……何だろう、雨が降り出したのかな? 勢いよく叩き付ける水音が、少し遠い場所から響いてくる。ふわふわと身体が半分浮き上がっている感じ、身体に力が入らない。ええと、ここはどこだったっけ。火照った頬に貼り付くシーツの香りには覚えがなくて、何だかとても不思議な気分。でも、もうちょっとこのままでいたいな。 一度目覚めかけた意識が、再び朦朧としていく。何か大切なことを忘れているような気がするけど、もうそれもどうでもいいや。とろとろとろ、頬骨の辺りでけだるさが漂っている。そのまま深い場所に引きずられていく幸せな心地は、突然開いたドアの音で寸断された。
「最香先輩、お先にすみませんでした。……少しはお加減良くなりました?」 かばっと勢いよく起きあがったら、次の瞬間に頭の内側から激痛が走った。続いて胸をこみ上げてくる「あの」感覚。指先までじーんと痺れて、どうにかその波をやり過ごす。 「うーっ、いったーいっ! ちょっと、何よこれ〜!」 別に誰に対して文句を言っているわけでもなかったんだけど。何かもう、叫ばずにはいられなかった。 ぐらんぐらんと揺らぐ視界、それでも次第に目の焦点が定まってきて今自分がどこかの部屋の中にいることを確認する。うーん、でも見覚えないわよ、ここ。全体が落ち着いたブラウン系のインテリア、暗めの間接照明。窓際には大人の背丈ほどもありそうな観葉植物。 「あ、駄目ですよ! 急に動いて、また気分が悪くなったら大変ですから……」 自分の身体を支えきれなくなった腕ががくんと落ちる刹那、後ろから抱きかかえられる。ええと、……ええと。確かにこの声は、奏くん……だよね? フローラルなシャンプーの匂いが鼻をつく。 「あ、ごめ――」
んね、って続けようとして。そこで私の言葉は途切れていた。
だって、……だって。振り向いたそこにいた奏くん、どういうわけか膝丈のバスローブなんて着てるの! そう、お風呂上がりにとりあえず羽織るあれよ、あれ。タオル地でふかふかしていて、腰の辺りをひもで軽く留めるやつ。 「……先輩?」 私、一体どんな顔をしてたんだろう。奏くん、すごくびっくりしてる。でも、その綺麗な瞳にすら囚われている暇はない。ちょっと待って、と自分の身なりを確認して。一応、記憶が途切れるそのときまでと同じ通勤着でいることにホッとする。 ―― でも、待って。 安心するのはまだ早いわよ。だってだって、どうして奏くんと私がひとつの部屋にいるの? でもって、彼が一足早くシャワーを使ったって……どういうこと? あああ、駄目。全然、何も覚えてない。頭の中で色んな思いがぐるぐると回ってるんだけど、そのスピードにすらついて行けないわ。 「ええと、……今何時?」 雨なんて、降ってなかった。 薄いカーテン越しに見えるのは月明かりの街並み。立ち並ぶ雑居ビル、そのいくつかの看板に見覚えがある。もしかしてここは私がよく知っている場所なのかも。まだ頭の回路のあちこちが寸断された状態だから、しっかり確定は出来ないけどね。 「一時半ですけど……、ああ良かった。少しは体調が戻ったかな、さっきの薬が効いたみたいですね」 お水でも飲みますか、って冷蔵庫を開けて。中に入ってるミネラルウォーターの瓶を取り出す。備え付けのグラスに半分ずつ注いで、その片方を私の方に差し出してきた。
どうも私、潰れちゃったらしい。 奏くんはさらりとしか説明してくれなかったけど、まあそんなところだと思う。ワインのグラスがテーブルに届いたところまではかろうじて覚えてる。でもそのあとがどうなったのか、まるっきり記憶がないのね。
「タクシーで送っても良かったんですけど、俺は最香先輩の部屋を知らないし。まさかあの時間に聖子先輩や静香先輩に連絡するわけにもいかないでしょう。かといって、……自分の部屋に上がって頂くのもどうかなと思って」 うわーっ、そうかあ。でも、そうだよねえ。私だって同じ状況に置かれたら、すっごく困っちゃったと思う。いや、ウチの職場のような女所帯だったらそれも有り得ないんだけど。もしも同性の先輩だったら、アパートに来てもらったって全然平気だし。 だけど、奏くんはとりあえず男性だし。 「急だったから、こんな部屋しか空いてなくてすみません。何か、……やっぱり驚きますよね、こんなじゃ」 いやいや、部屋がどうとかじゃなくてね? その、……あれだわ。この反日常的な光景をどうしても受け入れることが出来ない。だってね、奏くんは洗ったままの髪の毛で雫をぽとぽと肩に落として。それだけで何とも言えない悩ましさなの。水も滴るいい男ってこんなかなとか―― うわ、違うって! 駄目よ、何考えてるのよ……! 「う、ううん、そんなことないから! 全然っ、全然平気だから……!」 もう、何びびってるのよ、馬鹿みたい。奏くんはただの後輩でしょ、先輩である私が飲みに誘ったから付き合ってくれて、潰れたから介抱してくれて。うんうん、そうだよ。可愛い後輩くんだよ、どこまでも。こういうときまで全然外さないんだね、感心しちゃう。
―― あああ、だけど駄目。ごめん、ヤバイ。
多分、良くあるタイプのシティー・ホテル。 ワンルームの主役は大きなダブルベッドで、その脇におまけみたいにソファーとテーブルがある。肘置きのついたひとり用のそれにゆったりと腰掛けて、お水のグラスを手にしてる奏くん。組んだ足の膝下がばっちり見えて、やっぱり成人男性だし毛むくじゃらって訳じゃなくてもそれなりにすね毛とか生えてて。 深夜でしょ、音楽とかも掛かってないし……すごく静かで。何というか、奏くんののど仏がちょっと動くだけで、ドキドキしちゃう。 「―― 先輩」 もうこれ以上は無理だと視線を外したら、それを追いかけるみたいに奏くんの声がする。思わず跳ね上がる心臓。良かった、漫画みたいにベッドの上で飛び上がらなくて。 「は、……ははははいっ! ……何?」 もうーっ、馬鹿馬鹿っ! どうしてこんな風に意識しちゃうの。 情けない気持ちで向き直ると、そこには何とまあ綺麗な笑顔があって。ううん、違うかな。これって、ただの私の思いこみなのかな? でも……その。目の保養にはもってこいの存在が、さらにすぐに手の届く至近距離にいて。でもって、ふたりを邪魔する何もないってすごすぎない? 「はっきりと目が覚めたなら、早くシャワー浴びてくればいいのに。その方がさっぱりして、気持ちよく寝られますよ?」 首をすくめてくすくす笑い、これって知能犯なの? ……それとも何も考えてないの? 「そ、そうね。……うん、行ってくるわ」 支度を整えようにも、着替えなんて持ってるわけないし。いくら何でも私までバスローブって、いかにもって感じで良くないかなあ。ええと、今日はTシャツの二枚重ねだから、シャワーのあとは外側の一枚を着ればいいかな?
頭の中は相変わらず行ったり来たりのふらふら思考、それでも身体はかろうじて行動を起こすことが出来た。 洗面所のドアを開けて、中に滑り込む。そしたら、目の前にはどう見ても「使用済み」な足ふきマット。彼が作り出したもわもわの湯気もほのかに残っている。 「うっ、……わあ……」 もう酔いなんてどこかに吹き飛んでしまったはずなのに、気付けばその場にへなへなと座り込んでいた。
まあ、……だからこういうシチュエーションも何度も経験済み。いや、ここまでアバンチュールなのはさすがにないか。それなりにお互いが同意してコトに及ぶ感じだったしな。何に付けても無理強いするような男は好みじゃなかったし。
目覚めた途端に突然の事態。 今までまで生きてきた四半世紀、こんなにも驚くことがかつてあっただろうか。やっぱり私って、週末からどこか変なのかも知れないな。
いやいや、それよりも今よ、今からだよ。 少しも考えがまとまらないうちに、無意識のうちに髪も身体もすっかり洗い終えてた。このままいつまでも修行僧のようにシャワーを浴び続けてるわけにも行かないし、そろそろ出なくちゃ変だわ。気分が悪くなってバスルームで倒れてるんじゃないかと心配されて、ドアを開けられたらどうするの。やばー、そうだよ。いつもの自分ちのつもりで内側からロックするの忘れてた! とりあえずは見られても支障がない格好まで服を着なくちゃと、慌てて洗面所に飛び出す。備え付けの鏡に映っているのは、どこからみてもお風呂上がりの私。うううー、このままじゃまずいわ。と、とりあえず顔を洗おう、それからよ。 身体と心が上手く繋がってない感じで、当たり前の動作にもあたふたしてしまう。ようやく見苦しくない程度に身支度を終えたのは十分後。換気扇を勢いよく回したからだろうか、ドライヤーをしなくてもすでに髪は生乾きになってた。改めて鏡の中の自分に向かって自問自答。
ええと、これは。この先、……一体どうなるんだろう……?
今からでもタクシーで自分の部屋に戻った方がいいかなとも考えた。でも、ウチの大家さんは結構チェックが厳しいし。深夜帰りで物音を立てたりしたらチクリチクリと言われそう。だったらむしろ、早朝の犬の散歩の時間に合わせて着替えに戻るのが利口だわ。 でもなあ、ここってベッドひとつしかないし。どちらかがソファーで寝るとかしなくちゃ駄目よね。あ、でもソファーってひとり掛け用のが二脚あるだけだった。あれじゃあ、ふたつくっつけたところで私ですら身体がはみ出ちゃうわ。かといって、床で寝るのはさすがに辛そうだなあ。 ……うーむーっ。 あの奏くんが、いきなり狼になることはあり得るだろうか? いやあ、どう見ても彼は「狼」と言うよりは「七匹の子ヤギ」か「赤ずきんちゃん」だなあ。真っ赤なフードをかぶった姿だって容易に想像できちゃう、……結構可愛いかも。 大丈夫、……大丈夫。 ドアのノブに手を掛けて、もう一度大きく深呼吸。 仮にも私は彼の「先輩」なんだから、ここで変に意識してうろたえたりしたら変だよ。毅然とした態度でいなくては、どこまでもしっかりと年上らしく振る舞おう。
―― がちゃり。
その瞬間、ひんやりとした冷気が頬に当たる。洗面所よりも薄暗い照明、伸び上がって部屋の奥を覗く。 「……あれ?」 思わず声がこぼれてしまった。
……だって。 部屋を占領するようにどーんと置かれた、馬鹿でかいダブルベッド。その中央にはベッドカバーを丸めたバリケードが万里の長城の如く連なっている。 そして、二分された窓際の方のエリア。可愛らしい寝顔の天使が、すやすやと安らかな寝息を立てていた。
ゆさゆさと身体を揺すられて目覚めたのは五時少し前。何かこんな風に誰かに起こされるのは久しぶりだなあ、でももう少しだけ寝てたいなあ……とかぼんやり考えて。次の瞬間、ハッとして起きあがった。 「ふふ、寝ぼけた顔の最香先輩って可愛いですねーっ……」 窓の外はすでに明るくなっていた。 街はまだひっそりとしているけど、もう通りを歩くにも支障がない感じ。駅前まで出ればタクシーも拾えるだろう。まさか昨日と同じ格好で出勤するわけにはいかないしね、ふたりともこれから一度自分の部屋に戻って着替えなくちゃ。 冷蔵庫の上に備え付けの電気ポットでコーヒーなんていれてくれる奏くん。えー、もしかしてこれは「ベッドでモーニングコーヒー」って奴? ただし言葉にするほどムーディーな感じでもなくて、彼の方はもうすっかり身支度を終えていた。 「……ありがとう」 泥酔しているときに飲ませてもらったという薬が良く効いたのだろう、頭もすっきりして体内のアルコールも全て分解されている感じ。ミルクもシュガーも一緒になったスティックタイプのコーヒーだから、ちょっと甘すぎるかな。でも舌にほろ苦く残るカフェインが、徐々に脳細胞を活発化させてくれる。
「あのさ」 とりあえずは顔を洗って来ようと立ち上がってから、ソファーでくつろぐ奏くんを振り返る。今日の朝刊なんて広げちゃって、何か全然似合ってないわ。 「昨晩はだいぶ寝にくかったでしょ。……その、私って寝相悪かったよね?」 夜中、二度ほど異変に気付いて目が覚めた。そのたびに私ってば、大の字になってバリケードの向こうまで手足を伸ばしてるのっ。そんなときも奏くんは我関せずという感じで眠り込んでいたけど、かなり向こう岸ギリギリまで押しやられていた。 「そうでしたか? 全然気付きませんでしたけどー、俺は朝までぐっすりでしたし」 にこにこにこ、どこまでも無邪気な微笑み。この状況は誰が見ても完全にヤバイ感じなのに、彼の存在が全てを浄化させてくれている気がする。
……ふうん、そうかあ。
まあ、そうだよね。変に気にする方がおかしかったのかも知れない。 単なる職場の同僚がちょっとしたアクシデントで同じ部屋で一夜を明かすような事態になったって、全て危ない方向に走る訳じゃないのね。何か、私ひとりだけが気負っていて、馬鹿みたい。これじゃあ彼の方がずっと大人だわ、情けないなあ。
ちょっと落ち込みモードで洗面所に移動。冷たい水を勢いよく出して、ばちゃばちゃと顔を洗った。メイク直し用のポーチから化粧水だけ取り出して、叩く。きちんとしたメイクは部屋に戻ってシャワーを浴びてからにしよう、髪もとりあえず水で寝癖を直せばいいか。 よしよし。瞼は腫れてないし、顔全体もそんなにむくんでいないから平気かな? 何しろ、たくさんの保護者の方と間近に接する仕事だもの、チェックされないように気をつけなくちゃならないのよね。ママさんたちとか、すっごい目ざといんだもの。ただの虫さされをキスマークと勘違いしてくれたりするし、勘弁して欲しいわ。 ぱぱぱっと服の乱れも直して、準備完了。相変わらずの早業に、そろそろ女を捨て始めてる自分を感じてしまう。うー、いいんだもの。今は仕事が恋人なんだから……!
最終チェックの鏡の中。 こちらを見つめる自分の顔が何となく不機嫌そうな気がする。どこかにひっかかりを残したまま、その朝は始まった。
時間に余裕を持って出勤することが出来てホッと一息。今朝は大家さんに遭遇することもなかったし、やれやれだった。
「おはようございまーす、……ああっ、最香先生っ!!」 入り口の自動ドアを開きっぱなしにロックして掃き掃除をしていたのは、とても意外な人物だった。 えー、どういうことっ!? 何で、副園長夫人のあなたがこんなことしてるの。いつもは我関せずという感じで、事務室の一番奥でパソコンを叩いてるのに。フリルいっぱいな場違いブラウスにギンギンのアイシャドウが、相変わらずミスマッチだわ。 「もうっ、いついらっしゃるかとお待ちしていたんですよ。さささ、こちらへ。早く早く、こちらへ!」 箒とちりとりをその場に投げ出して、彼女は私の腕を力一杯引っ張る。元は保育士のひとりだったというこの人は、十年ほど前に園長の息子である副園長に見初められてめでたくゴールインしたのだとか。今は家族経営の保育園で経理を担当してるけど、未だにキー操作もおぼつかないらしいわ。 「あ、あのっ!? 清美先生、どうなさったんですか……!?」
―― 何がどうなっているんだか。
連れてこられたその先は、何故か園長室。 半開きのドアの向こうから、園長の高らかな笑い声が聞こえてくる。ドアノブに手を掛けた副園長夫人は、未だかつて私たち職員に見せたことのない様な笑顔で振り向いた。 「最香先生にお客様です、どうぞお入りください。素敵な方ですねー、義父はすっかり意気投合してしまって朝からあのように上機嫌なんですよ?」
2006年8月4日更新 |