和歌と俳句

釈迢空

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大正六年

まどの外は、ありあけ月夜。おぼほしき夜空をわたる 雁のつらあり

おのづから 覚め来る夢か。汽車のなかに、夜ふかく知りぬ。美濃路に入るを

陸橋の 伸しかぶされる停車場の 夜ふけ久しく、汽車とまり居り

眉間に、いまはのなやみ顕ち来たる 母が命を死なせじとすも

死にたまふ母の病ひに趨くと ゐやまひふかし。汽車のとよみに

汽車はしる 闇夜にしるき霜の照り。この冷けさに、人は死なじも

汽車の燈は、片あかりをり。をぐらき顔うつれるまどに、夜深く対へり

まどの外は 師走八日の朝の霜。この夜のねぶり 難かりしかも

汽車に明けて、野山の霜の朝けぶり すがしき今朝を 母死なめやも

病む母の心 おろかになりぬらし。わが名を呼べり。幼名によび

いわけなき母をいさむるみとり女の 訛り語りの 憑しくあり

山および海

速吸の門なかに、ひとつ逢ふものに くれなゐ丸の 艫じるし見ゆ

道の辺の広葉の蔓 けざやかに、日の入りの後の土あかりはも

汽車のまど ここにし迫る小松山 峰の上の聳りはるけくし見ゆ

夕闌けて 山まさ青なり。肥後の奥 人吉の町に、燈のつらなめる

温泉の上に、煙かかれる柘の枝。空にみだるる 赤とんぼかも

遠き道したにもちつつ、はたごの部屋 あしたのどかに、飯くひをはる

この町に ただ一人のみ知る人の 彼も見たてぬ 船場を歩く