TopNovel赫い渓を往け・扉>白い約束・7




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 ゆっくりと向き直るのとほぼ同時に、次の間へと続くドアが開く。背後の明るさが強すぎるために少しばかりかげった面差し、小夜子は息を呑んでその人を見上げた。

「届け物のようだね。おや、ここも皆席を外しているのか」

 堂々とした風格にまず驚いた。一目で高級品と分かるスーツを当然のように身につけるその姿。見る者を圧倒する上背を持っているのはもちろんのこと、全身から醸し出される例えようのない気迫を何と表現したらいいのだろう。シルバーグレイに色を変えた髪が艶やかに整えられ、血色のいい顔を引き立てている。

「その、……専務室より参りました。こちらの書類が仕上がりましたので、お届けに」

 緊張のあまり舌がつってしまいそうだ。柔らかい微笑みの中にも鋭く相手の心内までを見抜こうとする眼差しがあり、それが自分に向けられていることが恐ろしくてならない。もともと小柄な小夜子であるが、今はもう消えそうなくらい縮こまっていた。

 ―― この方が一籐木グループ社長、つまり幹彦様のお父様なのだわ。

 今や日本を代表するひとりとなっている「国民の顔」と言ってもよい人物である。マスコミに登場する機会も多く、本人が好むと好まざるとを関係なく動向の全てが注目されてしまう。でもこうして直接お目に掛かってみると、さすがに迫力が違った。どうにか平静を装おうとしても、張りのある素材で出来た淡色のスーツの下で身体の震えが止まらない。

「ならば直接私が受け取ろう。ああ、君が佐々木の紹介で入った新しい娘(こ)だね。片岡君と言ったかな?」

 自分の名を正しく呼ばれて初めて、小夜子はようやく胸のネームプレートが裏返しになったままであったことに気付いた。そうだ、先ほど外回りに出るときに向きを変えたまま直すのを忘れてしまった。それなのに社長は迷いなく言い当てることが出来たのだろう。

「は、はいっ。初めてお目に掛かります、片岡小夜子と申します」

 直接お顔を拝見する勇気もなくて、頑張って見上げてもネクタイの結び目の辺りで止まってしまう。さりげなく短い問いかけであっても、そのひとことひとことがずっしりと胸にのし掛かってくるようだ。ご子息である幹彦様もそれはそれはご立派な方だが、今目の前にいるこの人にはその上に他の全てを圧倒する絶対的な「何か」がある。

「幹彦がとても世話になっているそうだね。あそこは忙しいから、君も大変だろう」

 この言葉は私自身に話しかけられているものなのだ。いちいちそう確認しなければ、TVのスピーカーから流れてくる音声のように頭の上を素通りしてしまう。このように社長に直接お目に掛かる機会が訪れるとは思っても見なかった。

「本社にいるのだからすれ違うことくらいあるだろう」と家族に問われたこともあるが、同じフロアであっても両端に位置するふたつの部屋に接点はあまりない。届け物をするときも、今まではいつも秘書の方を通してであった。
  小夜子に限らず一籐木本社の社員が社長と出会う機会が極端に少ない理由は他にもある。これは内部の人間にしか知らされていないことなのだが、社長室には専用の直通エレベーターが設置されていると言う。社長の他にはごく限られた側近と身内の者にしか許されていないそれは、開発されたばかりの機器であった。まだ試験運用中だということで、いわば社長自らが使い心地を試しているというところであろうか。
  プライベートな使用のために何千万もかかる買い物をしてしまうとは何とも信じがたい話で、初めて耳にしたときは趣味の悪い冗談かと思ってしまったほどである。だがそれを可能にしてしまうのが大企業であり、ここにいる男は紛れもなくその頂点に立つ者なのだ。

 そう思うと、心の底からえも言われぬ震えが湧き上がってくる。しかし問われたからにはきちんと返答するのが筋であろう。自分は今、仮にも専務室の一員なのだ。ここで臆していては皆に恥をかかせることになる。

「いいえ、皆さんとても良くして下さいますし、とても楽しいです。このような機会に恵まれたことに本当に感謝しております」

 その場を取り繕うと思って出た言葉ではない、小夜子は必死に自分の感じたままを表現しようとした。確かに片手間に出来る仕事ではないし、日々緊張の連続というのは間違いない。だけどそれを「大変だ」とひとことで片付けてしまうのは申し訳ないと思った。

「そうかな」

 短い言葉が空間をすり抜けてくる。新しい緊張がこめかみの辺りに走った時に、デスクの上で内線電話が鳴り出した。

「ちょっと失礼 、――もしもし? 私だが」

 社長は小夜子から受け取った書類を片手に持ったままで、素早く受話器を取る。そしてこちらをちらと向き直り、このまま待機しているようにと視線で語った。

「ああ、そうか……承知した。こちらは大丈夫だ、そう竹内君は外出中だがな、丁度専務室から助っ人が来てくれたのでね。何も心配はいらないよ」

 てきぱきと短い受け答えで、あっという間に通話は終わった。この部屋に来る目的はすでに終え、どうしたらいいのか分からないまま立ちつくしていた小夜子である。知らぬうちにがっしりとした広い背中に見とれていたらしく、彼が再び振り返ったときには飛び上がらんばかりに驚いてしまった。

「うちの神谷からの連絡だった、どうも下の総務でコンピューターの入力トラブルが発生したらしい。ちょうど詳しい人間が席を外しているようで、応援要請が来たそうだ。そう難しい作業ではないが、もうしばらく時間がかかるらしい。このようなことは珍しいのだがね、まあ大事にならないうちに片が付けばそれでいいだろう」

 そこまで話し終えると、彼は胸のポケットから眼鏡を取り出した。

「丁度一仕事終えたところだったんだ、悪いがお茶を一杯お願いできるかな? 先ほどの書類を確認してしまおう、そうすれば取りに来てもらう手間が省けるからね」

 呆然としたままの小夜子を残して、社長はさっさと奥の部屋へ入ってしまった。こんな状況は全く想定していなかったため、一体どうしたらいいのかと悩んでしまう。一度専務室まで戻って誰かの助けを借りようか、でも頼まれたのはお茶の支度なのだからそれなら自分ひとりでもどうにかこなすことが出来そうだ。
  幸いすぐに分かるところに茶道具が一式揃えてあった。ポットのお湯も十分に残っている。どこから見ても値打ちものに違いないセットに手を触れるのはとても緊張したが、どうにか満足のいく色合いの緑茶をいれることが出来た。

「―― 失礼いたします」

 片手でノブを持って開けるのが難しいほど重いドアである。そのためなのだろう、入り口のすぐそばにはサイドテーブルがさり気なく置かれていた。そこに一度盆を置き、ドアをストッパーで止めてから再び手にする。
  大きな窓が二方にある造りは専務室と同じ、だが社長はその広々としたスペースの全てを独占しているようだ。深い青のカーペット、置かれた家具の全てがオーク調のどっしりしたもので揃えられている。特に目を見張ったのが一抱えほどもありそうな壺で、青々とした枝が大胆に活けられていた。それひとつを取っただけで、他にふたつとない芸術作品のようである。
  ドアを入ってすぐのところに小さな机が置かれていた。これが社長室の室長・竹内氏の席なのだろう。先ほどの内線電話で外出中だと告げられていた通り、その場所は空っぽだった。

 そして。部屋の中央にはもうひとつ、両手を伸ばしても届かないほど大きなデスクが置かれていて、社長はその前に座っていた。そう、たとえるなら我が城の玉座に君臨する王のように悠々と構えて。

「ああ、ここに置いてくれるかい? こちらももうすぐ終わる、少しだけ待ってもらえるかな……あと三頁だ」

 軽い口調で告げられて、小夜子はまた驚いた。大竹から渡された資料は、かなりの枚数になるものだったはず。それをこんな短い時間に読み終えてしまうのだろうか。プロジェクトの進行を決める大切な内容であるから、飛ばし読みで片付けていいはずはない。しかし、ここにいる社長ならば不可能を可能に変えてしまう気もした。
  一籐木は戦前からかなりの資産家であったと聞いている。そして戦後の混乱から復興の波の中で他を圧倒する経営手段により一気に国内を代表する企業へと上り詰めたのだ。誰もが賞賛しその一方で驚愕する夢伝説、それを実際に推し進めていったのがここにいる一籐木月彦現社長その人なのである。
  どのような状況下にあっても揺るぎない信念で突き進み、斬新かつ的確な判断で常に時代の先陣を切って行った。小夜子の父などは丁度同世代に当たるだけあって、とくにその存在を身近に感じていたらしい。自分とは比べようのない人とは知りながら、何かに付けその動向を気にしていた。

 ―― このような方とやり合うなんて、備えもなく飢えたライオンの檻に入っていくようなものだわ。

 一籐木の社長がどうしてここまで崇拝され、他の追随を許さないカリスマ的存在として君臨しているのか。その理由を改めて並べ立てる必要などないのだ。こうして同じ空間にいるだけで、恐ろしく生命力を吸い取られていく。この人は確かに別次元の人間だ。
  訪れる客人たちが我先にと息子の幹彦氏の方へ面会を申し入れるのも無理はない。実の親子だというのに、ふたりはあまりに違いすぎる。どちらを選んでも同じような結果が得られるのであれば、あえて困難な崖っぷちの道を選ぶことはないだろう。だが、この状況は大企業の将来にとって有益であるとは言えない気もする。

「よし、これでいい。大変良く出来た計画書だ、この内容ならばこのまま進めても支障はあるまい。大事業になるが、だからこそ我が社が引き受けるに相応しいとも言えるな」

 彼は眼鏡を掛け直すと、余白にさらさらと何かを書き付けた。そして元の通りに封筒に入れ、小夜子に手渡す。

「この話は全て専務に任せることにしよう、あれももうこれくらいのことはひとりで出来るはずだ。そのために集めたチームなのだからな、あれだけの人材が揃っていれば間違いない」

 小夜子の視線に気付いているのかいないのか、社長は淡く微笑み両手を顔の前で組む。何かを探っているような、そんな仕草だ。

「ただ、寄せ集めに過ぎないと言ってしまえばそこまでだ。目的地まで無事に航海を続けるには相当な舵取りが必要だろう。あれにそれだけの能力があるか、それが問題ではあるな」

 頬をかすめた冷ややかな言葉に、小夜子はハッとして顔を上げていた。今、一籐木社長が話しているのは他でもない専務室の現状に違いない。だが、それは自分が直に感じているものとは全く違う評価だ。社長にとって幹彦様はご自分が血を分けた息子ではないか、どうしてここまで突き放した言い方が出来るのだろう。あんなに頑張っていらっしゃるのに、実のお父上にこのように思われていたら可哀想だ。

「そ、その……寄せ集めという言い方は違うと思います」

 思わず口を突いて出てきてしまった言葉に、小夜子自身が一番驚いていた。射るような瞳が自分に向けられていることに気付き、ハッと口を手で覆う。直接告げるつもりはなかった、ただ心の中だけで静かに反論していたかったのに。

「ほう、ならばどう違うと思うのかね?」

 何故、このような状況に追い込まれてしまったのだろう。偶然が重なったとは言え、信じられない結果である。天下の一籐木の社長に意見する権利など、自分にはなかったはずだ。なのに……それでも、どうしても真実を曲げるような言葉には同意することが出来なかった。

「せ、専務室の皆さんは……みんな心をひとつにして幹彦様を支えていると思います。とても温かくて、素敵な人たちです。一緒にお仕事させていただけて、とても光栄に思っています」

 ああ、どうしてこんな当たり前の言葉しか浮かんでこないのだろう。もっと人の心を掴む言葉できちんと自分の気持ちを説明できればいいのに。だけど、そんなの無理。それが今は口惜しくてならない。
  分刻みのスケジュール、一瞬たりとも気の抜けない仕事に囲まれていながら笑いの絶えない空間。どんなに忙しくても、どんなに追い詰められても、弱音を吐くことは出来ない。何故なら、そうすることで窮地に追い込まれてしまうのは他でもない幹彦様なのだから。
  出先から報告される声はいつも明るく、小夜子をとても幸せな気持ちにしてくれる。皆がもたらしてくれる小さな勝利が積み重なって、ひとつの大きな仕事が完成していくのだ。
  配置されて一月足らずの自分が偉そうに説明することはおかしいのかも知れない。だけど、そこにいるのが三日でも三年でも大した変わりはないと思う。いつ終わるのか分からない仕事、だからこそ取りこぼしのないように大切に過ごしていきたい。

 書類を入れた封筒を握りしめる手のひらがじっとりと汗ばんでいた。その一方で唇がかさかさに乾いていく。柔らかく自然光に満たされた空間で、小夜子は見えない恐怖と必死に戦っていた。

「そうか、それで分かったぞ」

 ぎしと椅子に体重が掛かる音がして、社長が立ち上がったのが分かる。深海の色のカーペットばかりを見つめていた小夜子は、またひとつ大きく身震いをした。しかし耳に届く足音は一向に自分の方には近づいてこない。ややあって恐る恐る顔を上げたとき、この部屋の主は先ほど小夜子が目を奪われた見事な壺の前に立っていた。

「君は今にも折れそうな儚い花かと思っていた。だが、どうも違ったようだな。こんなにも簡単に惑わされるとは私もまだまだ未熟者であるということか」

 言葉の意味が全く分からない。そうは言ってもこの上に説明を求めるなど出来ない約束だ。大きく目を見開いたままで立ちすくむ小夜子を、先ほどまでとは打って変わった柔らかな瞳が見つめている。

「ほら、そろそろ皆も帰ってきたようだ。もう戻りなさい、あの場所には君が必要なのだから」

 謎解きのような言葉に驚く暇もなく、ノックの音がする。小夜子は最後にもう一度頭を下げた後、ドアを開けた秘書たちの驚く顔の横を早足ですり抜けた。

 

◇◇◇


 週末のひどく忙しい一日が過ぎようとしていた。

 こんな日に限って、いくつもの手違いが生じる。来客が約束の時間を間違えて到着したり、届くはずの郵便物がどこかで迷子になってしまったり。外回りのメンバーの予定も次々に変更になるので、そのたびにホワイトボードに書き換えなければいけない。間違いのないようにと何度も見直していると、だんだん眉間の辺りが痛くなってきた。

 慌ただしい時間の流れの中で、幹彦氏が会合の合間に二度顔を見せてくれたときにホッと心が和んだ。特別な話をするどころか、早口で報告事項を伝えるのも難しい。パーティーションの向こうに去った背中を追いかけて、カーテン越しに話を続けることも当たり前の光景だ。だが、それでも柔らかい笑顔をごく間近で確認することが出来れば、全ての疲れが吹き飛んでしまう気がする。
  社長との一件は誰にも伝えていなかった。話したところでどうなることでもないし、自分の胸に納めておけばいいと判断したのである。しかしあれ以来、幹彦氏の存在がさらに大きなものに感じられるようになったのも事実だ。彼だけが持っている素晴らしいものをひとつでも多く感じたいと思う。

 ああ、どうしてこんなに身体がだるいのだろう。こんな風に手足に力が入らないことが最近多い。

「大丈夫? 片岡さん、顔色が悪いわ。こんな時期だもの、無理しない方がいいわよ」

 コピーから戻った蓉子に声を掛けられる。しかし小夜子は首を横に振って、わざと元気よく立ち上がった。

「そんなことありません。そちらは一部ずつ綴じるんですよね? お手伝いします」

 ふと向けた窓の外では、また雨が降り始めていた。毎年のことながら梅雨時は空模様を見ているだけで気が重くなる。からりと晴れ渡った青空を次に仰ぐことが出来るのはいつになるのだろう。

 晴れた日は駅まで自転車を使っていた。だが、雨の日は両親に言われてバスに乗ることにしている。車の往来が激しい道を傘を差して運転するのはとても危険だと言うのが理由なのだが、小夜子としてはすし詰めな上にダイヤが乱れがちな路線を使う方がさらに気がかりだった。決まった時間の電車に乗り遅れないようにと考えれば、普段よりも早く家を出なくてはならない。
  残業があった翌日などは、すっきりと目覚められないことが多くなっていた。だが社会人として時間に遅れることなど出来るはずもない。週末にまとめて休もうと思うがそれも上手くいかなかった。
  歪みが生まれているのだと思う。あり得ない今を過ごすことで、些細なボタンの掛け違いがいくつも続いていく。ひとつひとつは小さなものでも次第に降り積もって思うように動けなくなっていくのだ。
  実家で小夜子が日常的に割り当てられていたことを誰かが代わりに行わなくてはならない。短期の約束で事務の仕事を引き受けてくれる人も見つからず、未だに母親がひとりで奮闘している状態だ。姉も子供たちを預かってくれる人がいないと困っている。「いつまで続く勤めなのか」と問われるたびに、身の置き場のない気持ちになった。
  その分、週末くらいはと進んで家事や家業の手伝いをするようにしていた。少しでも身体を休めなければ翌週に差し支えるのは分かっている。だが、これ以上家族の皆に迷惑を掛けることは出来ない。以前と同じようにとは行かないまでも、出来る限りのことはしたいと思う。自分の力が及ばないことが、とても口惜しかった。
 
  長テーブルの上に置かれた資料を一枚ずつ重ねていき、大きめのホチキスで綴じていく。二十部ほどの冊子はすぐに仕上がり、それを一山に揃えて部数を確認したところで蓉子がちらと腕時計を見たのが分かった。

「こちらは、週明けの会議で使われるものですよね。それまではどちらに保管することになっているのですか?」

 ひとことに会議と言っても、大企業の専務である幹彦氏が出席するそれの種類やあてがわれる会場は様々である。その都度準備する資料が異なるのはもちろんのこと、前もって仕上げた場合の保管場所も違う。蓉子のようなベテランであれば無意識のうちに振り分けられることでも、まだまだ新参者の身では難しいのだ。いちいち確認するのも申し訳ないが、手間を怠ってミスに繋がる方が良くない。

「今回は五階の第一会議室を使用するから、週末は総務の金庫で預かってもらうことになっているの。あそこならばセキュリティーも万全だし、休みの日でも無人になることがないから」

 雨音がさらに強くなり、時折窓硝子を揺らすほどに打ち付けてくる。不安げにその様子を見守っていた蓉子が、その視線をするっとドア横のホワイトボードに移動させた。

「伊藤さんは、今夜の最終で戻ってくるのね。明日は朝一でこちらに来てもらえるように伝えてくれた? 幹彦様が取り急ぎ現状報告が聞きたいと仰るのだけど」

 やはり蓉子は時間が気になっている様子だ、腕時計を見る回数がいつもよりも多く感じられる。

「はい、先ほどご連絡をいただいたのでお伝えしました。お土産にういろうを買ってきて下さるそうです」

 小夜子の言葉に、蓉子は目を見開き信じられないという顔になる。

「まあ、伊藤さんがそんなことを? 珍しいこともあるものね、仕事に関係ないことはほとんど口にしない人なのに」

 蓉子の話によれば、もともと寡黙な性格の彼は出張中もなかなか連絡を入れないのでこちらの意向を伝えられずとても困るのだとか。移動先に電話して追いかけ掴まえるのに苦労した経験も一度や二度ではないらしい。
  だが、そのような打ち明け話を聞いても小夜子には信じられなかった。伊藤は四十代半ばの人のいい紳士で、何かと気に掛けて声を掛けてくれる。今回のお土産のこともいつか何気なく話したことを覚えてくれていたらしく、あちらから切り出してきたのだ。

「もうみんな嫌ねえ、片岡さんが入ってから揃いにも揃ってマメ男になっちゃって。本当に呆れちゃうわ」

 そう言いつつも、蓉子の目は優しい。清楚なデザインのブラウスはスタンドカラーになっていて、縁には控えめなレースがついていた。

「あ、あの、富浦さん。総務には私がお届けしますから、今日はもうお帰りになって下さい。やり残した仕事もありませんし、あとは私ひとりで大丈夫です」

 あまり出しゃばって、気を悪くされては困る。自分はあくまでも新参者、しかも期間限定の勤務なのだ。その立場をわきまえた上で、出来ることを探すのはかなり難しい。専務室の先輩方には本当に良くしてもらっているだけに、どうにかして恩返しをしていきたいという気持ちは強くある。それを相手に合わせたタイミングで取り出せばいいのだが、どこまで伝わっているか不安だった。

「そう? じゃあお願いしようかしら、悪いわね。今夜は夫の両親が田舎から出てくることになっているの。新幹線のホームまで娘と迎えに行くことになっていて」

 目に見えて安堵した姿を確認して、ホッと胸をなで下ろす。良かった、申し出てみて。胸の中でそう呟いた小夜子の方も笑顔になった。

 

「明日の土曜日は片岡さんがお休みの番ね、ゆっくり休んでちょうだい。二週続けて代わってもらったし、本当に助かったわ。でもあまり無理はしないでね、私たちはサラリーに見合うだけの仕事をすればそれでいいのだから」

 半日勤務の土曜日は、仕事が少なくなることもあって社員が半分ずつ隔週で休みを取ることになっている。先週は蓉子が保育園の行事があるというので、小夜子が二週続けて出勤していた。

「はい、それでは一緒に出ましょうか? 皆さん出払っていますし、鍵を掛けていきます。ロッカールームへ寄る必要がありますか?」

 蓉子が首を横に振るのを確認してから、小夜子は書類の入った封筒と部屋の鍵を手にする。部屋を出てふたりで歩き出したとき、遠くから軽いベル音が聞こえてきた。丁度一台が到着したらしい。

「……あ、私先に行って止めておきます」

 ノンストップとは言ってもここは地上三十五階、一台乗り過ごすとだいぶ待つことになる。ましてや無人のまま下に行ってしまうのはもったいない。そう思って早足で一歩踏み出した膝が前触れもなくがくんと落ちた。

「―― 片岡さん!?」

 とても遠い場所から、聞き慣れた声がする。しかし何も応えられないまま、次の瞬間に視界が闇に包まれた。

 

つづく (080328)

 

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