TopNovel願わくば・扉>願わくば、恋視線・3



       

     

「そうですか、良かったー! 急な呼び出しとかだったら、正直困ったなあと思っていたんですよっ。……いえ、こんないい方は不謹慎ですね、すみません」

 母親との電話をようやく終えて教室に向かうと、そこはもぬけの殻。そろそろ子供たちの顔ぶれも揃ってくる時間なのに、ここまでスッカラカンなのは有り得ない。
  だけど、その理由もただひとり残っていた奏くんに聞いて納得。お天気がいいから年中さんは全クラスが園庭遊びをすることになったんだって。

「うん、週末に一度顔見せろって。お正月に戻ったっきりだったから、さすがにキレたみたいよ? ひいお祖母ちゃんの何とか祝いとか、そんなこと言ってた」

 えー半年近くですか、それはさすがに親不孝ですよーって。軽い笑い声に口元からこぼれた白い歯が、歯ブラシのCMに出てくるタレントさんみたいだ。

 

 まあねえ、……でも本当に数ヶ月なんてあっという間だもの。三月にも一度呼び出しがあったんだけど、戻れる訳なんてないじゃない。

  年度末は子供たちの入れ替わりで殺人的に忙しいこの職場。公立学校なんかとは違って、三月末に二日だけお休みがある。んで、四月の一日は毎年恒例の「入園式」で翌日からは通常保育。その上、年度末休みの時だって「どうしても」の子供たちはお預かりするの。
  あ、ウチの園は「学童保育」もやっていて、学校の長期休業の時には一日預かってるの。対象は小学校3年生までで各学年五人が定員なんだけど、それでも職員のうちの何人かがそちらにつくことになれば人手の減った職場はさらに戦場と化すわ。

 みんな多かれ少なかれ、子供が好きで使命感に燃えて選んだ職種なんだと思う。ただ、やはり忙しさは心を滅ぼすって言うしね。殺伐としてきたときは、出来るだけ手鏡を覗くようにしているわ。気持ちは必ず顔に出てくるから。

 

 通路の窓から覗けば、年中さんの三色のつば付き帽子が園庭のあちらこちらに散らばっている。ちなみにウチの「もも」組はピンク色だ。年少さんには薄ピンク色の「さくら」組があって、遠目に見るとごっちゃになってわかりにくいのよね。
  今日は補助の先生も何人か入ってくれているから、大丈夫そう。今のところ、大きなトラブルもないみたい。

「どうします? 最香先輩も下に降りますか」

 自分でもどうしようかなと思っているときに、背中から声を掛けられる。振り向くと、教材の入っていた段ボール箱を潰して片づけていた奏くんと目があった。

「うーん、どうしよ……」

 こんな瞬間に思わずときめいてしまう私って、どうしようもない。奏くんは、年中さんクラス担当のピンクのエプロンを着て、いかにも「保育士です」って感じ。だけど、……それでも格好いいなあとか思ってしまう。これが普通のオフィスでビジネスライクなファッションだったりしたら、かなりヤバイんじゃないかしら?

「今月のおはなし会の道具を出してきて確認しておくようにって、聖子先輩に言われてるんです。良かったら、少し手伝って頂けると嬉しいんですけど……」

 よし、終わりって。たたんだ段ボールをまとめて抱えると、廊下の突き当たりにある置き場まで持って行く。誰がやったってすぐに終わるありきたりの仕事ではあるんだけど、こんな風に後輩くんが引き受けてくれると正直助かる。
  年少さんはまだまだ手が掛かるから、ふたり体制でひとクラスを受け持つのね。そして、年中と年長は担任はひとりで、ふたクラスにひとりの補助保育士が配置されてる。ウチの「もも」組と奈津が担当する隣の「ぶどう」組の補助が奏くん。ちなみに年中のもうひとクラス「なし」組の担任が聖子先輩なのね。静香ちゃんが、年長のひとクラスと共に補助に入ってる。

「頑張ればひとりでも運べる量だとは思うんですけど、やっぱり先輩がいてくれると心強いし……でも、最香先輩は俺より子供たちと一緒にいた方が楽しいかな?」

 

 ――は……!?

 

 思わず瞬きをして、見つめ返してしまった。一瞬だけ辺りにピンとした空気が漂ったけど、すぐにそれもぷつりと切れて。

「な〜んてね、……冗談です」

 首をすくめて、くすくす笑い。彼は呆れ顔の私を追い越して、「さあ、行きましょう」と先に歩き出した。

 


「オフィス・ラブ」って、何とも魅惑的な響きよね。

 フロアに行き交うのは、すっきりとした装いに身を包んだ社員たち。ビルの窓から降り注ぐ真昼の日差し、空調に管理された涼しげな室内。パンプスのかかとが奏でる音色は、コツコツと床に響き渡る。

 人目の多い場所だから、もしも意中の相手がいたとしてもなかなかふたりっきりになるのは難しいとか言うじゃない? でも、本当にそうなのかな。頼まれた書類を探す資料室、衝立の奥で死角になったコピーコーナー。そう、探せばいくらでもトキメキの場面はあると思う。何て言ったって、オトナな世界だもの。

 そう言うシーンを夢見てしまう辺り、私もだいぶ疲れてるのかも。自分には有り得ないシチュエーションだからこそ、自由に思い浮かべることが出来るのね。

 

「先輩ーっ、雨ふらしの衣装ってコレでいいんですか? 何だか、青緑色の雨合羽みたいなのが入ってますけどーっ」

 脚立の上から私を見下ろすのが、可愛い笑顔の奏くん。

 講堂のステージ屋根裏を利用した倉庫の棚には、天井までうずたかく積み重ねられた段ボール箱たち。それぞれにマジックで中身が書かれているんだけど、中身を確認しないと違うものとすり替わっていたりするから気が抜けない。それだけ、混乱を極める職場だって言う事ね。使ったあとは洗濯してから片づけることになってるのに、どれもこれもカビ臭い。

「うん、河童のお面も一緒に入ってる? だったら、それで当たりだよ。じゃあ、こっちに渡してくれるかな」

 

 ――うーん、これも。一応、密室にふたりっきりという状況なのかしら?

 

 そんなことを考えながら、大きくて軽い段ボール箱を受け取る。少し開いた隙間から歪んだ河童の顔が見えて、何とも言えない気分になった。

 そうなのよねー、確かに奏くんはそばにいてくれると目の保養にはなるし、いいんだけど。だけど、彼が年下と言うことを差っ引いても、どうにもならない気がする。まさか、都会のオフィスで河童のお面とかがお目見えすることは有り得ないし。せめてネクタイ着用じゃなくちゃなあとか思っちゃう。

「ええと、あとはカタツムリとアライグマね。その向こう側に見えてる茶色っぽいのが、カタツムリの殻じゃないかしら? 確か、背負えるように紐が付いてたと思うけど……」

 

 雨降りの日が多くなる梅雨時は、どうしても室内遊びが主になる。とはいっても、講堂に全ての園児を集めて大騒ぎさせるのは無理。

  何しろ運動会も園庭で出来なくて、近くの小学校の校庭を借りているような状況なのよ? 少子化の傾向が懸念される世の中にあって、生き残るために経営陣が様々なサービスを展開した結果がこれ。定員一杯まで教室に詰め込んでも、「明日からでも入所させてくださいっ」という勢いの予約待ちが二桁になってるんだって。
  まあ、職場が盛況なのは嬉しいと思わなくてはならないんだろうけど。大勢の園児を狭い場所に押し込んでおくのはどう考えても現実的じゃない。鬱憤が溜まれば、みんなだんだん不機嫌になっちゃうしね。だからだろう、今月は普段よりも「おはなし会」が増える。別にそれほどたいそうなものではないのよ、ただ単に職員が着ぐるみを着て身体を張る舞台だ。

「うーん、今年も明子先生がカタツムリかな……じゃあ、アライグマはじゃんけんかしら」

 演目は毎年だいたい同じ、だから私にとって「雨ふらし」の舞台は3回目だ。最初の年に何も分からないまま「アライグマ」に入ることになって、もう少しで貧血を起こすところだったわ。じめじめして蒸し暑い時期に、どうしてアライグマ。ディズニーランドのミッキーマウスたちを思い切り尊敬してしまった。あの人たちって、マジにすごいよっ。
  子供相手の舞台でしょ、侮ってはいけないのよ。純粋な眼差しは大人のちょっとした隙を目ざとく察してしまう。こっちが一生懸命やらないと、見ている方も真剣になってくれないの。

 明子先生はそろそろ50代の大ベテラン。小学生に埋もれちゃうくらい小柄なのに、その演技力と言ったら「どこの劇団のご出身ですかっ!?」と目を見張ってしまうほどなの。従って、毎回のおはなし会の舞台監督も兼ねていて、その稽古にも余念がない。

  はぁー、また真夜中の猛特訓が始まるのね……。去年は紫陽花の役だったからぼんやりしていたら「なりきってない!」って指摘されて大変だったのよ。普段はとっても優しい赤ちゃん組の明子先生なのに、どうして舞台となるとあんなにキャラが変わるんだろう。

 

「あー、違いますよ? これはカタツムリじゃなくて、ヤドカリだなあ……。うわ、すごい埃っぽいっ……!」

 むわっと白い埃が舞い上がって、視界が暗くなる。何しろ物置を掃除する暇なんてないものなあ、詰め込みっぱなしの場所は久しぶりに訪れるととんでもないことになっているわ。

「じゃあ、カタツムリはそこじゃないのかな? もしかしたら、南側の棚かも――」

 ただですら、暗い照明。遙か高い天窓から差し込むわずかばかりの光も今は綿ぼこりの彼方。狭い場所で振り向いた拍子に、がつんと何かが肘に当たった。

 

「……うわっ……!」

 遠くで、奏くんの声がしたような気がする。

 だけど、その先のことはよく覚えていなかった。がちゃって、何かが強く当たる音がして、ハッと我に返る。気が付いたら、私は折り重なる段ボールの中に仰向けにひっくり返っていた。

 

「いたたたたっ……!」

 これは、私じゃなくて奏くんの声。それもそのはず、倒れかかった脚立は彼の背中に激突してた。まあ、全てが横倒しになる前に向かい側の棚にぶつかって止まったみたいだけど、そうだとしてもかなりの衝撃があったに違いない。

「だ、……大丈夫?」

 話が出来るってことは、イコール意識があるってことよね? だけど、一応訊ねてみる。

 彼もまた、私同様に段ボールに思い切りダイビングしていた。そして、落下地点は私のちょうど真上。そう、……鼻先も触れ合うほど近いって、こういうことを言うんだなという体勢だ。

「は、……はいっ、大丈夫です。先輩こそ、どこかぶつけたりしてませんか? あー、驚いた……!」

 彼が身を起こそうとすると、倒れかけの脚立が邪魔をする。これは私が先に抜け出して、手を貸した方がいいのかなと思うけど。

 

 ……ええと、ちょっと待って?

 

「あのっ、……奏くん。こんな時に悪いんだけど……」

 いくら暗がりでも、ここまで接近すればお互いの顔ははっきりと確認できる。それだけに何とも気恥ずかしい気分なのは仕方ないわ。私は意識的に視線をそらせながら、言った。

「出来れば、その。右手を、どけて欲しいんだ。……いいかな?」

 

 思ってたよりも、大きな手のひら。サイズ的には不足はないと思う私の胸を、しっかりと鷲づかみにしてた。

 


「へえ、最香先輩のご実家って海の近くなんですか?」

 医務室で、応急手当。幸い、背中の打ち身もたいしたことなくて、大きめの湿布を貼っておけば大丈夫だろうと言われてホッとする。

 一歩間違ったら大惨事だったわけだし、身軽な奏くんだと思って注意を怠った私にも責任があるわ。ひとりが脚立に乗るときは、もうひとりがきちんと支えなくちゃ。ああ、反省反省。

「そうよー、毎回たくさんお土産を持って来てくれるんだもの。もう毎月でも毎週でも里帰りして欲しいって、いつも聖子と話してるわよーっ!」

 ぱりっとした白衣を粋に着こなして、手早くお茶の支度までしてくれるのが看護師の資格を持っているという真弓先生。何でも聖子先輩とは高校からの腐れ縁なんだって。小さな子供が集まる園だから、やはりしっかりとした知識を持った職員は不可欠。生まれて間もない赤ちゃんもお預かりしてるし、真弓先生がいてくれて本当に心強い。

「俺はまた、東京の山の手とかに豪邸があるのかと思ってましたよーっ! だって『最香』なんて名前、珍しいじゃないですか。都会風ですよね、絶対」

 ありがとうございます、と遠慮なく湯飲みを受け取る奏くん。鼻の頭にくっつけた絆創膏が痛々しいけど、本人は至って平気そうだ。
  ほんの10分前に「うわあっ!」って奇声を発して私の上から飛び退いたのと同じ人間とは思えないわ。嫌になっちゃう、本当に全然気付いてなかったんだね。もう、サービス料金もらっちゃおうかしら?

「……何よ、都会風って」

 猫舌にはしびれる熱さのお茶の上澄みをほんのちょっとだけすすって、私は小さな声で言い返した。

 

 まあね、この名前のせいで色々苦労してきたわよ、子供の頃から。

 まず「最香」と書いてきちんと読める人がいない。「何ですか、これは?」と訊ねられたり、「……さいか?」と苦し紛れにひねり出されたり。だけどねえ、いくら何でも「斉木最香」で「さいき・さいか」はないでしょう。何だか舌を噛んじゃいそう。

 

「海って言ってもね、普通に想像するようなリゾート地とは違うから期待しないで。もう泣きたくなるくらいローカルな漁村よ、海岸だってだいぶ行かないとないんだから」

 奏くんは「へえーそうなんですかっ!」って、目を輝かせてる。そうね、海のない県で生まれ育ったと言うから仕方ないか。だけど、海なんてあればいいってもんじゃないと思うけど。

「じゃあ、お父さんはバリバリに海の男だったりするんですか? うわ、格好いいなあー、鰹の一本釣りとかっ! いつもTVで観て憧れていたんですよーっ!」

 ……何か、分かりやすい反応だなあって、思わず苦笑い。向かい側の椅子に座る真弓先生もくすくす笑ってる。

「違うわよね、最香ちゃんの家は代々続く干物やさんなんですって。手開きで天日干しの一級品、そこら辺のスーパーで売ってるのとは全然違うのよ? もうあれがあれば、ご飯軽く三杯はいけるわねっ」

 今回も期待してるわよって目配せされて、またゲンナリ。うーん、発泡スチロールの容器に入れても、あれってかなり匂うのよね。電車で戻ってくると、近くの乗客にじろじろ見られちゃうんだもの。でもまあ、真弓先生を始め園の皆様にはお世話になってるし、自家製の干物で喜んで頂けるなら万々歳かな。

「へー、すごいですねっ。じゃあ、俺にも是非お願いします!」

 にこにこ笑顔で奏くんにそう言われると、ええ任せておいてって思っちゃう。

 実家に戻るのは色々気が進まないけど、今回は干物をたんまり頂いてくればいいやと考え直す。……あ、そのためには駅前のデパートで直輸入のコーヒー豆をたくさん買っていかなくちゃっ!

 実は、私の名付け親はお祖父ちゃんなのね。田舎の干物屋の主人なのに、何故かコーヒーが大好き。70をゆうに越えた今でも、毎朝挽きたてのコーヒーの香りがないと目覚められないとか言うのよ。さらに兄は「希里(キリ)」で、弟は「青(アオ)」って名前。キリマンジャロとブルーマウンテンってとこね。さすがに「ブル」じゃ名前にならないし。

 ――そうね、奏くんが言うみたいに都会のお嬢様ならそれなりにサマになったでしょうよ。漁村の干物屋の三兄弟じゃ泣けてくるわ。

「あ、最香先輩。そろそろ時間ですよ。子供たちが上がってきますから、洗い場で待機しなくちゃ」

 ごちそうさまでした、と湯飲みを返して立ち上がる奏くん。腕時計を確認して、私も慌てて残っていた半分を飲み干した。

 

 ウチの園は夏場は「裸足保育」を行っている。

 従って、園庭遊びのあとはひとりひとりが足を洗うことになるから水道は大混雑なの。でも、これも大切な「仕事」のひとつだものね。さあ、気分を切り替えて頑張らなくちゃ!

 今日は梅雨の中休み。給食の後に子供たちがお昼寝をしたら、ベランダにさっき出してきた衣装を干そう。ついでに下敷きにしてへこんじゃったカタツムリの殻も補強しなくては。

 

 忙しさに追い立てられる三年目。あっという間にまた一年が過ぎて、来年の今頃も同じ空を見上げてる。何となく、そんな予感がした。

 

 

2006年6月14日更新

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