通りを行き交うヘッドライトが暗いアスファルトの車道を染めて通り過ぎていく。キラキラとひとときの輝きを放ちながら流れていくそれを眺めていると、そこでようやく正気が戻ってきた。 ―― 私、一体どこに行こうとしているの? 今更ながらの自問自答、そして応えてくれる声はない。聞こえるのはただ、微かに鼓膜を揺らす雨音。強く弱くなりながらも一日中止むことのなかった嘆きが、今もなお続いている。 ―― どうして、再びここにたどり着いてしまったの? 闇色に包まれた夜のオフィス街。昼間は数え切れない人々が足早に行き交う歩道も、今は静寂に沈んでいる。見上げる無数の四角い窓に思い出したようにぽつりぽつりと灯る蜂蜜色。温かい光が逆に孤独を増長させて、胸にひっそりと忍び込んでくる。 小夜子の手には、先ほど三鷹沢室長から渡された封筒がしっかりと握られていた。それを受け取った瞬間、知らない間に足が勝手に動き出す。背中に響く制止の声も振り切って、絹糸が降り続く空の下に飛び出していた。それから先の記憶は定かではない。どこをどう通ってここまでやって来たのか、自分でも全く思い当たらなかった。 雨は降り続いている。 今更バッグの底の折りたたみ傘を取り出すまでもないだろう。もう三十秒、いや二十秒かそれよりももっとわずかな時間かも知れない。それだけの間で身体に受け止める雫の数の差などそう大した量でもないはずだ。 ―― こんなことをして、何になると言うの? そして、再び自分に問いかける。自身の中から戻ってくる答えも期待できないままに、幾度となく繰り返していた。あまり感情を露わにする気質ではなかったから、以前からこのように自らを戒めるやり方はお決まりである。ただこれまでと決定的に違うのは、ふたつ三つと質問を増やしてもまだ思いとどまることが叶わないことだ。 今、目の前に立ちはだかるのは視界の全てを埋め尽くすほどの巨大な要塞。初めてその姿を間近に見たあの日よりももっと荘厳な面持ちでちっぽけな人間を見下ろしている。全面ガラス張りのそれは、周囲の植え込みに設置されたライトによって鮮やかに照らし出され不気味なほどに輝いていた。
◇◇◇
全ての靴音を吸収してしまうカーペット敷きの廊下を進み目的のドアの前に立ったとき、以前にも確かこのようなことがあったと思い出した。あのときと同じように軽い力を入れただけでドアレバーが下がる。でも、それも当然のこととして受け入れていた。何の確信があったわけでもない。しかし、自分が最後にたどり着く場所はここをおいて他にはないこともまた知っていた。 「……どうしたの、何か忘れ物?」 その人はがらんどうになった部屋の隅、窓際に立っていた。部屋の灯りは全て落とされ、ビル全体をライトアップする夜間照明が大きく取られた窓からわずかばかり差し込み、広い床面をそれに続く白い壁を静かに浮かび上がらせるのみ。文字通りに「四角い箱」が小夜子の目の前に広がっていた。 「……」 最後に蓉子と大竹と三人で念入りに掃除機を掛けた床には塵ひとつなく、だから何も置き忘れたものなどどこにも見あたらない。しかしこちらを振り返った人の静かな問いかけに、小夜子はゆっくりと頷いていた。片手を伸ばせば振り返らずとも照明のスイッチに触れることが出来る。でも、これくらいの心許ない明るさの方が今の自分たちには一番似合っている気がした。 「はい、どうしても今日中に済ませなければならないことがありましたので急ぎ戻って参りました」 隔てる何もない空間をゆっくりと横切り、最短距離でその人のそばへと進む。静かに月明かりのような眼差しがその間も始終自分に向かっていたが、不思議と恐れも気恥ずかしさも感じられなかった。足下から伸びる細い影を自らの靴底で踏みしめる。柔らかな黒髪が頬の脇で揺れ、決死の覚悟を後押ししてくれた。 「幹彦様」 声を震わせることもなくはっきりとその名を呼ぶことが出来たとき、ほとんどの目的は達成できた気がした。ほんのちょっと前まで、少なくともこの一籐木の本社ビルに足を踏み入れる以前の小夜子であったら、このように大それた真似はとても出来なかったと思う。臨時職員として過ごした時間は、想像以上にたくさんのことを教えてくれた。そのことに素直に感謝しなくてはならない。 「こちらはお返しします。受け取っていただかなくては困りますから」 目の前に突き出された封筒に彼はゆっくりと視線を落とした。その中に何が入っているかを当の本人が知らぬはずもない。だがしかし、次の瞬間に彼は静かにかぶりを振った。 「いや、それを受け取るわけにはいかない。だからこそお返ししたんだよ。初めからひとつ数が足りなかっただろう、そのまま君の分にしてしまえばいい」 優しい表情とは裏腹な、はっきりとした拒絶がそこにはあった。断られるとしても、もっと婉曲的な表現で返されるものとばかり思っていた小夜子は一瞬ひるんでしまう。しかし、ここで素直に引き下がることは出来なかった。 あの日、山間の野で無心に探した四つ葉たち。それをこの部屋で過ごした全ての時間への感謝にかえて、メンバーのひとりひとりに手渡した。しかし、誰よりも一番受け取ってもらいたかったその人からあっさりと突き返されては仕方ない。全ての努力が無駄になってしまったというのは大袈裟かも知れないが、それに似た気分を抱いたのは本心だ。 「……そんな、それでは私は何のために」 自分のエゴでしかないことは分かっている、でも他の誰でもないこの人だけは快く受け取ってくれると信じていた。何故なら、あの瞬間に抱いた小夜子の想い全てを誰よりも間近で感じ取ってくれたはずなのだから。 「なんと言われようとも、僕の気持ちは変わらないよ。さあ、話は済んだのだからもう帰りなさい。あまり遅くなってはお家の方が心配なさるからね。何だったら、またいつかのように車で送らせようか?」 その声は「上司」から「部下」へのものであり、絶対的な宣言でもあった。しかし、どうしてここまで冷たく突き放されなくてはならないのだろう。 「いえ、こちらを受け取っていただけるまでは、どうしても帰れません」 ただ形式的に、感情を抜きにしてこちらの言い分を聞いてくれればそれでいいのだ。もしも帰りがけに目に付いたダッシュボードに突っ込まれたとしても文句は言わない。 「駄目だよ」 だが、彼はまた首を横に振る。それから視線すらも小夜子を避けて、また窓の下の風景へと戻っていった。 「僕はもう、君のことを忘れなくてはならない。君はこの場所からいなくなるのだから、きっぱりとその存在全てをなかったことにして消し去りたいんだ」 その声はナイフのように、小夜子の心を切り刻もうとした。だが、それは叶わなかった。何故なら、きっぱりと突き放す言葉たちの向こうに、もうひとつの真実が見え隠れしていたから。強い拒絶はまた、激しい欲求とも対等である。少なくとも、今の小夜子はそのことを知っていた。 「嫌です、そんな」 ほんの少しでも緊張の糸が途切れたら、その瞬間に泣き出してしまいそうだ。顎がガクガクと震え、唇の動きもままならない。普段の小夜子だったら、とっくに感情の全てを飲み込んで逃げ出していることだろう。 「そんなの、悲しすぎます。消さないでください、ここで過ごした時間も皆さんのことも、……私のことも。何故、そのようなことを仰るのですか」 きれいごとでもいいから、体裁を取り繕うだけでもいいから、最後の記憶を美しいままにしたいと思った。どんなにそれまでの全てが素晴らしくても、おしまいで躓いては何にもならない。物事とはすべてそのようなものだ。 「―― そういう君は、どうなのかな」 彼は再びこちらに向き直った。そのときになって初めて気づいたのであるが、その手元につい半日前まではあった松葉杖が見あたらない。もう痛みなく歩けるようになったのだろうか。それともその痛みごと受け入れることにしたのだろうか。 「本当に、信じられないほど残酷なことを言ってくれるものだね。人は見かけによらないとはこのことか」 その瞳には弱々しい光しか残っていなかった。いつかどこかで見知ったものに再び出会って、小夜子はハッとする。あのときはどうすることも出来なかった自分だった、だが今はもう違う。 「その通りです、私は人形ではなくて血の通ったひとりの人間です。―― 以前はそうでなかったかも知れませんが、今ははっきりと言えます」 喉の奥が震えて、言葉が上手く出てこない。でもかたち良く収まらなくても、今は自分の言葉で自分の想いをしっかりと伝えたいと願った。 「私がこちらにお手伝いに来たのは、本当に思いがけないことでした。最初はひどく戸惑いましたが、今は部屋の皆さんにも推薦してくださった佐々木営業部長にも感謝の気持ちでいっぱいです。わずかな時間で自分がとても変わることが出来たと思っています。ですから、その……」 今日の想いを無に返したくはない、ずっと美しいままで心の奥に深く縫い止めておきたい。そのためにはただひとつの汚点も許されないのだ。優しい人は優しい人として、最後まで仮面を被っていて欲しい。 「確かに、君の気はそれで済むかも知れない。だが、そのために相手の気持ちを踏みにじってもいいと言うのはちょっとおかしくないかな。僕にとって君は、すでに過去の人間だ。だから忘れなくてはならない、ひとつの足跡も残してもらいたくないんだ」 ふたつの心はどこまでも平行線を辿り続けているように感じられた。こちらが強く出れば、相手もまた強く突き返してくる。ここで観念して泣き出せたら、事態は少しは好転するかも知れない。だが、そのような卑怯な真似だけはしたくなかった。 「……どうして……」 ここまで冷たくされる理由が見つからない。確かに自分はこの場所にいて十分に役立っていたとは思えないし、むしろ足手まといになってしまうことの方が多かったかも知れない。だが、少なくともこの人はどんな状況にあったとしても始終優しい眼差しで受け止めてくれたではないか。何故最後に、ここまできて手のひらを翻すことをするのだろう。 「分からないかな?」 薄い唇がかすかに動いた。そしてその声は確かに小夜子の耳に届いた。 「それは―― 君が、僕の手には永遠に届かないたったひとつの花だから」 思いがけない言葉に目を見開いた小夜子を置き去りにして、彼はゆっくりと語り続ける。その口元には悲しみをたたえた淡い笑みが浮かび、先程までの氷のような冷たさが消えていた。 「あの日、歩き慣れたはずの石段で足を踏み外してしまったのはね、……その向こうに名前も分からない白い花を見つけたからなんだ。僕はずっと君のことばかり考えていた、だからまるでその花が君の存在そのもののように思えてしまったんだろう。あのときも分かってはいた、その気持ちを全て無に返して忘れなくてはならないと。後戻りが出来るうちに、誰も、……誰よりも君を傷つけてしまうその前に」 何故かその刹那、小夜子の脳裏に全く違うひとつの場面が蘇ってきた。 あれは確か、最初で最後、この人の御父上である一籐木月彦社長と面と向かって話をしたそのとき。あのときも、自分は花にたとえられた。ほんの一瞬の出来事ではあったが、あまりに鮮烈な記憶であり、この先も一生決して忘れることは出来ないであろう。 「初めて自分の本心に気づいたのがいつかは分からない、でもそれを知った瞬間に僕は今までに感じたどの恐怖よりも深いものを覚えた。すぐさま全てを消し去りたいと思ったのに、どうしても上手くいかない。しまいには何も知らないまま振る舞う君を心底憎くも感じられたよ。それくらい、僕はどうかしていたんだ。だからあの怪我はその報いだったのだろうね。 言葉の意味はあまり分からなかった、たとえのひとつひとつがあまりに抽象的で上手くくみ取れない。だが、しかし小夜子の中にもまた似たような感情があったことに思い当たった。そのことに長く苦しめられていたことにも初めて気づく。惑わされて振り回されていたのは、自分も同じだった。 「それは……多分、私自身の願いでもあるかも知れません」 自分の存在を一枚のしおりに託すことで、全てを美しい一枚の記憶に留めてしまおうと考えていた。限られた時間の中で作業を続けながらも心のどこかに後ろめたい気持ちがあったは、このためだったのか。卑怯者にはなりたくないと祈りながら、実はとっくに罪を背負っていたのだ。 「私も、幹彦様のことを、幹彦様と過ごした全てのことを忘れてしまいたいのだと思います。ですからこれを、このしおりを受け取ってください。そうすれば、全てが終わるのですから」 抑えてもこみ上げてしまう激しい感情も、いつか時の流れの中で淡い思い出として片づけられることが出来るだろう。どうしてもそうでなくてはならない。通い合うことの出来ない心同士が相手を傷つけることなく通りすぎるにはそれ以外の方法はないのだ。 「いや、すまないがそれだけは出来ない。……どうか分かって欲しい、お願いだから」 それでもまだ彼は首を縦に振ってはくれない。それならばこちらから折れるほかないのだろうか、いやそれは無理だ。この想いを留めたままでこの先どうして生きて行けよう。 「で、でもっ……私は……」 この人の心の奥にある悲しみや苦しみ、それが透けて見えてくる瞬間があった。だからどうしても幸せになって欲しいと願ったのもまた事実。そのためには我が身が泥を被ることもいとわないと思った。でも、今はこの先のことが恐ろしくてならない。 「お願いします、どうか黙ってこちらを受け取ってください。幹彦様は最初からそのおつもりでこちらにお待ちくださったのではないのですか?」 小夜子の今一度の訴えに、彼はハッとして向き直る。だが、次の瞬間にはもうひとつのことに思い当たった様子だ。 「いや、それは……それより、ならば君はどうして僕がここにいると思ったの?」 今度は小夜子の方が思考を止める番であった。本当に、不思議なほどに何もかもが謎に包まれている。ただ足が勝手に、この場所へと導かれた。何の確信もないままに、それでも迷いはひとつもなかったのである。 静かな沈黙が流れる。そして彼は、やがて小さく口火を切った。 「……そうか」 彼は今一度、大きくかぶりを振る。何かを振り払うように、そして何かを強く心に刻むように。 「やはり僕たちは、こうして出会ってしまう運命にあったんだ。もしもここで一度別れても、いずれ再び巡り会ってしまう。本人たちにその意志がなくても……きっとお互いから永遠に逃れることなど出来ないんだ」 それから彼は、未だに小夜子の手にある白封筒に視線を落とした。その眼差しは先程までとはうって変わり、小夜子の大好きな柔らかいものに変化している。 「これを君は……どうしても僕の手に渡したいんだね」 思いがけずに肯定的な言葉を投げかけられ、小夜子は無意識のうちに頷いていた。そうだ、その通り。そのために自分はここまでやって来た。この想いごと、全て手渡して自分ひとりが楽になるために。 「でも僕は、これを君にお返ししたい。……こんな風にしていても、きっと永遠に話し合いは付かないよ」 小夜子の震える両の手をもうひとりの両の手が静かに包み込む。不安と恐怖と……そしてそれを遙かに上回る愛おしさが、一気に押し寄せてきた。 「心して聞いて欲しい」 温かい響きに導かれて、再び顔を上げていた。小刻みに感じる震えは、自分のものなのだろうか。それとも目の前の人のものなのだろうか。 「僕がこれから歩む道は間違いなく険しく辛いものだ。だから、誰の犠牲も伴わずたったひとりで進めばいいと長い間思ってきた。でも、今の僕にはもうその勇気が持てない。だけど、君がいれば……君がそばにいてくれれば大丈夫な気がするんだ。君を守ることで僕は強くなれる、そのほかの道などもう思いつかない」 あまりに強い衝撃。熱く激しいものに心が鷲づかみされたような気がした。実際には手のひらから伝わる真綿のような柔らかなぬくもりのほかは、確かめるすべは何もないのに。 「……そんな、でも私は……」 いきなりこんな話をされるとは思わなかった。もしやこれは庶民の自分などには思いつかないような上流階級の冗談なのだろうか。いや、それにしてもあまりに趣味が悪すぎる。 「いいよ、どうしても断るというならこれは君にお返ししよう。最初からそのつもりだったのだからね」 一度は落とした視線を、ハッとして再び上げる。その先にあるのは、やはり包み込むような優しい眼差し。 「やっと、答えにたどり着いた。本当に……長かったな」 そのままゆっくりと抱きすくめられる。あの花野での抱擁よりもずっと強い力を背中に感じながら、小夜子もまた彼の背にしっかりと腕を回していた。とうとう心のたがが外れてしまったのか。たまらなく恐ろしかった、だがその上を行く喜びに自分自身を抑えることが出来なくなっていた。 たとえようがないほど怖い、この先どんな苦しみが待ち受けているのかと想像するだけで息が止まりそうだ。 「私……でも、この先どうしたら」 ただの下請け町工場の娘である自分とこの人では何もかもが違いすぎる。それは誰の目からも明らかであることで、このままでは彼の言う人生の茨の道のその入り口まで到着するのも難しい気がした。感情に飲み込まれてしまうことは容易い、でも地に足を付けた人間は絶えず現実を忘れることは出来ない。 「心配には及ばないよ」 しかし、彼はきっぱりとそう言いきると愛おしそうに小夜子の髪をその長い指で梳いた。永遠と寄せては返す波音のように、緩やかに。 「君はただ僕の隣でしっかりと根を張って咲き続けていてくれればいい。無理に引き抜いて他の場所に植え替えたりはしないよ。そんなことをしたら、君が君でなくなってしまう。だから、ただそばにいてくれれば……」 言葉はそこで途切れた。千の音色よりも確かなぬくもりをお互いに与え合うために。ひとつに重なり合った影が長く伸びて、ふたりの行く末を静かに辿っていく。
何もなくなった部屋から全てが始まる。 暗黒の果てのその先にどんな困難があろうとも、このぬくもりを手放すことに比べたらあまりにささやかな痛みでしかないことを小夜子はもう確信していた。
了 (090413)
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