「先輩っ!!」
え、どうして? 何で「彼」がこんなところにいるの。
子供の頃から慣れ親しんだ風景、遠くに霞む低い山の上に広がる空。そこに一点のシミのような異分子が確認される。都会ではごくごく普通の色彩も、ひなびた田舎町ではとんでもなく浮きまくった存在に思えた。
「良かったー、こんなに早く見つけられて。浜の方に降りたとお家の方に伺いましたが、辿り着いてみたらこんなに広いんだもの。一体どこを探したらいいのかと途方に暮れてしまいましたよ」
曇り空の下で何もかもがモノクロームに滲んで見えるというのに、どうしてなのだろう。彼の周りだけがキラキラとライトアップされているように感じられる。
ふわふわと風になびく明るい色の髪、真っ直ぐにこちらに駆け寄る人懐っこい笑顔。大人げないオーバーアクションで片手を振るから、堤防上のランドセルの集団が驚いて立ち止まってるわ。
すごい、全然変わってない。そりゃ、たった一週間やそこらで別人の方に様変わりしろと言う方が無理な相談だろうけど……それにしても。
「……」
出掛かった言葉が喉の奥に貼り付いてる。私、今どんな顔をしているんだろう。だって、絶対変。幻でもなかったら、今ここに「彼」がいるはずはないんだもの。
「先輩……?」
砂浜にざっくりと根を下ろして動かなくなった両足。駄目だよ、こんなところに立ち止まってたって。すぐ側まで駆け寄ってきた微笑みが、大きく肩で息をしながら私の顔をのぞき込んだ。
「何……しに来たの?」
意識的に頭の中から排除しようと思っていた記憶。それが一気に逆流してくる。やっと、今ようやく解放されようとしていたのに。どうして、もう少しだけ待っていてくれなかったの。ひどいよ、こんなのって。
あ、やだ。……ちょっと待って。
自分の意思とは関係なくこみ上げてくる気持ち。それをどうにかやり過ごしたくて、ぎゅっと唇を噛んだ。もう吹っ切れたと思ってたのに、全部切り離して新しい未来に進めると信じてたのに。他の誰でもない、私自身がまだ躊躇ってる。こんなタイミングで気持ちを揺るがせないで、お願いだから。
「何しにって……その」
出来るだけ平静を装っているつもりだけど、きっと自分で考えるほどは上手く行ってないんだろうな。綺麗な輪郭がわずかに歪んで、彼は大きく瞬きをした。
「悪いけど、これから人と会う約束をしてるの。何か言付かってきたなら、手短にお願いできる?」
あの園長って、どうしてここまで性格悪いんだろう。別にアンタが直接来いとは言わないよ、でもさ電話でも済むようなことをもったいぶっちゃってさ。よりによって、……どうしてこの子を使うのよ。最悪の選択だわ。
でも私、仮にも「先輩」だし。あんまり格好悪いことはこの期に及んでも出来ないの。もしもそこまで計算されてるんだとしたら、もう救いようがない。
「園長から何か預かってきたんでしょ? 渡すものがあるならさっさと渡しなさいよ。それで用は済むんだから。本当にご苦労様なことね、頭が下がるわ」
ごめん、きつい言い方しか出来なくて。でも自分をどうにか奮い立たせるにはこれが精一杯なの。
―― けど。
さりげなく自分に託された「大仕事」を片付けようとしていた彼は、こっちの出方に戸惑ったのかな。促しても次の動作に移ることはなくて、ただ呆然としているだけ。
「先輩」
呼びかけたところで、一度言葉を切って。その次に続けようか止めようか迷ってるみたい。嫌だな、もう。近頃の私って、彼にこんな表情しかさせてない気がする。伸び伸びと自分の意見を言う姿が気持ちよくてすごく好きだったのに、すごく口惜しい。
誰かを「すごいな」って思う。羨む気持ちが、いつか嫉妬にかたちを変えていく。こんなのって、もうたくさんだよ。自分でも辛くて仕方ないんだから。
「何故、そんな言い方をなさるんですか?」
湿り気を帯びた生暖かい風。ゆっくりと彼の髪を服を揺らして通り過ぎていく。
「俺がここに来たのは自分の意思です、どうして園長がどうとかそう言う話になっちゃうんですか?」
それまで小脇に抱えていた大きな紙袋。それを一度足下に置いて、彼は一歩二歩とふたりの間にある空間を進み始める。
「誰かに言われたから動いてるなんて思われるとは心外です。今日は、……何があっても先輩を連れ戻そうと思ってここまで来ました。だって、それ以外に理由なんてないでしょう?」
そして、いきなり片腕を掴まれて。握り拳ふたつ分のところまで引き寄せられる。
「こちらに必ずいらっしゃるという確信もありませんでした。でも、可能性があるならそれに賭けるしかないでしょう。皆さんおかしいです、口を揃えて『本人の意思を尊重するしかない』とか仰って。そんなの、違いますよね。これ以上はやめましょう、先輩は園にお戻りになるべきです」
「……え?」
思いがけずに凄んだ表情がすぐ近くまで来ていて。それでも私はそう答えるしかなかった。何で? ……どうして? ちょっと待ってよ、どういうこと?
「そんなの無理って、分かってるはずだよ。私、園長から直接言われたじゃない。奏くんだって、聞いてたよね。自宅謹慎って自分から解除されることじゃないの、それくらい当然でしょう」
何を馬鹿言ってるの、そんな屁理屈イマドキ小学生だって考えないわよ。上が駄目と言ったら駄目、そんなの当たり前。いくら下っ端がごねたところで始まらないでしょ。
「ひとりで粋がって頑張るのは勝手だけど、付き合ってられないから。だいたいこんな風に間が抜けた頃にのこのことやって来て、一体どういうつもり? もうとっくに、あそこに私の居場所なんてないでしょうよ」
呆れた、奏くんってどこまでもおめでたいのね。
谷底に突き落とされた人間にわざわざ会いに来て、自分の立場が悪くなるとか考えないの? ううん、奏くんなら。どんな逆境だって持ち前のバイタリティーで乗り越えていくだろう。だから少しぐらいの躓きなんて、全然気にならないのかな。
「せっ、……先輩っ!!」
強引に腕を払って、くるりと方向を変える。慌てて追いかけてくる声が背中に届くけど、ここで振り向いたら負けだと思う。私、もういいから。もう十分だから。
「待ってくださいよ、……じゃあこれだけでもっ! これをお渡ししなくちゃ、何があっても戻れません!」
さっきから大切そうに扱ってた紙袋、それといって模様もなくてどこにでもあるありきたりの外装だ。それをむりやり押しつけられて、仕方なく受け取るとずしりと重い。何か、紙束のようなものが大量に入っている感じ?
思わずよろけたら、その瞬間に袋の底が抜けた。
「……あ……」
足下に散らばっていく色とりどりの画用紙。大きいもの、小さいもの、かたちも色々。折り紙や色画用紙を貼り合わせたものも、立体的にかたちづくられたものもある。
しゃがみこんで、その一枚を手にすると。そこには青いクレヨンで書かれたひらがなが並んでいた。
『もかせんせい、はやくよくなってください たくと』
……え、何これ。
慌てて他のものも改めてみれば、そこには『げんきになって』とか『びょうきにまけないで』とか励ましの言葉がたくさんたくさんあった。どれも私の受け持っていた「もも組」の子供たちの手によるもの、これにはさすがに面食らってしまう。
「大変だったんですよ、この一週間。子供たちは全然落ち着かないし、一日中イライラしたりベソかいたりで保育どころの騒ぎではありませんでした。それは園の中だけの問題ではなくて、自宅に戻ってからもそんな調子の子がほとんどだったみたいで……事務室の方にも問い合わせがたくさん来ていたみたいですよ? で、最香先輩は体調を崩されているってご説明をすることになったんです」
まあ、普通に考えて「自宅謹慎」とは言えないだろうな。そんなことが公になったら、どこまで噂が広がるか分かったことじゃない。ここは無難に切り抜けるしかないわね。
「そしたら今度は、いつになったら出て来られるのか。もしも入院なさってるなら、病院はどこなのかってことになって……さすがにこの状況には園長も驚かれたみたいです。だけどご自分が言い出したことだから引くに引けなくて、内心はだいぶお困りの様子ですよ」
ようやく全てを拾い上げて、振り返る。奏くんの表情が先ほどまでとはだいぶ変わってるのが不思議。
「先輩もお辛いとは思います、でもやはり戻るべきです。先輩だって、本当はそう思っていらっしゃるんではないですか? だって、先輩は仕事を途中で投げ出すような方ではありませんから。俺も……まだ先輩がいてくださらないと何も出来ません。教えて頂きたいこともたくさんあります。お願いです、助けてください……!」
そんな風に90度以上のお辞儀をされても困るんだけどな。別にそこまでしてもらう筋合いもないんだけど。
多分、辛いのは今だけだよ。しばらくすれば、何事もなかったように元通りになる。私が抜けた穴は忙しい日常が綺麗に埋めてくれるんだから。
……でも。
「子供たちにわんわん泣かれると、どうしていいのか分からなくなってこちらまで悲しくなってしまいます。とりあえずは戻って、みんなを安心させてください。お別れをするのであれば、きちんと手順を踏んでからにしていただけませんか? 記憶は薄れても、心の傷は必ず残ります。大人同士の意地の張り合いで、小さな心を傷つけては駄目だと思いますよ」
多分、奏くんの言葉はかなり誇張されているんだろうな。だけどその中にひとしずくでも「真実」があるのだとしたら。
「だから、今日はみんなで先輩に手紙を書くことにしたんです。俺が必ず届けてくるからって、そうしたらきっと最香先生が戻ってきてくれるからって。だから、……その約束を破ってしまったら、俺も教室に戻れなくなってしまいます。先輩なら分かるでしょう、みんながどんなに一生懸命取り組んだか」
うん、それは分かる。奏くんが言ってることに間違いはないと思う。
あれこれ悩まずに心のままに突っ走れるんだとしたら、子供たちに会いたい。この瞬間に、会いたい。彼らと過ごした日々はまだ三ヶ月足らず、それでも楽しいことが数え切れないほどたくさんあった。毎日が夢を見ているみたいに幸せだったよ。
「でも、……やっぱり無理だよ」
怖いもの、もし門前払いをされちゃったらどうするの? それに私が園に戻ることで、夢乃ちゃんのご両親がどういう行動に出るかも分からない。今はまだ、直接お話をするだけの気力は戻ってないし。難しい言葉を並べ立てられたら、きっとこちらが負けてしまう。
「先輩っ!」
大きく首を横に振って、奏くんは続ける。まるで自分自身の中の迷う気持ちも振り切るように。
「逃げないでください、俺や他の大人たちとの関係なんて脇に置いてしまっていいんです。今先輩が一番行きたい場所に行きましょう。それでいいじゃないですか、大切なのはそれだけですよ。難しいことはあとからゆっくりと考えればいいのですから。みんなが待ってるんですよ……!」
―― 自分の、行きたい場所。どうしてもたどり着きたい場所。
奏くんの言葉をゆっくりとなぞりながら、瞼を閉じてみる。
自分の行く末を模索して、この数日はどうしようもないほどに悩んでいた。すでに決められた未来は手に届く場所にあるのに、何故かそこへ収まることを躊躇っていたのはどうしてだろう。私は、本当の私はまだ諦め切れてなかったのかもしれない。戻ることは無理と百も承知だったのに、それでも心はしっかりともぎ取られた過去にしがみついていた。
まだ分からないのに、戻れるって保証はないのに。
「奏くん」
すがるように名前を呼んでいた。私の気持ちに気付いてくれたのかな、先ほどまではがちがちに固まっていた彼の表情がふうっと和らぐ。
「少しだけ、待ってくれる? 用事を済ませてくる」
まだ、片付けなくてはならない仕事があるから。
そう告げると、旗之助は病み上がりの少し痩せた顔で小さく頷く。「いつまでも、待ってるから」そう言われても、俯いて小さく頭を振ることしか出来ない。
「駅まで送ろうか? それくらいのことはさせて欲しいな」
有り難い申し出も辞退する。
だって、それどころじゃないし。旗之助が戻ってきたことで組合も一気に活気づいて、皆が生き生きと走り回っている。あなたはここにいてあげなくちゃ、みんなの希望なんだから。
「私も頑張ります、だから……どうか負けないでください」
守りたいと思ったのは事実。そうするのが私の残された道かなとも考え始めていた。
だけど、それは違う。辛いことから目を背けて手探りで辿り着いた先に、本当の幸せなんてないんだ。逃げちゃ駄目、前に進まなくちゃ。まずは自分の足でしっかりと地面を踏みしめることから始めよう。大切な人を守れるようになるのは、きっとそのあと。まだまだそこまでの道のりは遠い。
組合の玄関先まで出て見送ってくれる人にかるく会釈する。振り返って眺める海の色は、先ほどまでとは全く違う輝きに見えた。
もともとバッグひとつでふらりと戻ってきたから、荷造りらしい荷造りも必要なかった。
「急に予定が変更になって」というと母親は少し変な顔をしたが、奏くんという同僚の迎えもあったことから渋々納得したみたい。後ろめたい気持ちも大きかったんだろうな、いつもよりも小さく見える背中に胸が痛んだ。
「だいぶ、お疲れみたいですね」
海岸線を走る各駅停車。ボックス席にはす向かいに座ると、奏くんがぽつりと呟いた。乗り込む前に駅前の自販機で購入した缶コーヒーを開けて美味しそうに飲んでる。
「そういう奏くんこそ」
忙しい週末に半日の年休を取ることがどんなに大変なことか、それは私も十分承知してる。
向こう見ずで子供っぽい行動だよなあ、でもまあ……今回だけは許そうかな。本当にいっぱいいっぱいみたいだったし。それまでの彼の姿を見ていれば、周囲も納得してくれるだろう。もちろん本当のことは何も話してないと思うけどね。
半開きの窓から流れ込んでくる夕暮れの潮風。心地よい振動に揺られながら暮れていく風景を眺めていたら、次第に瞼が重くなってくる。
ようやく、一週間ぶりに。私にも安らかな眠りが訪れてきた。