幸于伊勢国時 留京柿本朝臣人麻呂作歌
嗚呼見乃浦尓船乗為良武■嬬等之珠裳乃須十二四宝三都良武香
嗚呼見の浦に舟乗りすらむをとめらが玉裳の裾に潮満つらむか
釼著手節乃崎二今日毛可母大宮人之玉藻苅良武
釧着く答志の崎に今日もかも大宮人の玉藻刈るらむ
潮左為二五十等児乃嶋辺榜船荷妹乗良六鹿荒嶋廻乎
潮騒に伊良虞の島辺漕ぐ舟に妹乗るらむか荒き島廻を
当麻真人麻呂妻作歌
吾勢枯波何所行良武已津物隠乃山乎今日香越等六
当麻の真人麻呂が妻の作る歌
我が背子はいづく行くらむ沖つ藻の名張の山を今日か越ゆらむ
石上大臣従駕作歌
吾妹子乎去来見乃山乎高三香裳日本能不所見国遠見可聞
我妹子をいざ見の山を高みかも大和の見えぬ国遠みかも
右日本紀曰 朱鳥六年壬辰春三月丙寅朔戊辰以廣肆廣瀬王等為留守官 於是中納言三輪朝臣高市麻呂脱其冠位フ上於朝重諌曰 農作之前車駕未可以動 辛未天皇不従諌 遂幸伊勢 五月乙丑朔庚午御阿胡行宮
右 日本紀にいはく、
「 朱鳥六年壬辰の春三月丙寅の朔の戊辰に、
浄広肆広瀬王等をもちて留守官となす。ここに中納言三輪朝臣高市麻呂、
その冠位を脱ぎて朝に捧げ、重ねて諌めまつりて曰さく、
『農作の前に車駕いまだもちて動すべからず。』
とまをす。 辛未に、天皇諌めに従ひたまはず、つひに伊勢に幸す。
五月乙丑の朔庚午に、阿胡の行宮に御す。」