『古事記のものがたり』・本のできるまで
その6

「自分の本は自分で売ります。
 “古事記のものがたり”出版までの奮闘記」その6


アイデアがひらめいた!

知り合いの編集者を頼って、今までのいきさつを正直に話し「どこか出してくださる出版社を探してほしい」とお願いした。
その他にも、ぼくたちが困っているという情報を聞きつけた友人が、某出版社の編集者を知っているというので、その人にも原稿を送ってくれぐれもよろしくとお願いした。
ある知人が、別の仕事で出版社の人に会うというのでその人にも見本原稿を託して出版のお願いをした。

こんな風にして、藁をもすがる気持ちでいろんな友人知人をたより、知人の知人の知人までを頼ってお願いして回ったが、結局その誰からもいい返事が聞けなかった。

人に頼ってばかりじゃダメだと考えて、ぼくたちも直接大阪の出版社を数社回ってみたが。がやはりダメだった。
その理由は、どこも似たような答えだった。

『古事記』というマイナーな分野なので購読者数が少ない。
ぼくたちが無名なので購読者数が見込めない。
ぼくたち自身のネットワークが狭い。

最後にどこも口をそろえて、「バブルの時であれば出すのですが、いまはリスクを考えるとねぇ…」というのだった。小さな出版社に山と詰まれた本の在庫に囲まれながら、ある編集者は逆にぼくたちに「どうすれば本が売れるでしょうかねぇ?」なんて相談される始末。ほんとに戦後最大の出版不況だということを身にしみて痛感した

こうして出版に向けてのすべてのドアが閉じられて、困った僕たちは悶々とした日々をすごした。近くの公園では夜桜の下で、にぎやかな酒宴が始まり皆浮かれていた。

その夜、ぼくがお風呂に入っていると、突然ひとつのアイデアがひらめいた。
「そうだ!本を一冊一冊、手作りしよう!」
それはとてもいい考えに思えた。注文があるたびに自分たちで本を作ればいいんだ!!。1999年4月12日の出来事である。

さっそくみどりさんに伝えると、「すごい!作者自らが一冊づつ手作りする、『注文出版』だね。注文は私が取ってくる!」と単純思考で、いつも前向きな彼女は、二つ返事でこの話にすぐに乗ってきた。

次の日からさっそく本作りに向けて具体的に動き始めた。B6サイズの本用に再編集してレイアウトのやり直し、目次の作成、あとがき、プロフィールの作成、写真の取り込みなどなど。二台のワープロをフル回転させた。

じつは、三年ほど前に自然農の文集を作るお手伝いをしたときに大阪の中央文化出版社の社長さんと出会って、そこで一冊ずつ本が手作りできる製本機を買って持っていたのだ。この製本機を使えば、書店で売っているようなハードカバーの立派な本が一冊からできるというすぐれものだ。ぼくは資料類をまとめようと思って購入していてそのままほうってあった。

その製本機が古事記の本のために役にたつなんて…。「やっぱり、神さんは「古事記のものがたり」の本を出すために、何年も前から準備させてくれてはったんや!」一人で浮かれているみどりさんを尻目に、ぼくはもくもくと本用の紙を切ったり折ったり、貼り付けたりしていた。

紙は角がずれないように綺麗にすべてきっちりと二つ折りにしなくてはいけない。これが結構神経を使う大変な作業だ。その紙をまた広げてワープロで一枚、一枚裏表印字する。一話ずつはさみ込むイラストは和紙や色のついた紙を使って見た目もきれいに映えるように工夫した。

本の糊づけにはもっとも神経を使った。多くつけると汚くなるし薄いとしっかり付かないので剥がれてくるのだ。こうして少しずつだが、ぼくが頭で思い描いていた本の形態が見えきた。

このような単調な作業の連続だったけれど、二人とも時間を忘れて一日中家にこもって毎日毎日手作り本つくりに熱中した。表紙になる和紙も何軒も材料屋を回って納得するものが見つかるまで探し回った。大切な表紙は和風の一筆便箋を見つけてきて、墨で手書きしたものを貼り付けた。不思議なことにこの間は意見が対立することもなくケンカもまったくしなかった。

とにかく自分たちの本を手作りするという感動、もしくは自分の心の中にある欲求を外の世界に形造るという行為は、ぼくたちにとって想像以上に楽しいことだった。

こうして2週間が過ぎた4月27日、4冊の立派な本が出来あがった。
このときの感動はいまでも決して忘れない。



色とりどりの和紙に印刷したイラスト。



出来あがった4冊の手作りハードカバー本。

次回につづく


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