あとから考えてみれば、あのときの私はどうかしていたと思う。矢継ぎ早に色んな言葉を投げかけられて、それを自分の頭の中で勝手にネガティブ思考に変換してたんだ。うん、考えてみれば簡単なこと。
でも……一度口から飛び出してしまった言葉は、取り返しが付かないんだよね。
「ホント、行かないんですか? 最香先輩」
ロッカーに備え付けの鏡で眉を丁寧に描き直しながら、静香ちゃんが念を押すようにそう言った。
「せっかく奈津先輩の奢りなのにーっ、聖子先輩なんて今夜は呑んで呑んで呑みまくるーとか豪語してましたよ?」
彼女とは対照的にぱぱぱっと支度を終えた私、もう一度前髪を整えてからロッカーを閉じた。
「うん、ゴメン。どうしても外せない用事があるの。同窓会の幹事なんて、やるもんじゃないわね。何度も招集されて、参るわ」
本当は行きたいんだけどね、ってニュアンスを漂わせたつもり。多分、これで納得してもらえただろう。
「じゃあ、お先に。どうぞ楽しんできてね」
ふたつにしばってたゴムを外せば、あちこちを向いた毛先がつんつんと頬に当たる。何となく流行りのカールに見えなくもないかな、……いやちょっと無理か。
昼の時間が最も長くなる季節、定時で上がるとまだまだ日が暮れきらない。生暖かい風がどこからか吹いてきて、窓の向こうのブランコが静かに揺れていた。
もちろん、用事があるなんて嘘。同窓会の幹事なんてでたらめ。でも、そうでも言わないと断れないような雰囲気だったんだもの。嘘も方便、大人社会の常識よ。
だってせっかくのお祝いの席、薄暗い顔をしていたら良くないでしょう。それにいくらかのアルコールが入れば、口が軽くなって余計なことを言い出しそうだし。ここはトラブルを起こす前に回避するのが得策だと判断した。
教室はあのあと、平静を取り戻した。予定してあったスケジュールをひとつひとつこなしていけば、一日なんてあっという間に終わるもの。気付けばいつの間にか空っぽになった部屋で、ひとりで書類の整理をしてた。
子供たちが全てお残り保育の部屋に移動してしまったあと。廊下の向こう、下に園庭を見渡すことの出来る大きな窓から傾いたオレンジ色の光が差し込んでくる。それが書き物をしていた私の手元に影を作って、そしたらようやっと今日一日のあれこれが頭の中でくるくると回り始めた。
――やっぱまずかったよな、あの言動は。
新米だろうとベテランだろうと、私たちはプロなのだ。一度仕事着であるアップリケのエプロンを着込めば、求められる期待に応えるために精一杯頑張らなくてはならない。個人的な都合なんて、言い訳になるわけないんだから。
奈津のこと、全然気にしていないつもりだった。結婚するのは彼女の勝手だし、それによって自分が影響を受けるはずなんてないと信じてたのに。こんな風に初日から躓いてしまってどうしたらいいんだろう。
「恋愛」を捨てて「仕事」を選んだ。もちろんどちらとも同じくらい大切だったし、出来ることなら両方を手に入れたかったのが本音。でも欲張った結果、ふたつとも失うことになってしまうのだったら元も子もないでしょう。元彼とだって、続けられるものなら続けたかった。
職場で得られるもの、恋人から与えられるもの、双方は似ているようで全く違う。ただ側にいて微笑みあうだけで、心が満タンになる。背伸びをする必要はない、頑張り過ぎなくていい、相手を「大切な人」と認識していれば安らぎが手に入った。
仕事が順調に進んでいるときはいい、でもこんな風にちょっとでも躓いたときには走馬燈のようにあの頃のことがぐるぐると頭を巡っていく。
可愛い子供たち、私を見れば嬉しそうに駆け寄ってきて覚えたての言葉を使っておしゃべりしてくれる。
でもあの子たちにとって「保育園」は大好きなお父さんやお母さんが仕事をしている間預けられているだけの場所。時間が来ればお迎えが来て、それぞれの家庭に戻っていく。明るい灯りの下、夕食のテーブルを囲み今日の出来事を楽しく報告する。本当に「大切」な空間はそこにあるのだから。
……あ、駄目。やっぱり、気落ちしてる。今の私は普通じゃない。
ひとりぼっちの部屋にまっすぐに帰る気にもなれず。
なかなか進まない時間を何度も何度も確認しながら、私はぶらぶらとあてもなく駅ビルを散策していた。今頃みんなは楽しく呑んで騒いでいるんだろうなって、やっぱり気にしている自分が嫌。
都会のオフィスまでも電車一本で辿り着ける場所だから、入っているテナントもお洒落な店が多いのね。飴色のライトに照らし出された花色のスーツたち。虹色に並べられて、みんなで内緒話をしているみたいだ。その隣はジュエリーショップ、店頭に並んでいるのは今流行りの大粒じゃらじゃらなネックレスたち。
入り口から近いそれらの店を横目で眺めつつ素通りして、私が行き着くのは奥まった場所にある雑貨店。タオルやリネン、キッチン小物なんかがたくさん並んでいて、見ているだけで心が和む。
オーガニックコットンのバスタオル、3000円とか4000円とか薄給取りの身には厳しいお値段なのね。でも、一度使ってみると病みつき。だって、手触りが全然違うのよ。アースカラーの柔らかい色合いも素敵だし。
ミルク色の食器たち、気が付いたらこのシリーズでキッチンの戸棚が埋まってた。定番品だから少しずつ少しずつ買い足せる、そう言うところも気に入っているのね。
学生時代からずっとこの場所に住み着いているんだもの、かなりの常連さんだと思うよ。保育園は色鮮やかな空間だから、その分アパートの部屋はシンプルに仕上げてる。夏のボーナスが出たら、奮発してカーテンを新調しようと思ってるんだ。ワッフル織りのアイボリー、部屋が明るくなりそう。
ちょっとしたプレゼントやお礼の品もいつもこの店で選んでる。そう言えば、奏くんにもここで買ったフェイスタオルをプレゼントしたんだ。正規採用のお祝いに。あれがほんの数ヶ月前のことなんて、信じられない。
「ありがとうございます、大切に使わせて頂きますね!」
嬉しそうな笑顔で受け取ってくれたけど、それ以来彼があのタオルを手にしているところを見たことは一度もない。
まあ、そうだよね。他の先生方からも子供たちの保護者の方々からも、抱えきれないほどのお祝いをいただいていたもの。きっとあのタオルはまだお店の紙袋にはいったまんま、部屋の隅にでも転がっているんだわ。ううん、もしかしたら「こんなの趣味じゃない」って他の人にあげちゃたかも。
もう、何を見ても何をしても、落ち込んでいくばかりだ。奏くんのことだって、その顔を思い出すだけで嫌な気持ちになるのに、さらに後ろ向きの思考でイライラが倍増だわ。もう駄目、こういうときはゆっくりお風呂にでも入って気持ちを落ち着けなくちゃ。そうよ、そのために買い物買い物。今日は奮発して、いつもよりもお値段の張るバスオイルを使っちゃおう。
サンプルの香りをくんくんしてたら、何となく覚えのある匂いに辿り着いた。溢れかけた感情をごくりと飲み込む。私は何事もなかったように、そこから一番遠い場所にあるローズピンクの瓶を手にした。
駅の構内から外に出ると。丁度下りの電車が到着して、改札口から出てきた人たちでロータリーはごった返していた。
駅ビル地下の食料品売り場のビニール袋を手にした女性、アタッシュケースを大切そうに抱えた男性。あっちのラフな服装は学生さんかな。みんな足早に私を追い越していく。そんなに急いで戻る場所があるなんて、やっぱり少し羨ましいって思えてきて。……やだな、私まだいじけてる。
そこから北へ真っ直ぐ、しばらくは昔ながらの商店街が続く。
ちらちらと降り始めた雨、歩道には店先から延びた雨避けがついてるからどうにか濡れずにすみそう。途中の細道を曲がったら、あとは住宅街を一直線だから大丈夫。
普通車が一台やっと通れる一方通行の道、街灯がぽつんぽつんと道なりに続いている。こぬか雨のせいか、その灯りが少し滲んで見えた。
「……あれ?」
もう一度、携帯を引っ張り出して時間を確認する。20:30とキリのいい時間をしばらく眺めたあと、私はふと気付いた。
そう言えば、まだ来てない。日に三度の定期便、夜の分。
別に待っている訳じゃない、あんなとんちんかんなメッセージをもらったって嬉しくも何ともないし。でもどうしたんだろう、今日に限って。
メールの受信状況をフォルダを開けて確認する。やはり最後に届いたのはお昼過ぎ、丁度昼休みなんだろう毎日だいたい同じ時間だ。駅ビルの中では人混みの喧噪で着信音に気付かなかったのかと思ったけど、そうじゃなかったみたい。
何となく成り行きで、今までのメールをひとつずつ開いていく。それくらいのよそ見をしていても大丈夫なくらいの安全な道なんだ。他愛のないおしゃべり、ひと文かふた文であっさり終わってる。そしてたまに、道ばたの花とかの画像を添付してくるのね。
「あー、ハマヒルガオだ」
残念ながら彼にはカメラマンの才能はないらしい。お世辞にもベストショットとは言えないアングルで写された浜辺の風景。紫がかったピンク色が、砂浜を這い回ってる。
たくさんの人が集まる場所じゃないから、その分ゴミも少なくて気ままな散歩をするには丁度いい辺りだ。私も地元にいた頃は愛犬を連れて良く海岸まで遠出したっけ。潮風に吹かれていると、時間が経つのも忘れてしまってついつい長居をしてしまう。ひとりぼっちで佇んでいても、あの場所はいつも優しかった。
「だけど。今、何もかもを投げ出すわけにはいかないんだから」
誰に聞かせるわけではない、自分自身に語りかける。初のクラス担任、やっと掴んだチャンス。これをモノに出来なくてどうするの。「何も出来ない駆け出しのくせに」と先輩たちから言われたときは、それが正論であるとは承知しながらもやっぱり口惜しかった。どんなに頑張ったって、長年積み重ねてきた実績には敵わない。少しでも骨のある奴だと認識してもらうために、さらに努力するしかない。
「何だよー、結局は口ばっかりじゃない。情けないったらないの」
今度は旗之助への暴言。だって、やっぱり口惜しいじゃない。三日坊主という言葉あるけど、彼のはまさにその通り。こっちが返信を毎回きちんと返さなかったのが悪かったのか、あっという間に飽きちゃうのね。こんなんじゃ、付き合ったとしてもすぐに捨てられるわ。
……でも。
動き出すわけもない、同じフォントで並んでいる文字。ちらちらと横目で眺めて。そのとき、ちょっと遊び心が出たんだ。
何となくね、別に意味もないんだけどね。たまにはこっちから先に送るのもアリかな、とか閃いた。媚びを売るとか、そんなじゃないけど。ただ、何となくね。
彼はいい加減なところがあるらしく、その時々で発信元のメアドが変わってる。いくつも所有している携帯や、時によっては仕事中のパソコンから適当に送ってきてるみたいだ。ええと、メインのアドレスはどれだったかな? 考えるのも面倒くさいから、アドレス帳を開くことにした。
「……あ、やば」
メールアドレスにカーソルを合わせたつもりが、手が滑ってナンバーの方を選択しちゃったみたい。あっという間にピポパと通話呼び出しが始まっちゃって、びっくり。でも、いくつかのコールの後「ただいま電話に出ることが出来ません……」と言うお決まりのメッセージが流れ出した。
ホッとしたようながっかりしたような複雑な気持ちで、電源ボタンを軽く押す。すぐに元の待ち受け画面が現れて、そのうちに液晶の窓がふっと暗くなった。
あとに残ったのはびっくりするほどの静寂と、それから自分の中から聞こえる鼓動。
深い溜息をひとつ落として、携帯をバッグの中に放り込む。……いいや、もう。早く帰ろう。お風呂にたっぷりお湯を張って、ゆっくりゆっくり温まるんだ。ちょっと変な陽気だもの、汗ばむような肌寒いような。梅雨時は体調を崩しやすい頃だから、十分に自己管理をしなくちゃね。
心の中でぶつぶつと呟きながら、一歩ずつ進んでいく。歩き始めの赤ちゃんにとっては、とてつもなく大変な「一歩」。大人の私は無意識にどんどん歩いていける。そんなの当然なんだけど、逆に些細なことで引っかかってる方が変なんだけど、でもそうやって次第に新鮮な感動までを忘れてしまってる気がする。
子供たちと身近に接している今はとても楽しい。でもその反面、全てに割り切りすぎてる自分に落ち込む日も多いのね。
――と。
カバンの中、携帯が震え出す。一呼吸の後に、オルゴールの着信メロディーが続く。しばらくは何が起こったのかさっぱり分からなくて、途方に暮れていた。でもいつか無意識のうちに、ごそごそとカバンの中を探り出す。
「……もしもし?」
何となく怖くて、相手の名前を画面で確認することが出来なかった。「もしや」と思ったのが、そうじゃなかったら、やっぱり辛いし。かなりの怪訝そうな声だったかな、しばらく電話の向こうは無言だった。
「ええと、……最香ちゃん? どうしたの、びっくりしたよ」
私の携帯に連絡してるのに、相手を確認するのってちょっと変わってる。でもそれくらい驚いたんだろうな、私の方から直接電話するなんて、初めてだもん。
「あ、いいえ。別に何でもないんです、お忙しいところごめんなさい」
間違ってボタン操作しちゃっただけだから、本当にそれだけだから。そう続けようと思ったのに、舌がもつれて上手くしゃべれない。どうしちゃったんだろう、私。
「……何? 今は外なのかな? 雨の音がすごく近いけど。もうそっちは降り出したんだね」
必死で耳を澄ましてる、そんな仕草が携帯越しに感じ取れた。本当だ、気が付いたらだいぶ本降りになってるじゃない。ああ、早く戻らなくちゃ。髪の毛に肩に細かい雨粒がいっぱい付いてる。
「え、ええ。そろそろ家に着きますから大丈夫です。その、……もう切りますね」
自分でも何をしゃべっているのかよく分からなかった。
電話の向こうの人は、私の顔色も態度も確認することが出来ない。どんなに落ち込んでいても、声色から感じ取るほどには親しくないし。電話越しにはもともとこんな声なのかなとか、思ってるのかも知れないね。
「そう? 残念だな、数日ぶりに声が聞けたのに。すぐに電話口に出られなくてごめん、ちょっと外に出てたから。また、これからすぐ出掛けなくちゃならないんだ。慌ただしくて申し訳ない」
妙に勘ぐったりしない、普段通りの言葉が心に落ちてくる。
その刹那、私の中に今までに彼に対して抱いたことのなかった「親近感」を覚えた。だけどそれはとても淡くて、あっという間に跡形もなく消えていく。
「いえ、別にいいです。用事とか、あったわけでもないし……」
そうよ、単なるボタン操作のミスなの。ただ、メールの返信をしようかなと思っただけ。――何となく、自分の生活と全く違う場所にいる人と言葉を交わしてみたくなっただけなの。
「最香ちゃん」
本当に急いでどこかに出掛けるみたいだ。上着に袖を通しているような音が、微かに聞こえてくる。他に物音がしないけど、ひとりきりの部屋なのかな。
「声が聞けて、嬉しかった。もうしばらくはそっちに行けそうもないんだ、僕としては今すぐにでも飛んでいきたいくらい会いたいんだけどね」
こんなの、いつもの社交辞令。心の伴ってない、ただ表面上の言葉。
自分でもしっかりとそれを承知しながら、だけどぷつりと通話が途切れたあともしばらく携帯を耳から話すことが出来なかった。
――恋人ごっこなら、楽しいんだよ。本当に、ただそれだけならね。
大きく首を振ると、数え切れないほどの雨粒が髪から飛び散る。ぶるっと小さな悪寒、私は元通りに携帯をバッグに戻すと再び歩き出した。
屋根のない外階段を足早に駆け上がり、振り向く。そして、さらに出かかった足がぴくりと止まった。
私の部屋、ドアの前に誰かが立っている。
耳にくっついてるイヤホン、こちらに背を向けて俯きがちだから私の足音にも気付いていないみたいだ。ドアの上の常夜灯は暗くてよく見えないけど、その背格好は細身の若い男性っぽい。服装はラフな感じ、Tシャツの上から半袖のシャツを羽織って。
……まさか、そんなはずはないでしょう?
にわかに暴れ出す胸の鼓動をどうにか抑えつつ、歩き出す。それと同時に、相手の男が顔を上げた。