TopNovel願わくば・扉>願わくば、恋視線・20



       

     

 小さい頃、大人が怖くてたまらなかった。みんな顔では笑っているのに、心の中では別のことを考えている。それが幼心にもはっきり見て取れた。

「やっぱり水商売あがりの女からじゃ、ろくな子が産まれない」

 口汚いその言葉の意味すら理解できないのに、自分と母親が地元の皆から疎ましがられていることだけは分かった。そしてその輪の中に、いつの間にか自分の父親の姿までが加わっていく。

「何ベソをかいてるんだ、やられたらやり返せ。それくらい出来なくてどうするっ……!?」

 いじめっ子に追い立てられて泣きながら家に戻ると、すぐさま雷が落ちてきた。どうしてなのだろう、この人は自分のことを守ってくれる立場にあるはずなのに。何で、こんなにも冷たく突き放すのか。

 母親はいつも泣いていた。どうやって慰めてあげればいいかも分からないまま過ごしていると、ついには床についてあっけなく逝ってしまう。その死に顔はあまりにも安らかで、とうとう自分にはただひとりの味方もいなくなってしまったのだと知った。

 

「……君は『まだ』半年足らずだと言ったけどね、僕としては今回のプロジェクトは三ヶ月もあれば軌道に乗せることが出来ると思っていたんだ。だからこそ、少し無理をした部分もある。長期戦で行くならそれなりの方法もあったのだけどね……」

 最初は目に見えないほど小さなささくれだった。その程度の傷ならば、大した痛みもないだろうと見過ごしているうちに次第に歪みが広がっていく。

「あの人は最初から僕を都合良く動いてくれる手足としか思っていなかった。それくらいのことは分かっていたし、だからこそ見返してやろうと躍起になっていた部分も大きいと思う。だけど、……現実とはこんなにも残酷なものなんだね」

 夢を見すぎていたのかも知れない、と彼は続けた。

「自慢話にしか聞こえないかも知れないけど、過去にはもっと巨額の資金や大勢の人間を動かしたことが幾度もある。だから、この程度の規模の仕事なら簡単にこなせる自信があったんだ。崩壊寸前になっている小野崎の産業を立て直すことが出来れば、あの人も今度こそは僕の実力を認めるはずだと。それがこのザマだ、あんまり情けなくて自分でも笑ってしまうほどだよ」

 

 実際に彼の口からこぼれ落ちてくる失笑につられることは出来なかった。言葉にした何倍も何十倍もこの人は傷ついている。

 ―― そうだよね、旗之助が小野崎に戻ってくることすら有り得ない出来事だったんだから。

 彼が中学卒業と同時に東京へ行ってしまったという話を聞いたときに、当然の成り行きだろうなと思った。ただの傍観者でさらに当時はまだ小学生だった私の目から見ても、大漁一族の跡取りという身の上は旗之助にとってとても居心地の悪いもののように感じられたから。やはり人には得手不得手というものがある。ことに末は政治家となる身の上ならば、相応の器が必要になるはずだ。

 再会したときの強烈なイメージについつい思い違いをしてしまったけど、この人の本質って全然違っていたんだ。彼自身も「捨て去りたい」と思った過去の自分、でも人間の核になる部分って結局は塗り替えることが出来ないんだよね。
  成長していく過程で外的に内的にいくらかの矯正はすることが可能であっても、それはあくまでも「添え木」をして真っ直ぐに伸ばしているだけ。あまり無理をしすぎれば、元の枝ごと一緒に折れてしまう。

「こっちに戻ってきて地元の人たちに熱烈な歓迎を受けて、そこで最初の一歩を見誤ってしまったんだと思う。もしかしたら自分は生まれ変われるかも知れないとか、――本当におめでたいったらないな。結局はあいつらもあの人の手先、腹を割って話し合える人間じゃなかったのに。……馬鹿だな、僕も」

 故郷は淀んでいた、その停滞した雰囲気を打ち破るかのような勢いで地元の名士の跡取りが戻ってくる。明るい話題に小さな町は一気に湧き立った。でもそれも一過性のもの、すぐに人々は慣れてしまう。気付けば誰も彼もが、彼の後ろに偉大なる父親の影を見ていた。

 

「僕の言葉があの人の了解を得ていると思っていたからこそ、皆は賛同してくれた。だからある日を境に、事態は急変したよ。どうしてそんなにあの人が怖いのだろうね、些細なことを気にしていては何も変わらないのに。長い時間に凝り固まってしまったしがらみは、大幅な改革なくしては打ち破れない。根本から掘り起こして修正しなくてはならないのに」

 多分、そんなのは無理だよ。

 口にこそ出さなかったけど、心からそう思っていた。だからこの町にはいられないって思ったんだから。古い考え方を引きずっているばかりでは、何も始まらない。でも全てを塗り替えられる方法も思いつかないし、だったら自分ひとりでも抜け出すしかないんだ。

 諦められる者だけが地元に残り、我慢ならない者は出ていく。それが田舎の鉄則だと思う。居心地の良さと引き替えにたくさんのものを抑え込まなくてはならないのだとしたら、私は懐かしさごと捨て去りたい。「自分」を生きるためにはそこまでしなくちゃならないんだ。

 ―― なのに、まだ思い切れてなかったんだね。

 旗之助の父親が今推し進めているのは、この辺一帯の大規模開発。隣の浜谷と同等かそれ以上のリゾート地を造ろうというものらしい。もちろん過疎化が進んだ自治体では資金源があるわけもない、ここは都会の企業とのタイアップが不可欠になってくる。しかし、旗之助はその提案に正面から対立した。

「実際にあの人の考えが実を結んだとして、利益を得るのは進出した企業と関わった事業者のみ。いくら地元の活性化に繋がるとか言ったって、実際に地元に落ちてくる金はわずかばかりだと思う。結局は何も好転しないばかりか、ゴミの増加などのさらなる問題も出てくるはずだ。他者に頼るばかりではなく自分たちの手で切り拓いて行かなくては、何も残らなくなってしまう」

 そうは言っても、もう取り返しは付かないんだ。旗之助の言葉はそう続いていくように思えた。正当な意見だからと言って、必ず皆が納得してくれるわけではない。「長いものには巻かれろ」――大人社会の実態はどこへ行っても同じだ。

「……だから、諦めちゃうんですか」

 この人はここに戻ってくるべきではなかった。どんなに請われたとしても踏みとどまるべきだった。私だけじゃない、誰でも同じように思うだろう。

 私の問いかけには答えずに、旗之助はまた額に手を当てた。

「こっちに戻ってきて、君のことを聞いたんだ。高校卒業と同時に上京して、そのまま就職したって。保育士になったと聞いたときは、ああやっぱりなと思ったよ。でも……それと同じくらい口惜しく思ったけどね」

 こちらが驚くのを待っていたのだろう、ちらと向けられた視線がどこか楽しそうだった。

「君の愛情がたくさんの子供たちに向けられる、それは当然のことだしとてもお似合いだと思った。でも出来ることならその全てが見知らぬ誰かではなく僕に向けられたらいいのにな、とかね」

 ……?

 また、不思議なことを言い出す。どん底まで落ち込んでるからと付き合ってやってるのに、もしかしてひとのことおちょくってる? うーん、そうは思いたくないけど。

「君は……温かいんだ。見かけるとつい側に行きたくなる、その愛情を肌で感じてみたくなる。そして……独り占めしたくなる。当たり前のように君の近くにいられる子供たちが本当に羨ましいよ、彼らは僕には手に入れられないものを毎日のように与えられているのだからね」

 何だか、どこかで聞いたことがあるような言葉だな。つい最近、誰かに同じようなことを言われた気がする。うーん、良く思い出せないけど。

「そ、そんなっ……買いかぶりすぎですよー! いきなり何を言い出すんですか」

 必死に振り切ったら、ついでに湧きかけた記憶まで綺麗さっぱり吹き飛んでいた。

「冗談じゃ、こんなことは言えないよ。もちろん僕と最香ちゃんとは学年も離れているし、満足に話をしたこともなかったけどね。いつもにこにこして周りに人がたくさんいて、本当に羨ましかった。僕を見ると無視をするような大人も、あとからくる君には嬉しそうに声をかけるんだ。そういうことが続けば、気になってしまうのは当然でしょう」

 何だろう、薄暗い話がいきなりこんなむず痒い内容に変わって。ついて行けないなあ、全く。

「またまたー、何も出ませんよ? そんなことを言ったって――」

 もう、あの職場だって解雇されるんだし。今更、誉められたって始まらないわ。きっと私、保育士に向いてなかったんだよ。必死で頑張ってきたのに、こんな風にあっけなく何もかもがなくなっちゃうんだ。

 

 ―― そうか、ふたりとも一緒なんだね。

 今初めて、目の前にいる男と心が歩調を合わせた気がする。今まではそうしようとする気持ちもなかったし、実際も無理だと信じてた。でも……情けない話だけど、何もかもをなくした者同士ってことでは同類。

 

「改めて、考えて欲しいんだ。本当はもう君のことは諦めるつもりだった、でもこうして顔を見てしまうと駄目だな……往生際が悪いというか何というか」

 真っ直ぐの視線、横になった体勢から見上げられるといつもとはかなり感覚が違う。見下ろされているときは小馬鹿にされてる気分だったのに。

「もう全部捨てて、出て行こうと思っていたんだ。でも、まだ君がいた。君がいるなら……もう少し頑張ってみたいと思う。ひとりきりで走り続けるのはもう限界みたいだ」

 


 まだら模様に続く灰色の空、海と空との境界線がぼんやりと滲んでいる。夕暮れの輝きは厚い雲の向こう側、生暖かい風が私の隣をすり抜けていく。

 あれから、三日。

 私の中では、旗之助の言葉が何度も浮き上がっては消えている。すがるような必死の瞳、今までの違和感が一掃されて彼の姿は遠い記憶と統合されていく。

  検査の結果特に異常も見受けられなかったと言うことで、今日の午前中には退院できることになったと連絡を受けた。病院側としては出来ればもう数日は静養した方がいいとの話であったが、旗之助本人が「どうしても」と食い下がったそうである。

「やっぱり最香さんに来ていただいて良かった、専務もすっかり気を取り戻されたみたいです。これで全てが元通りですよ」

 毎日でも見舞いに行きたいところだったが、そうするには足がない。それにしょっちゅう留守にしていては、家族にも怪しまれてしまうだろう。

 

 ―― もう、辞めようかと思ってるんだ。

 

 枯れた心を絞り出すように告げられた真実。でも、その瞬間にもまだ彼の中には「迷い」があったのだと思う。

「大丈夫だよ、専務が不在の間は俺たちでどうにか持ち堪えるから。すごいんだよ、専務はもしものときのために何通りもの逃げ道を作ってくれている。お陰で車両の手配も出来たし、注文を受けた分の魚も他の市場から回してもらえることになった。これも俺たちを信じてくれてのことだよね、本当に有り難いよ」

 山の上の病院から戻って、連絡事項をいくつか伝えるために訪れた組合。「若手」の組合員たちは旗之助の留守をしっかりと守っていた。対応に出てきた弟の青が、少し疲れの見える表情でそれでも生き生きと語ってくれる。

「この町で、まだ俺たちの居場所があるってすごいことだよ。専務には安心して休んで欲しいな、こっちのことは心配しないで」

 ああ、そうなのだと思う。

 ここにいるみんなにとって、旗之助はスーパーマンのような存在なんだ。未来も希望もなくした色のない世界を鮮やかに彩った救世主。実際の彼はそんなすごい人間じゃないのかもしれないけど、少なくともここではそう信じられている。だからこそ、走り続けてしまったのだ。ブレーキを踏むことすら躊躇って。

 

「……私が彼を支えればいいの?」

 何だか、まだ実感がない。でもこういうのも「神様のお導き」って奴なのかな。何よりも大切だった子供たちや保育園から追い出されて、私にはもう何も残っていないと思ってた。でも違う、ここにはまだ私を必要としてくれている人がいるんだ。

 ……だけど。

 灰色の波間に白い泡。網目模様になって、砂浜に引きずられていく。引き寄せては戻る、その永遠の営みを眺めていると自分が自分自身がとても大きなものに包み込まれていることに気付かされる。そう、己の力ではどうすることも出来ないほどの巨大な流れに。

 電話が鳴るたびに、胸が高鳴った。今度こそ、今度こそは園からの連絡が来たんじゃないかと。そのときの対応すら思い浮かんでないのに、それでも私は待っていたんだ。
  自分から電話することも考えたけど、やっぱり無理。そんな風にしているうちにもう週末だ。とうとう一週間、仕事を休んでしまったことになる。

「みんな、どうしているかな……」

 私の姿を見つけて嬉しそうに駆け寄ってくる笑顔、さしのべられる小さな手のひら。みんな大好きだった、とても大切だった。だから守りたいと思った、なのに……どうして私は全てを手放してしまったのだろう。

 まだまだ小さいから、子供たちはすぐに私のことなんて忘れてしまうだろう。悲しいけどそれは事実。きっと私だけが、いつまでもずるずると過去にしがみついているんだ。

 

 ―― 馬鹿だな、もう。

 

 奏くんに言われた通りだ、あの頃の私はどこかおかしかった。何であんなにイライラしていたんだろう、自分で望んだ仕事に精一杯頑張っていたはずなのに。

 そう、……頑張って頑張ってるのに、周囲の評価がそれにそぐわない。そのことに心のどこかで腹を立てていたような気がする。同じように、ううん私の方がずっと頑張ってるのに、それなのに周囲におんぶに抱っこで過ごしている奈津の方が誉められる。それがどうしても許せなかった。

 張り合うことなんてなかったのに、自分の仕事だけをしっかりこなしていれば良かったのに。何かというと奈津と比べて、自分が劣ってると思えば嬉しくなかったんだと思う。

「恋愛も仕事もどちらも手に入れる」――そんなこと、絶対無理だって思ってたんだよ。だから私は仕事に生きる決心をした。それなのに、……私には叶えられなかった「夢」を難なく手に入れる彼女がすぐ近くにいるんだもの。今までの自分自身を全て否定されたみたいな屈辱感が、拭っても拭ってもまとわりついてきた。

 私、本当は何を望んでいたんだろう。もしかして、奈津が上手くいかなくて窮地に追い込まれることを期待してたりした? それなのに全然そうならなくて、だから口惜しかったのかな。認めたくなかったけど、多分そんなところなんだと思う。

 ……奏くんのことも。

 大切なことを、どこかに忘れていた気がする。一番大切なことを置き去りにしたまま過ごしていたから、そこから少しずつ歯車が狂い始めた。もっと早く原点に戻って軌道修正しなくちゃならなかったのに。でも、もう遅いんだよね?

 

 だから、私は。私は、二度とあの場所には戻れないんだ。

 

「側にいて欲しい、支えて欲しい」

 ―― そう言ってくれる人がいるなら、いいじゃないの。まだ私はひとりになってない、今度は取りこぼさないように気をつけながら新しい夢を見よう。

 

「よし。……じゃあ、行くか」

 旗之助と四時に組合で待ち合わせをしている。今まではちょっとの暇つぶし、だから今日は愛犬・ベルもいないんだよ?

 立ち上がって、ハーフパンツの後ろに付いた砂を払って。くるりと振り返ったそのとき。

 堤防の上。若草色のチェックシャツが、私の視界に勢いよく飛び込んできた。

 

 

2007年2月9日更新

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