「やあ、お嬢ちゃん。今日もお使いかい? ご苦労様」 ビルの一階にテナントで入っている花屋の主人が、鉢植えの棚を表に運びながら声を掛けてくる。このすぐ先にある旅行代理店へ出向くことが多かったから、いつの間にか声を掛け合う仲になっていた。「お嬢ちゃん」という呼びかけにはいささか気が引けるが、実際のところ年齢よりも幼く見えるのだから仕方ないだろう。 「こんにちは、おじさん。今日もいいお天気ですね」 小夜子は足を止めると、ショーケースに並んだ切り花たちを見渡した。オフィス街という場所柄もあり、お祝いの花束や花かごの注文が多いと聞いている。磨き上げられたガラス戸の向こうには華やかな場面に似合う大輪の花々がずらりと並んでいた。 「ええと、この薄いピンクの、三本下さい。包むのは簡単でいいですから」 花びらの先が細かく縮れそこだけ白くレースのように見えるものを選んだ。花びらや葉のかたちを見れば間違いなくチューリップであるが、見たこともない種類である。店主はにこやかに応じると、その周りに切り落としたかすみ草を添えてくれた。 「ああ、それから。そこのバケツにあるやつで使えそうなのあったら、どれでも持っていっていいよ。どうせもう、売り物にならないものばかりだから」 顎で示された場所を見れば、無造作にまとめられた花たちがある。かたちが悪くはね出されたものや花束にするときに誤って短く切りすぎてしまったものなど、その都度投げ込んでいくらしい。商品としては役に立たなくなったそれらを、おまけで分けてもらえることもあった。 「嬉しい、ありがとうございます」 もちろん最初から期待しているわけではないが、こうした思いがけない心遣いは嬉しいものだ。それほど園芸に詳しい訳ではない、でもこんな風に自然な香りに包まれているとホッと心が和む。 「はい、たくさんおまけしておいたよ」 オートメーション化がますます進み、日中と夜間で都市人口が激変する現象が続いている。いつか都会には人間がひとりもいなくなってしまうのではないか。そんな懸念もあるなかで、このような肉声を通したやりとりは心が和む。 「ありがとう、おじさん」 礼を言って店を出る。夏の始まりを告げる風が、小夜子の柔らかい黒髪を揺らして通りすぎた。
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―― だけど仕方ないのだわ、この先はそう長くはないでしょうから。 日に幾度となく自分を励まし、どうやら無事に過ごしている。今の恵まれた境遇は長続きするものではなく、すぐに終わりが来るはずだ。他の誰に言われずとも、それは小夜子自身が一番良く分かっていた。何の取り柄もなく平凡な学歴の自分が、そもそもこんな大企業に職を得ること自体がおかしい。自分自身がそう思っているのだから、周囲の評価に今更心を痛めることもないのだ。
「……あら、あなたは」 観葉植物の鉢が並ぶ向こう。ようやく逃げ込んだと思ったその場所には、見知った顔があった。部屋の皆が言う「招かれざる客」のひとり、多いときには一日おきにやってくる女性である。そのたびに違う服装で訪れるのだが、今日もやはり今まで見たことがない一枚を身につけていた。手には高級洋菓子店の菓子箱。それから華やかな薔薇のブーケ。 「こんにちは、宮塚様」 記憶の引き出しから取り出した名前で呼びかけ軽く会釈をしたあと、小夜子は丁度到着したエレベーターの開閉ボタンに手を伸ばす。彼女がゆったりとした身のこなしで乗り込むのを確認してからさっとあとに続き、周囲を見渡して扉を閉めた。女性はそれを当然の行為と見ているのだろう、礼を言うつもりもない様子で美しい巻き髪をせわしなくいじっている。 「ねえ、今日は幹彦様お暇? あなたなら分かるんでしょ、意地悪しないで教えなさいよ」 操作ボタンの方に向き直って立っていた小夜子は、高圧的とも思える口調に驚いて振り向いた。美しくカールしたまつげの下で、鋭い視線が揺れている。 「え……ええと。今は社内会議に出席されています」 上司の仕事内容を気安く部外者に伝えるべきではないことは知っている。しかし、この女性をはじめ常識が通用しない面々もいて、その都度柔軟な対応が求められるのだ。彼女の場合、かいつまんででも状況を説明した方が納得してもらえることが多い。蓉子や大竹が在室していれば、上手く取りなしてくれるだろう。それを祈るしかない。 「そう、それってあとどれくらいかしら。今日という今日はご挨拶を申し上げたいわ」 早く目的の階に到着してくれないかと祈ったが、こう言うときに限ってエレベーターの進みが遅い気がする。イライラするのは相手も同じらしく、それが表情にはっきりと表れていた。 「あなた新入りの子でしょ。見た感じだと高校出たてって、ところかしら。とてもご優秀とは思えないけど、大丈夫なの? 本社の人事も何考えてるのかしら、もっと使える人間を雇えばいいのに」 華やかな装いからは想像が出来ない意地の悪い物言いに度肝を抜かれ、小夜子は大きく目を見開く。しかし、驚きのあまりか言い返す言葉のひとつも浮かばなかった。こちらが黙ったままでいるのをいいことに、彼女の舌はさらに滑らかに動き続ける。 「あなたみたいな人に務まる仕事なら、わたくしにだって簡単にできるわね。そうだわ、月彦の伯父様に直接お願いしてみようかしら。幹彦様と一日中ご一緒できるなんて素敵だわ、あの方もその方がお喜びになるでしょうよ!」 そのあとに続く笑い声が狭い箱の中に響き渡っても、不思議と怒りの心は芽生えなかった。それどころか、彼女の至極まっとうな物言いに、小夜子自身までが大きく納得させられた気がする。薄くファンデーションをはたいただけの頬は雪のように白く凍え、目の前に掲げられた正解をしっかりと受け止めていた。 ―― 当然よ、これは誰もが思う当然のことなのだわ。 ここで過ごす日々の中で、階下にも幾人かの知り合いが出来た。皆、表面上はとても親しく接してくれる。でも、その心内は決して穏やかではないはずだ。役員フロアを訪れる制服姿の中には、思いがけずに幸運の椅子を掴み取った部外者を見てやろうと考えている者も少なくない。ちらちらと向けられる視線の意味を、今やっとはっきり言葉にして感じ取ることが出来た。 その他大勢になることが許されない現状が、小夜子に重くのしかかっていた。誰もが納得する優れた人材ならば、ここまでひどく言われることはないだろう。確かに自分も必死に頑張ってはいる。しかし、元々の器がそぐわないのに、どうして人並みのことが出来るだろうか。 「……到着しました、お先にどうぞ」 むせるような花の香りが通り過ぎたあとも、小夜子はしばらくその場所を動くことが出来なかった。
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重い足取りで廊下を進めば、先ほどの女性がキリキリと引き返してくるのが見えた。細いヒールはふかふかのカーペットに沈みその音を消しているが、それでも甲高い怒りの音が耳に届いてくるようである。彼女は口を一文字に結び、小夜子の脇を通り過ぎるときには、燃えるような憤りの瞳を向けた。きっと在室していたメンバーの誰かに追い返されたのだろう。 「ああ、小夜子君おかえり。わあ可愛い花だね、また買ってきてくれたの?」 ドアの前で迎え入れてくれたのは、蓉子と共に幹彦氏の秘書を務めている大竹であった。分かりやすく首をすくめて見せるのは、たった今起こった惨事を暗に伝えているのだろう。約束もなく訪れる自分たちのことは棚に上げて、「招かれざる客」たちのご機嫌は日を追って悪くなるばかりである。 「ホント、困ったものだよね。こっちは厄介者撃退のためにここにいるんじゃないって言うの。なんかさ〜、ここんとことみにひどいんだよね。どうも聞いた話では、とんでもないデマが広がっているらしくてさ」 大竹は初めての日に会ったときのイメージがそのまま続く、気さくな感じの若者である。幹彦氏や室長の三鷹沢と同年代になるというのに、悪く言えば口が軽く噂好きなところがある。それには同僚である蓉子も眉をひそめていた。時間が空くと下の階にいる同期の仲間たちと連絡を取り合い、情報を仕入れているらしいのだ。 「デマ……ですか?」 この人の話に興味本位で受け答えしてはならないと言われている。でも今の小夜子はとても疲れていた。少しぐらいの雑談で気を紛らわすことくらい許されると思う。幸いなのかどうか分からないが、お目付役の蓉子も近くにいなかった。 「うん、社長の……つまり幹彦様の御父上の側近になる人たちの間で、まことしやかに囁かれてるらしいんだけどね。どうも社長がそろそろ幹彦様のお相手を本格的に探し始めたとか言うんだよ。まあ年齢的にもそう早くはないしね、いつまでも独り者でいるのも良くないってことらしくて。ま、そんなの嘘かホントか分からないけど。それで以前にも増して騒がしくなってきたってわけ」 他にもデスクには三人ほどのメンバーが座っていたが、皆それぞれ自分の仕事を黙々と続けている。大竹の話に乗って盛り上がろうなどと考えている不埒者は存在しないらしい。だからこそ、小夜子が話し相手に選ばれたというわけだ。 「そんな……」 それでは毎日のように訪れる「親戚」の女性たちは勇敢にも自らを売り込む強者たちというところなのだろう。国内屈指の大企業の次期後継者の妻となれば、その華やかさや影響力は並々ならぬものがある。夫婦揃って出席する場面も多いだろう。しかも自分をエスコートしてくれる夫は、優しく穏やかで非の打ち所がない。誰もが一度は夢見るおとぎの世界が現実のものになるのだとしたら、浮き足立つのも当然だ。 「ああ、嫌だな。君までがそんな顔をすることはないだろう」 「まあ、今しばらくの辛抱だと思うしね。こういう話はまとまるときはあっという間だし、そのあとは嘘みたいに静かになるよ。俺たちは最初から部外者なんだし、このくらいの厄介ごとも特別手当の一部だと思わなくちゃね」 一緒に仕事をしていれば、ここにいる大竹という社員がとても頭の切れる有能な人材だということは分かる。押し寄せてくる情報の中から今重要なものだけを瞬時に選び出し、それ以外を切り捨てる勇気のある人だ。そろばん勘定と言えば聞こえが悪いが、損得で物事を考えられる能力も一籐木のような大企業では絶大な効力を発揮する。彼もまた確かに「選ばれた」人間なのだ。 「じゃ、前置きはそれくらいにして」 彼はさっさと話を切り上げると一度自分の机に戻り、ファイリングした資料を手にした。 「これ、社長室まで届けてもらえるかな? 訂正部分を打ち直したから、すぐに社長に提出しなくちゃならないんだ。でもまだエレベーターの辺りに彼女がいると厄介だしね。それに重役連中も話が長いから、あまり顔を合わせたくないんだよな」 いつも一言多い人だ。だが、それだからこそ彼の取る行動のひとつひとつに理由があることが小夜子にも分かる。厄介ごとを事前に予測しそれを回避する術を身につけているからこそ、効率の良い仕事が出来るのだ。 「はい、分かりました。すぐに行って参ります」 頬に淡い微笑みを浮かべてファイルを受け取ると、大竹も満面の笑みでそれに応えた。頼りにされるのは嬉しい。それが自分ではなく他の誰かでも簡単にできる仕事だとしても、任されるからこそこの場に留まっていられるのだ。 部屋を出る前に、小夜子は一度部屋奥へと目をやった。だがその場所は、やはりしんと静まりかえったままで誰の気配も感じ取れなかった。
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社長室はフロアの中央に位置するエレベーターホールを越えて、一番突き当たりの場所にあった。その前にはずらりと各重役の部屋が並ぶ。 「失礼します、専務室より資料を持って参りました」 間を置いて二度ノックをしてから、重い扉を開く。奥にもうひとつの重厚な扉を備えたその場所は社長秘書の部屋で、普段なら待ってましたとばかり対応に出てくれる。しかし、今は誰の姿もなく静まりかえっていた。 「……あの」 社長には専属の秘書が三人いる。第一秘書の名を持つ神谷さんとその部下のふたり。皆、きびきびと良く動く優秀な女性たちである。部下のうちのひとりは小夜子の上司である蓉子の元同僚だと聞いていた。 ―― どうしよう、しばらく待てば誰かお戻りになるかしら? 一度部屋に引き上げることも考えたが、入れ違いになってもいけない。入る前に確認したドア脇の札も「在室」になっていた。腕時計を確認し、五分だけ待機することに決める。廊下に出ていた方がいいだろうとドアノブに手を掛けたとき、背後で微かな物音を聞いた。 「そこにいるのは、誰かな?」
つづく (080314)
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