「あ、先輩。先ほどは色々ありがとうございました。朝ご飯までご馳走して頂いて、本当に助かりましたよ」
ややあって、口を開いた奏くんはまるでさりげない世間話のようにそう言った。
さあ早く行きましょうと促されて、自分の今しなくてはならない仕事を思い出す。大変だわ、四月の始めにもだいぶ荒れた夢乃ちゃんだったけど、こういう長い欠席の後ってそれが戻ったりするのよね。
「ううん、そんな。ただのコンビニのおにぎりじゃない、気にしないでよ」
朝早くホテルを出て、目の前にあった24時間営業のお店で朝食用の総菜パンを購入した。ついでに奏くんの分もね、おにぎり三個。だって、本当に迷惑を掛けたんだもん、先輩としてそれくらいのことはしないと収まらなかったのよ。もちろん、改めてきっちりお礼はするつもりだけど。
「いいえ、嬉しかったです。最香先輩のおごりだと思ったら、普段の何倍も美味しく感じましたよ」
コンビニを出たところで丁度やって来たタクシーに飛び乗った。歩いて戻れる距離だからとその場に残った奏くんが、大切そうに小さな袋を抱えていたのを思い出す。あの運転手さん、どう思っただろうな。別に何を聞かれたわけでもないのに、妙にドキドキしちゃった。
「そう? お役に立てたなら光栄だわ」
それにしても、可愛い笑顔だなあ。ついさっきまでピリピリと張りつめていた気持ちがふんわりと和んでいく。やっぱり、この子って私にとってはなくてはならない存在だわ。こんな風に懐かれて、嫌な気持ちになる人間なんているのかしら?
……でも。
何だろう、まただ。朝、ホテルの洗面所で一瞬だけ心を過ぎった不快感が蘇る。ふつっと、心の奥を鈍くつつかれるみたいな異物感。それが大きくならないうちに、必死で振り払っていた。
「あ、おはようございまーすっ!」
階段の登り口まで来ると、お教室前までのお見送りを終えた保護者の方が次々に降りてくる。ひとりひとりに明るく声を掛けながら、ふたりの会話も中断。
ほどなくして、夢乃ちゃんの泣き叫ぶ声が私の耳まで届いてきた。
この世に産まれ落ちて、三年四年。
片手で持ち上げられるほどに小さくて頼りなく見えてしまう子供たちでも、それぞれにちゃんと「自我」が芽生えている。ひとりひとりに個性があってひとつの事柄に対してもおのおの反応が違うから、何十人もの大勢をまとめていくまでには言葉では語り尽くせないものがある。
ウチの保育園では、産まれてひと月足らずの新生児からお預かりすることになっている。信じられない話だけど、人手の少ない家族経営の自営業などでは実質的に「床上げ」21日で仕事を始めてしまう場合もあるらしい。現在労働基準法で最低限決められている産後休暇は8週間だけど、これだって実際に過ごしてみればあっという間だって言う。
まあ、0歳児クラスのベッドの数は本当に少ないから、ここはかなりの激戦区になるんだけど。中には兄弟でも別々の施設に通ってるケースもある。
とはいえ、三歳未満の場合は保育料が目玉が飛び出るくらい高い。ひと月に子供にかかる費用が自分の収入を上回ってるというママさんも少なくないって話だ。正規の料金だけで6万近く、これではおむつ代やその他諸々を含めたらどうなってしまうんだろう。
そんな事情もあって、出産に合わせて退職する女性はまだまだ多い。中には自分には全くその気がなくても、職場の雰囲気で否応なしにそう言う運びになってしまうこともあるそうだ。そんな立場になった母親たちは子供が三歳になるのを待って新しい就職口を探す。保育料も新生児の半分以下まで減るし、子供自身もそろそろ集団生活に慣れさせた方がいいかなと思えてくるから。
夢乃ちゃんのお母さんもそんな悩める女性のひとり。新年度切り替えの4月に合わせて転園してきた彼女は、年少からの持ち上がりが多かったクラスで初っぱなから躓いた。その時に詳しく聞いた話によると、去年入園した保育園で全く馴染めずに三ヶ月で退園することになってしまったとのこと。その結果、お母さんもようやく見つけた就職口を辞めざるをえなかった。
「本当に引っ込み思案で、困ってるんです。少しでも人に馴れさせようと公園に連れて出たりしても、ずっと私の後ろに隠れて泣いているだけで……」
短い時間の立ち話でも、かなり色々と子育てについて勉強している方だなと言う印象だった。育児書なども新旧問わずありとあらゆるものを読んでいるみたい。知識の面では私なんて全く叶わないかも知れないなと思った。物事をきっちりきっちり考えるお母さんというイメージ。去年の退園騒動が繰り返されるのを何よりも恐れていて、それを阻止できるならどんな努力でも厭わないという感じだった。
前年度からの持ち上がりの子供たちであっても、進級して新しいクラスになる前後はかなり精神面で負担になるみたい。担任の先生も周りの友達の顔ぶれもまるっきり変わってしまう。そりゃ、園側でも色々と気を遣って特に仲の良さそうなお友達同士は同じクラスになるように心がけたりもするんだけど、それだけでは対応しきれない部分も出てくる。
大人社会でも「五月病」とか言われる現象があるけど、子供たちだってそれは同じ。ううん、感情が素直に表に出る分、もっともっと心の内面がストレートに溢れ出てくるようだ。彼らは小さな身体を全部使って、自分の気持ちを表現しようと頑張ってるから。
最初の三日四日を泣き叫んで過ごすのは良くあるパターン。車から横抱きに降ろして、教室まで連れてくる親御さんたちの姿が毎年恒例の春の風物詩だ。各教室には内側からきっちり鍵が掛けられていて、ひとりひとり登園してくるごとに風のような早業で教室に連れ込んでいる。
そう言う子がケロッと元気になって、ホッとしたのも束の間。今度は第二弾の「時間差攻撃」が始まる。進級当初は全く問題なく環境に馴染んでいたように思われた子供たちが、次々とストライキを起こしていく。最初が上手くいってただけに、親御さんの驚きも大きく「始め泣き叫び型」の数倍もエネルギーを吸い取られてしまう。こっちのパターンの方が長引くことが多いし、言葉通り「我慢比べ」という感じだ。
嵐のような4月をどうにかやり遂げたと思うと、すぐにゴールデンウィークに突入。保育園はカレンダー通りに営業となるけど、家庭によっては5連休とか10連休とかいう子も出てくる。夏よりも休みが取りやすい職場もあるらしく、この期間を実家への帰省にあててる方もいらっしゃるみたい。
それでまた休み明けには、進級時と同じような情景が繰り返されるわけだけど、もうそこは考えてたって仕方ない。とにかく私たち保育士の役目は、お預かりする子供たちの親御さんが心配なく職場で働けるように手助けをすること。そう思って、ひとつひとつの山を乗り越えてる。
夢乃ちゃんは、一見とても大人しい手の掛からない印象の女の子だった。身の回りの整頓もトイレも全部きっちりひとりでこなすことが出来たし、こちらが話していることもとてもよく理解してくれる。確かに毎日の登園時には少しぐずったけど、お教室の中に入ってしまえばさっぱりしたもの。どうしてお母さんがあそこまで不安がるのか、正直分からなかった。
でも、他の先生方の話を聞いて納得。彼女は登園して私の姿が見えないと、とにかく大変なことになるらしい。一度、園外研修で二日ほど他の先生に子供たちをお任せしたことがあったのだけど、戻ってきてから一部始終を聞いて驚いたわ。普段はとくにまとわりついてきたりしない子だから、特にね。
「いやー、いつもながらに鮮やかですね。最香先輩が顔を見せた途端に、それまでのぐずりが嘘みたいになくなって。あれには居合わせた他の父兄の方も驚いていらっしゃいましたよ、先輩って魔法使いみたいだ」
給食の後のお昼寝の時間、職員たちは交代で昼食を取ることになっている。
子供たちと同じ時間に食べればいいのにと思われそうだけど、それは無理。あっちで牛乳のコップをひっくり返したと思ったら、今度はこっちでスープの器が床にダイブ。やれピーマンは嫌いだ、ニンジンなんて見るだけで吐きそう……などなど、お口が食事じゃない方に使われてる子もいる。
保育士の仕事のほとんどは「洗って・拭いて・片づけて」に集約される気がするわ。年中さんならトイレはひとりでオッケーになるけど、やっぱり慌てて失敗することもある。上履きのまま外に飛び出す子がいれば、土足のまま園舎に入っちゃう子も。
隣り合ったふたつの教室の間に子供用のトイレがあるけど、そこは日に三回水をまいて大掃除する。そのほかにもちょこちょこ掃除はもちろんあるし。ごしごしとそこら中をこすったり拭いたりしてたら、この数年で二の腕がとても逞しくなった気がする。
今週末まで新婚旅行中の奈津の代わりに入ってくれてる先生が声をかけてくれて交代、私も遅めの昼休憩を取ることにした。
事務室の奥にあるラウンジへ入っていくと先客。食後のお茶を飲んでる奏くんが片手を上げて「こちらへどうぞ」と言う。
「またー、そんなことを言って持ち上げたって何も出ないって言ってるでしょ? あまりゆっくりしてないで、そろそろ戻った方がいいわよ」
何か、やっぱり落ち着かない。奏くんはただお茶をすすっているだけなのに、どうして私がこんなに意識しなくちゃならないの。あーもう、嫌になっちゃうわ。
「斉木先生」と札の付いた自分用のトレーを運んできて、黙々と食べ進める。すっかり冷めてしまったクリームシチュー、温かいときと同じように消化するのかしら。
始めてクラス担任を任されたわけだから、4月当初の入れ込みようは半端じゃなかった。自分でもよく頑張ったよなーと思うくらい。もちろんアパートには「寝に帰る」だけだったし、食事もテイクアウトとか出来合いのお総菜ばっかり。ここで頂くバランスの取れた給食がなかったら、きっと身体を壊していただろうなと思う。
大人数の体勢で臨んでいた二歳児クラスとは違い、子供たちの全ては私ひとりの采配でどうにかしなくてはならない。あまりにいっぱいいっぱいで、夢乃ちゃんのことだって周りから指摘されるまで気付かなかった。だって私が朝のご挨拶をすれば、お見送りのお母さんに笑顔で「いってらっしゃい」と手を振るんだもの。なかなかクラスに馴染めなくて寂しそうな感じはあったけど、無理強いするのも良くないしね。
プチ反抗がちらちらと顔を覗かせるのも年中さんの傾向。あまりこちらの意見を押しつけるのも良くない。その子にあったペースで、ゆっくりゆっくり頑張ってくれればいいと思うんだ。心を伸びやかに成長して行けば、年長さんになる頃には驚くほどしっかりしたお兄ちゃんお姉ちゃんになれるはず。
「夢乃ちゃん、鍵盤ハーモニカ夢中になってましたよね。集中力があるんだろうなあ……あれなら、リズムパレードの鼓笛メンバーにも抜擢されるんじゃないかな?」
誰もいない園庭に、奏くんは視線を向けている。そうなんだ、もうしばらくすると秋の運動会に向けての本格的な練習が始まる。年長さんは全員参加のリズムパレード、それだけだと人数がちょっと寂しいから年中からも上手な子を何人か選ぶんだ。
その年によって違うけど、ひとクラス5人くらいかなー。他の子は年少さんと一緒にタンバリンやポンポンを持って周りで踊ることになるから、やっぱり特別な感じになるわよね。
「やだなー、奏くんは。みんなが楽しく演奏してるのに、そんなことを考えてるの?」
まー、仕方ないとは思うのね。選考は音楽関係に詳しい先生方が中心になって行うけど、その日までは保育園全体がピリピリした空気に包まれる。親の方が子供よりも夢中になると言うパターンも良く聞くし。
でも私個人としては、まだまだきっちり並んで歩くことすら難しい子供たちを整然と並べて演奏させるのはどうかなと思う。確かに見栄えはするけど、こういうのも園長の自己満足じゃないかなって。
経営する保育園の評判が良くなれば、園長自身の名声も高まる。だから「人目に付きやすい」「分かりやすい」部分に力を入れてしまうみたい。
「ふふ最香先輩こそ、そんなにのんびりしていていいんですか? ……まあ、らしいと言えばらしいですけど」
こちらをのぞき込むように視線を送る彼は、きっと色々見聞きしているんだろう。あの体育会系っぽい聖子先輩も、自分の持ちクラスのめぼしい子には空き時間に特別レッスンをしてるって噂。全体の人数は決まってるから、選ばれる子の多いクラスは指導者も優秀だってことになっちゃうんだもの。
保育士同士は「仲間」であると同時に「ライバル」。評価が芳しくなければ、担任を引きずりおろされることだってあるわけだしね。この仕事を続けていくからには、自分の保身だって考えなくちゃならない。分かって入るんだけど、……青いのかなーなかなかそこまで行き着かない。
「……あ、すみませんっ!」
勤務中はマナーモードにしてある携帯。奏くんの首から提げられているそれが大きく揺れている。液晶画面をチェックして、彼はホッと一息ついた。
「私用の連絡です、お騒がせしました。ほら、以前の職場でとてもお世話になった保育士の方がいると言ったでしょう? 今でも色々、参考になる本とか貸してくださるんですよね。この前にお借りした分をようやく読み終えたので、今日は仕事が終わった後にお返しするんです」
別にこちらが訊ねたわけでもないのに、奏くんが分かりやすく説明してくれる。ああそうだ、良くその話はしてるよね。学生時代に手伝いをしていた施設でとても影響を受けた先輩がいるって。その人に憧れて内定の出ていた企業を断ってこっちの道に進んだって言うんだから、すごいと思う。奏くんの人生を根底から変えちゃった人なんだ。
「ああ、……そうか今日は早上がりだもんね」
待ち合わせ場所の確認メールを送信してる奏くんの嬉しそうな横顔を、ぼんやりと見ていた。一体どんな人なんだろう、きっと大ベテランの先生なんだろうな。奏くんの憧れの先輩、もしも私もお会いしたら「素晴らしいな」って思うのかな……。
「じゃあ、俺先に行ってます。先輩は、もうしばらくごゆっくり。今日先輩は居残り組でしょう、今のうちに体力を温存しなくちゃ」
ごちそうさまでした、と自分の使ったテーブルの上を片づけて立ち上がる。中途半端に食べ進めた昼食、何となくそれいじょうの箸が進まなくなった。
――きっと、疲れてるんだろうな。
本当に、次から次から色々なことがありすぎ。そりゃあ、昨日のことはどう見ても私の失態だけど。今朝は出勤するや否や、あの勘違い男に遭遇する羽目になるしね。
だけど。……何だか分からないけど。
確かにアイツはとてつもなく無礼で自分勝手な男だとは思う。でも、このイライラの原因の全てを押しつけるのはどうかなって気もするのね。このもやもやした気持ちの大元は、確かに別の場所にある。でも、今はどうしてもそれを突き止められないの。
「あーあ、もうっ! やってられないわ……!」
ひとりきりになった部屋で、思わずそんな風に吐き捨てていた。
久しぶりの星空は、ベールのようなスモッグの向こうにぼんやりと瞬いている。
東京には夜がないとは言われるけど、夜の9時を回ってもこんなに明るいのってひとり暮らしの部屋に戻る身としては助かるわ。まだまだ人通りも多いしね、田舎で言うところの6時くらいかなあ。
人の世話にならずに生きられるのが、都会のいいところだと思う。駅に着いたら迎えを頼まなくちゃならないような身の上だったら、出掛けるのも面倒になっちゃうもの。
ひとりで出掛けて、ひとりで帰れる。ご飯もお風呂も時間を気にしなくていい。一度経験すると、やみつきになる気安さだ。
「ひとり暮らしって、寂しくない?」
田舎ではよく訊ねられる質問。そのたびに思う、何でそんなことを聞くのかなって。
確かに。あの土地で暮らす人たちは、生まれも育ちもずっと地元。東京なんて、年に一度観劇にでも行ければいい方だ。ゆっくりと流れる時間、のんびりと変わらない顔ぶれ。一歩家の外に出れば、あちこちから声が掛かる。「人付き合い」を避けては通れない感じなんだ。
仕事に全力投球して、しばしのひとりの時間を楽しんで。余計なことに気を取られない生活は、本当に気楽。ここではすれ違う人たちはみんな他人顔。私のことなんて、気にも留めない。
「今日は冷凍パスタにしちゃおうかなあ……」
これから戻って、お鍋をいくつも出すのは面倒。レンジでチンのお手軽ディナーなら、後片づけも楽チンだ。
駅前までの真っ直ぐな道。ひとりぼっちの影を踏みながら歩く。そんなとき、不意に仕事用の携帯が音を立てた。
「……何だろう、今頃」
液晶画面に表示されたのは、登録されてないナンバー。でも職場配布のこの携帯には必ず応対することを義務づけられている。
「もしもし?」
念のため、こちらからは名乗らない。相手が身の上を明かすのを待つ。しかし、次の瞬間に耳に飛び込んできたのは、信じられない相手の声であった。
「こんばんは、最香ちゃん。今、帰りなのかな?」