TopNovel願わくば・扉>願わくば、恋視線・4



       

     

 単線の各駅停車を乗り継いで、ようやく目的地までたどり着く。

 昔ながらの寂れた駅舎は、ふたつ向こうのリゾート地のものとは全く違う。あっちは観光ホテルにペンションにリゾートマンションまでてんこ盛りだもんね。上りのエスカレーターも付いているって話よ。かなり儲けているんじゃないかなあ、市役所とかもすごい豪華だもの。

 

「……あれ?」

 何年経っても変わらないふたりきりの駅員さん。顔なじみのひとりに切符を渡して外に出ると、そこには軽トラックが横付けにされていた。荷台のところに「干物のサイキ」と大きく名前が書かれている、我が家にひとつきりの「公用車」。この車のガソリン代その他は経費で落ちるから、普段使いにもみんな乗りまくってる。……ちょっと、恥ずかしいけどね。背に腹は代えられないのよ。

「よぉ、丁度そこまで来たところなんだ。乗れよ」

 手動の窓をくるくると下げて顔を出したのは「希里(キリ)」と言う名のお兄ちゃんだった。私よりも3つ年上なの。美味しそうに日に焼けて、いかにも「海の男」って感じ。若い頃は波乗りに明け暮れてほとんど家の仕事もしなかったけど、今はしっかり妻子持ち。だいぶ落ち着いてしまったって感じだ。

「ふうん、気が利くじゃない。ありがとう」

 今にも降り出しそうな天気だったから、これから30分も歩くのは辛いなあと思っていたのね。ここからも潮風を感じることは出来るし実際に海はもう目と鼻の先なんだけど、実家のある港町までは線路沿いにだいぶ歩かなくちゃならない。タクシーなんてあるわけないし、バスは朝夕の二回だけ。自家用車がなくちゃ生きていけない土地なのよ。都会育ちの兄嫁もこっちに来てから慌てて教習所に通ってたわ。

「……少し痩せたんじゃないのか? 仕事、きついのか」

 信号待ちで止まったときに、不意にそう訊ねられる。何だか、信じられない言葉。無口な兄とはもともと会話なんてなかったし、こんな風に心配されたことだってない。

「えー、そんなことないよ。相変わらず頑張ってるよ、私」

 信号が青に変わって、また軽トラックが大きなエンジン音を立てて動き出す。ほとんど対向車もいないような寂れた道路。センターラインも所々はげかけてる。それでも海水浴のシーズンになれば渋滞を避けた車が抜け道に使ったりするんだけど、今はまだそういう時期じゃないし。あくびが出るくらい変わらない、懐かしい風景が窓の外を通り過ぎていく。

 何だかね、いつも思うんだけど。ふるさとって、とっても不思議なものだよね。何もかもがのんびりしていて、都会とは違う時間が流れている気がするの。途中からは各駅停車に乗り換えても三時間とちょっとで戻れる距離だから、本当はもう少し頻繁に戻ってもいいかなと思うのね。だけど、ここに長くいると頭のネジがどんどん外れていく気がして怖い。
  地方育ちの友達たちもだいたい同じことを言うから、私のこの感覚は間違ってないと思うよ。今は長期休みがほとんどない職場だから今は帰省することも少なくなったけど、学生時代は長期休みのたびに戻ってその後時間の感覚が狂って苦労したっけ。

「……あ、そう言えば。お義姉さん、二人目だって? おめでとう、勝哉くんもとうとうお兄ちゃんなんだね」

 しばらく会話が途切れて。移りゆく風景を眺めていたら、この間の母親との会話をふと思い出した。このまま黙りを続けているのも何だし、どうにか明るい方向に話題を向けようとしたのよね。私も気を遣う妹だなあ。

「ま、……そんな感じだわ」

 もごもご。その後はエンジンの音にかき消されて聞き取れない言葉が続く。あれ、変なの。もっと喜べばいいのに、何でそんなに嫌そうな顔をするのかしら?  ――そうか、分かった。

「何だ、これを機に……って、また同居の話でも出て揉めた? ありそうな展開だなあ、お母さんもここぞとばかりに相当息巻いてたんじゃない?」

 運転中の兄はこちらを振り返りもせず、ただ頬をぴくぴくと数回震わせた。

 あー、図星か。

 やだなあ、とんでもない修羅場に戻って来ちゃったりしたのかな、私。本当にこういうのって、当事者だけでどうにかして欲しいと思う。周りを巻き込んで「どっちの味方に付くの!?」とか始めたりするから、ますます泥沼化していくんじゃない。

 

 まあ、ね。もともと、兄嫁って人は近くの海水浴場に週末リゾートに来ていた都会の人。いくら大恋愛の末に両家の反対を押し切って嫁いできたとは言っても、すんなりとこっちの暮らしに馴染める訳もない。

 最初の亀裂は「夫婦だけで暮らしたい」って彼女の発言。「三世代同居どころかその上の四世代同居だって当たり前の土地柄なのにとんでもない」と母親が説得しても、聞く耳も持たなかったと言うわ。結局、実家とは目と鼻の先のアパートに暮らし始めたのはいいのだけど、今度は全く家業を手伝わないと宣言した。このときも「自分がふたり分の働きをするから」と兄が泣いて訴えてどうにかこうにか。
  その後もことあるごとに騒動が起こって、小さな何もかもが筒抜けな田舎町でどこよりも有名な一家になってしまったわ。実家に戻ったときにちょっと近所まで買い物にでも出ようものなら、お節介な近所の人たちから次々と同情の声を掛けられる。そんなに心配してくれるならむしろ放っておいて欲しいって思うけど、まさか口に出して言えるはずもないしね。

 いくら本人同士が好き合って結婚したとしてもよ、ふたりだけの問題で済ませられる訳もない。我が家の場合はそれでも、兄が身体を張って兄嫁を守っているからどうにか崩壊せずに続いているって感じ。さっき久しぶりに会ったときにこっちの体調を心配されたけど、私はむしろ兄の方が気がかりだわ。

 ――ようするにさ、こういうのってやっぱりトラウマになると思わない?  

 奈津が結婚が決まったって最初に打ち明けてくれたときも、申し訳ないことに「羨ましい」と想う気持ちは0コンマ1%もなかったの。

 まあ、奈津には奈津の人生があるんだし。私が外野からあれこれ言うのも良くないかなと思ったから、あまり深くは突っ込まなかった。だけど、どうして。まだまだ若い身空で、自分から進んで苦労を背負い込もうとか思うのかな。
  就職した最初の年は補助要員、そして去年は二歳児クラスの大部屋。ひとつひとつ段階を踏んできて、今年はようやくふたりとも年中クラスを任せられることになった。初めて担当クラスを持つと言うことは、いわば保育士としての登竜門。ここで生き残るために避けては通れない道だ。
  人には得手不得手があるし。いくら希望に燃えて保育士の道を選んだとしても、やはり理想と現実の壁にぶち当たる時がやってくる。まずは三年。そこを、どうにかして乗り越えなくちゃならない。
  赤ちゃん組も楽しいし、無垢な笑顔を見ていればそれだけで幸せになっちゃうと言うのも確かにある。だけど、やっぱりね。小さなつぼみがひとつひとつほころんでいくその瞬間を見守ることの出来る上級生クラスは魅力的だ。私としてはそのポジションに常に留まりたいなと思う。

 だからね、今はイロコイに走っている暇なんてないの。可愛い弟分である奏くんを愛でているくらいが丁度いい。彼なら毒にも薬にもならない感じだし、この上ない人材だと思うんだ。

 奈津だって、先輩の先生方の話を嫌と言うほど聞いていたはず。家庭と仕事の両立はどんな職業でもそれはそれは大変だけど、特に生身の人間相手の職場となればその責任も半端じゃない。高校生くらいまで心身共に成長しているならいざ知らず、ちっちゃい子供はどこまでも純粋に全てを吸収してしまう。その後の人格形成にだって深く深く関わってくるんだから。
  もしも本気で仕事を続けたいと思っているなら、自分の幸せはもう少し後に延ばしても良かったんじゃないかなと思う。ウチの保育園は既婚者だからと言って勤務内容が考慮されることは一切ない。本当に誰もが同じようにシフトを組まれることになるんだ。だから、後は職員の間で融通し合うしかないのね。だけどいくら都合が悪いからっていつもいつも頭を下げて許してもらえると思ったら甘いよ。

 ――あーあ、本当に。奈津に言ってやりたいことは山ほどあった。だけど結局は彼女の幸せそうな笑顔に押し切られて、鬱憤はおなかの中に溜まったまんま。

 

「……ま、お母さんの言い分も分からないではないわ。青(アオ)だってあの調子だし、イライラが募るのは仕方ないと思うもの」

 兄たちのことをこれ以上責め立てては可哀想だ。そう考えて、話の矛先を弟の方に移した。

 私よりも三歳年下の弟・青は地元の高校を卒業した後に美術系の大学を目指して上京した。そして私のアパートに転がり込んできて、数年はふたり暮らしをしていたのね。
  これは便利なようでいて、かなりお互いにやりにくかった。当時付き合っていた彼氏たちには「男の影がある」とか勘ぐられたりして。弟って言っても身長は私よりもあるし、一度なんて同じアパートの住人から大家さんに通報されたこともある。

 美術系の大学って数も少ない上にかなりの狭き門だということは誰もが周知の事実だと思う。現役合格なんてほとんどなくて、二浪三浪は当たり前。同級生が就職した頃になっても、まだ受験勉強を続けている人もいると聞くわ。
  結局、その現実に夢を打ち砕かれた弟は浪人一年目で早くもリタイヤ。次の年の4月からは美術系の専門学校に通い出した。普通なら二年で卒業できるところを一年留年してどうにかクリアしたと思ったら、次は就職先が見つからないとくる。
  でもねー、今をときめくグラフィックデザインを勉強してきたんだよ、しかも美大を目指したくらいだから子供の頃から芸術方面は得意だった。ようするにえり好みをしすぎたってところね、身の程知らずというか何というか。卒業後もぶらぶらと定職にも就かず短期のバイトでその日暮らしをしていて、とうとう母親がキレて実家に連れ戻された。

「絶対に魚の仕事はしない」とか言い切っていたけど、干物屋の息子としてそれもどうよと思う。全てがオートメーション化していてしかも安価な輸入物が遠くの国からじゃんじゃん入ってくるご時世に、手開き天日干しなんて昔ながらの技法を頑なに守っている。職人気質というか何というか、とにかくいつだって猫の手も借りたい仕事場なのよね。
  婿養子の父は最初は魚を素手で触ることすら出来なかったという人。今だって魚を開く仕事は母親に敵わない。その上、兄嫁があんな感じじゃどうにもならないわ。

「何だ、知らなかったのか?」

 相変わらず抑揚のない口調で、兄がぽつりと呟く。それと同時にウインカーを出して、さらに細い通りに入っていった。

「あいつ、就職したんだよ。今は組合の事務所にいる、結構真面目にやってるみたいだな」

「え……?」

 その言葉には、ただただ驚くしかなかった。

 何? 組合って、昔からある地元独自の漁業組合のこと? だって、あそこはとっくの昔に寂れて、もう風前の灯とか言われていなかったっけ。何しろ近頃では都会から直接個人に買い付けに来る業者が多くて、組合員も減り続けているという話だった。

「へえ、青が……何か、意外だけど」

 だってあの子って「昔気質」とか「連帯感」とかが何よりも苦手だったはず。田舎暮らしが嫌で都会に飛び出したのに中途半端なままに連れ戻されて、しばらくはニートを通り越してかなりヤバイ引きこもり状態だったと聞いている。それなのに、漁業組合に勤めることになるなんて。もしかして自転車で組合員の家にご用聞きに回ったりしてるのかしら、全然想像が付かないわ。

「うん、つい三月ほど前からなんだけど。楽しそうにやってるみたいだよ」

 それでも兄の言葉は、私の心の中に温かく染み渡ってくる。

 そうか、良かった。末っ子のせいか人一倍甘えん坊で夢見がちで、いつも叶いそうもない話ばかりしていた青。夢半ばで田舎に帰って、一体どうなるんだろうと思っていた。うん、いいんだよ。青が楽しく仕事が出来るなら、それがどんな内容だって。

「ふうん、何だか会うのが楽しみになったな。そういうの知ってたら、もっと早く戻ってきたのに。みんな、肝心なことには水臭いんだからなあ……」

 少し唇を尖らせながらそう言って、私はまた窓の外を見る。

 すらりと伸びた沿道のタチアオイが大きな花を咲かせ始めていた。温暖な土地で、夏が来るのがとても早い。自転車ではブレーキの加減が難しい石畳の坂道を、軽トラックはゆっくりと下っていた。

 

「ところで……、港に何か用事なの?」

 うん、さっきね。兄が車を左折させた時から気になってはいたの。だって、実家のある丘の方じゃなくて、港へ降りていくなんておかしいなって。

「うん、……ちょっとな」

 またしても、口の中でもごもごと聞き取れない風に答えてくる。いつもいつもこんな風で、それでもあのちゃきちゃきの下町育ちの義姉とは仲がいいんだから不思議。

「ほら、あそこ。あれが、新しい組合だよ?」

 

 ――え? ちょっと待って、何よっ……!?

 

 坂を下りきった車は、フロントのガラス全てにねずみ色の海を写していた。砂鉄分を多く含んだ砂地の海は、沖縄とかの真っ青な美しさとは全く違う。空の色を鏡のように映し取って、曇り空の日は夏の盛りでも寒々しく思える。

 だけど、その風景に今更がっかりした訳じゃない。こっちは生まれてからずっと、海のある風景と共に育ってきたんだから。うん、だから違うの。私が驚いたのは……。

「なっ……、どういうことっ!? あんな建物、お正月にはなかったじゃないの……!」

 港正面にどーんと立ちはだかる、地上20階はあると思われる真新しいビル。ちょっと見はお洒落なリゾートホテルとも思えそうなその壁には「南の楽園・小野崎漁業組合」というばかでっかい看板が据え付けられていた。

「そうだな、お前がこの前戻ったときにはまだ基礎の状態だったからな。正月明けから本格的に着工して、かなりのスピードで建設されたんだ。すごいだろう、これからはここの組合がこの界隈の中心的存在となるんだからな」

 勝手に車を止めた兄は「ちょっと、降りてみないか?」とか勝手に言い出して、さっさとドアを開ける。そのときになっても、私はまだ目の前の現実が信じられずに呆然としていた。

 

 ええと、……ここって。

 確か前は鉄筋の2階建ての古ぼけた建物があっただけだったよね? んで、もう少し港寄りにトタン屋根の長屋があって。そこに港で水揚げされた魚たちが次々に運び込まれていたんだ。私も干物屋の娘だし、小さい頃からこの辺は「庭」と言ってもいいくらい慣れ親しんだ場所のはず。家からはちょっと遠いけど、犬の散歩のときにも足を伸ばしたりしてた。

 ――それが、どうしてしまったの!?

 

「やあ、希里。ごくろうだったね」

 そのとき、目の前の自動ドアが緩やかに開いて。中から、またも場違いなぱりっとスーツ姿の男性が現れた。

 ええと……、その。仕事着姿の兄とでは、かなり違うんですけどっ。というか、もしかしてこのスーツはなかなかの値打ちものだったりする!? 担当クラスのパパさんでかなりの実業家の方がいらっしゃるんだけど、その人も同じような艶のスーツを着ていたような気がするわ。

「あ、これは専務。いつも大変お世話になっております」

 兄が90度に腰を折って礼を尽くしているのを、突然出現したその人はにこやかに見つめている。

「いやいや、そんな風にかしこまるのはよしてくれって言ってるだろう。昔なじみの同級生なんだから、もっとうち解けてくれなくちゃ……」

 あら、よくよく見たらそんなにお年を召した人じゃなかったわ。というか、言われる通りに兄と同級生だと言われても頷ける感じ。
  でもでも、さりげなく後ろに流したヘアスタイルに脇にさりげなくブランド名の入った縁なしの眼鏡。きちんとプレスされたスラックスに、足下の靴までが完璧に磨き上げられている。もう、……何から何まで洗練されてるって感じなの。そこでまた、新たな疑問が浮かぶ。

 

 ――いや、ちょっと待って。お兄ちゃんの同級生に、こんな人いたっけ……?

 何しろ、ひと学年が20人足らずの小さな小学校だったし、もう全校生徒の顔と名前が当然のように一致していたはず。でも、知らないわ、こんな人って知らない……! 青や私と違って、お兄ちゃんは地元の水産高校を出てからもずっと地元に残っていたのよ。だから「同級生」と言ったら、この土地の人間しか有り得ないわけで……。

 

「――あ、やば」

 思わず詰め寄ろうとしたけど、その一瞬前に兄の胸のポケットで不似合いなオルゴールの音がした。そして取り出された携帯電話。液晶画面を見ることもなく、彼は通話終了のボタンを押す。

「ごめん最香、薫ちゃんから呼び出しが来ちまった。ちょっくら、行ってくるわ」

 

 ――ちょっと、待ってっ!

 な、何でっ、携帯が鳴るの? だって、この辺は駅前じゃないと電波が届かないって話だったじゃないの……! 未だにピンクや緑の公衆電話が幅を利かせている界隈だったでしょっ。

 

 途方に暮れる私をひとり港に残したまま、兄ひとりを乗せた軽トラックは一目散に走り去っていった。

 

 

2006年6月16日更新

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