夜すがらを山に鳴くなる蝉の音に夢しらじらと夜谷ありけり
谷のとにかへりみすれば吾が道のゆふべを遠く来る人もなし
ともし火のほのけき軒の暗かげに悲しく牛は長鳴きにけり
黄昏の峡間の宿のまぼろしに吾が会へる顔のうらなつかしき
雨晴れの石のあはひの夕のいろ静けき土に蟲なけるかも
冬の日の暫時の晴れを人見えぬ野にいや冴ゆる村の音かも
夕べ雨晴れし名残を傘のまま吾がふかく入る青葉みちかな
入日映ゆる濡れ葉のかげやもの云へばわが持つ傘にふるへあやしも
夕窓の空のひかりに冷やびやと震へやまざる葉の残りかも
籠居の庭冬さびて愁はしく雲のかげ落ちおちては去るも
冬鳥の啼きなくままに櫟原したびの笹を分け入りにけり
秋雨は夜にふりつぎて友のことばなほ寂しくも残り居るかも
ふもとには稲田のなかを真白なる誰が行くみちぞとほく寂しも
稲のつゆに濡れつつ歩む夜のはだへ坐ろにひとに寄りたくなりぬ
山影のさみしきなかの安らかな稲のいろには抱かれても見たし
道々のつゆこる草になく蟲に聞きあまえつつ行くこころかな
たづたづと雨にもならず太陽の呼吸にみやこはあはれ朝よくもりぬ
街にでて底べをゆけば曇りより知らざる顔があまた出でくも
鋪石の上に曇影ふみつつたまたまに己が足の音にさめ返るかな
霧おもく下り沈みたる街竝みにふとかすかなる柳ゆれたり
何はなく寂しき街にぞろぞろと人ながれつつくもり行きけり
ひと群れの落葉林はくろぐろとこもる樹ありてけむりも見えぬ
冬がれの林のまへに燃ゆるごとき見の悩ましき大根畑ありき
山茶花のしろき一本わがまへに木かげに口を顫はせけるも
土手下の小き池面にどこよりか煙の来ては撫でゆく寒さ