TopNovel願わくば・扉>願わくば、恋視線・25



       

     

 確かに「何か」が違ってきている。

 常に教室全体に心を配りながら分刻みのスケジュールをこなしていく毎日、ぴーんと張り詰めた心地よい緊張感が額の辺りに集まって心地よい。職場に復帰して数日は心と身体が上手に連動しなくて慌てる場面も多かったけど、そんな違和感もいつの間にか消えている。

「もう大丈夫みたいね、安心したわ」

 傍目からは全くの元通りに見えるようになったのかな? 医務室の真弓先生が通りすがりにこっそり耳打ちしてくれた。薄くガラス張りに隔てられたように感じられていた他の職員との関係も、こちらが気にしないようにと心がけているうちに幾分改善されてきたみたい。一歩引いて全体の見える場所にいる真弓先生にはそれが手に取るように分かるのだろう。

 さりげない心遣いが素直に有り難く感じ取れるようになった自分が嬉しい。ちょっと前の私だったら、些細な言葉の端々にさえ「裏」を探ろうとしてトゲトゲの思考になってた気がするもの。目の前の物事を肯定的に捉えることが出来れば、余計な気苦労を感じることもなくなるはず。

 

 だから、……本当にすべてが『ふりだし』に戻ってしまったのならいいのに。

 

 教室でのひととき、子供たちとのやりとりに追われている刹那。ふと、視線を感じることがある。気のせいかなと思って顔を上げると、水回りの通路を越えた向こう側「ぶどう」組の教室からこちらを見ている人影があった。

「……あ」

 一瞬、止まる思考回路。向こうも絡み合う視線に気付いたのだろう、ふっと表情が崩れて柔らかい笑顔になる。いつから見ていたのかな、熱心にお絵かきを続けている園児たちの机を巡りながらその瞳はこちらを向いたまま。子供たちの頭上を越えた秘密のやりとり、きっと他の誰も気付いていない。それなのに、私は慌てて目を反らしていた。

 ―― 馬鹿みたい、何やってるんだろ。

 新しい会話に気を取られる振りを続けながら、心はまた他に飛んでしまう。以前の私だったら、奏くんの笑顔にいつでも余裕の微笑みで応酬することが出来た。
  彼は私にとって目の保養となる存在、言うなればアイドルスターと同じ。TVの画面の向こうから向けられる眼差しを自分の者のように受け止めるといつの間にか元気になれるって感じかな。その位置づけがはっきりしてたから、良かったんだと思う。最初から立場が違うんだもの、目の前にいるそのときだけちょっとときめいたりしていれば十分だった。

 奏くんは今、自宅療養中の奈津に代わって「ぶどう」組に入ってくれてる。
  だから、以前ほどは距離が近くない私たち。それなのにどうしてなのだろう、何でこんなに意識してしまうのかな。前よりもずっとずっと側にいるような気がするよ。何気ない会話の端々にさえ、言葉以上の「何か」を感じてしまう。そんなはずないのに、本当にどうかしてる。奈津がいないから、バランスが狂ってるだけなのかな。

 そう思おう思い切ってしまおうと考えれば考えるほど、心がますます暗礁に乗り上げていく気がした。自分でも過剰反応だってこと、分かってる。分かってるのに、どうすることも出来ない。

 

「ねえ、大澤くんはその後元気? また顔を見せて頂戴と伝えておいてね、絶対よ」

 目の前に奏くんがいなければ安心できると言うわけでもない、構えてないところに急に名前を出されては慌ててしまうわ。相手が大家さんの奥さんじゃね、黙って通り過ぎるわけにもいかないし。もう腰の方は平気なのかしら、以前にも増してその姿をよく見かける気がする。まるで私が通る時間を見計らってるかのように、朝も晩も決まって声を掛けられるようになった。

「分かりましたー、伝えます」

 短いやりとりのあとに、この頃では家庭菜園で収穫したお野菜を少し分けてもらえることもある。何と言っても採りたての野菜って格別だものね、素直に嬉しいと思えるよ。何年も挨拶だけの関係で過ごしてきたのに、ここに来て一歩前進出来たのはやっぱり奏くんのお陰なんだろうな。

 

 あー、もう。駄目駄目、こんなんじゃ。

 どうなっちゃってるんだろう、何を考えていても最後には奏くんに辿り着いてしまう気がする。仕事中は仕方ないとしても、それ以外の時間まで心の中に入り込んでくるんだもの。確かに彼は私にとって可愛い後輩、一生懸命面倒を見てあげたいと思う。男性の少ない職場で必死に頑張ってるのもいじらしいし、嫌みのない真っ直ぐな態度は接していてとても気持ちいい。
  だから分かってる、彼の方は何も悪くないってことくらい。こんな風に妙に意識しちゃう私の方がおかしいんだよ、絶対そうだと思う。

 剥がれかけていた掲示物、直そう直そうと思っているといつの間にか綺麗に貼り直されていたりする。片付けきれなかった段ボール、やりかけたら子供たちに呼ばれてそのままになっちゃった水回り掃除。慌てて戻ってきたときにはすっかり片付いていて、驚かされることはたびたびだ。
  もちろん私だって奏くんが大変なときは出来る限りフォローに回ったりしてるし、それは他の先生方との間でも同じこと。突発的な出来事は子供相手では日常茶飯事で、それをこなしていくには職員同士の連係プレイが不可欠になってくる。それを言葉にして分かりやすく彼に教えたこともあったはずだ。

 だけど、……何か違うんだな。

  彼が「私に対して」そういう風にしてくれるのが、すごくすごく嬉しいって思っちゃう。同じ状況があれば他の人に対しても同じようにするって分かってるのに、まるで特別扱いされたような気分になってる。
  もしもペアを組む相手が私じゃなくて奈津だったとしても、奏くんは少しも変わらないと思う。いつでも、誰に対しても優しい。それが彼の良いところだって分かってる。来年度の配置換えで別の場所を任されることになれば、今みたいに近くに感じられることもなくなるんだ。

 今だけ、仕事の関係で側にいられる今だけの関係。こんなの、特別でも何でもない。
  最初から分かってるはずなのに、どうしてこんな風に何度も何度も自分に言い聞かせなくちゃならなくなったんだろう。前はこんなじゃなかった、もっと普通にしてられた。可愛く懐いてくる奏くんを余裕の態度であしらうことができたもの。何でそれが無理になっちゃったの……?

 


「もう無理、最香とは永遠にわかり合えないと思う」

 初めて付き合った相手ではなかった、だけど一緒にいるととても楽しかったし価値観もかなり近いと信じていた。バイトや講義の合間を縫って、たくさんの時間を共有していたはず。今となってはそのかなりの部分がぼやけた記憶の向こうに押しやられてしまったけど、あのときの気持ちは本当だったと思う。
  好きだから、大好きだから一緒にいた。彼が自分の将来のことを話すとき、とても共感できた。そしていつかその夢が叶う日に、隣りにいるのが自分だと信じて疑わなかった。

 なのに。

 どこで間違ってしまったんだろう、あんな風にお互いに罵り合って別れることになるなんて。確かに慣れない仕事に忙殺されて、心の余裕が全くなくなっていたと思う。相手を思いやる気持ちもすっかり忘れていた。実習とはかなり勝手が違う現場に戸惑っていた気持ちがそのまま出てしまったみたい。かなりひどい言葉を投げつけてしまった、それと同じくらい私も彼の言葉で傷ついた。
  早く泥沼から抜け出してすっきりしたいとそればかりを願って、相手が自分から遠ざかるように遠ざかるようにと振る舞っていた気がする。ずっと側にいたかったのに、私は結局最後には自分の心の平穏を選んでしまった。

 仕事と恋愛、そのどっちとも手に入れようなんて絶対に無理。必死に持ち堪えようとしても最後にはバランスを崩してふたつとも失ってしまう。彼に付いていけば、普通に幸せな人生を送れたと思う。もしかしたら今頃ママになっていたかもね。自分だけのちっちゃな天使を育てる暮らしもあったんだなと今になれば分かる。

 怖いなって、思う。人を好きになること、自分と同じくらい大切に想うことは私にとって恐怖でしかない。上手く行ってるうちはいいけど、そのうちに絶対立ち行かなくなって最後にはどうしようもなくなる。最初からそれが分かってるから、始められるわけない。それは相手が誰でも同じこと。

 

 ―― 私、まだこの場所を諦めることなんて出来ないよ。

 

 ひとりぼっちの昼休憩、今日もまた「定期便」を確認する。電車に乗れば数時間の故郷、だけど私の心の中ではその場所はあまりに遠い。
  旗之助が「私」を待っていてくれることは分かってる。あの日、病室で彼が語った言葉は自分を誇示するようないつもの話しぶりとは全く違っていた。信じていいと思う、あれが彼の本当の気持ちだと。何もかもなくしてぼろぼろになっていた私を、それでも彼だけは認めてくれた。この人の側にいれば私は敗者にならなくて済む、心からそう思えた。

『隣の海水浴場には早速たくさんの観光客が詰めかけていますよ、組合でも旅館やホテルに魚を配達するのに大忙しです』

 平静を装った文面。だからこそ考えてしまう、どうしているのかなと。彼の父親である議員先生は一筋縄ではいかない人物だ。どこかウチの園長と同じ香りがする、まっとうな人間では太刀打ちできない相手であるという辺り本当にそっくり。負けないようにと頑張りすぎて、また身体を壊したりしては大変だ。

 だけど、駄目。うわべだけの言葉でねぎらうことはどうしても出来ない。差し出された手のひらを握り返せないと分かってる私、「支えて欲しい」という気持ちに応えることが出来ないなら何をしても嘘つきになる。最初に言われたように、五年後十年後がどうなっているかは分からない。でも少なくとも今は与えられた仕事をやり遂げたいと願ってる。そのためには他の全てを捨ててもいい。

 ……そうか。

 今となると三年前のあの決断は、とても簡単だったような気がする。「仕事」と「恋愛」、ふたつにひとつの選択肢ならばどっちかを諦めればそれで済んだ。
  でも、今は違う。むしろあのときに悩んだふたつの項目をどちらも捨てなければ私は故郷に戻れないんだ。ううん、もしかして。最初からそのふたつを振り切りたかったから、実家に向かう電車に乗っていたのかな。全てを忘れたかったから、何もなかった頃に戻りたかったから。

 気付かなければ、良かった。そもそもの始まりはそこにあったのかも。

 

「先輩ーっ、お休み中のところすみません。そろそろ交代ですよ」

 ぼんやりしすぎていたのかな、ノックの音には気付かなかった。突然開いたドア、飛び込んでくる笑顔。

「静香先輩には声を掛けてきましたが、早めにお願いします。みんなプール遊びで変な風に疲れてるらしくて、上手にお昼寝が出来ないみたいなんです。そろそろあちこちで動き始めてるみたいですから、急がないと」

 慌てて時計を確認したら、すでに十五分オーバー。たった三十分の休憩なのに、これじゃ奏くんの食事時間がギリギリになっちゃうじゃないの。

 半分食べ残ったままのトレイを手に立ち上がると、入れ替わりで彼はソファーに腰掛けた。

「……あ、来てる」

 箸を持つよりも早くメールチェック、画面を見つめていた表情が明るく輝く。あれは私以外の人に見せている笑顔、分かっているのにそこから目が離せない。
  以前は全然気にならなかった、奏くんのプライベートなんて私には全然関係ないもの。仕事に支障が出るほどになったらさすがに先輩として注意しなくてはならないけど、休憩時間の携帯操作は公に認められている行為。誰に咎められることもない。私だって、さっきまで画面見てたんだし。

 

 でも、……やっぱり辛いな。

 

「じゃ、戻るね〜。ごゆっくり!」

 ドアを背中で閉めてから、大きく溜息。モヤモヤした気持ちは、教室に戻る前に全部吐き出してしまいたい。
  あのメールの相手が誰かなんて、私の知ったことじゃないでしょ? そうだよ、仕事上はパートナーだって、それ以外の部分では全くの他人なんだから。こんな風に気にすること自体、どうかしてる。

 

 渡り廊下の向こうからは、赤ちゃん組の元気なはしゃぎ声。

 決まった時間にお昼寝なんてできっこない年齢だから、保育士たちもそれこそ体当たりで取り組んでる。それが少しずつ成長するとこちらの言葉とか考えていることとか理解してくれるようになって、いつか当たり前みたいになっちゃって。どうして言うこと聞いてくれないのかなとか、不条理なことを考えちゃうのね。
  人間を育てるのは「愛情」、あれも駄目これも駄目で上から抑え付けていたら心が素直に伸びて行かなくなってしまう。社会生活を送るためにはしつけが不可欠ではあるけれど、あまりに制約が多すぎたらいつか爆発してしまうだろう。だからといって、甘やかしすぎがいいとは言えない。
  頭ではしっかり分かっているつもりでも、実際に困った場面に出くわしてしてみると上手く行かないことばかりだ。「言葉」って、便利だけど厄介だと思う。それを信じすぎてしまうと、根っこにある感情を見落としてしまいそうになる。

 ―― 私は今でもあなたのことが嫌いです。

 別の言葉で置き換えることはいくらでも出来たと思うひとこと、でもその短いフレーズの中にたくさんの気持ちが詰まってる。必死に頑張ったからといって、その全てが上手く行くとは限らない。厳しい言葉ではあったけど、やはりはっきり言ってもらえて良かった。我が子を託してくれる夢乃ちゃんのお母さんの気持ちはちゃんと受け取らなくちゃならない。

 頑張って走り続けたら、いつかゴールにたどり着けるのだろうか。そこには一体、何が待っているのだろう。大きな喜びか、それとも底知れぬ落胆か。ひとりきりでその場所を確かめるのはやっぱり怖い。

「支えが欲しい」―― 旗之助だけじゃない、私もそう思ってる。だけど、私が欲しい「支え」は旗之助じゃない。そう、それが誰なのかを私はとっくに気付いてる。気付いていたのに知らんぷりを決め込んだ、その歪みが今私を苦しめているんだ。

 

 あの朝、ホテルの鏡で見た不機嫌な顔。

 その感情の正体ももうすっかり見えている。私の中で、彼はとっくに同僚以上の存在になっていた。ただそれを認めることが出来なくて、自分の中であれこれと言い訳ばかりを重ねていたみたい。あんなに近くにいたのに、指一本も触れないなんて。その事実にとても腹を立てていたんだ。

 自分が「女」として認識されていなかったこと、当たり前みたいに見せつけられて。

「仕事」を続けていきたいならば、もう一方の感情は排除しなくてはならない。自分の中で温め続けることくらい個人の自由かなとも思うけど、知らない間に自分自身の気持ちに振り回されてまた困った事態に陥ったら大変。それこそ顔を合わせることも辛くなっちゃう、仕事だってやりにくくなってしまう。

 目の前で起こる出来事に翻弄されて、旗之助のことまで気が回らないというのが正直なところ。申し訳ないとは思うけど、顔を上げれば目の前にいる相手とでは比べものにならない。

 もうひとつの理由として、自分が「悪者」になって幕を下ろすのが嫌だなと思うのもある。卑怯だとは分かってるけど、やっぱり自分が可愛くて。忙しさに追われていれば毎日はあっという間に過ぎていく、そのうちに時間が全てを解決してくれないかなとか甘いことを考えてた。

 

 差し出された手が奏くんのものだったら、私はすぐに握りかえしていたはず。色んな感情をふたりで共有できたら今よりもっと楽しいだろうな。

 ―― そんな風に考えてしまう自分がすごく嫌だ。

 


「こんばんは、ご無沙汰してます」

 思いがけない相手から連絡が入ったのは、週末仕事がようやく終わったその日の戻り道。
  明日の土曜日は二週間ぶりのオフ、このところ休日返上で頑張っていたから本当に嬉しいとちょっと浮かれた足取りになっていた。

 昼間のメールの返事は結局出しそびれたまま。どうしようかと思っていたところに丁度掛かってきたのかと焦ったら、液晶画面には全く別の名前が表示される。
  そう言えば念のために番号を聞いておいたんだっけ。登録したまま忘れていたから、頭を切り換えるまでに数コールの時間を要した。

「こ、こちらこそ。お久しぶりです、皆さんお元気ですか?」

 年下相手に身構えてしまうのは、やはり後ろめたい気持ちがあったからだろうか。そうだよなー、ナンバーを聞いたんだから様子ぐらい聞けば良かった。自分のことにかまけてすっかり忘れていたなんて申し訳ない。

 でも私の問いかけには答えずに、圭子ちゃんは話を続けていく。

「あの、折り入ってご相談したいことがあるんです。時間がないのですぐ来ていただけますか、今から部屋の番号を言いますから――」

 何かを読み上げているかのような抑揚のない話し方が少し気に掛かった。だけど、信じられない相手からの電話だったからとにかく言われたとおりの部屋番号を反芻する。ホテルの名前も現在地から目と鼻の先にある駅前のものだった。

「じゃ、お待ちしてます」

 ぷつりと切れた電話。午後八時を回った駅前通りは帰宅ラッシュのまっただ中だ。たくさんのスーツ姿と一緒に生暖かい風が通りすぎていく。

 見上げた空にはやはり星はひとつも見当たらなかった。

 

 

2007年5月4日更新

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