TopNovel願わくば・扉>願わくば、恋視線・9



       

     

 何で、先ほどの迷惑駐車トラックをしっかりとチェックしなかったのか。応接室兼園長室のドアが開かれた刹那、私は自分の注意力のなさを力一杯悔やんでいた。

 

 数日前の悪夢が瞬時に蘇る。

 すっきりと隙のない着こなしのスーツ姿、顔の表情に邪魔にならない縁なしの眼鏡。物腰はどこまでも柔らか、しかしその瞳の奥にある輝きは背筋がぞっとするほど鋭い。まるで空の高い場所から獲物を探す鷹の如く。ただし、それすらもお得意の「営業スマイル」がかき消してしまっている。

  彼はわざとらしいほどに大袈裟なポーズで腕を大きく広げると、感極まった様子で立ち上がった。

「やあ、最香ちゃん……! あ、いえ、ここでは『最香先生』とお呼びしなくてはならないのかな。急に押しかけて済まなかったね、でもせっかくだから一目顔を見たいと思って。皆さんのご厚意に甘えて、待たせてもらったんだよ」

 身体中の血の気が一気に引くとはこのことだろうか。怒濤の一夜が明けて、またしても有り得ない事態。一体誰が私にここまでの苦難を与えているのだろう……?

「え、……ええと。大漁さん、これはまたどういうことでしょうか」

 何で、あんたがここにいるのよ。襟首を掴んでそう問いただしてやりたいところであったが、他にもギャラリーがいることを考えて自粛する。ああ、何て大人な私。自分でも惚れ惚れするわ。

「いやいや、最香先生。どういうことも何もないですよ、こちらの専務は先生の同郷の方だそうで。それがこのように早朝から、我が園の職員一同のために専務自ら特産の干物を届けてくださったんです。いやあ、その上私には鯛の刺身を……これがまたとない大好物でしてね」

 何か、いつもとキャラが違うんですけど。どうしたんですか、園長。梅雨時で頭にキノコでも生えちゃったのかしら?

「いえいえ、そのようにお褒め頂くほどのものではございません。地元の人間にしか知られていない漁場がありましてね、そこに夜明け前から船を出させて釣り上げて来たものなのですよ。新鮮さはこの上ありませんが、ただお味の方は舌の肥えていらっしゃる園長先生がお相手では保証の限りではございません。いやはや、お恥ずかしい限り。園長もどこまでも口がお達者で……」

 すでにコイツの本性を目の当たりにした私には、目の前で繰り広げられる馬鹿らしい猿芝居を容易に見抜くことが出来た。だがしかし、向かい合ってお茶を飲んでいる園長もかいがいしく給仕をしている副園長夫人もそのことに全く気付いていない様子。いや、分かっていてあえて相手に合わせているのだろうか。タヌキとキツネの化かし合いみたいで、訳が分からなくなってくる。

「しかし―― 最香ちゃんから聞いていましたが、実際にこうして間近に拝見すると本当に素晴らしい施設ですね。近々デイケアの方にも手を広げられるとのこと、少子化と老人問題のふたつを同時に側面から支える事業を展開されるとは恐れ入りました。さすが区議会議員の名に恥じないご活躍ぶりです、このような素晴らしい上司に恵まれて最香ちゃんが張り切るのも無理はありませんね」

 

 ―― ちょっと待て。

 私はそこまでの情報を与えてはいないはずだけど、一体どこでどういう風に調べたのだろう。まあ手段はいくらでもあるし、驚くほどのことではないかも知れない。だけどどうなの、この園長の嬉しそうな顔と言ったら。すっかりストライクゾーンど真ん中、ツボに入りまくっている感じだ。

 園の職員や利用する保護者の方の中にも、この園長に上手く取り入ろうと画策する輩はそれこそ「掃いて捨てる」どころか「掃除機で吸い取りたい」くらいごまんといる。なにしろ、政治家ってとにかく人脈がすごくてそのツテがあれば難しい物事も面白いように上手く運んだりするのだ。
  でも始終周りから持ち上げられている人間というものは、実は見かけほど簡単には丸め込まれたりしない。どこまでもしたたかで計算高くて、自分にとって有益になる相手だと思わなければ虫けら同然の扱いになる。私もここに入ってそんなに長くないし全てを知っているわけではないけど、先輩の先生方からも色々と怖い話は聞いていた。

 

「まあ、……この通り放っておかれる私としましては内心穏やかではありませんけど」

 老舗の和菓子屋の包み紙がくっついた栗羊羹を美味しそうに頬張りながら、奴は観念したように首をすくめる。その仕草に弾かれるように反応した園長が同情に満ちた目でこちらを振り向いた。

「いけませんねえ、最香先生。仕事熱心なのは園としてはとても有り難いことですが、半年もご実家に顔を見せないのは感心しませんね。やはり親とはかけがえのない存在、慈しみ育ててくださった恩に報いるのは子供として当然のことですよ。その上、このように素晴らしいフィアンセを悲しませては罰が当たるというものです」

 

 ――え、何それ……!?

 

 未だにドアの前に立ちつくしたままの私は、さらなる衝撃に打ち抜かれる。一体、この男は園長に何を吹き込んだんだ。いい加減にしてよ、全くもう……!

 しかし、私が口を開く前に奴の声がその前を遮って行った。

「ああ、違います。私と最香ちゃんはただの顔なじみと言うだけで、まだそのように具体的には……ええ、現段階では園長先生の期待されるような間柄ではないのですよ」

 そう告げながら、こちらを振り向く何とも物欲しそうな瞳。やるせない想いをさりげない仕草に託して、男は小さな溜息をついた。

「いやいや、そのようにお隠しにならなくても……誰が見てもお似合いのふたりではありませんか! ――あ、失礼……」

 私にとっては迷惑なだけの慰めを言いかけたところで、園長の胸ポケットで携帯がけたたましく鳴り響いた。ほとんどの電話は受付係が受けるかたちになっているそうだから、直接掛かってくるのはかなりの重要な相手だと思われる。園長は画面で相手を確認してから、席を立った。

「楽しい時間を過ごしていたのに、誠に残念です。急用が入りましたから、ここで失礼させて頂きます。いえ、専務は心ゆくまでごゆっくりなさってください。最香先生と積もる話もございますでしょうから……ほら、清美君も気を利かせてあげなさい」

 

 さらにお節介な言葉を頂戴してしまい、私は目眩を起こしそうになった。

 園長は副園長夫人を伴って、あっという間に立ち去ってしまう。そう、この間の兄のように。誰も彼もが私の敵になってしまうって、一体どういうことなのっ……!

 閉まってしまったドアを恨めしく見つめていると、背後で静かにお茶をすする音がした。

「今日は欠勤の先生もいらっしゃらないとのことで、外遊びの手は十分に足りているそうだからね。君の分のお茶も入っていることだし、ご厚意に甘えて一服していこうよ?」

 他人の部屋だというのに、まるで我がもの顔に振る舞う男。ふてぶてしい態度のまま、ゆっくりと髪をかき上げる。

「いえ、こちらは勤務中ですから。大漁さんもどうぞお引き取りください、私も職場に戻ります」

 全く信じられない、天国と地獄ってまさにこういうこと……!?

 数時間前まではまるで一夜を甘く過ごした恋人同士のように奏くんとモーニングコーヒーを楽しんでいたのに、ちょっとの間になんたる変わりよう。この状況の変化について行けない感じだ。
  奏くんとだったら、何杯だってコーヒーを楽しみたい。でも、この勘違い男とは一秒だって一緒にいたくないわ。もう二度と会わないでいるつもりだったのに、何で押しかけてくるのよっ。しかも職場よ、職場。相手の仕事を邪魔するなんて、社会人として有り得ない行為だと思うわ。

「本当につれない人だね、君も。切ない男心を察してくれないと、こっちとしてもやりにくいんだけどなあ……」

 ピリピリと張りつめている場の空気をどうにかして和ませようと画策しているのだろうか、鼻に掛かった甘えた口調がこの上なく気色悪い。逆撫でされた感情の表面が一気にささくれ立っていく。自分でも一体、どうしてここまで毛嫌いしなくてはならないのかと不思議になるくらい生理的に受け付けない相手だ。

「どんな風にお感じになっても結構です。誰に何を吹き込まれたのか知りませんが、はっきり言って迷惑以外の何者でもありませんから」

 ここを教えたのは、一体誰? 実家の母親だろうか、それとも兄だろうか。何しろふたりとも私の中ではすでに「前科者」、絶対に信用できない。
  まあ母親はまだ分かる、何やらこの男に美味しい餌をまかれたらしいから。でも、兄の方はどういうことなの? かつての同級生とはいえ、何でこんなにコイツの肩を持つのよ。何かとんでもない弱みでも握られているんじゃないでしょうね……!

 色んな怒りが行き場もないまま心の中でぐるぐると渦巻いている。それでも感情を押し殺した声で反論できた自分が偉いなと思った。

「嫌だな、そんな風に可愛らしく威嚇しなくていいんだよ? 僕としても、何も嫌がる君をどうこうしようとかそう言うつもりもないし。ただ、やはりきちんと人となりを知ってもらわなければ、何も始まらないでしょう。君の中で僕の存在が忌まわしい過去の姿のままでは埒があかないんだ。その辺を分かって欲しいものなんだけどね」

 湯飲みのお茶を最後のひとしずくまで飲み干すと、彼は静かに席を立った。保育園の園長室だというのに、ここからだと園庭も園児の姿も全く分からない。現場とは隔離されたあくまでも「経営者」の空間、私は正直言ってこの部屋が好きではなかった。

「こちらの本心を言わせてもらえばね、僕が本気を出したら君ひとりの未来なんてどうにでも出来るんですよ? あの園長、次は都議に出馬予定なんだとか言ってたね。僕は都内の有識者にも知り合いが多いから、ちょっと一声掛けるだけで大きな後押しになることは請け合いだよ。そう言うところはしっかりしている方のようだし、その見返りとして君を僕に差し出すことくらい朝飯前だろうね」

 ドアに背を向けて立っている私のすぐ脇まで来て、彼は不敵な笑みを浮かべた。反射的ににらみ返した私に対し、それすらも吸い込みそうな底の見えない表情をしている。

 確かに、ウチの園長って。計算高いというか打算的というか、自分の利益になることならば他人が被害を被ることになろうとお構いなしみたいなところがある。己がのし上がるためには多少の犠牲は初めから勘定に入ってる、って感じかな。ただのお人好しで子供好きなお爺ちゃんだと信じていると大変な目に遭いそうよ。自分の雇い主を悪く言いたくないけど、本当なのだから仕方ない。
  保育園の経営に付いても自分の政治活動にプラスになりそうなことは過剰なほどに誇示するし、その逆があれば不祥事のひとつやふたつもみ消すことくらい当然だって顔してる。もちろん自分に表だって反発する人間がいれば容赦しないわ。

 でも……まさか、ねえ。

「だから、何だと仰るのですか?」

 ここで負けちゃ駄目だって、自分に強く言い聞かせていた。

 嫌だ、本当にこんなやり方って許せない。こちらが身動きを取れないように周囲からだんだん網を張り巡らせていくなんて、立派な人間のすることじゃないわ。そんなことで人の心が手に入れられるはずないじゃない。少なくとも私は絶対に流されたりしない。

 

 しばらくはにらみ合いみたいな状況が続いて、先に沈黙を破ったのは彼の方だった。

「ふふ、本当に手強い女性だね、君も。でも……その強靭さがこの上なく魅力的だ。やはり知れば知るほど君が欲しくなるよ、こうなったらまた綿密に作戦を練り直さなくてはならないな」

 ふわっと緩む表情、それと同時にほんの一瞬だけ懐かしい潮の香りがした。

 こんな風にインテリぶった男に郷愁を感じるなんて有り得ない。でも、……やっぱりどんなに格好付けたところで「大漁旗之助」という男はあの街の人間なのかも知れないなとか思った。

「さ、作戦なんてっ、何百回練り直されても同じことですから」

 何で私が目を反らさなくてはならないのだろう、何か納得いかない。ち、違うからね。別に照れてるとかそう言うわけではなくてっ。ただ、……ただ何と言ったらいいのかな。この街で当たり前みたいに暮らしてきて、忘れかけていた感情をほんのちょっとだけ思い出しかけただけだから。

 

 そしたら。

 奴は何か応える代わりに、素早く私の手を握った。そんなこと全く考えてなかった私は、ただ呆然。思っていたよりもがさがさしていて、何か「浜の男」っぽい荒々しい感触なのに驚く。

 直接ロープや網などの漁師道具に触れたり水仕事を長時間したりしなければこんな手にはならない。子供の頃もそうだった、家の仕事をよく手伝う同級生はその手のひらを見ればすぐに分かったもの。

 

「車まで送ってくれるかな? そのくらいはしないと、お互いに格好付かないと思うけど」

 程なくしてほどかれた手のぬくもりが、しばらくは私の指先から消えなかった。

 


「おひとりで……いらっしゃったんですか?」

 車に乗り込む前に男が運転席に置かれていた作業着に素早く着替える姿を見て、少なからずの衝撃を覚えた。権力を鼻に掛けたような人間だもの、きっと顎で使うような作業員を同行させているんだと信じていたのに。

「そりゃそうだよ、こっちに出てくるときは僕ひとりで営業から納品まで何でもするからね。あまり多くの人間を使っては目の行き届かなくなることも多いでだろうしね、今はまだ「現地から直接お届け」のシステムも試運転の段階だし。利益よりもまずはしっかりとしたリピーターを得ることを第一に奔走してるよ」

 そんなの当然でしょうと言わんばかりの表情。と言うか、この男ってあのばかでかい漁業組合のビルの中でふんぞり返っているだけじゃなかったの? こんな風にちゃんと働いていたなんて、……意外。

 

 え? それに今「営業」とか言ってなかった?

 この冷凍車で小野崎と都心を往復してるってことなのかな。というか、私はコイツが一体どんな事業を展開しているのか全く分かってない。

 こちらの表情を見て取ったのか、彼は何かを確信したように淡く微笑んだ。

 

「あ、これ。営業用のリーフレットだから。良かったらどうぞ、この間は慌てていて渡しそびれてしまったし……」

 運搬用のトラックと同じ水色の作業着の胸ポケットから取り出された三つ折りの紙片。何気なく受け取っていた。一番表にある写真は、私にとっても馴染み深い故郷の海。黒潮の恵み豊かな荒波の太平洋だ。

「そこにも書いてあるでしょう? 午前11時30分までに注文されれば、その日の夕方には玄関までお届け。もちろん、それ以外の時間のご注文にも出来る限り対応しているんだ。最香ちゃんにも是非利用してみて欲しいな。今のところ、年中無休で頑張っているから。それでサービスのことについてとか改善点とか消費者の立場からアドバイスして貰えると助かるんだけど」

 さすがに配達の人間は彼以外にも何人かいるらしい、その全ての顔写真がそこに載っている。普通の宅配便とはかなり違うシステムみたい。確かに小野崎から都内までだったら、高速を上手く使えば2時間ちょいで辿り着くことが出来るけど。でもそんな手間の掛かることを毎日やってるの? それを考えると気が遠くなりそう。

「希里にも是非メンバーのひとりに加わって欲しいと言っているんだけどね、彼は家の仕事があるしどうにもならない感じなんだ。信用の出来る人間だけをチョイスしたいから、なかなかに人選には気を遣うよ。まあ、君の家の干物は味がいいと評判だからね、出来るだけ使わせてもらうようにしているけど」

 

 何か……想像していたのとはだいぶ違う感じ。

 コイツが「小野崎の未来を」云々言い出したときは、大漁家というバックブレーンを味方に付けて周囲を牛耳るやり方でのし上がっていくものだとばかり考えていた。

 

「はあ、……それはありがとうございます」

 よく分からないけど、とりあえず自分の実家の仕事が誉められたのでお礼を言う。

 そうかー、コイツってウチの干物屋の大口のお得意様でもあるのか。だから、兄があんなにヘコヘコ腰が低かったんだな。

「さ、こちらもそろそろ営業開始かな? これから秋のシーズンに向けて、新規のお得意様をどんどん開拓しなくてはならないんだ。やればやるだけ成果が出る、今一番楽しい時期だよ」

 

 ではまた、と彼が運転席に乗り込んでドアを閉めたところで、背後から駆け寄ってくる足音が聞こえてきた。

「あー、最香先輩! 良かった、ここにいましたか。申し訳ないけど、急いでお願いします。昨日まで水疱瘡で登園禁止になっていた夢乃ちゃんがお見送りで大泣きで。ここは先輩に来て頂かないと……!」

 もしやとは思ったけど、やっぱり奏くんだった。

 かなり慌てているのだろう、色んな場所を探し回ったのか息が上がって苦しそう。早く早くと腕を力任せに引っ張られて、私は数歩後ずさる。その後、ようやく目の前のトラックに気付いたのだろう、彼は慌てて腕をほどいた。

「あれ、お知り合いの方ですか?」

 奏くんがきょとんと見上げた先には、作業着姿の大漁氏。まあ、奏くんの方も職場のエプロン姿だから同じかな? 何とも奇妙な鉢合わせの構図だ。

「へえ、最香ちゃんの同僚の方? 保育士って女性ばかりだと思っていたのに……意外だな」

 一度閉めたドアをもう一度開いて、旗之助が運転席から降りてきた。

「こんにちは、初めまして。私は最香ちゃんと同郷の者で大漁と申します。最香ちゃんがいつも大変お世話になっております」

 瞬時に作られる営業用のスマイル。爽やかに右手を差し出して、彼は短いセリフの中で私の名前を二度も呼んだ。

「は、はあ。……ご丁寧にどうも。最香先輩とご一緒させて頂いている大澤といいます、こちらこそ最香先輩には何から何までお世話になりっぱなしで申し訳ないくらいですよ」

 ふたりが並ぶとかなり体格差があった。ひとりひとり見ている分にはあまり気付かないのに、こうして比較してみると違いがよく見える。艶やかな黒髪のインテリっぽい旗之助に対して、奏くんは年相応の普通の男の子って感じ。

 

 何で、このふたりが握手なんてしてるのかな?

 私はもう何を考えることも出来ずに、ぼんやりと成り行きを見守っているだけ。そして奏くんとふたり、気付けば水色の冷凍車が角を曲がって見えなくなるまで見送っていた。

 

 

2006年8月18日更新

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