ひさしく拭巾をかけぬ本棚のうるしがうへに黴吹きにけり
冬の日の暮るればさみし池に向く二階を下りて飯食むひとり
夕ぐれの池の真なかの暗がりにいまだも潜く鳰つがひどり
夕かげの池のあかりに潜く鳰水輪をしづかにひろげつつ居り
春めきし賀茂川のおと朝がすみおほにかなしく旅に遇ふかも
賀茂川の音春めきぬこの宿に戸をとづれども耳ちかきおと
比叡山の白河村は軒につむ柴高きしたを川くぐりたり
日の暮れの雨ふかくなりし比叡寺四方結界に鐘を鳴らさぬ
雨雲のうへに日暮れてむかしより大比叡寺は鐘を鳴らさず
山上の夕雨さみし伽藍の屋根杉が秀ぬれも啼くからすなく
雨さむき夕山に来つれ宿院の庫裡にひとつ焚く赤き竃火
夕鐘がふもとに鳴りぬ白くもの結界のうへにかすかに聞ゆる
朝ゆふは眼もとにひらく琵琶の湖山上に在ししさみしき聖
この山の女人結界のしら雲のふかきに在ししひじり思ほゆ
しののめに山ふかき鳥を聞くものか比叡寺にゐるを寝て忘れたる
いちじるく根本堂の庭につむ雪を消ちつつ雨靄立ちぬ
油合羽を垂れし我らの山駕籠は延暦寺に来て下されにけり
梅雨明けの雨あらく落ち雲にもつ雷のおとは大きくなれり
夕立の流れはじめし庭のうへに土のにほひのいたくこそすれ
雨降りて壁にしめりの来る夜は畳よりうつす子らの寝床を
さみだれの夜も廊下に干してある子どもの衣のうまだ乾かず
うつつなく聞けば哀れに人のごとし池のかはづのこゑ老いにける
声をもつ蛙を聞けば極らぬ有情輪廻の生のかなしさ
蝉の鳴く池べ樹したに出て立ちぬ夕餉のあとの帯をゆるめて
夕かたの蝉鳴きつづく暑き木の門柳より青葉こぼるる