TopNovel願わくば・扉>願わくば、恋視線・26



       

     

「どうぞ」

 指定されたドアを軽くノックすると、すぐに内側から開いた。まるでずっとその場所で待ちかまえていたみたいな早業。暗めのルームライトのせいかな、圭子ちゃんの表情はかなり沈んで見える。

「お疲れのところお手数掛けて申し訳ありません」

 どうせなら一緒にご飯でも、って思っていたのね。それなのに部屋の中に招き入れられるのに無言で従ってしまう。何だろう、すごい違和感。久しぶりに会ったせいかな、こんな雰囲気の子だったかしら。

「ううん。でも驚いちゃった、突然なんだもの。……もしかして、仕事?」

 狭い通路を過ぎると、奥はゆったり造られたスペースになっていた。ひとり部屋だとばかり思っていたのに、ベッドがふたつあるってことはもしかしてツイン? それにしては連れの相手も見当たらないけど。

「ええ、これでも組合の職員としては一人前のつもりですから。営業だってきちんとしますよ」

 やっぱり、言葉尻にもいちいち棘を感じる。直接的な痛みではないのだけど、チクチクとさすられる感じ?

 まあこれも私が後ろめたさを持っているからなのかもしれないな。仕事が忙しいことを理由にして、一度も連絡を取ろうとしなかった。そのことを責められたって仕方ないと思う。組合でみんなが大変な想いをしてることも分かっていたはずなのに。

「このホテルは専務のお知り合いの方が経営されているそうで、信じられない破格値で宿泊が出来るそうなんです。ですから組合の職員のこちらでの宿泊施設みたいな感じでしょうか? 皆、よく利用しているんですよ。ご存じなかったでしょう」

 今夜の圭子ちゃんはとても意地悪だ。こういう風に感じてしまう自分が情けないけど、本当にそうだもの。とりあえずミニテーブルに向かい合った椅子のひとつを勧められて座ったものの、居心地の悪さは相当だった。備え付けのコーヒーをいれてくれている間も身の置き場がない。

「最香さん、本当に何もご存じないでしょう? 専務がどんなに素晴らしい方か、本来ならば私たちとは同じ世界にいるはずのない方だってことも分かっていないのですから困ります。こちらのホテルチェーン、一時はだいぶ傾いて破産寸前だったそうですよ。それを専務が借金のほとんどを肩代わりすることでどうにか持ち直すことが出来たんです。感謝してもしきれないと、オーナーご本人が仰ってました」

 柔らかい湯気の立ったコーヒーはもちろんインスタント。シュガーとミルクを添えて手渡してくれるのを会釈して受け取った。

「そう……なんだ」

 旗之助の武勇伝については、実際のところ詳しいことはあまり聞いていない。そんなことに興味もなかったし、だいたいあの男本人に興味も関心もなかったのだから仕方ないと思う。だけど情けないのは、そんな風に感じている相手と一瞬でも生涯を共にしてもいいと考えてしまった私自身だろう。
  あのときは本当に何もかも投げ出してしまいたい気持ちだった。逃げ場があるならどこでも良かったのかも。つくづく嫌な人間だったと思う。

これだけ皆が信頼して支えてくれるんだ、彼はそれだけ大きな器を持った男なのだろう。だけどそのことを再認識したからといって、私が小野崎に戻る理由にはならないはずだ。

「私、分かりません。どうして最香さんがいつまでも躊躇っているのか。そりゃ、都会は私たち田舎育ちの人間から見たら憧れの地だと思います。私だって、もちろんそういう気持ちはあります。でも……専務が待っているのに。最香さんがお戻りになるのをずっと待っているのに、何故いたずらに引き延ばそうとするんです? 人の心をもてあそぶのも、いい加減にしてください」

 すみません、と断ってから圭子ちゃんはハンカチで目元を押さえた。それをとても遠い気持ちで見守る。

 この子は本気で旗之助のことを心配しているんだと思う。それは分かる、だけど……どうして私が第三者からこんな風に言われなくちゃならないの? 青のときだってそうだった、あんな風に情に訴えられるのって勘弁して欲しかったよ。

「……ごめんね、圭子ちゃん」

 ブラックのまま一口含んだコーヒーは苦々しさだけを口内に広げた。

 誠意を持って気持ちを伝えれば、相手はきっと動いてくれる。
  物語の世界も最後は正直者が幸せになれるように出来ていた。でもそれは全て、大きな保護に包まれた中にいた子供の世界の出来事。私利私欲が渦巻く現実社会では到底果たせることではない。中にはそれに気づくことなく一生を終える人もいるとは思う。一方で強い信念に折れてしまう人もいるだろう。

 こんな風に周囲の意見に耳を塞ぎ続けて、果たして自分にとって良い結果が出るのかは分からない。けどね、どんな素晴らしい言葉にも自分自身で納得することが出来ないのなら駄目。怖いけど、危ない橋の方を渡った方がずっといい。

「あなたの言いたいことは分かった、私も配慮が足りなかったと思う。でもね、こういうのって当人同士のことでしょ? 第三者が出てくるともっとこじれたりするんだよ。それくらい分かるよね?」

 旗之助、まだ難しい立場に置かれているんだな。そのことは圭子ちゃんの様子からも察することが出来る。
  でも、私はもう決めたんだもの。まだこの場所で頑張りたいって。やり残したことがあるまま逃げるのは辞めようって自分自身に誓ったから、もうこの気持ちだけは譲れない。

「……分かります」

 俯いた横顔、きれいにセットされた髪が震えている。申し訳ないなとは思う、だけど絶対に自分の想いは曲げられないよ。どちらも選べるならそうしてもいい、だけど一度にふたつ手に入れるにはそもそも距離的に無理だ。私の中ではそれ以前の問題なのだけどね。

「そんなこと、言われなくたって分かります。専務だって待つのは辛くないと仰いました。だけど、私は……私はもう専務のあんな姿は見ていたくないです。だから、お節介だとは承知の上でご提案させていただきました」

 ゆっくりとこちらに向けられた表情は揺るぎない決意に満ちていた。あまりの勢いに飲まれそうになる私を置いて、彼女は静かに立ち上がる。

「今夜はおふたりで心ゆくまで語り合ってください」

 前触れもなく開くドア。入ってきた人影を自分の視覚ではっきり捉えても、私はその場から動くことが出来なかった。

 


「ど、どうして……」

 ようやく喉の奥から絞り出した声。目の前の男はそれを受け止めて、片頬をわずかに歪めた。初めて出逢ったときと同じく、隙のない着こなしのスーツ。髪の乱れもほとんどない。

「さすがに卑怯な手口だと思ったけどね、まあ……時としてはこういうハプニングも必要かと思ってね。今回は彼女の提案に乗せられてみたよ」

 ―― こういう顔、するんだな。

 もったいぶった足取りで進んでくる旗之助を、私は不思議な生き物を見るように受け止めていた。こういう状況も想定するべきだったの? 今となっては悟ったところで完全に手遅れだけど。

 堅いマネキン人形のような表情。それなのに私を見つめる瞳だけが妙に鋭く輝いている。幾度となく危険な場面も切り抜けてきたとは聞いていたけど、そのときはこんな風に凄んで見せたのかな。足下に置かれた間接照明が、彼の後ろに大きな影を作っていく。ゆらりゆらりと、それが幾重にも広がって。

「て……提案?」

 言ってる意味がよく分からない。そうか、ふたりでよく話し合えと圭子ちゃんは言った。気がついたら彼女の姿が部屋のどこにもないけど、いつの間に消えたの?

「そう、僕でさえ考えつかなかった提案だ。女性には最も効果的な手段だそうだ、特に……君のような情に厚い相手にはね」

 つい先ほどまでは圭子ちゃんが座っていた席、当然そこに腰を下ろすのかと思った。だけど、予想は外れる。彼はテーブルを越えて、私のすぐ側までやって来た。

「悪いけど、力ずくで手に入れさせてもらうよ。君は僕の花嫁になる女性なんだ、遅かれ早かれこういう関係になるんだからいいだろう」

 一体、何を言ってるの? ―― ううん、思い詰めたその表情を見たときから本当は分かっていた。分かってはいたけど、心のどこかで弁解の余地はあると信じていた気がする。だって、まさかこの男がそんな暴挙にでるとは思えない。言葉で説明すれば、ちゃんと納得してくれるはず。とても頭のいい人だもの。

「なっ……」

 その次の瞬間、今度こそ本当に信じられないことが起こった。捕まれた腕を振り払おうとしたのに、身体が全く言うことを聞かない。だって自分の手足だよ? 気持ちはちゃんとあるのに、何で神経がそこまで行き届かないの……! 

「ふうん、タイミングもぴったりだ」

 それなのに、旗之助の方ときたら冷静なこと。力が抜けたことでかなり重量感が増したと思われる私を軽々と持ち上げてしまう。そして、着地した場所は……もちろん。

「不眠の症状は続いているからね、医者から処方された睡眠薬もかなり溜まってしまったよ。僕では効き目がないほどの微量なのに、慣れていないとさすがによく回るね。僕もあまり辛い目に遭わせるのは不本意だからね、苦肉の策としてやむを得ずこういう手段を取らせてもらったよ」

 黒くて大きな影が、私の上を横切っていく。実感がなくて、頭の半分が上手く動いてない感じ。どうにかしなくちゃって、気持ちばかりが焦ってる。

「ま、待ってっ! ごめんなさい、こういうのって困ります……!」

 背中の下は柔らかいマットレス。そのままずぶずぶと沈んでいく心地。身体が自由に動かない状況では、もう絶対に逃げようがないとも思う。

「嫌っ、駄目ですっ! 絶対に良くないからっ、やめてください!」

 朦朧としていく意識、だけど必死に拒み続けた。だって、絶対に駄目だもの。私、どんなことをしてもこの人の気持ちを受け入れることは出来ない。そりゃ、めでたくゴールインとなれば喜んでくれる人はたくさんいるよ。親孝行だって存分に出来ると思う。

 けど……それじゃ私の気持ちはどうなるの? 心をこの場所に残したままじゃどこにも行けないんだよ。

「可哀想だとは思うけどね、これも運命だと思って諦めて欲しいな。僕は君の過去の男のようにはならない、一生涯かけて幸せにするよ。それが出来るだけの財力もあるし、もちろん君を想う気持ちだって誰にも負けない。だったらいいだろう、そろそろ意地を張るのは辞めた方がいい」

 襟元を辿る指先、そのすぐ向こうには触れられたくない場所がある。何で、今は薄着の季節なの? これじゃあ剥ぎ取るのだって一瞬芸だよ。

「いっ、意地なんて張ってるんじゃありませんから! 駄目なんです、だって……だって、違うから。私、あなたの運命の相手じゃない。そもそも、支えることなんて出来るはずないからっ……!」

 頑張れば期待に応えられるかと思った瞬間もある、だけどそれは単なる「逃げ」でしかなかった。今、私たちに必要なのは見せかけの優しさとか妥協じゃないと思う。大切なものはもっと別の場所にある、必ずある。

 新しい世界に飛び込んでいくのが怖いから? ―― ううん、それも違う気がする。

「あなたの言うとおり、五年後十年後のことは分かりません。だけどそれはその時が来てから考えればいいこと。仕事、捨てられないんです。それだけは今回のことでしっかり分かりました。他の人から見たらどうかは知らない、だけど私は……今の保育園で出来る限りのことをしたいんですっ!」

 笑顔で駆け寄ってくる小さな姿、差し出される手のひら。ひとつひとつ受け止めて心が満たされるその瞬間が好き。大変なこともたくさんある、理不尽なことだってこの先もたくさん経験すると思う。だけど、今ここから逃げたら私は一生を後悔し続けることになる。だってもう、それ以外残ってないんだもの。

「大漁さんが小野崎のことを想うのと同じくらい、私にとって今の仕事は大切なんです。他の何にも代えることは出来ないんです、本当に……本当にごめんなさい……!」

 私のことを必要としてくれる人がいるなら、そこへ行きたいと思った。その想いが強ければ強いほど、流されるままに引き寄せられるのもいいかなと考えた。……だけど。それで後に残るのは何? 私の気持ち、どこに行っちゃうの? 愛されるのも必要、けどそれよりももっともっと愛したい。自分の気持ちに正直に生きたい。そのためなら、どんな痛みでも受け止めるから。

 今、この瞬間だって心がズキズキ痛い。けどそれは旗之助に対する懺悔の心とは全く違う。私のわがまますぎる感情は全く別の記憶を辿り続けてる。届かないって分かってるのに、遠すぎるって分かってるのに。こんなぎりぎりの状況になってもなお、私はまだ諦め切れてないんだ。

 本当に、馬鹿みたい。

 

「……やっぱりあの男か」

 

 どこか遠いところから、ぼんやりとそんな声が聞こえた。視界はほとんど霞がかって、その影を認識することも出来ない。ただ、私の腕をつかむ力に今一度の強さが宿った。

 

 

2007年5月18日更新

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