一度もつれてしまった毛糸は、無理にほどこうとするとさらにきつく絡み合ってしまう。
ケンカを売ったわけでも売られたわけでもない。些細なわだかまりなど、忙しい時間に追われればいつか忘れてしまえると思っていた。だが、実際はどうだろう。
うだうだとしたままで週末を迎え、あっという間にまた月曜日。丸一日ぼんやり過ごしても疲れは取れなくて、ぼんやりした頭のままで早朝出勤した。
「おはようっ! 久しぶり、最香。今日からまた、よろしくね。休み中は色々とありがとう!」
とぼとぼと辿り着いた0歳児と1歳児の部屋。すでに灯りの漏れているそのドアを軽くノックすると、中から飛び出してきたのは弾けるような笑顔だった。
「ひ……さしぶり、奈津。元気だった?」
いや、この姿を見れば彼女がフルパワーなのは間違いないだろう。それにしても何なの、辺りを彩るキラキラのオーラは。ああ、もしかしてこれが噂に聞く「新妻光線」? 構える暇もなく全身に浴びてしまってはたまらない。
「うんうん、もちろんもちろん。見てみて、肌つやもばっちりでしょうっ! でも、浮かれてなんてないからね。これからはまた、ばりばりと仕事するつもりよ」
やる気満々にモップで床掃除を続けながら、鼻歌まで歌ってる。
「素敵だったわー、エーゲ海クルージング。とにかくお城みたいな豪華客船でね、学生の頃の貧乏旅行とは大違い。写真もいっぱい撮ってきたから、あとでゆっくり見せるね。最香には特別にお土産を奮発したの、楽しみにしててね」
何というか……眩しすぎて直視できないんですけど。
恋愛成就した姿って、ここまで光り輝いているものなのかしら。披露宴会場のスポットライトが消えても、そのきらめきの全てを身体の内側に取り込んでいるみたい。ううん、これはすでに自家発電かしら。コンセントを差し込んだら充電できそう。
しばらくは生返事のまま、奈津のひとり語りを聞いていた。やれ「彼は語学に堪能だから、どこへ行っても頼りになって助かった」だの、「外国暮らしが長くて慣れてるから、全く慌てることがないの」だの……よくもまー次から次へと惚気が飛び出してくるものだと感心しちゃう。
挙式の直前の頃はマリッジブルーか何か知らないけど、妙にカリカリしてたのにね。「もう、結婚なんてやめたい!」と号泣するから必死になって慰めたのが馬鹿みたいだわ。
「おはようございまーす!」
そうしているうちに、今朝最初の園児がやって来た。月曜日は保護者の方も子供たちも荷物が多くて、みんなよろめきつつ渡り廊下を進んでくる。
「あー拓真くんっ、おはよう! お父さんもおはようございますーっ!」
初っぱなが自分のクラスの子だったためか、奈津はさらにパワーアップして戸口に駆け寄った。もちろん対するパパさんの方もリップサービスを忘れない。
「おはようございます、奈津先生。このたびはおめでとうございました。見せて頂きましたよ、披露宴のスナップ写真。子供たちもいたく感激しておりました」
だけど惚気はほどほどにしてくださいね、あてられますから……そう言って、がははと笑う。ああ、拓真くんパパはデパートの外商担当だったっけ。あれってお得意様回りだものね、さすがキャリアがあると違うわ。聞くところによると、臨機応変な対応で相手を喜ばすのが商売みたいなものだもの。
「せんせー、すっごくかわいかったよ!」
拓真くんも負けじと応戦、少し赤くなりながら久しぶりの奈津を見上げてる。門前の小僧は何とやら、って奴ね。可愛らしい告白(?)に奈津もニコニコだ。
その後も来るパパさんママさん、みんなみんなが同じ調子だった。
何しろ、奈津の結婚のことは園内に広く知れ渡っている。寿退職することもなく仕事を続けようと言う姿勢にも、皆さん好感を持ってるみたいだ。その傍らで、私は荷物を受け取ったり、赤ちゃんを受け取ったり、子供たちの世話をしたりと裏方に徹していた。
「えへへ、いいなあー結婚って。みんなから『おめでとう、おめでとう』って言ってもらえるんだもの。何だか自分が幸せの伝道師のような気分になってくる、これはたまらないわ」
ひと組ずつ親子を迎えるたびに、奈津の笑顔はますます素敵になっていった。まるで幸せの雪だるま状態、転がるほどにさらに大きく膨らんでいく。
「そうだねー、さすがにここまで立場が違うとやっかむ気にもならないわ」
ちょっと嫌みを含めてみたんだけど、とてもそれが伝わる相手じゃない。もともと奈津は相手の言葉を好意的に受け止める性格で、自分の周りにいる人の笑顔の裏に隠された本音を疑ったりしなかった。良く言えば前向き、悪く言えば鈍感。人間社会ではそう言う気性の方がストレスを感じない分、恵まれているのかも知れないわ。
「えー、そんなこと言って。聞いたよ、園長先生から。最香にも素敵な王子様が現れたって話じゃない、それそれあとで詳しく教えなさいよね……っ!」
―― 来たっ。
もー、あのおしゃべりな園長。そこら中に旗之助のことを触れ回って、鬱陶しいったらありゃしない。その上、私の顔を見るたびに「彼とは一度ゆっくりと席を設けたいものだ、橋渡しをお願いできないかな」とか言い出すし。携帯の番号でも何でも教えるから、勝手にしてくださいって感じよ。
「えー、話すほどのことじゃないよ……」
それにさー、何でアイツが「王子様」なのよっ!? 全然イメージ違うから、信じられないわ。
まあ、仕事の多い週明けだけに話し込んでる暇もないのが幸い。その朝は何十回の「おめでとう」を端で聞きながら、どうにかやり過ごすことが出来た。
休憩で上がって事務室へと向かう時、メールが届く。
周囲を伺ってからそっと開くと、出てきたのはやはり「あの男」の定期便。こっちが解禁にしたから何をしてもいいのかと思ってるのか、日に三度も送られてくるのは勘弁して欲しい。確かに直接かけてくるのではなくてメールにしてくれる辺り、いくらかはこちらのことを考慮してくれてるのかなとは思うけど。……それにしてもね。
「おはようございます、今朝も小野崎はいい天気です」
―― こちらは今にも降り出しそうな曇り空なんですけど。
心の中でだけ、そう答える。車でひょいと飛び越えられる距離ではあるけど、やはり南部の方とは状況が違うわ。
あれ以来、旗之助は何とかコンピューターのトラブルが何たらとか言って、あっちに戻ったっきりだ。その方が私としては好都合だけどね。一度に色んなことを考えるのは無理だし。アイツとの切れ方はそのうちゆっくり考えようと放置してる。
まあね、メールなんて嫌なら見なければいいんだから。本当にそれだけの関わりなのよ。少なくとも仕事中は物思いから解放されることが出来る。
……だけど。
「あ〜、奈津先輩っ! お久しぶりです。先日は、お招きありがとうございました」
休憩を終えてふたりで階段を上がっていくと、廊下の向こうから奏くんが駆け寄ってきた。相変わらず子犬のようなくりくりの瞳、奈津も笑顔で応えてる。
「奏くんが披露宴の写真を飾ってくれたんだって? どうもありがとう、でも恥ずかしいな。こんなに何枚も、ちょっと大袈裟すぎない……?」
またまた、全然「恥ずかしい」って顔してないよ。奈津ってば、本当に嬉しそう。周りにお花やお星様がたくさん付いたフォトスタンドに飾られた自分の写真をうっとりと眺めてる。
そんなこんなしているうちにも、次から次から登園する子供たちがやってくるから忙しい。8時半から9時すぎまでは見送りの第二のピーク。一度に二組も三組も到着したりして、対応が追いつかないこともしばしばだ。
「おはようございます! 奈津先生、お久しぶりでーすっ!」
ここでも、奈津はやはりトップ・アイドルだった。
自分のクラスの子供たちやその保護者の方々だけではなく、通り過ぎていく他のクラスの皆さんからも温かい祝福の声を頂戴してる。いつもに増して賑やかな年中組の廊下、私は教室の中を片づける振りをして中に入って行った。
いいんだけどね、こんなの当然だし。
別に面白くないとかそう言うんじゃないよ、私だって奈津の幸せを願う気持ちは同じ。でもね、これから彼女に降りかかってくる「現実」を思えば、手放しで喜んでばかりじゃいられないと思うの。そりゃ、他人の私が何を思ったって仕方ない。けど、この職場は特に「家庭」との両立が難しいと言われてるもの、心配になるわ。
奈津が話に花を咲かせているその傍らで、クラスの子供たちの対応や荷物の受け取りをしているのは今度は奏くん。今までの半月は代理の先生の補助に掛かりきりだったけど、今度はしばらく奈津のクラスの世話に回りそうね。それはそれでいい気がする。
うん、……正直。今もまだ彼とは顔を合わせたくないし、言葉なんて交わしたくもないの。
「……どうしたの、最香」
ゴム手袋にゴム長靴。今日初めてのトイレ掃除をしていたら、一区切り付いたのか奈津が二クラスで共同の水回りをひょいと覗き込んできた。
「えー、どうしたのも何もないでしょ。掃除してるだけだよ、次は奈津の番だからね」
ごしごしごし、デッキブラシでタイルの床を磨き上げる。目地の部分は特に念入りに繰り返して。このあとに最後、モップで水分を吸い取らないといけないんだ。子供はすぐに転ぶから、ちょっとでも水が溜まってると大変なことになっちゃう。
「……そうじゃなくってさ」
やだなあ、いつまでも覗いてないでよ。人がトイレ掃除している姿、そんなに見たいの?
早く自分の持ち場に戻ればいいのに、奈津はまだトイレの入り口の辺りでうだうだしてる。彼女、いい子なんだけどねー。勤務中に私語が多いのが困るのよね。私のこと子供たちの前で「最香」って呼び捨てにしたりして、それに気付いてないときも多いし。
「奏くんだってば。あんたたちケンカでもしたの? 今朝顔を合わせてもお互い無視じゃない。今までこんなことなかったでしょ、私のいない隙に何かトラブったの?」
あー、こっちももう気付かれたのか。
何か、面倒だなとか思っちゃう。代理の先生はいちいちそんなこと気にしなかったのに、仲がいい相手だとかえってやりにくいこともあるのよね。別にいちいち奈津に報告するほどのことでもないし、どうにかはぐらかせないかしら。
「別に何でもないし。考えすぎだよ、奈津」
素っ気なく突き放したら、丁度そのとき奏くんが奈津を呼ぶ声がした。
ホッと胸をなで下ろす。程なく廊下からは奈津の華やかな笑い声が聞こえてきた。いいわ、あんたはずっとそんな風にお花畑の中で踊っていて。そのうち、私と奏くんのことも何事もなかったように片づくはずだから。
バケツの水をざぶーっと流して、私は良く絞ったモップを手にした。
「ねえねえ、モカせんせいーっ!」
まだまだ甘え盛りの3、4歳児。私の姿を見つければすぐにまとわりついてくる。ああん、可愛い。どうしてみんなこんな風に天使の笑顔なの。大丈夫よ、先生はあなたたちに100%の愛情を注いであげるからね。そろそろみんなを着席させないといけないかな、でももうちょっとおしゃべりに付き合ってもいいか。
週末の出来事、一生懸命言葉を探して話しかけてくる子供たちはずっと見ていても飽きないくらい。そうしているうちに、ひとりが写真の詰まった簡易アルバムを手にしてくる。
「ほらー、ぶどうぐみのなつせんせいのしゃしん。モカせんせいもうつってる!」
披露宴の時に職員の座っているテーブルを写したスナップらしい。えー、見せて見せてといくつかの声が行き交う。ちらっと確認したら、私もちゃあんと素敵な笑顔だった。ならいいや、見られても。
そう思った、刹那。
「えー、でもへんだよっ! どうしてモカせんせいはおひめさまになってないの? こんなのつまんないよーっ!」
いきなり叫び声が上がって、他の子供たちも今までは余所にいた子もわらわらと集まってくる。
そうかー、私も一応一張羅のワンピを着てるんだけどな。最初のボーナスで奮発した一枚で、かなり気張ったんだよ? だけどやっぱ、ウエディングドレスには敵わないか。
「あー、ほんとうだ。なつせんせいだけ、ずるいよ。どうしてモカせんせいはおひめさましなかったの?」
そんなの当たり前でしょ、これは奈津の結婚披露宴なんだから。そう説明しても、よく分からないかなあ。まあ、放っておいても大丈夫だろう。子供はすぐに興味が他に移るもの。
そしたら私の代わりに、何かと物知りのミズキちゃんが話し出す。胸をつんと張って得意げだ。
「あのね、ドレスをきるのはおヨメさんだけなの。モカせんせいはおよばれしただけだもん、そんなのとうぜんじゃない」
えーっ、そうなの〜っ!? って、幾重にも重なり合う声が教室の中で響き渡る。うん、そうなんだよ。だから、悪いけど諦めてね。もう写真は返して来ちゃおう、これ以上騒ぎが大きくなると朝の会を始められないわ。
「だけどさー、つまんないよ。なら、モカせんせいもおヨメさんすればよかったのにっ。なつせんせいばっかりおひめさまでいやだなあー!」
「なにいってるのよ、おヨメさんになるにはおムコさんがいなくちゃだめでしょ。モカせんせいはまだあいてをみつけてないからむりなんだよっ!」
きびすを返した私の背中に、追いかけるように声が飛んでくる。それ以上は関わらずに、さっさと場を離れた。
相手がいないと結婚できないとか、それってママかパパの説明だな。きっと子供たちが質問したらそういう答えが返ってきたんだろう。ああ、面倒。親御さんの中にもそんな風に考えている方がいらっしゃるのか。
そりゃあねえ、奈津と私。同期でここに入ってきたふたりだから、何かと比較されるのは仕方ないことなのかも知れない。でも、別に自分が全然気にしていないことなのにこんな風にあれこれ言われるのは嬉しくない。人のことなんて放っておいてくれればいいのにな。
共同の水回りを抜けて、お隣を覗いて。
すぐ側にあったカウンターにアルバムを戻した。それからぐるっと教室内を見渡すと、物入れの近くで崩れたスケッチブックを直している奏くんが目に留まる。すぐに視線をそらしたけど、あっちもこちらに気付いたかな。何とも言えない曖昧な眼差しを感じ取る。
――だいたいね、あんたが余計なことをするから。私までとばっちりを受けるんじゃないの……!
別に八つ当たりするほどのことじゃないのに、どうしてこんなにカリカリしてるんだろう。ああ、平常心平常心。とにかく気を取り戻さなくちゃ。自分の教室に戻る前に、大きな鏡の前で深呼吸。
そしたら。
エプロンの裾、きゅーっと引っ張られる。振り向くと、そこにいたのは夢乃ちゃん。いつかの泣き虫さんだ。今まではみんなの輪から外れたところにぽつんとしてたのにな、いつの間にここまで来たんだろ。
「どうしたの、おトイレかな?」
そう訊ねると、ううんって首を横に振る。それきり何も言わないから、なんとなく手を繋いで教室に入っていった。
「……あのね」
手を離そうとしたそのとき、ようやく蚊の鳴くような小さな小さな声がした。夢乃ちゃんは自分からおしゃべりすることがとても少ない子。珍しいなあと思いつつ床に膝をついて視線を合わせた。
「ゆめの、せんせいのおよめさんみたいな。きっと、とてもきれいだとおもう……」
その瞳はとても真剣に私を見つめている。一生懸命考えて、必死で絞り出した言葉。だから、答えてあげたいと思った、「ありがとう、でも今はそう言う予定ないのよ」って。
だけど、その前に話を聞きつけた先ほどの一団が背後にやってくる。そして口々に「そうだ、そうだ」と再び騒ぎ出した。
「せんせいっ、なつせんせいにまけてくやしくないの?」
「ぶどうぐみのやつら、なつせんせいのほうがかわいいっていばるんだもの。やっつけてやりたいんだよっ!」
何か、話の矛先がだんだん変わってきた。どうにか穏便に済ませて、何事もなかったように次に移りたいんだけど。ああ、困ったな。
「……やっつけるとか、やっつけられるとか。そういうのは良くないっていつも言ってるでしょう? あのね、先生は今『もも』組のみんなのために頑張りたいの。だから別にお姫様しなくてもいいのよ」
――恋に仕事に全力投球。
甲乙付けがたいふたつの大切なことが両立出来ないと悟ったのは、就職して数ヶ月の頃。だからそれからは欲張るのをやめた、今は保育士としての自分でいたいから。そうしてる自分が一番輝いてると思うし。
「でもさー、おひめさまになってもせんせいはできるよ? なつせんせいだってそうじゃない、だからモカせんせいもだいじょうぶだよーっ!」
「そうだよ、そうだよ。おひめさま、しようよー!」
そこに来るまでに、私の中のモヤモヤはかなり大きく明確なものに膨らんでいたような気がする。小さな子供たちの無邪気な言葉たち、でもそこに彼らのママやパパたちの言葉が重なっていく。
確かに人間相手の職場だから、イメージとかは大切だと思う。でも何? あんな風にまだ幸せ酔いしている奈津の方が偉くて、彼女の留守中を頑張って守っていた私は偉くないの? そんなの、そんなのってちょっと違う。結婚ってウエディングドレスを着れば終わりじゃないんだよ、それくらい分かるでしょう。それとも、恋愛ひとつ満足に出来ない保育士じゃ子供が可哀想とでも言うの……?
ぷちっと、心の中で何かが切れた。
「――いい加減にしないと、怒りますよ? 早く自分の席に着きなさい」
こんなにもきつくて冷たい声、自分でも初めてだった。かじかんだ頬が震える、怒りを抑えるために作った握り拳が身体の脇で白く色を変えている。
くるりと子供たちに背を向けたそのとき、堪えていた雫がこぼれ落ちた。声が漏れないように、咄嗟に口を押さえる。
でも、目の前には。そんな私を蒼白な顔で見つめている夢乃ちゃんがいた。