TopNovel赫い渓を往け・扉>白い約束・3




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 小夜子が「佐々木のおじさま」と直接会うことが出来たのは、初出勤から三日目のことであった。

 彼はその日まで九州の支社に出張しており、不義理を詫びる電話はすでに受け取っている。別に謝られる理由はない、こちらとしてはお礼を言わなければならない立場なのだからと思いつつも、久しぶりに聞く優しい声に張り詰めていた気持ちが少しだけ緩んだ。

 

  蓉子のはからいで昼休憩の時間を十五分早く繰り上げてもらう。待ち合わせの社員専用ラウンジに出向くと、彼はすでに先に来ていて窓際の椅子で熱心に何かの資料を読んでいたが、すぐに気付いて顔を上げた。

「やあ、小夜ちゃん!」

 子供の頃から変わらない親しさで佐々木氏は声を掛けてくる。何も分からない幼かった自分なら、優しく広げてくれた両腕の中に迷わず飛び込んでいただろう。確かに以前はそうだった。だが今では、身体が素直に動く前に理性が頭をもたげてきて阻止してくれる。

「おじさま、ご無沙汰しております」

 どのように呼びかけたらよいのか、一瞬考えてしまった。だが、第一声だけは旧知の仲である自分たちでいいと思う。そんな気持ちが伝わったのだろうか、軽い会釈の後に顔を上げると、彼は興味深そうな眼差しを全く隠そうともせず小夜子に向けた。

「嬉しいよ、この場所で小夜ちゃんに会えるとはね。しばらく会わないうちに一段と綺麗になったね、家内も君にとても会いたがっていたよ」

 勧められるままに向かい合った席に腰掛ける。まだ混み合う時間には早いためか、空席がほとんどだった。
  今日で三日目の職場であるが、その間に一度だけこの場所を覗いたことがある。作成した資料を別部署に届ける際に、蓉子が案内がてら同行させてくれたのだ。あのときは丁度ランチタイムのピークだったのだろう、色とりどりの制服やスーツ姿で溢れかえっていたと記憶している。その光景を目の当たりにしたときに、小夜子は改めて「一籐木」という企業の巨大さを悟った。
  専務室のメンバーは外出していない限りは部屋で食事をすることが原則となっている。忙しいスケジュールの中では互いに顔を合わせる機会も貴重になるから少しでも同席する時間を増やそうという意図もあるのだろう。弁当を持参する者もあれば、ラウンジで注文したプレートを運び込む者もあった。
「互いを知るためのもっとも効果的な手段は同じテーブルで食事をすること」―― 幼い頃から両親に幾度となく言われてきたことが、めまぐるしく情報の行き交う大都会の一室でもきちんと守られている。小夜子にはそれが不思議でならなかった。

「今回は急な話で済まなかったね。小夜ちゃんが引き受けてくれて本当に助かったよ、相談を受けたときに真っ先に君のことが思い浮かんだんだ。困ったことがあったら何でも相談してくれ、ここでは私が君の保護者だと言ってもいいのだからね」

 テーブルの上で組まれた大きな手、こちらに乗り出してくる上半身。記憶の中にある優しいおじさまの姿がそのまま目の前にあることに、小夜子はこの上なく勇気づけられた。もちろん専務室のメンバーも皆親しく接してくれる。まるで何年も一緒に仕事をしている仲間のように扱ってくれることは嬉しく、そして同時にとても責任の重いことだと考えていた。
  今までとは全く違う職務に就いているのだ、慣れるまで戸惑うのは当然のこと。仕事の内容についてはどうにか自分に言い聞かせることが出来た。だがしかし、もうひとつの問題が日を追うごとに頭をもたげてくる。こんなことをお伝えして本当にいいのかと躊躇するが、他に適当な相手が思い浮かばない。やはりここは思い切って打ち明けるしかないのだろうか。

「あの、おじさま。……いえ、佐々木営業部長」

 小夜子は小さく首を横に振ると、慌てて言い直した。たらしたままの黒髪が柔らかく輪郭を縁取る。きちんとまとめた方がいいだろうかと毎朝自室の鏡の前で格闘するのだが、仕上げたスタイルはまるで女子高生の昔に戻ったような姿になってしまい困り果てていた。

「このたびのお話はとても驚きましたが、貴重な経験をさせていただけて大変光栄に思っております。両親もくれぐれもよろしくと申しておりました。で……その。家の者からも訊ねられたのですが、この先どれくらいの期間こちらに通うことになるのでしょうか?」

 自分の言葉がどのように相手に伝わってしまうのか、小夜子は躊躇していた。今回のことはとても感謝している。一生掛かっても味わうことが不可能であるはずの数々をほんの数日の間にあとからあとから実体験しているのだから。だがこのことは、お目に掛かったら一番先にはっきりさせなくてはならない事柄である。専務室の先輩方に訊ねても良かったのだが、やはり最初に佐々木氏を通すのが筋だと思った。
  家族経営であるとは言っても、実家の工場では小夜子にもきっちりひとり分の仕事がある。数日間であれば母親が手を広げて何とかカバーすることも出来るが、もしもある程度の期間に渡ることになれば他にパートを雇わなくてはならなくなるのだ。事実、小夜子が働き始める前までは年配の女性が事務員として入ってくれていた。

「うーん、困ったな。私も詳しいことはまだ何も聞いていないんだ。そのうちに人事課に話をしてみるよ、今新しい人を雇うとなると中途採用になっていろいろ厄介なんだ。まあ、……当座の二三ヶ月と思ってくれればいいかな」

 準備運動でもするかのように首を大きく回して、佐々木氏はたった今初めて思いついたことのように口にする。その瞳にも隠し立てのない素直な気持ちが表れていた。
  まあ無理もないことなんだと思う、この方はとても忙しいのだ。全国各地に飛び回り、あちこちで商談をまとめているのだと本人の口からも以前聞いている。どうしても人任せには出来ず、重要なポストを与えられた今でもつい自力で動いてしまうのだという。そのことについて部下からはっきりとした言葉で注意を受けることもあるのだとか。

「そう……ですか」

 小夜子は少し俯くと、佐々木氏に気付かれないことを祈りつつ小さい溜息をついた。
  膝の上で握りしめた両手、その長さの半分程までが袖に埋まっている。今日のスーツは姉のもの、去年親戚の結婚式に呼ばれたときに新調したという一張羅を借りてきた。長い間タンスにしまい込まれていたために、まだ少し防虫剤の香りが残っている。ちなみに昨日は母親の服を借りていた。

  専務室が私服勤務だということは初日に気付いている。上司である蓉子が一日中身につけていた女性らしいスーツは他の女子社員が着用しているものとは明らかに違っていた。都会のキャリアウーマンを思わせる、しかしどこかに女らしい優しさを感じさせるデザイン。今日を含めた三日間、蓉子は毎日違ったスーツ姿で現れた。似たようなニュアンスを感じるから、多分同じブランドのものなのだろう。
  身につけている服だけではない。靴もバッグも、そして髪型もメイクも。もちろん新人でおのぼりさんの身の上である自分が彼女と対等になる必要はないと思う。でも、必要があって連れ立って歩かなくてはいけないときには自分が悪目立ちをしているような気がして落ち着かなかった。同性のメンバーが彼女ひとりだったことも災いしている。ただ、別の誰がいても今のこの状況が好転するとは思えなかった。
  当座のことであれば、今日までの三枚を繰り返して身につければ用が済む。しかしある程度の期間に渡るとなると話は別だ。それに自分の身体に合わない服ではやはり無理がある。

 慣れない土地で働くとなれば、幾多の試練が我が身に降りかかると覚悟を決めなければならない。頭では分かっているつもりであったが、現実は想像を遙かに越えた状況を突きつけてくる。
  自分ひとりの努力で乗り越えられる山ならば必死で頑張ることも出来るだろう。だが、何もかも全てが違いすぎる。このままでは遠くない未来に自分自身の中にある劣等感でなけなしの希望が押しつぶされてしまうのは明らかだ。
  もっと事前に、きちんと全てを把握しておくべきであった。とりあえず飛び込んでみればどうにかなるなどと楽観してはならなかったと今は思う。

 もしも仕事に関係する悩みであれば、すぐにでも打ち明けることが出来ただろう。だが、目の前にいる立派な身なりの男性は、地位も名誉もある自分とは全く立場の違う人間なのである。もちろん彼であっても抱えている問題はたくさんあるはずだ。しかしそれは、小夜子の抱えているそれとは全く次元の違うものに違いない。
  突然環境が変わり、身の回りの品々にも苦労している自分を知られてしまうのは恥ずかしかった。きちんと説明すればある程度の理解は得られると思う。佐々木氏は聡明な人物だ、己の物差しだけが正しいと決めつけるはずはない。でも、やはり真実を口にするのは憚られた。

「小夜ちゃん」

 話の核心に触れることなく俯いてしまった小夜子に対して、佐々木氏はしばしの沈黙の後に再び問いかけた。もちろんいつも通りの柔らかい語り口である。

「せっかく久しぶりに顔が見られたのに、せわしなく話をするのも楽しくないね。どうだろう、もしも良かったら今夜仕事が終わった後でウチに来ないかい? 幸い明日は祝日で社も休みになる、遅くなったらそのまま泊まってくれても構わないし」

 予想もしなかった言葉に、小夜子は驚いて顔を上げていた。その頬に映った色を知ってか知らずか、彼は当然のように話を続ける。

「何、このことは妻と以前から話していたことでね。あいつも小夜ちゃんと会いたくて仕方ないようなんだ。着替えの心配なども無用だよ、ろくに袖を通さないうちにサイズが合わなくなってしまった妻や息子の嫁たちの服がタンスに入りきれないほどあるからね」

 全く困ったものだと首をすくめて、彼は言った。

「でも、……そんな」

 確かに有り難い申し出ではあるが、二つ返事で飛びついてしまって良い訳がない。両親もきっと当惑することであろう。自分のことは自分できちんと始末すること、不用意に他人に甘えてはならないと言うことは昔から厳しく言い聞かせられている。

「いや、これは人助けだと思って頼むよ。息子たちも北海道だ九州だと仕事で遠くに住んでいてね、年に一度孫の顔を見るのがやっとという寂しい老夫婦なんだ。たまには可愛い娘を持った気分を味わわせてもらってもばちは当たらないと思うんだがね」

 ―― もしかしたらこの人は、こちらの悩みなど全てお見通しなのかも知れない。

 崩すことない笑顔を見つめながら、小夜子は内心そう感じていた。やはり器の大きな人間とは、常人とは何かが違っているのである。しかし、それをはっきりと確認することはどうしても出来ず、ただ曖昧に頷くのがやっとであった。

 

◇◇◇


 六時十五分。

 吹き抜けのホールの片隅で柱に隠れるように立っていた小夜子は、もう一度腕の時計を確認した。待ち合わせの時刻から、十五分が経過している。この場所で間違いないのだろうか。そう思ってガラス張りの広い空間をぐるりと見渡してみたが、どこにも佐々木氏の姿はない。
  もちろん待ち合わせの相手が自分の想像を遙かに越えるほど多忙な人間であることは知っている。このくらいの遅れなど当然考慮に入れるべきだろう。小夜子もそれについては納得している。待つことは少しも辛くなかった。ただ……これだけ人通りの多い場所では身の置き場がなく戸惑ってしまう。

 刹那。エレベーターホールの方から、賑やかな談笑の声が響いてきた。それは見るからに地位のありそうな人々の一団で、自信と余裕に満ちた姿勢と歩き方にもついつい目がいってしまう。それぞれが着込んでいる色とりどりのスーツはどれも一級品に違いない。年齢と実績を重ねた貫禄、襟に付けたバッチが照明にキラキラと輝いていた。
  何かの話し合いが上手くまとまったあとなのだろうか。このあと祝いの席が用意されているのかも知れない。あれこれ想像しながら後ろ姿を見送って、また溜息をひとつ。決められた時間よりも少し早く部屋を出てきたから、ここに辿り着いてもう三十分。幾度となく同じ光景を目にしている。

 専務室の机で指示されるままの作業を繰り返しているだけなら、それほど気負うことなく過ごすことが出来る。もちろん与えられる仕事はどれも重要な事柄ばかりで、細心の注意を払って臨まなくてはならないことは確かだ。でもあの場所に籠もっていれば、少なくともとんでもない大企業に勤務しているという事実は忘れることが出来る。
  本当に、自分には不似合いすぎる立場なのだ。きっと他に適当な人材はいくらもいるだろう。引き受けてしまった以上は、後ろを振り向かずに必死に取り組まなければならないことは分かっている。だが、このたとえようのない居心地の悪さはきっと最後の日まで変わらないのだ。

 ガラスの壁に映った自分の姿を、小夜子はぼんやりと見守っていた。色白と言えば聞こえはいいが、光の加減によっては青白く不健康に見えてしまう肌。何も手を加えないままで緩やかなウエーブを描いて肩に掛かっている黒い髪。過去には「お人形のよう」と誉められたこともある。だがしかし、それは「生気のない」という表現を無理に置き換えているかのように思えた。
  何て頼りない、心細そうな顔をしているのだろうか。でもそれは、今こんな場所に連れてこられたからそうなった訳ではないように思う。
  幼い頃から、今ひとつ自分に自信が持てないまま生きてきた。いつもどこからか誰かに見られているような、不安な気持ちがついて回る。どうにかして心の中の霧が取り除けないかと頑張ってみたが、何をやってみてもあまり効果がなかった。
  短大の学生課に進められるままに、一通りの就職活動も経験している。面接をしたいくつかの企業からは「是非に」と入社を期待されたが、結局は両親の経営する町工場に落ち着いてしまった。慣れない場所で見知らぬ人ばかりに囲まれている自分を想像することが出来ない。大きな夢は望まない、ただ周囲に溶け込んで大切な人たちの手助けが出来ればいいと思う。

「失礼します。片岡、小夜子さんで宜しいでしょうか?」

 ぼんやりとまた物思いに耽っていると、不意に背後から声を掛けられた。慌てて振り向くと、そこに立っていたのは受付の制服を身につけた一籐木の女性社員である。こちらが小さく頷くと、彼女は綺麗にカールした毛先を揺らしながらにっこりと微笑んだ。

「佐々木営業部長から伝言が届いています。急に会合が入ってしまったのでこれから出掛けなければならないとのこと、代わりに奥様がお迎えに見えるのでそれまで専務室で待機して欲しいそうです。お出でになりましたら、すぐにこちらからお電話差し上げますわ」

 メモを確認することもなく、彼女は美しい笑顔ですらすらと説明する。よどみのない透明な響きが、一籐木という大企業にとても相応しく思えた。

「は、はいっ! ありがとうございます」

 どう答えていいか分からず、小夜子は頬を染めて礼を告げた。有能そうな受付嬢はそれ以上何も言わずに花の香りを残してカウンターに戻っていく。綺麗に背筋の伸びた後ろ姿についつい見惚れてしまう。
  その後、いつまでも呆けている訳にもいかないと思い直し、慌ててエレベーターホールへと足を向けた。

 ―― わざわざ奥様にご面倒をお掛けするなんて、申し訳ないことだわ。

 歩きながら、ついつい視線は床に落ちてしまう。用事が出来たなら、自分との約束など断ってくれて良かったのに。そのことを提案したくても、すでに佐々木夫人は自宅を出た後であろう。今からではこちらから連絡の入れようがないのだ。お目に掛かった後のことはともかく、今は伝えられた通りに待つ以外にない。
  観葉植物の脇にある薄ピンクの公衆電話を小夜子は恨めしく眺めた。両親には今夜の予定を連絡してある。多少の変更があったことまでわざわざ説明する必要はないだろう。

 

◇◇◇


 静かな振動と共にエレベーターが止まると、小夜子はホッと息をついて上着のポケットを探った。外はジメジメと蒸し暑い陽気なのに、このビルの中は春先の清々しさに包まれている。だからスーツをぴっちり着込んでも汗ばむことはないのだ。
  初日に渡された鍵を手に、小夜子はドアレバーに手を添える。次の瞬間、心の奥がどきんと跳ね上がった。何故なら、施錠で固定されているはずのレバーが軽い感触で動いたから。そんなはずない、最後にこの部屋を出るときにきちんと確認したはずだ。

 慌てて飛び込んだ部屋の中は照明も落ちてしんと静まりかえっていた。ただし真っ暗闇ではなく、大都会の輝きと月明かりがほんのりと窓から忍び込んでいた。やはり自分が鍵を閉めるのを忘れたのだろうか。それならば戻ってきて良かった。でも、まだ安心できる訳ではない。もしも自分がいない間に、誰かが中に入っていたとしたら……。
  身体中の血液が頭に昇って軽いパニック状態を起こしそうになるのを、小夜子は必死で押し留めた。トラブルが起こったときに連絡を入れなくてはならないのはどこだったか。そうだ、三鷹沢室長にまず伝えなくては。今日は出先から真っ直ぐ自宅に戻ったと聞いているから、番号を―― 。

 壁際の照明のスイッチに手を伸ばしかけて、ふと動きを止める。指先が確かに感じた、人の気配。気のせい? でも、間違いない。だらりと冷たい汗が背中を流れていく。あまりの恐ろしさに声も出ない。

 

「……誰? 誰かそこにいるの?」

 

 次の瞬間。

 パーティーションで区切った一番奥の一角から小さな物音がして、続いてこちらを伺う声がする。その柔らかな響きを聞いて、小夜子は思わずその場にへなへなと座り込んでしまった。声の主がすぐには顔を出さなかったので情けない姿を見られることなく幸いだったが。

「幹……彦、様?」

 二日前にほんの一瞬お目に掛かっただけの上司の名前が迷いもなく口をついて出た。そんな自分に自分で驚く。だけど、あの柔らかい響きを一度耳にしたら二度と聞き違える訳はない。

「お帰りなさいませ。そ、その……お戻りは明日と伺っておりましたが……」

 安堵と驚きが胸を交差して、上手く言葉が出てこない。それでもどうにか立ち上がると、小夜子は照明のスイッチをオンにした。いきなりの眩しさに目が慣れず、しばらくは戸惑う。その後、部屋奥をそれとなくうかがったが、人影が動く気配もなかった。

 どうしたのだろう、何かあったのだろうか?

 小夜子には幹彦専務についての知識がほとんどない。部屋のメンバーからは絶対の信頼を寄せられているということ、皆我らがボスである幹彦氏のためにならどんなことでも出来るという覚悟があることははっきりした言葉で聞かなくても彼らのその行動からうかがえる。だが、所詮そこまで。本人との接触がないのだから、具体的なイメージが湧くはずもない。

「その……何かお手伝いすることがあれば言ってください。私、あと一時間ほど人を待たなければならないので」

 ぼんやりしていても仕方ない、身体や頭を動かせばいいのだと小夜子は思い直した。だけど何の指示もなければそれも無理である。今日は急ぎの仕事もなかったので全てがすっきりと片付いていた。

 しかし、小夜子の問いかけに対する答えは意外なものであった。

「―― ごめん。あと十分……いや、五分でいい。僕のことは放っておいてもらえるかな?」

 

 きっかり五分後。

 小夜子が丁度ふたり分のお茶を入れ終えた頃に、幹彦は奥から出てきた。二日前に会った時とはまた別のスーツに身を包み、静かな足取りで進んでくる。そして、来客用のソファーに腰を下ろした。

「驚いた、まだ誰か残っているとは思わなかったから。今日は早めに上がるようにと伝えてあったよね?」

 決してこちらをとがめるような強い口調ではない。彼は、小夜子が差し出したお茶を「ありがとう」と告げた後に一口含んだ。

「すみませんっ、その……ちょっと予定が狂いまして」

 別に詳しく説明することもないかと思ったが、かといって変に隠し立てする必要もないと考えた。目の前にいる今の自分の上司は佐々木氏の知り合いでもあるのだ。そう思ってかいつまんで説明すると、彼はすっかり納得した顔になる。

「そうか、彼ならば仕方のないことだね。とにかく自分で動かないと気が済まない人だから。でも今夜は後ろ髪を引かれる思いだったはずだよ、本音としては片岡君との約束の方を取りたかったと思うからね」

 その言葉の後に、軽い笑い声が上がる。そして合点がいかないままの小夜子に気付くと、さらに顔をほころばせた。

「君のことは前から良く聞いていたんだ。だから初めて会った気がしないな、ご自分の本当のお嬢さんのように話されるから勘違いをする者も少なくなかったよ」

 佐々木氏とこの人とは固い信頼関係で結ばれているのだろう。個人的な付き合いも深いに違いない。そう言えば、佐々木氏と一籐木の社長、つまり幹彦の父親は年齢も近く気の置けない関係だと聞かされていた。

「そ、……そうなのですか?」

 小夜子はあまりの恥ずかしさに、身体が溶けてしまいそうだった。一体何をどんな風に話されていたのだろう、まるで自分の娘のように? 何て畏れ多いことを。とてもそんな風に言ってもらえるような関係ではないのに。

「うん、仕事が忙しくてなかなか会えないことをとても残念に思っているようだったよ。今回は念願叶って大喜びでいるんじゃないかな」

 胸の動悸が収まらない、このままだとどんな話題が出てくるのか分かったものじゃないと小夜子は思った。かといって話題を切り替えたくても適当な内容が浮かばない。ほとほと困っていたときに、彼の手にしていた資料が目に付いた。

「あ、お仕事の方は無事に済みましたか? そうですよね、こんなに早くお戻りになったのですから……」

 部屋のメンバーもみんな心配な材料はひとつもないと言っていた。ただ、予定よりも一日早くお戻りになったことが引っかかる。今夜は地元業者と最後の詰めの会合が入っていたはずだった。それを終えた後にホテルに一泊して、早朝の電車でこちらに戻るという話であったのに。

「そうだね……多分、そういうことになるんだと思うよ?」

 一瞬の、間合い。

 普段なら気にも止めないほどの揺らぎが、何故かそのとき小夜子に届いた。ハッとして彼の顔を確かめる。恥ずかしくてそのときまでは面と向かって話をしていなかった。

「あの、……」

 どうしよう、こんなこと訊ねていいのだろうか。それとも気付かなかった振りで過ごすべきなのだろうか。付き合いの短すぎる相手を前に、小夜子は途方に暮れていた。言い掛けた言葉の続きが出てこない。

「大丈夫、片岡君が心配するようなことは何もないんだ。うん、……全ては予定通り。僕はその決定を皆にはっきりと示したまでだ、それだけのことだよ」

 丁度、天井の蛍光灯が当たる角度。幹彦の凛とした横顔の一端が微かにぶれた。しかし、小夜子はそれをはっきりと確かめることはせずに静かに席を立つ。

「お茶を、入れ替えてきますね? お湯を沸かし直しますから、少しお時間をいただきます」

 

 自分は今夜再びここに戻ってきてはいけなかったんだ。

 早足で給湯室に逃げ込みたい気持ちを必死でこらえて、小夜子は背後の人に悟られぬように振る舞う。そして、十分すぎる時間を掛けて、二杯目のお茶を入れた。

 

「どうぞ」

 出来るだけ、彼の方を向かないようにと心がけながら湯飲みを差し出す。でも、そのときに小夜子は見つけてしまった。幹彦の手にしているハンカチが先ほどよりもしっとりと重く濡れていることを。

「では、私はやりかけの集計を片付けてしまいます。何かあったら声を掛けてください、どうぞごゆっくり」

 本当は急ぎの仕事などない。だけど、これ以上ふたりで向かい合っているのはどうしても耐えられなかった。 まだ連絡の電話が来ない、ならばここに自分はもうしばらくは留まっていなくてはならないのだ。それがどんなに望まれてないことだと分かっていても。

 

 大袈裟にそろばんを弾きながら、小夜子は全ての想いを自分の中から追い出そうとした。その後は互いに一言も交わさないまま、不思議な沈黙の時間が流れていった。

 

つづく (080117)

 

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