「やはり、この方がずっと宜しいですよ。食事は大勢で召し上がった方が美味しいに決まってますからね。さあ、最後にスープを運んで来ましょう」 向かい合った席に着いた人がその言葉に苦笑いをしている。多分、昼間の彼女とのやりとりを思い出しているのだろう。だが、長年の付き合いではっきりした物言いにも慣れているらしい。やんわりと攻撃をやり過ごすつもりのようだ。 「何も遠慮なさることはないのです。それにお食事を全てお部屋までお運びする手間を考えたら、幹彦様を運んだ方がよほど楽ですよ」 道子の料理の腕前はなかなかのものであった。いつも食べ慣れている野菜なども、この人の手に掛かると今まで味わったこともない奥深いものに変わってしまう。今夜の食卓は西洋風のものでまとめられていたが、どのようなジャンルでも一通りはこなせるらしい。もちろん、それだけ優秀な人材であるからこそ天下の一籐木一族に雇われることが出来たのだろう。 「……そうだね、道子さんの言う通りだ」 そう告げたあと、彼は小夜子に対してはにかんだ笑顔を見せた。あまりに自然なその仕草に一瞬はどきりとしたものの、すぐに思い直す。こちらから笑顔を返すまでにはしばしの時間が必要だったが、ぎこちなくもどうやらやり過ごすことが出来た。 「とにかくこの際お仕事のことは忘れて、ゆっくりと休養なさることですよ。そのことが結局一番の薬になるのですから。主人も申しておりました、近頃の幹彦様はあまりにも頑張りすぎだと。お忙しいのはお立場上無理もございませんが、それでお身体を壊してしまってはどうにもなりませんからね。この度は腹をくくっていただかないと」 そんな風に言いつつも、道子はどこか嬉しそうだ。この人もまた、幹彦氏のことが好きなのだろう。ましてやお小さい頃から親しくしていれば尚更だ。普段のあの多忙なスケジュールでは、自宅へは寝に帰るようなものになってしまうと思う。顔を合わせる機会はあっても、ゆっくり会話をする暇はないはずだ。 「明日からも数日は良い天気が続くそうです。午後はお散歩にでも出掛けられたら如何です? 良い気分転換になると思いますよ」 ふたりの会話の間で、小夜子は時折小さく頷くだけでことが足りた。静かに時間が流れる空間、思いがけず、本来ならば雲の上のような存在の人と向かい合って夕食を楽しんでいる。道子にとって自分はこの別荘の客人なのかも知れないが、本当のところは目を合わせて話をすることすら躊躇われる相手なのだ。 ―― それに、……今の私の立場を望んでいる女性は数え切れないほどいらっしゃるわ。その方々が今の自分たちを見たら、どんなにか憤慨なさるかしら。 余計なことは忘れなければと思うのに、なかなか上手くいかない。柔らかく野菜を煮込んだスープの味も分からなくなるほど、小夜子の心は緊張していた。
◇◇◇
「……すまないね、このようなことまでお願いしてしまって」 第三者の気配が消えると、この人はあっという間によそよそしい態度に戻ってしまう。後ろから彼の背中を眺めながら、小夜子は当然の成り行きをとても口惜しいものに感じていた。換気のために開けられている窓から、夜風が細く吹き込んでくる。その冷たさが胸の奥まで忍び込んでくるような気がした。 「いいえ、大丈夫です。今夜は急ぎの用事もありませんし」 努めて平静に振る舞ったつもりであったが、やはり言葉の響きの中に幾らかの落胆が滲み出てしまっている。完璧に演じようと言われたところで、しょせんは素人。あまり上手くいきそうにない。やはり人前では余計な会話はせずに聞き役に徹した方が良さそうだ。 「あ、ちょっと遠回りをしてもらえるかな。ここを左に折れた部屋に寄っていきたいんだ」 突き当たりまで来て普段通りに右に曲がろうとしたとき、先手を打ってそう言われた。言葉の通りに道を変えると、すぐに大きなドアに突き当たる。まずは小夜子ひとりが先に進み、ドアを開け灯りを付けた。 「……すごい」 無数のライトに照らし出された部屋を見渡して、小夜子は思わずそう呟いていた。例えるならそこは図書館、壁一面に本棚が作り付けられ、ぎっしりと書籍で埋まっている。さらに部屋の中央部分にも後付けされたらしい棚がいくつも並んでいた。小さな書店ならすっぽりと入ってしまうほどのこのスペースに一体どれだけの蔵書が収められているのだろう。 「ふふ、驚いたでしょう。道子さんには叱られてしまいそうだけどね、長時間ベッドに縛り付けられて身動きが取れないのも退屈なんだ。こういう機会でもないと、ゆっくり本を読むことも出来ないから」 とは言え、とても退屈しのぎに頼めるような内容のものはなさそうである。手に取るのも躊躇ってしまう革表紙の背に書かれているのは半分以上は横文字。しかもアルファベットの並びから見て、英語以外の言語で書かれた言葉のように見受けられるものも少なくない。一体どんな内容なのかも、全く理解できないものがほとんどなのだ。 「こちらは……ご家族皆様のものを並べてあるのですか?」 一応はジャンル分けになっている様子だが、その区分の仕方も見当が付かない。日本語のタイトルだけを目で追って察するに、幹彦氏が眺めているのは経済関係の棚のようだ。しかしそれよりも小夜子が気になったのは、一番奥まった場所にある医学書とおぼしきものを集めた一角である。 「いや、ここにあるほとんどは僕が個人的に求めたものだよ。あまり活発な方ではなかったからね、幼い頃からこんな風に本に埋もれている時間が一番幸せだったんだ。もちろん自宅にも書斎はあるけれど、そこには入りきれないものをこちらに移したって感じかな。やっぱりここに来たときが一番のんびり出来るからね、機会があれば読み直したいと思っているものばかりだ」 ということは、ここにある莫大な量の書物は最低でも一度は目を通したことのあるものばかりだと言うことなのだろうか。仕事上身近に接していく中でとても優秀な方だと感じていたが、ここまで来るともう頭の構造から何から自分とは全く別の人種であると思わずにはいられない。 ―― やはり、こちらの方は雲の上の存在なのだ。 平凡な暮らしを穏やかに送っていく人生では出会うはずのなかった人。生まれも育ちも全く違う、そんなふたりでありながらどうして今こうして同じ部屋に佇んでいるのか。 「ちょっといいかな、片岡君。その上の段の赤い背表紙の本を取ってもらいたいのだけど」 ひとときの静寂は破られ、ふたりは元の患者とその介添えの関係に戻る。幹彦氏は並んでいる書物の一冊ずつをきちんと把握しているらしく、自分の求める一冊を間違いなく指し示した。英語であっても完全とは言えない小夜子にとって、それ以外の言語で書かれたタイトル文字は一体何と書かれているのか全く理解できない。だが、隣にいる人は異国の言葉を母国語同様に操ることが可能なのだ。 「ありがとう、これだけあれば退屈しなくて済みそうだ。さあ、そろそろ戻ろうか。ここにいることが道子さんに見つかったら、また叱られてしまうからね」 そうは言いつつも、まだ去りがたい様子である。しかしそこは強い理性で自分を制し、自らの手で椅子の向きを変えた。小夜子も慌ててあとに続く。途中で車椅子を止めて前に出るとドアを開け、部屋から出たところで一度戻り照明を落とした。ドアを閉じながら、つい鍵穴を探してしまう自分に気付く。ここではそんな心配とは無縁なのに。 「驚いたでしょう、堅苦しい本ばかりで君には退屈だったね。もう少し親しみやすい内容のものも揃えてあれば、暇な時間を楽しむことも出来ただろうに」 小夜子は即座に首を横に振ったが、こちらに背中を向けている人にそれが見えるはずもない。壁伝いに長く伸びたふたりの影がゆらりゆらり揺れながら進んでいく。 「……片岡君、先ほどの部屋で奥の棚を眺めていたでしょう?」 不意に話を振られて、ハッとする。そんなにあからさまな態度であっただろうか、別に取り立てて興味をそそられた訳ではないのだ。ただ、他の書物とはどこか趣が違うような気がして、それを不思議に思っただけのことで。もしもそれについて別の解釈をされていたのだとしたら恥ずかしい。 「あそこはね、僕にとって特別の場所なんだ。だからあまり、他の人を入れないようにしている。それが例え家族の誰かであってもね」 それはこちらに説明していると言うよりは、むしろ独り言に近い呟きであった。その表情を確認する術もないままに、小夜子は壁に映った影の横顔を見守る。 「僕は、本当は医者を目指したかったんだ。母があの通り病弱な方だったしね、少しでも役に立ちたいという気持ちが強かったんだと思う。大学進学時にも本気で考えたよ、……もちろんそんなことが許されるはずもないと言うことは分かっていたけれど」 沈黙を守り続ける小夜子の胸に、ぽつりぽつりと言葉が落ちてくる。その内容ももちろん、そこに込められた思いまでが深く沈み込んでいった。 「そう……だったんですか」 きっとこの方は、自分の希望を直接親しい誰かに話したことはなかったのだろう。その相手がたとえ両親であったとしても、とても許されることとは思えない。一籐木月彦社長には幾人もの息子がいたが、やはり彼の跡を継ぐとなれば長男である幹彦氏以上の適任者はいないはずだ。 「もちろんそんなこと、今となってはただの昔話になってしまうけどね」 自分自身はどうだっただろうと小夜子は考える。こんな風に何か強く望んで、それが果たされなかった悲しみをかつて経験したことがあるだろうか。いや、思い当たる何もない。何となく日々を過ごし、何となく周囲にあわせ、そこには決定的な何も存在しなかった。 「いえ、とても素敵なお話だと思います」 小夜子には、それだけ告げるのがやっとであった。別に今の幹彦氏を否定するつもりはない、彼は一籐木の次期後継者として揺るぎないものをもっている。だけどそこに至るまでの道のりでは、己の希望までも押し曲げる辛い現実があったのだ。 適材適所という言葉ある。先日たった一度だけお目に掛かった一籐木の現社長、すなわちここにいる幹彦氏の父親になる人は、ただそこに存在するだけで周囲の者を圧倒する「何か」を備えた人物だった。あまたの競争相手としのぎを削り合う過酷な状況でも決して己を失うことなく確実に最高の業績を上げることが出来る。たとえ直接その現場に居合わせなくても容易にその姿を想像出来た。 「ああ……いけないな」 自室のドアの前まで辿り着いたとき、彼はそう呟いて首を横に振った。 「君と一緒にいると、ついついおしゃべりになってしまうようだ。こんな話、聞かされたところで片岡君が困るだけなのにね。全く、どうかしてるよ」 こんな時、気の利く女性であったらどのように返答するのだろう。「そんなことありません」と柔らかく否定するべきか、それとも温かい言葉でさり気なくお慰め出来るのだろうか。 「実を言うとね、片岡君には驚かされることばかりなんだ」 元の通りに車椅子の後ろに戻ろうと足を向けたとき、意外な言葉が投げかけられる。小夜子が驚いて声の主の方を見ると、彼は何事もなかったかのように静かに微笑んでいた。 「出張から戻ってみると、君はもう部屋のみんなとすっかり馴染んでいた。あのときは自分ひとりが置いてきぼりになった気分になったよ。ほんの数日の間に、メンバーの雰囲気も一新していたからね。最初は何がどうなっているのか、さっぱり理解できなかった。その原因をどうしても探りたくなって、皆の様子を細かく観察したりして。あれこれ考えるうちに、ようやくひとつの結論に達したんだ」 穏やかな瞳の奥が小さく揺らいでいる。そこに潜む心がたまらなく辛かった。この人は、ご自分が拒絶されていると信じている。はっきりと言葉と態度で示したのだから、当然のことだ。しかし実際はそうではない。そのことは、他の誰でもない小夜子自身が一番良く分かっていた。 「皆の真ん中に、君がいたんだ」 ゆっくりとふたりの間を風が通りすぎ、それは垂らしたままの小夜子の髪を静かに揺らしていった。 「多分そのことに気付いている人はいないかも知れない、だけど誰もが無意識のうちに君の存在に吸い寄せられていく。何か特別なことをしている訳でもないのに、いつの間にかそうなっていたんだね」 一体、この人は何を言い出すのだろう。予想もしなかった言葉に、すぐには肯定の言葉も否定のそれも思い浮かばなかった。 「そ、そんな……そんなはずはありません」 どうしてこんな思い違いをなさるのだろう。自分はいつでも与えられた仕事をこなすのに精一杯で、余計なことなど何も考えられないまま過ごしていた。もちろん、少しでも皆の手助けになればいいとは思っていた。でも実際はこちらが気に掛けてもらうばかりで、何の恩返しも出来ないまま今日まで来てしまったのである。 「別に悪いことをしたわけじゃないんだからね、何もそんな風に萎縮することはないよ」 まっすぐにこちらを向いている視線に晒されていては、それこそ身の置き場もない。小さく縮こまるばかりの小夜子に、彼は静かにそう告げた。 「もちろん、君が計算尽くでそうしているわけではないと言うことは分かっている。相手に好かれようと努力しても実際にそうなることはとても難しいからね。何て言ったらいいのだろう、君といると無理に頑張りすぎなくてもいいのかなと思えてくるんだ。多分、他の皆もそう言う気持ちなんだろうな」 思いがけない言葉がさらに続き、小夜子はすっかり混乱してしまった。もしかして、この人は自分を励ましたくて心にもないことを仰っているのだろうか。そうだとしたらあまりに申し訳ない限りである、いろいろなことが続きお疲れのところさらに気を遣わせることなんてしたくない。 ―― 幹彦様はお優しい方だから、こんな風に良心的に解釈してくださるのだ。 決して誰かを傷つけたりはしない、そんな方を自分は傷つけてしまった。そうしておきながら、今もまだお側にいる。これではさらに傷口は深くなるばかりではないか。やはり自分などがここに来てはいけなかったのである。それくらい最初から分かっていたことなのに、気がついたら気持ちよりも行動が先になっていた。 「さあ、久しぶりに動き回ったらさすがに疲れたな。ベッドのところまで運んでくれるかな、あとのことは自分でどうにか出来るから」 何も出来ない自分にただただ心が痛んだ。与えられるばかりで、お返しできるものが見つからない。このまま時を過ごしていけば、近い将来に必ず別れが訪れる。そのときが来たとしても、結局この手のひらの中には確かなものなどあるはずもない。 「あ、あの……、幹彦様」 こんなこと申し上げていいのかと、躊躇いながら口を開いた。もしかしたら、とんでもない見当違いをしているのかも知れない。そんな思いも少し遅れて追いかけてくる。 「明日、時間が空いたときに外に出てみませんか? 私、こちらのことは何も分かりませんので道案内をしていただけたら嬉しいのですが」 これ以上踏み込んではならない、後戻りをするなら今のうちだ。そうは思っても、一度口から出た言葉を今更言い直すつもりはなかった。 「そうだね、もしも晴れたら出掛けてみようか。道子さんに美味しいお弁当を作ってもらおう」 さり気ないやりとりの間で、ふたりの気持ちがそれぞれに空中に浮きあてどなく漂っていく。実際にそれが目に見える訳でもないのに、小夜子ははっきりとそう感じ取っていた。
つづく (080718)
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