て汲み取ることは不可能だった。だが、多少は想像することが出来る。彼の父親はあの社長だ。息子がどんな苦境に立たされようと容赦なく冷静な判断を下せる方。それは大企業にとっては不可欠な切り札であるのだろうが、ひとりの人間として子供の父親としてはいささか冷酷すぎる気がする。
  いわゆる兄弟の間の確執も、一流の一族にありがちの難しい要因をいくつもはらんでいるらしい。次期後継者は幹彦氏に決まっていても、一方ではそれを内心それを芳しく思っていない一派も確かに存在する。実際、すぐ下の弟・登次郎氏とのあれこれは社内でも知らない人はない有名な話だ。
  人当たりが良く穏やかな気性の幹彦氏に対し、登次郎氏の方は見るからに野心家で好戦的。ふたりが並んでいてもおよそ兄弟とは思えないほど、何もかもが違っている。そうなれば双方に肩入れする者たちの間で小さな衝突がいくつも起こることは当然のことであった。

 血を分けた身内同士が争い合うことなど、この上なく悲しい出来事である。表面上は平静を保っていても、面の皮を一枚剥いだ部分ではどろどろとおぞましい欲望が渦を巻いているのだ。そう言う状況を楽しめる性格なら良いだろうが、もしも違った場合は人知れず苦悩を味わうことになる。
「男一匹朝家を出ると七人の敵がいる」と言うが、幹彦氏の場合は安息のために帰り着く自宅であっても心ゆくまで羽を伸ばすことなど不可能に近いのかも知れない。

「……そう、ですね。やっぱり私は恵まれているんだと思います」

 家族は、両親も祖父母も兄や姉も、皆自分を庇護してくれた。何か困ったことがあれば、口に出す前から顔色でそれを察し温かく手を差し伸べてくれる。皆が自分よりも年長であったから、彼らの言葉に従ってさえいれば危ない橋など渡る機会も訪れなかった。
  それが幸せなのだと、誰もが思うだろう。事実、小夜子自身も自分の置かれた現状に満足している。あらかじめ決められたレールの上を脱線することなく確実に歩いていくこと。そうすれば大勢の人間が求めるような満ち足りた幸せな一生を送ることが出来る。難しく考えることは何ひとつない、ただ余計なことを考えずに歩み続ければよいのだ。

 ―― しかし。

 その考えが、どこか窮屈であることにいつか気づき始めていた。家族と自分との気持ちにすれ違いを感じ始めたその頃から、確実なものと思っていた理想郷が崩れ始めている。そちらに手を伸ばしてはいけないと頭では分かっている、早く戻らないと取り返しの付かないことになると自分に言い聞かせるのにどうしても上手くいかない。

「でも……私としては、自分が一番正しいと思った方向に進めることが大切だと思えてならないんです」

 思いがけず一籐木の本社に出向くことになって、今まで当然のことと信じていた価値観が揺らぎ始めた。あの場所には自分というものをしっかりと持って確実に歩み続ける人たちがたくさんいる。皆希望と自信に満ち溢れ、大きな障害にぶつかったとしてもどうにかして乗り越えようとする野心を備えていた。しかも置かれた状況を気負うことなく、楽しんで続けている人たちばかりである。
  迷いや不安や、その他小夜子自身がいつも囚われていた感情がとてもちっぽけなものに見えてくる。もしかしたら、自分はとても大切なものを今まで故意に見逃して来たのではないだろうか。本当にやりたいこと、すすみたい場所は一体何処にあるのだろう。

 小夜子の言葉を受けて、幹彦氏はその日初めて意外そうな表情に変わった。ほんの一瞬の間ではあったが、彼自身がひどく驚いたことは確かである。柔らかい前髪が揺れ、長いまつげが微かに震えた。

「そう、……それも正しい意見であるね」

 何かもっと伝えたいことをその奥に秘めた、ひどく曖昧な受け答えであった。それを聞いて、小夜子は初めて自分の発した言葉の強さに気付く。にわかに鼓動が早くなり、走り始めた感情をこのまま胸奥に押しとどめるのが難しく感じられた。

「いっ、いえっ! ちょっとおしゃべりが過ぎました。すみません、こんな面白くもないことを……」

 自分が恥ずかしくてならない。どうしてこんなちっぽけな存在でありながら、何もかもを見知ったような生意気な口を利いてしまったのだろう。きっと幹彦様も呆れていらっしゃるに違いない。お優しい方だから直接言葉には出さないが、心内では何も知らない小娘が飛んでもないことを言い出したと思っていらっしゃるだろう。

「ええと、……その。……あ、こちらを見て下さい!」

 苦し紛れに視線を泳がせて見れば、草むらの中に偶然四つ葉のクローバーを発見した。急に話題を変えて申し訳ないが、何だか重苦しい空気になってしまったし、このままでいるよりは少しはマシである。そうして眺めているうちに、一枚、また一枚と新しいものを見つけることが出来た。

「すごい、こんなに一度に見つけたのは初めてです。これだけ広いのだから、探せばまだいくつもありそうですね。ああ、そうです。せっかくだから専務室の皆さんへのお土産にしましょう。押し花にしてしおりにすれば素敵です」

 驚き顔を隠せない幹彦氏をあとに、小夜子は花の咲き乱れる野原に飛び込んでいった。どれも同じように見えるクローバーの葉だが、じっと目をこらしていると他とは違う一枚を見つけることが出来る。細かい作業は大好きだから、このような単調な探し物も得意であった。

「片岡君、そんなに根を詰めちゃ駄目だよ。とっくに忘れているかも知れないが、君自身も病み上がりの身の上なのだからね。全員分なんて欲張る必要はないから、適当なところで終わりにした方がいい」

 そんな風に言われても、かなり効率の良い仕事なのでなかなかこの辺でと見切りを付けることは出来ない。ひとつ見つけると幹彦氏の座る場所まで届けに行き、また別の場所へと探しに出る。そうしているうちに何を言っても無駄だと諦めたのだろう、いつの間にか彼自身も草原をかき分け始めた。昼下がりの穏やかな日よりの中。しばらくはかさかさと草のこすれ合う音だけが辺りに響いていた。

 

「ほら、もうだいぶ集まったよ。そろそろ戻った方がいいかも知れない。夕方にもリハビリの指導員が来ることになっているからね」

 そう声を掛けられたのはどれくらいの時間が過ぎてからだろう。ハッと我に返ると、日はだいぶ西に傾いて風の匂いも変わってきている。そう長い時間を過ごしたつもりもなかったが、もう夕暮れが近づいているらしい。

 慌てて幹彦氏の元に戻ると、彼はふたりで集めた四つ葉をハンカチの上にひとつずつ丁寧に並べているところだった。

「……全部で十二枚。すごいね、よくこれだけ集めたものだ」

 その言葉を聞いて、小夜子はとても嬉しくなった。こんな偶然、なかなかあるものじゃないと思う。

「良かった! 見て下さい、これが今見つけた十三枚目。これで皆さんの分が全部揃いましたよ!」

 この上ない達成感に頬が熱くなる。しかし、笑顔で見上げた彼の表情は自分と同じものではなかった。

「……片岡君、これではひとり分足りないよ? ウチのメンバーは全部で十四人だ」

 その言葉には今度は小夜子の方が驚く番だった。瞬きをいくつか繰り返したあと、当然のように告げる。

「え、十三でいいですよ。だって、私の分は初めから入ってませんから。これは、私から皆さんへの幸せのお裾分けです」

 何でこんな当たり前のことをわざわざ説明しなくちゃならないのだろう。そんな考えが胸をかすめていた。

「私、短い間ではありましたけど、本当に皆さんに良くしていただきました。残念ながら力不足で期待されるだけのものを返すことは出来ませんでしたが、それでも気持ちだけでも。……私のこと、皆さんが少しでも長く覚えていて下さったら嬉しいのですけど」

 それはちょっと期待しすぎかなと、言い終えたあとで少し気恥ずかしくなった。自分が去ったあとに何かを残そうなんて、ちょっと虫のいい話かも知れない。でも、やっぱり、このまま思い出の全てが消え去ってしまうのはやはり寂しかった。

「ほら、この一番大きいの。葉っぱが六枚もあるんですよ? こちらを幹彦様に差し上げましょう、きっと幸せがたくさんたくさん舞い込んでくるはずです」

 これはただのおまじないでしかない。確かな裏付けなんてあるはずもないし、四つ葉という存在そのものが突然変異で現れただけのものだと聞いたこともある。でも今はまやかしでも何でも、信じていたかった。たとえ手に届かない幸せであっても、願う間は心が軽くなれるから。

「……片岡、君……」

 そのときの彼の顔を、もっとゆっくりと眺めていたかった。だが、次の瞬間。小夜子はそれまで感じていた花の香りから引き離され、逞しいぬくもりの中に包まれてた。

「どうして、……どうして、君は。……どうして、いつも……」

 彼の腕は、声は、激しく震えていた。突然の出来事に小夜子は言葉を失い、どう反応していいのかも分からなくなっている。しかし、この場所は温かい、そして深く吸い込まれて行きそうだ。まるで、今頭上に広がる青空のように。

「……小夜子……」

 どこか遠くで、自分の名前を呼ばれている、そうは思っても返事が出来ない。もしもひとこと言葉を発したら、その瞬間に全ての夢が覚める。何故かそう思えてならなかった。

 

◇◇◇


「明朝、ここを出て本社に戻ることになったよ」

 結局、ふたりが帰路についたのは、それからだいぶ時間が経ってからであった。
  ぬくもりは突然消えて、あっという間に元通りのふたりになる。それはとうに分かっていたはずなのに、小夜子には胸に残る残り香が愛おしくて仕方なかった。だから、突然の話もそう違和感なく受け止められた気がする。

「社長から直々に電話があってね、何でも急に大幅な人事異動が決まったそうなんだ。その席に僕がいないわけにもいかないし、まあ……長い休暇が終わったということかな」

 心ごと、花野に置いていけばいい。永遠の場所をあとにして、ひとつの別れが訪れることを小夜子は確かに予感していた。

 

つづく (080812)

 

<< Back      Next >>

TopNovel赫い渓を往け・扉>白い約束・14