TopNovel願わくば・扉>願わくば、恋視線・24



       

     

 子供たちがお残り教室に移動したあと、ひとり居残り。

 

 細い罫線の間を必死で埋めていたペン先を止めて、大きく伸びをした。

 丸々一週間休んでしまった代償は思いの外大きくて仕事は山積み、こんな風に空き時間を見つけては頑張ってみてもなかなか進まない。頭の回路もどこかふやけているみたい、同じ作業をしていても以前の倍近い時間が掛かったりするもの。

 身体を大きく伸ばした後は、ぐるぐると肩を回して。そのあと、眉間の辺りを指でぎゅーっと押した。細かい作業を続けていると、身体のあちこちがきしんでくる。それでもどうにか気合いを入れて、私は仕事を再開した。

 

「先輩っ! ほら、見てください。こんな感じでいいんじゃないかと思うんですけどーっ!」

 隣り教室から、ひょいと首を覗かせる奏くん。満足げな表情で手にしているのは、牛乳パックで出来た水遊びのおもちゃだ。紐を通してつり下げられるようになっている。

「差し込んだストローを全部同じ向きに曲げるのがコツなんです。水の勢いでくるくる回るのが楽しいですよ、ほらやって見せますから。ちょっと来てください!」

 子供みたいな笑顔で私を促す彼だが、別にふざけている訳ではない。今週末に行われる「保育参観」で親子で作る工作の試作をしてくれているのだ。
  私が休んでいる間、彼はひとりで色々調べて計画を進めてくれたみたい。戻ってきたときにはすでに参観日に関する各種書類も提出してあって、その全てが初めてとは思えないほどのしっかりとした仕上がりだった。

「こういうの、どこかで見たことはあったのですが……自分で工夫してやってみても上手くいかなくて。図書館やネットで調べて色々作ってみた結果、これが一番いいんじゃないかと思ったんです。かなり勢いよく回りますからね、当日は出来上がったあと園庭に移動してから遊んだ方がいいでしょう。そのときの誘導の仕方もこれから考えて行かなくてはなりませんね」

 手洗いの流しで牛乳パックに水を入れると、底に近い側面に取り付けられた曲がるストローから勢いよく水が吹きだしてくる。簡単な仕組みだけど、これだけ分かりやすければ子供たちも大喜びだろう。ストローの差し込み口を開ける作業は保護者の手を借りることになりそうだ。

「このままだとすぐに出来上がっちゃうから、外側に模様を付けたり絵を描かせたりしたらどうかしら? でも立体に色づけするのは難しいかな、画用紙に描いて貼り付けるのがいいかも」

 これだけ勢いがあれば、多少のバランスが狂っても支障ないだろう。魚とかひまわりとか、色画用紙を切り抜いて貼っても可愛いな。そんな風に色々思い描いていくと、心はすでに週末の教室へと飛んでいる。子供たちの歓声、父兄の皆さんの笑顔。
  年中組に進んで、子供たちはみんな手先も驚くほど器用になってる。去年はなかなか真っ直ぐに線の上を切れなかった子も今では危なげなく工作を仕上げられるし、そういう場面に気付いてもらえると嬉しいな。

「ああ、そうですね。じゃあ、この見本は聖子先輩のところにもお渡ししてきます。ついでに練習の様子も覗いてきますね」

「よろしくねー」と手を振ってから、元の机に戻る。書類の上に、先ほどまではなかったキャラメルの箱が置かれてた。
  えー、いつの間に。全然気付かなかった。さっき、教室を通り抜けたときに置いていったのかな? 中を開くと、三個だけ包みが残ってた。「お裾分け」ってことなのかな。

 ミルク味のそれをひとつ口の中に突っ込んで、もう一度大きく伸びをした。

 

 先週から、秋の運動会の練習が本格的に始まっている。

 リズムパレードの鼓笛隊に選ばれた子供たちの集中レッスンもそのひとつだ。年中組の選抜者たちは聖子先輩の「なし」組教室に集まって、まずは基本的な指運びから教わっている。最終的には整列したままで上手に弾けるようにならなくちゃいけないんだから大変だ。私の担当する「もも」組からも四人の子が選ばれている。
  これから九月末の本番までは、何かと落ち着かない日々が続くのだろうな。それが終わると、年長組はもう来年度の小学校入学に向けて本格的な「お勉強」がスタートする。芋掘り遠足や園外活動、年間予定表はどこもびっちりと予定で埋まっていた。
  あまりスケジュールに追い立てられると、それだけで頭がいっぱいになってしまうから困る。「きっちり」ではなくて「楽しんで」進めていくように、いつも軌道修正するように心がけているんだけれど難しい。

 一週間も現場を離れたことで、今は何もかもが新鮮。山積みの書類には閉口するけど、ひとつひとつの出来事をとても素直な気分で受け止めることが出来る。
  だって、もう二度と戻れないと諦めていた場所なんだもの。こうして元通りに仕事を続けられるだけで、信じられないほどの幸せだ。そう、やっぱり。離れてみて改めて分かった、私は子供たちが好き。毎日体当たりで関わっていけるこの仕事こそが自分の天職だと思う。

 ―― だから、もう何があっても絶対くじけたりしない。

 頑張るのは、これだけじゃないのね。一昨日のお見舞いからの帰り道、奏くんと決めた。奈津が元気になって戻ってくるまで、私たちが頑張ろうって。どこまで出来るか分からないけど、とにかく自分の限界まで踏ん張ってみようって。

 園側は今でもギリギリの人員でやりくりしてる。奈津が休んでいる穴を埋めるために、新婚旅行の時のように臨時の保育士を配置してもらうことも可能だけど、こんな風に何度も何度も同じ状況が起こると言うことになれば今度は担当クラスの保護者が黙っていないだろう。
  子供たちにとっては生活のほとんどの時間を過ごす場所、そこでお世話する保育士が頻繁に変わるようではいつまで経っても緊張から抜けることが出来ない。これから夏の観光シーズンに突入すれば、お店や施設などのサービス産業はますます忙しくなる。そんなときに子供の機嫌まで悪くなったら、親子共々オーバーヒートしてしまいそうだ。

 奈津は必ずに戻ってくる、だからそのときまで奏くんと私で、ふたつのクラスをしっかりと運営していこう。
  そう決意して園長に直談判すると、予想通り難しい表情が戻ってきた。もともと他の職員と比べて欠勤や早退の多かった奈津は、一部の保護者から良く思われていなかったらしい。今回のことも避けようのない事態だとはいえ、保育のプロとしての計画性のなさを指摘される結果となった。
  結婚しても仕事を続けていく女性にとって、出産や育児はとても重い課題としてのしかかってくる。どのようなタイミングで子供を産み、その後のケアをどうするか。自分の抱えている仕事や現場の状況を見極めながら、最善策を練っているのが現実だ。第二子を考えていたそのときに大きなプロジェクトを任されてしまい、そのまま産みはぐってしまったという話も何度となく聞いたことがある。

「こうして最香先生がお戻りになった今、もう一度年中組全体の配置を考え直した方がいいかと思うのです」

 園長の言葉は暗に、奈津の自主退職を示唆していた。どちらにせよ、年明けの二月末が出産予定ならば年度の最後までクラスを担当することが出来ない。それならば、今のうちにはっきりさせようと言うことなのだろう。

「でも ――」

 つい先日、私にとんでもない言いがかりを付けてそれを押し通そうとした園長。どんなごり押しも成しえてしまう相手であることはすでに承知している。もしも執拗に楯をつけば、今度は自分の身が危うくなるのは分かっていた。だけど、やっぱり。自分に任された仕事を出来るところまで頑張りたいという奈津の気持ちを見捨てることは出来ない。
  だって、私だって同じだった。どんなに不安定な状況下にあっても、もしもひとしずくの希望があるなら戻って来たかったよ。まだまだ職場の中では元通りというわけにはいかないけど、あのまま諦めちゃうよりはずっと良かった。確かに奈津には仕事に対する認識が甘かった部分はある、だけど彼女だからこそ出来ることだって絶対にあるはず。奈津が担当するからこその「ぶどう」組なんだから。

「春日井先生は来週頭にも仕事に復帰できるという話です。その程度の欠勤ならば、大澤先生と私とで穴埋めできると思います。とにかくは、もうしばらく経過を見ては如何でしょうか?」

 春日井、というのは奈津の結婚後の姓だ。とにかく結論は急がないで欲しい、その一心で食い下がった。ものすごいプレッシャー、園長室を出たあとにがくっと脱力してしまったほど。

「大丈夫ですか、……でも最香先輩はとてもご立派でしたよ」

 私の勢いに圧されて園長室ではほとんど自分の発言が出来なかったという奏くんは、そんな風にねぎらってくれた。言葉だけ聞くと鼻につくような台詞も、柔らかい笑顔が一緒なら信じることが出来る。この子って本当に天使みたいな存在なんだって、改めて思った。

「私も」

 心の中に浮かんだ言葉を、そのままのかたちで口にする。

「自分が奈津のためにこんなに頑張れるとは正直思わなかったわ」

 仕事も恋愛も、そのどちらも手に入れた彼女が羨ましくて妬ましくて仕方なかった。絶対に無理だと思ったから片腕を切り落とすような覚悟で数年前に彼を振り切ったのに、そんな風にする必要なんてなかったのだと見せつけられたみたいで。自分には出来ないことを当たり前みたいにクリアしてしまう人がいる。その事実をどうしても認めたくなかった。

 けど……、小さなその一点だけを凝視していては駄目だったのね。何を選択して何を捨てるかはその人次第、大切なのことは他にあった。奈津も私も、初めてクラス担任に選ばれて頑張ろうと思った気持ちは同じ。仕事に対する想いは同じくらい深かった。そのことを見失っていたから、心のハンドル操作を誤ってしまったんだな。

 

 色々な立場で我が子を他人に預けて働きに出る「親」がいる。その一方で様々な状況下で仕事に就く保育士がいる。皆、プライベートの顔はそれぞれ。だけど、子供を思う気持ちはみんな一緒。それならばきっと、いつか必ずわかり合える。

 うん、信じていればいつかきっと。私たちは一番大切な「夢」を手に入れることが出来るんだ。

 


「お疲れ様ーっ!」

 あっという間の一週間、保育参観が無事終わったあとにいつものメンバーでささやかな打ち上げをした。

 聖子先輩と静香ちゃん、それから奏くん。奈津が一緒じゃないのはとても寂しかったけど、無事退院したその後の自宅での経過もとても良好とのこと。担当医からも「奇跡的な回復ぶりだ」って言われてるとか。大仕事を終えたあとにそんな嬉しいニュースも飛び込んできたためか、みんなの顔はとても晴れやかだ。

「すごいね、奈津ちゃん。今回はお腹の赤ちゃんに励まされたって感じかな? 今からこんなに親孝行なんて羨ましいわ〜!」

 にこにこ顔で、ビールジョッキをあおる聖子先輩。年中組の音楽主任ってことで、大変な様子だからたまには羽目を外すのもいいかもね。毎日のように年長組の方から呼び出しがあって、あれこれと鼓笛隊の指示を受けているってこと。初めての経験じゃないからとは言うけれど、緊張するだろうなあ。万年年長組の先生方はとにかく気合いの入り方が違うから。

「そうですねー、でも今回はちょっぴり奈津先輩を見直しましたよ。こんな風になったら、すぐに辞めちゃうのかと思ってました。私の想像以上に真面目な方だったのですね」

 同じく陽気な静香ちゃん、でも私を見る目はまだ少しよそよそしい感じだ。彼女にしてみれば今回の私の「事件」はかなりの衝撃だったらしく、しばらくはご飯も満足に喉を通らなかったという話。聖子先輩経由で教えてもらった。
  園内のごたごたは何度経験してもエネルギーを吸い取られるものね、免疫が付いてない新入りさんにはダメージが大きすぎるかも。まあ、静香ちゃんと私はたったの一年しかキャリアが違わないけど……私は入ったその年からかなりすごいのをいくつも見てきたしな。

「あらあら、そんないい方は失礼よーっ! ふふふ、でも実は私も同感かな?」

 聖子先輩がいつもに増してご機嫌なのには訳がある。だって担当クラスの「なし」組からは鼓笛メンバーが八名も選ばれたのだ。ウチのクラスが四名で、奈津の「ぶどう」組は三名。そうなると保護者の方の喜びようも半端じゃない。今日一日でかなりのお褒めの言葉を受け取ったのだろう。

 明るい笑い声に勧められて、全員が飲み物の追加オーダーをする。ビールのジョッキを選んだ三人に対し、私は綺麗な色のフィズに決めた。私には明日も休日勤務が控えている、だから潰れるわけにはいかない。奈津の分も頑張るって決めたから当然だ。でもここまでシフトの入れ方が横暴だと、園長は私と奈津ふたりとも園から振り落とそうと目論んでいるのかなと邪推してしまう。

「……あ」

 メニューを戻したところで、メール着信。微かに震えたそれを手に、私はそっと席を立った。

 


「色々と、ご迷惑をお掛けいたしました」

 少し時間が戻って、昼過ぎの保育園。ほとんどの親子が帰宅したあと、ご主人に付き添われて夢乃ちゃんのお母さんがやってきた。今日こそはお目に掛かるのだろうと覚悟を決めていたら、保育参観に参加したのはお祖母ちゃま。どうなさったのかなとは思いながらも、忙しさにかまけて改めて声を掛けるところまではいかなかった。

 園長室へと促す園長の言葉を断って、近所の喫茶店に向かう。私が休んでいた間に、お母さんが保育園に直接で向いて園長と話をしてくれたみたい。その内容までは詳しく聞く気にはならなかったけど、その話し合いで私の疑惑はすっかり晴れたのだと、奏くんが教えてくれた。

「その、……何と言ってお詫びしたらいいか分からないのですが……」

 運ばれてきたアイスティーの氷が半分溶けてしまった頃、ようやくお母さんはぽつりぽつりと話を始めた。こちらから色々訊ねることも出来たけど、それはぐっと堪える。本当はこんな風に改めた場を求めるつもりもなかった、夢乃ちゃんが毎朝笑顔で登園してくれるだけで十分だったから。
  私にだって、至らない部分はたくさんあったと思う。自分自身のことで手一杯で、決められたスケジュールをこなすだけで息切れしてしまうこともしばしば。自分の情けなさに落ち込むことも多かった。いくら保育士としての自分に誇りを持っていたとしても、キャリアのなさは埋めることが出来ない。実際に子供を産んで育てた経験もない若輩者に我が子を預ける親御さんの不安は計り知れないだろう。

 だけど、……それでも真実は知りたかった。夢乃ちゃんのお母さんをそこまで駆り立てた理由が何処にあるのか、どんなに厳しい答えであっても私は知らなくてはならなかったのだ。もしもこの先も、今の仕事を続けていこうと思うのであれば。

「―― ごめんなさい、口惜しかったんです」

 やっと絞り出すようにそれだけ言うと、彼女は手にしたハンカチで目元を拭った。その言葉には私の求めていたような「答え」が見当たらなかったけど、とてもそのことを追求できるような感じではない。私は彼女の次の言葉が出てくるのをただひたすらに待ち続けた。
  傍らでやりとりを見守っていたご主人も、このままでは時間が無駄に過ぎるばかりだと判断したのだろう。私には聞こえないような小声で彼女を幾度か促す。そのたびに白いハンカチがしっとりと濡れていった。

「夢乃は……結婚して三年目にようやく授かった子供でした。可愛くて、ただ可愛くて、本当に夢中になって育てました。あの子は私にとって、何にも代え難い存在だったのです」

 真っ直ぐに本題にはいるのは諦めたのか、お母さんはそんな昔語りを始めた。結婚前から立派な母親になることをあれこれ夢見ていたこと、なかなか妊娠しなくて仕事を辞めて不妊治療に通ったこと。夢乃ちゃんのたった五年の人生の中にはお母さんのたくさんの想いが溢れていた。

「年齢的にも二人目は無理だと判断して、新しく仕事を探すことにしました。夢乃には望む全てを与えてあげたい、それにいつまでも私が掛かりきりでいたら社会に適応できなくなってしまうのではないかという不安もありました。ひとりっ子で生きていくためには、周りの人と上手に付き合っていくことが不可欠です。私自身も地域の役員などを進んで引き受けて、近所の方とお付き合いをしていく姿を娘に見せようと思いました」

 言葉の端々から、真面目で努力家な人柄がにじみ出ていた。ひとつのことを試して、それが上手くいかなかったらその原因を考え新たな道を探す。育児書も教育書も手当たり次第に読み進めて知識を深め、様々な状況に対応できるように心がけた。子育ては自分育て、まずは親がしっかりしなくてはといつも自分を奮い立たせてきたという。
  だけど、再就職して夢乃ちゃんが通園を始めると新たな壁に当たってしまう。年少の頃に通っていた園とも幾度となく交渉して改善策を探ってきたがそれも限界に来て退園。自分の何が不足していたのか、思い悩む日が長く続いた。偶然、園長の講演を聴く機会があって共感を覚えて入園を決める。今度こそはと意気込んで、お母さん本人がかなり気負っていたらしい。

「最初に泣かれるのは想定内でしたから、それほど大きなダメージはありませんでした。夢乃も新しい保育園を気に入って喜んで通うようになって、本当に嬉しかったのですが……でも」

 その先はひどく言いにくいらしく、また口をつぐんでしまう。だけど足踏みするばかりでは仕方ないと言うことは承知しているのだろう、震える唇をどうにかして動かそうとする。その姿を見ているだけで、私の方が胸の詰まる想いがした。

「ある頃から、夢乃が私の言葉にいちいち反発をするようになりました。いわゆる成長過程の反抗であることは書物から得た知識で分かってはいましたが、今までが素直な子供だったので驚きました。だけど……夢乃は最香先生の言う言葉ならきちんと受け止めるのですね。そのことに気付いたときに、私の中で何かが掛け違ってしまったのだと思います」

 いつの間にか、彼女の中に憎しみの心が芽生えていたという。お腹を痛めて産んだわけでも眠い目をこすって世話をした訳でもない女性が娘の心を捉えている、それが耐え難い衝撃だった。

「そして、……鼓笛隊の選抜で。夢乃は音楽教室に通っていましたし、家でもかなり練習させました。必ず選ばれると信じていたのに外されて、それだけでもかなりショックだったのに当の本人が少しも落ち込んでいないのです。そんなのってないでしょう、正当な評価もされずに黙って受け入れるなんて。夢乃の想いを踏みにじる方にこれ以上お任せできないと思ったんです」

 どんな言葉が経営者の心を動かし行動を促すか、そのようなことはすでに勉強済みで少しも難しいことはない。ほとんどが口から出任せの作り話だったのに、園長はその全てを真実として受け止めてくれた。そして早急に何らかの措置をとるとまで約束をしてくれる。全ては上手くいったと思う反面、今度は罪の意識にさいなまれる結果となった。

「私は今でもあなたのことが嫌いです、私の一番大切な娘の心を独り占めする人ですから。それでも……娘をあなたにお任せするしかないんです。娘の気持ちを踏みにじる権利は私にはありませんから。こうしてお戻りになったこと、大変嬉しく思っています」

 さらに、知らされる事実。

 夢乃ちゃんの身体の傷の大半は、彼女自身が付けたものだった。あんなに小さい子供がと驚いたが、彼女にとっては少しでも私の気を引きたいための必死の行動だったようだ。家ではお母さんが全身で自分を受け止めてくれる、だから園では担任である私が他のどの園児よりも気に掛けてくれないと嫌だと考えたのだろうか。そうだとしたら、すごく悲しい。私は彼女の気持ちに少しも気付くことが出来なかった。

 ―― たったひとつの命、他には代えることの出来ない存在。

 それが集まって、ひしめき合いながら社会は動いている。どこにもいらない命なんてないんだ、どこにもいらない人間なんていないんだ。そんなことは誰でも知っているはずなのに、何故かみんなが幸せになる方法が見つからない。

「大丈夫です、子供にとって誰よりも大切なのはお母さんなんですから。他の人が代わりになれるはずはないんです」

 当たり前の言葉を、どうしてもっと早く誰かが彼女に掛けてあげなかったのだろう。誰もがわかりきっているからこそ、見過ごしてしまったのだろうか。
  そして私も、もっともっと頑張らなくてはならない。経験がないから出来ない、では済まされない。年中組というこの一年は子供たちにとって一生に一度きりなのだから。

 

『仕事は片付きましたか? お帰りをお待ちしてます』

「お疲れ様」のタイトルに続いて、短い本文が小さな画面に現れる。そう、……ここにも。ただひとつの大切な命が息づいてる。みんな大切なのに、どうして全てに手を伸ばすことが出来ないのだろう。

 

 あんな風に、なりふり構わずに心を伝えてくれたのに。あのときはもう応えることが当然だと思えたのに、……私はどこまで身勝手なのだろうか。

 捨てられないものが多すぎる、あれもこれも天秤に掛けられないほどどれも同じくらい価値がある。だけど、ただひとつ確かなのはまだこの場所に未練があるということ。ここで踏ん張らなければ、私はこの先の人生の全ての中で後悔し続けることになる。

 

『まだまだ忙しいです、そちらもどうぞお身体を大切に』

 

 きっちりと返事をしなくてはならないのは分かっている。だけど心のどこかでそれに躊躇し続ける自分がいた。

 

 

2007年4月20日更新

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