和歌と俳句

万葉集

巻第二

相聞

難波高津宮御宇天皇代 大鷦鷯天皇 謚曰仁徳天皇

難波の高津の宮に天の下知らしめしし天皇の代 大鷦鷯天皇 謚して仁徳天皇といふ

   磐姫皇后思天皇御作歌四首

   磐姫皇后 天皇を思ひて作らす歌四首

君之行氣長成奴山多都祢迎加将行待尓可将待 
    右一首歌山上憶良臣類聚歌林載焉

君が行き日長くなりぬ山尋ね迎へか行かむ待ちにか待たむ 
    右の一首の歌は、山上憶良臣が類聚歌林に載す

加此許恋乍不有者高山之磐根四巻手死奈麻死物呼

かくばかり恋ひつつあらずは高山の岩根しまきて死なましものを

在管裳君乎者将待打靡吾黒髪尓霜乃置萬代日

ありつつも君をば待たむうち靡く我が黒髪に霜の置くまでに

秋田之穂上尓霧相朝霞何時邊乃方二我恋将息

秋の田の穂の上に霧らふ朝霞いつへの方に我が恋やまむ

   或本歌曰 
居明而君乎者将待奴婆珠能吾黒髪尓霜者零謄文 
    右一首古歌集中出

   或本歌曰 
居明かして君をば待たむぬばたまの我が黒髪に霜は降るとも 
    右の一首は、古歌集の中に出づ

   古事記曰 軽太子奸軽太郎女 故其太子流於伊豫湯也 此時衣通王不堪恋慕而追往時歌曰 
君之行氣長成奴山多豆乃迎加将往待尓可者不待

古事記に曰はく、軽太子、軽太郎女に奸く。この故にその太子を伊予の湯に流す。 この時に、衣通王恋慕ひ堪へずして追ひ往時に、歌ひて曰はく 
君が行き日長くなりぬ山たづの迎へを行かむ待つには待たじ

右の一首の歌は、古事記と類聚歌林と説ふ所同じくあらず。 歌の主もまた異なり。よりて日本紀に検すに、 「 難波の高津の宮に天の下知らしめす大さざきの天皇の二十二年の春の正月に、天皇、皇后に語りて、 八田皇女を納れて妃とせむとしたまふ。 時に、皇后聴さず。 ここに天皇歌よみして皇后に乞ひたまふ云々。 三十年の秋の九月乙卯の朔の乙丑に、皇后紀伊の国に遊行して熊野の岬に到りて、 その処の御綱葉を取りて還る。ここに天皇、皇后の在さぬを伺ひて、 八田皇女を娶して宮に納れたまふ。 時に、皇后難波の済に到りて、天皇の八田皇女を合しつ、と聞きて大きに恨みたまふ云々。」
また曰はく, 「 遠つ飛鳥の宮に天の下知らしめす雄朝嬬稚子抄宿禰天皇の二十三年の春の三月甲午の朔の庚子に、 木梨軽皇子を太子となす。容姿佳麗しく見る者おのづからに感ず。 同母妹軽太娘皇女もまた艶妙し云々。つひに竊かに通ふ。すなはち悒懐少しく息む。 二十四年の夏の六月に、御羹の汁凝りて氷となる。天皇異しびてその所由を卜へしめたまふ。 卜者の曰さく、『内の乱有り、けだしくは親々相奸けたるか云々。』 よりて、太娘皇女を伊予に移す。」
といふ。今案ふるに、二代二時にこの歌を見ず。

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