TopNovel願わくば・扉>願わくば、恋視線・2



       

     

 朝が早いと言うことは、身支度その他をとにかく早送りで片づける必要が出てくる。

 でも、そうは言ってもね。ベッドから起きあがって、ぼーっと5分。「ああ、今日は月曜日かーっ!」って思う瞬間が辛いわ。もう一度ごろんと寝直すことが出来たらどんなにいいだろう。恨めしく文字盤を眺めて、アラームをオフにすると名残惜しく布団から這い出る。昼の時間が一番長くなる季節だからすでにカーテンの向こうはすがすがしい朝の風景。でもっ、まだ5時前だったりするのよね。

 体力勝負の職場では、朝食抜きなんて許されることはない。身支度を整える間に落としておいたコーヒーを流し込み、ロールパンとスライスチーズとハムとキュウリを別々に口に放り込む。まあいいでしょ、胃に入る頃にはサンドイッチと変わらなくなってるはずだしね。
  すっぴんというわけにはいかないから、とりあえず一通りのメイクを終える。さすがに昨日は夜遅くまで呑んでたからファンデーションが綺麗に乗らない感じ。でも、疲れた肌をクール系の化粧水で誤魔化してどうにかこうにか。部屋を出るまでの時間が食事時間を含めて20分というのは、かなりヤバイかも知れない。

 


「あらぁ〜、おはようございますっ! 今日も『そのまま出勤』ですかっ!?」

 駅まで猛ダッシュ、ちょうどホームに入ってきた各駅停車に揺られて3駅。風のように自動改札を抜けてラストスパートに入ろうと言うときに、突然背後から声を掛けられた。

 聞き覚えのある声に振り返ると、そこに立っていたのは上から下までばっちりと流行のファッションで決めているママと、園服の女の子。マスカラのこってりと塗られたばちばちのまつげはどこまでがホンモノでどこからが模造品なのか判断できない。

「おはようございます、……亜里砂ちゃんもおはようっ!」

 人通りの少ない時間だからまだいいんだけど、出来れば街中で大声で声を掛けないで欲しい。こっちは忍者歩きで人目を忍んでいたのにっ。だってだって、TシャツにGジャンを引っかけて、下もGパン。足下はスニーカーだし、まるでピクニックスタイルなのよ。職場に着いてからの着替えを最小限にして時間を短縮するための裏技だけど、電車通勤の身の上ではちょっと辛い。でも「背に腹は代えられない」ってことで。
  園によって違うのかな、ウチの職場は保育士は皆アップリケが入ったエプロンを着用することになってる。エプロン、というよりはむしろ袖の付いてないスモックと言った方がいいかも? 背中でボタン留めをするようになってるの。年少さん担当が黄色系で年中さん担当がピンク系、そして年長さん担当がブルー系と色まで統一されているんだよ。幼児組以下はオフホワイトとかアイボリーとかね。
  速攻で着替えて持ち場につかないと間に合わないもの、わざわざ通勤着を上から下まで取り替えて……っていうのは無理。ああ、最初の頃は真面目にやってたけど、半月でやめたわ。それから早出の日は決まってこの格好。お陰で10分は余計に寝てられるようになったわよ。

 けどねー、たまにこういう風に知り合いに見つかってしまうことがあるの。顔なじみのママさん相手ではあるけどね、やっぱり同性として情けない気分になるわ。

「良かった〜! じゃあ、今朝はここでズルしちゃっていいですか? 今日は早めに会場に入るように言われてるから、時間ぎりぎりだったんですよー。はい、こっちが着替えでこっちが防災ずきんと毛布。ついでに早朝保育のチケット。では、よろしくお願いしまーす!」

 ちょ、ちょ……駄目だよ、それ。保護者はきちんと部屋の入り口まで送り届けることになってるでしょう。今は色々物騒な世の中なんだから、その辺はちゃんとして頂かないと――!

 ……って、いないしっ!!!

「モカせんせいーっ、はやくしないとちこくだよ?」

 呆然と立ちつくす私の隣。3歳児の亜里砂ちゃんの方が、よっぽど現状を正しく把握していた。

 

 亜里砂ちゃんママは、確かイベントコンパニオンをしてるって言ってたっけ。

 ええと、見本市会場などで新車とかの説明をする綺麗なお姉さん。あんたマネキンですか!? というメイクで登場するあの人たちね。今日も幕張にある某会場までご出勤かな? 本当にリカちゃん人形みたいなプロポーションなのよね。

「そのまま出勤」が意外なところで役に立ってしまった。職員用のロッカールームの前で亜里砂ちゃんを待たせて、1分で支度を終える。いや、Gジャンを脱いで、アップリケ・エプロンを頭からかぶっただけだけど。
  ほおおんとに、勘弁して欲しいわ。こんな場面を園長に見つかったら大目玉じゃないの。とにかく規律に厳しい方なんだから、職員一同ボロが出ないようにビクビクしてる。まあ、現職の区議会議員というもう一つの顔を持っていては体裁を気にするのも仕方ないわね。次は都議を狙ってるとか言ってたしなー。
  この場所から、誰にも気付かれないように早朝保育用の部屋まで移動するのは至難の業よ。どのルートで行くのが一番いいかとか、そんなことまで考えちゃう。何で私がこんなことまで悩まなくてはならないのよ。

「えへへーっ、モカせんせいといっしょーっv」

 オトナの事情なんてお構いなしの三歳児は、渡り廊下を進みながら上機嫌に鼻歌まで歌ってる。

 子供にすり寄られるのはすごく光栄なんだけど、着替えに毛布にもろもろの大荷物を抱えた身ではちょっときついかな? 亜里砂ちゃんは、去年二歳児のクラスにいたときに受け持った子。とにかく人なつっこくて始終まとわりついてくるの。ママそっくりの美人さんだから、あまり人慣れしてると心配になっちゃう。

「大丈夫です、亜里砂は男の人が大嫌いですから。半径1メートル以内に近寄られると大騒ぎですよ?」

 一度訊ねてみたら、コンパニオン・スマイルのママはどこまでも爽やかにそう言い切った。何しろ、しゃべりを生業としている方だけに妙な説得力がある。もう「はぁ、そうですか」と返すしかない。
  何か深い事情がありそうな気配もするけど、こちらが訊ねればあっさりと答えてくれそうな気もするけど……面倒なことに首を突っ込むと後が大変。野次馬根性もほどほどにした方がいいと言うことも、過去2年間の経験で痛感してる。
  少子化が進んでいる上に、結婚する年齢もどんどん遅くなってるってデータがあるわよね。でもその割に自分と同世代、すなわち20代真ん中くらいのママさんが意外に多いことに驚いちゃう。そういうもんなのね、あくまでも公表される数値は「平均」なんだもの。みんながみんなきっちり同じって訳ではないんだ。
  友達感覚でフランクに付き合えちゃうムードになりがちだけど、やはり仕事は仕事としてしっかり線引きをしないと難しくなっちゃう。

 

 ……さてさて。

 そうしているうちに辿り着きました、午前8時まで全ての園児をまとめて面倒見るその場所に。渡り廊下を園庭を見ながらぐるりと回ったところにある0歳児と1歳児の部屋。ここならベビーベッドや簡易キッチンもあるから、少人数の保育者で切り盛りするにはもってこい。

  私のピンク・エプロンの裾を握りしめている亜里砂ちゃんのことを何と言って言い訳しようかなあ……とか思って部屋の中を覗くと、向こう側からもちょうど同じタイミングでこちらを覗いている人がいた。

 

「あれ……、何で奏くんっ!?」

 思わず声のトーンが上がっちゃって、慌てて口を押さえた。え、……えっ!? だって、今朝の担当は私と美月先生だったはず。年長組担当が常連のベテラン先生とペアを組むと言うことで、かなり緊張してたのよ。やっぱ、実力のある人はオーラが違うのよね。そばによるだけで、背筋がぴんとしてしまう。

「おはよーございますっ、最香先生。……亜里砂ちゃんも、おはよーっ!」

 すでに灯りのついてる部屋を確認したときからお小言のひとつも言われることを覚悟していただけに、何だか脱力。入り口でぼーっとしたままの私の代わりに、奏くんは亜里砂ちゃんに「カバンはここに置いてね? トイレは大丈夫?」とか世話を焼いていた。やがて、流し始めたアンパンマンのDVDに亜里砂ちゃんが釘付けになったところで、彼は私にこっそりと耳打ちする。

「駄目ですよーっ、また亜里ママに押し切られましたね。全く、最香先輩は甘いんだからなあ……」

 くすくすって、いつもと同じ笑顔。昨日はかなり呑んでたはずなのに、もうすっかりと元通りになってるところが若さかな? ……とは言っても、2才違いなんだけど。奏くんと一緒にいると、自分がとても年上に感じられるから口惜しい。

 

 子供たちやそのママさんの前では「最香先生」「奏先生」って呼び合う私たち。

「先輩」って敬称はいわゆるニックネームのようなものなのよね。どうも最初は私がここに入りたての頃に聖子先輩のことをうっかりそう呼んでしまったのが始まりみたい。それが奈津にも伝染して、後から入ってきた静香ちゃんや奏くんにも受け継がれた。

「学生気分が抜けてないみたいで良くないわよ!」って、上の先生方からは眉をひそめられてるけどね。何かこれくらいの遊び心がないと息が詰まりそうなんだもの。

 

「実は昨日の帰り道に美月先生から連絡が入ったんですよ。どうも下のお子さんが急に熱を出してしまったそうで、今朝は病院で診療を受けてから出勤するそうです。だから、俺が今日は代わりに」

 大型の掃除機を取り出しながら、奏くんが言う。なーんだ、押しつけられたのは自分も一緒じゃないの。でもまあ、そう言う理由なら仕方ないかな。美月先生のところはダンナさんと小学生のお子さん2人の4人家族。子供の具合が悪くなっても他に面倒を見てくれる人がいないんだもの。そう言うところは融通を利かせないとね。

 我が保育園の「売り」のひとつ、朝の6時15分からの「早朝保育」。これがなかなかの人気なの。

  どうしてこんな早い時間から子供を預ける必要があるのかなと最初は少し不思議だった。でも、世の中には本当に色々な仕事があって「一回350円の別途料金を払っても惜しくない」って考えている親御さんがいらっしゃる。

「おはようございますーっ!」

 ほら、そう言ってるうちに、また新たなスリッパの音が。ベビーベッドの布団を直していた手を止めて、出入り口の引き戸の鍵を開ける。まだ言葉の通じないほどの小さなお子さんも一緒にお預かりしなくてはならないし、もしも外に飛び出されちゃったら大変だもの。

 パパに手を引かれてやってきたのは、私の担当クラスの誠くん。紺色の園帽子をかぶった頭をちょこんと下げる。そしてもうひとり、こちらは1歳児クラスの茜ちゃん。今朝も兄妹で仲良く登園だ。

「毎朝、申し訳ありません。はい、こちらは荷物です。あと、チケットと……」

 早朝とお残りの保育は、それぞれが一回350円。11枚綴りのチケットが入り口を入ってすぐの事務所で3500円で購入できる。もちろん、現金でのお支払いも可能だけど、やっぱり10%の割引は大きいよね。私が確認しただけでも、ほとんど9割の方が利用している。

「はい、確かに。それではお預かりします、お気を付けて行ってらっしゃいませ」

 誠くんの家はお花屋さん。パパはこれから木更津にあるという花市場まで仕込みに出掛けるんだ。ちなみにママは今3番目のお子さんを妊娠中。それでも今頃は大きなおなかを抱えて開店準備をしているんだろう。

 そのほかにも常連さんだけで朝の7時を回る頃には10人以上が集まる。手の掛かる赤ちゃんがいると、その世話だけでいっぱいいっぱい。どうしてもDVDのお世話になることが増えてしまうけど、その辺は仕方ないと割り切ってる。最初のうちは、これにもかなりの罪悪感が伴ったわ。

 

 一通り落ち着いたところで、ひとりひとりの「おしらせファイル」を開いて確認を始める。

 ここに担任の先生への言付けを書いてくる父兄もいるから、見落としのないように気をつけて。やはりご家庭との二人三脚で乗り越えなければ、子供たちをきちんと育てていくことは出来ないと思う。「保育園は幼稚園と違って、遊んでいればいいところ」なんて言ってられないご時世だしね。

 ――そう思っているところに、また引き戸を叩く音。

 

「あー良かったっ! 今日はモカ先生の番だったんですねーっ! じゃあ、こっちをよろしく。赤とピンクのどっちかを選ばせて、着せておいてください。今日は11時半にお迎えに来ますから〜っ!」

 何事っ? と言い返す暇もなく、押しつけられた大きな紙袋。それと共に部屋に押し込まれたのは、ぶーたれた顔をしたお隣のクラスの女の子だった。

「もうね〜、駄目なんですよっ。朝、選ばせようと思ったら、どっちも嫌とか言い出すんだもの。面倒だから、ふたつとも持って来ちゃいました。ちなみに赤いドレスだったら白タイツで、ピンクドレスだったらポンポンの付いたハイソックスでお願いしますっ。私もぎりぎりで抜けてきますから、本当によろしくお願いしますね〜っ!!」

 竜巻の如く走り去っていったママを追いかけることも出来ず、仕方なく唇をとがらせた園児に話を聞くことにする。
  膝をついて目線を同じにしてみたら……うわーっ、もともと気むずかしいことで有名な子だけど今朝はそれが際だってるって感じ。どうして、ここまでこじらせて連れてくるかなあ……?

「あーちゃんの、けっこんしき。いやーっ!」

 そこでどんどんと地団駄を踏み出したから、もう大変。今まで大人しくTV画面を見ていた子供たちもどうしたことかとわらわら集まってくる。そして、よせばいいのにみんな同じ動作を始めるのね。子供社会には良くある連鎖反応だ。

「うっわー、確かに趣味悪いかも。もうちょっと、考えてあげた方がいいんじゃないかと思いますけどねー。ここまでフリフリにお姫様ちっくだと、好みが分かれるでしょう。分かってないなあーっ!」

 そう言いつつ、楽しんで荷物を開けているあんたも全然分かってないですよ、奏くんっ。

 話はだいたい分かった。どうもおへそを曲げた薫ちゃんは、午後から親戚の結婚式に出席するらしい。おはようブックのメモ欄にもきちんとその旨が書かれていた。

 だーけーどーっ、どうしてその着替えまでをこっちでしなくてはならないの? 薫ちゃんのクラス担当は昨日結婚式を挙げた奈津。今日からしばらくの間は補助の先生が来てくれることになってるけど、まさかいきなりこんなことをお願いできるはずもないじゃない。

 ……それよりっ、この足踏みの大音響をどうか止めてっ! うるさいよ〜、勘弁して〜っ!

 

 平常出勤の先生方がやってくる7時45分までの間に、一日分の体力を全て消耗してしまう。過酷な早朝保育の現場は、前夜に少しお酒を過ごしていた私には辛すぎた。

 


「……あ、最香先生。事務室で2番にお電話が入ってるそうですよ?」

 二歳児さん以上の子供たちを各自の教室に送り届けるべく整列させていると、水色のエプロンを身につけた静香ちゃんがやってきた。 全面にどーんと大きなひよこがアップリケされてる。ここまで大きいともはや「ひよこ」ではないと思うのは私だけだろうか? でもまあ、エプロンの柄に文句を言っても仕方がないし。

「私、こちらに入りますから急いで行ってください。……どうぞどうぞ」

 可愛い後輩ちゃんの言葉に甘えて、私は有り難く少し早めの休憩に入らせて頂くことにした。
  早出の日は、8時から30分間だけ休憩がもらえるのね。とは言っても、事務室で座っているからどうしても電話番をしなくてはならなくなるんだけど。三台引かれてる電話は、朝のひとときパンク寸前になることもある。

 ……何だろ、お休みの連絡なら言付けで十分なのになあ……?

 そう思ったけど、繋がっている電話をお待たせするわけにも行かないし。事務室まで小走りに進んでいく。ううう、耳の中にまだどんどんの足踏みの音が残ってるよーっ。

 

『あー、もしもし? もう遅いじゃないの、いつまで待たせるのよっ!』

 かしこまって、受話器を上げた途端に脱力。事務室が園舎の入り口でガラス張りじゃなかったら、そのまま机に倒れ込んでいただろう。

「ちょ……、待ってよ。どうしてお母さんが掛けてくるのっ! 緊急の場合以外は駄目って言ったでしょっ!?」

 ヤバイよーっ、向こうの机から副園長が睨んでる。この人は30代後半なんだけど、園長の息子なの。もうバリバリに家族経営なのよね、ウチの園。

『えーっ、緊急よーっ。だって、あんたの電話、全然通じないんだもの。何のための携帯なのよっ、壊れてるんじゃないのっ!?』

 このまま愚痴愚痴と始められたら一大事。とにかくはこちらから掛け直すからと、いったん切り上げる。

 もう、やめてよっ。NHKの天気予報なんて見ながらのんびりされちゃ困っちゃう。田舎暮らしの母親は「保育園」と言うものをひと学年10人たらずのちっちゃいところだと勝手に勘違いしてる。いくら説明しても分かってくれないんだから、参っちゃうわ。

「すみませーん、それでは休憩行ってきますー!」

 副園長と事務長(この人は園長夫人だ)に頭を下げて、そそくさと事務室を後にする。

 

 とりあえず、裏庭にでも出て携帯でかけ直そう。もう、ウチの母親と来たら私より3才年上の兄が結婚した途端に兄嫁とのいざこざをいちいち報告してくるようになったのね。最初のうちは同情混じりで聞いていたわよ、でも度重なるとだんだん相づちを打つことすら億劫になってくるわ。

「あーあ、貴重な休憩も親孝行に潰れてしまうのねえ……」

 思わず本音が口から飛び出して、さらにどっと疲れてしまった。これも兄と弟に囲まれた唯一の娘の宿命かしらね。

 

 しかし、この月曜朝の母親の電話が思わぬ展開を招くことになることを、そのときの私が知るはずもなかった。

 

 

2006年6月4日更新