―― はあ……!?
返事をする代わりに、きょろきょろと辺りを見渡していた。ちょっと待て、そのどこからか眺めているような物言いは一体何っ!?
「ちょ、……ちょっと待ってくださいっ! 何故、こちらのナンバーをご存じなんですかっ!?」
そうよそう、そこを最初に突っ込まなくちゃいけなかったわ。ああ、私って冷静。大きく深呼吸して、すぐに体勢を立て直す。
「え? そんなの簡単なことでしょう」
くすくすと笑う声が、スピーカーから響いてくる。本当に見られているんじゃないだろうなあ、すごく落ち着かない気分。
「君の勤務先、結構ずさんだよね。効率を考えてのことなんだろうけど、電話の脇にずらっと職員の連絡先一覧が掛かってて。人目を盗んでメモを取るなんて、朝飯前だったよ」
駄目だなぁ、着信拒否なんてずるいことして。何気なく付け加えられ得るひと言にどきりとする。
あ、やっぱばれてたか。そうだよねえ、当然か。だけど、そっちもそっちだよ。人のプライベート携帯に次々にナンバー変えて掛けてくるんだもの。
「―― ご用件をうかがいましょうか? 今朝の干物の代金でしたら、すぐにでもお支払い致します。あのようにして頂く理由もありませんから、ここははっきりけじめを付けさせて頂きたいと思います」
噴き出しそうになる怒りを、抑えて抑えて。とにかくビジネスライクに切り抜けようと試みた。駄目、コイツ人のこととことん馬鹿にしてるんだもの。感情で押しまくろうとしたら、足下をすくわれるのは目に見えてる。
そうよ、本当に迷惑したんだから。
あのあと、例の清美先生があることないこと大袈裟に触れ回ってくれたお陰で、今日は一日とんでもない目に遭ってたんだ。行く先々で、すれ違う先生方から質問攻め。しかも広まっている情報がどんどん間違った方向に進んでいくのが許せない。
「すでに挙式の日取りも決まっているとか。最香先生とも今年一年でお別れとは、寂しいですねえ……」
退職間近のベテラン先生から、そういう風に切り出されたときは頭のてっぺんから大噴火するかと思っちゃった。しかもその口調に「最近の若い人はこれだから困るわ」みたいなニュアンスがたっぷりと練り込まれてるんだよ。もう、勘弁してって感じ。
いちいち言い訳して回るのもかえって話を大きくしている気がするし、本当にお遊戯室倉庫で跳び箱か張りぼてダルマの中に隠れてしまいたくなったわ。
「そんな風につれないこと言わないで欲しいな、少しは僕の誠意を認めてくれてもいいと思うのだけど。最初に言ったでしょう、僕は狙った獲物は必ず仕留める。相手が誰だって容赦しないし、手段だって選ばない。いい加減覚悟を決めた方がいいよ?」
こんな会話すぐにぶったぎって、その場で着信拒否にしてやろうとも思った。でも、これって仕事用の携帯でしょ? とりあえずコールがあったら知らない番号でも対応しなくちゃならないのが原則。この男、いくつも携帯を持ってそうだし、その上そこら中の公衆電話から掛けてこられたらキリがないわ。
「……」
どうしたもんかと思案しても、いい考えが浮かばない。だいたい、昨夜は例の騒動で寝不足なんだもの、もう半分頭が寝てる感じ。こんな馬鹿男と付き合ってられるほど、私は暇じゃないんだから。
考えに考えて。
通話中の携帯を片手に持って、そのままぶらんと腕を下げる。いいもん、話したければ勝手に話せば? 私、何も聞いてないから。あの園長をも魅了した話術で、思う存分まくし立てて結構よ。
駅に近づく大通りに出ると、途端に人通りが多くなる。行き交う車のライト、鳴り響くクラクション。ざわざわと流れていく通勤帰りの人波が、私の前で大きな河を作っている。
花のお江戸の外れ、ここは下町情緒の残る風景が今も色濃く残っていた。でもその反面、埋め立て地には次々に新しいビルが建設されていて新旧が計画性なく混じり合っている感じ。だけど私は、この「ごちゃごちゃ」も嫌いじゃない。だって、大勢の人間が頑張って生きているって証拠だもんね。
「ねえ、最香ちゃん。最香ちゃん、……聞いてるの?」
さすがにこの状況では、電話の向こうの大演説家も何かを悟ったのだろう。わざわざ大声で人の名前を何度も連呼してくる。
あー、ずるい。そう言う手段に出たわね。まあいいや、電車に乗るんだと言えば会話を終わらせることも出来るし。悪いけど、今夜はこれ以上やり合うの無理。また日を改めて仕切り直しと行きましょう。
「……もしもし?」
そう思って、もう一度携帯を耳に当てた。時を同じくして、ふっと視線の端に見慣れた人影を見る。エプロンを外した私服姿は、早番で上がったときと同じもの。
―― え……?
何だろう、もう。今日は変なタイミングばっかり。そうか、彼も約束をしていた元同僚とか言う人と食事が終わって帰り道なのかな? 道路を挟んであっちとこっちじゃ声も掛けられないか、残念だな。そんな風に思った刹那。
「ねえ、最香ちゃん。……聞いてる? あのね、良かったら明日の晩に一緒に食事でもと思って。早上がりだって言ってたよね、確か」
心が、止まった。
なんて言うんだろう、頭の中が真っ白。耳元でまくし立てる声が、アフリカの原住民のそれのように全く聞き取れない。
―― なん……で?
ふわふわの髪を背中の半分くらいまで伸ばした小柄な女の子。……と言っても、同世代くらいかな。まあ私と奏くんとその間かって感じ。もちろん見覚えない全然知らない顔。その人に奏くんは私にも見せたことのない様な親愛に満ちた笑顔を向けてる。
見ているだけで恥ずかしくて幸せになっちゃうようなお似合いのカップル。少なくとも私にはそんな風に思えた。
「もしもし、最香ちゃん。……最香ちゃん?」
失礼男の声も、次第に遠のいていく。
立ちつくすままの私を迷惑そうに避けながら、数え切れない人たちが右へ左へと流れていく。ふたりの姿が駅の構内に消えていっても、私は足の裏に根が生えてしまったようにそこから動くことが出来なかった。
「嬉しいなあ、こんなに快く承諾して貰えるなんて。かなりの長期戦となるだろうと覚悟していたから、本当に信じられないよ。もう昨夜はあれからずっと浮き足立っていて、仕事の話をしていても何ひとつ頭に入らない感じなんだ」
――何、その歯が全部浮いて総入れ歯になってしまいそうなセリフは。
ちらっと、目の前の演説家に視線を向けて。だけどすぐに私は目の前のお皿に向き直った。
うーん、このテリーヌ。美味しいんだけど、ふにゃふにゃして扱いにくい。一口大にしてからフォークで口に運ぼうと思ったのに、全然持ち上がってくれないんだもの。必死の格闘の結果ぐずぐずになってしまった哀れなそれを、最後はスプーンを扱うようにすくい取った。
「このレストランはね、何と言ってもピザが有名なんだ。石釜のオーブンで焼き上げた逸品で、ここまでの味と食感を味わえるの場所はなかなかないね」
浮き足立っている割りには、相変わらずの饒舌ですこと。発音がはっきりしているから多少の早口でも聞き取りにくいと言うことはないんだけど、とにかくぺらぺら良くしゃべる男だ。とっくに食べ終えたお皿の綺麗なこと。ソースのあとさえほとんど残ってなくて、まるで舐めたようだ。
オープンテラスの向こうはゆったりと流れる運河。そこを行き交うゴンドラから陽気な歌声が聞こえてくる。船上から手を振る人たちに、彼は陽気な笑顔で「チャオ」と挨拶した。
――気に入らないわ、まったくもう。
しっとりとしたしつらえの店内、内装のひとつひとつにお金と時間を存分に掛けてあると思われる。ランプ型の照明なので、薄暗い店内のその部分だけが蜂蜜色に浮かび上がった感じ。柔らかく流れる音楽。
だけど。ここは間違ってもイタリアではない。全体をそれっぽく造ってはあるが、全くの偽物。そう、「ネズミの国」の一角に私たちは来ていた。……あ、「海」の方ね。
「お得意先の常務からディナーの招待券をいただいたんだ、使用期限が迫っていてもったいないからって」
コイツが誘って来るんだから、てっきり超高層ビルの展望レストランとかそう言う場所に連れて行かれるんだと想像していた。それなのに、予想外のこの展開。もしかして意外性が受けるとでも勘違いしているのかしら……?
「僕が車を出すから、直接迎えに行くよ」って言われて、「じゃあ絶対に人目に付かないところでお願いします」と念を押したはず。
なのに定時上がりで着替えて外に出てみたら、なああんと奴は玄関先で園長と和やかに立ち話をしているじゃないの! もうっ、またエントランスに車を入れてるのはどういうこと!? 馬鹿でかい車って、本当に迷惑なんですけど。
いわゆる国産高級車、そう言えば初めて会ったときに実家まで送ってくれたのも同じ車だった。……と思ったんだけど。何か色が微妙に違うような。
「やはりTPOに合わせて車も乗り分けないとね、それくらいは基本だよ。園長もあれでいて、若い頃はだいぶメカ系に入れ込んだらしいよ。話が盛り上がりすぎて困ったな」
聞けば都内にも事務所があって、そこに置いてあるプライベート・カーなのだと言う。えー、何で片道2時間ほどの移動距離なのに、それぞれに違う車があるのよ。それって不経済すぎない??
そしてまた、今日もシックな色合いのスーツを着こなしている。艶々と光るネクタイが、嫌みなほどに目に焼き付いてくる。軽い身のこなしでふわふわと柔らかく揺れる髪、なのにすぐに元通り。形状記憶になってるんじゃないかと思っちゃう。
私の勤務先の保育園から「ネズミの国」までは、横一線に突っ切れば30分程度。乗り心地が良すぎて眠くなりそうな車で、私は早くも自分の軽率さを後悔し始めていた。
「よくいらっしゃるんですか、こちらに」
次に運ばれてきたのは、スープ代わりのパスタ。アサリソースのかかったシーフード仕立てのラビオリ。先ほどの前菜も盛りつけはもちろん味も特上だった。こちらも十分に期待できそう。
店内はほとんど満席状態。前もって予約を入れておかなくては、平日であっても入るのが難しいのだそうだ。ここって並ぶのはアトラクションだけじゃないんだよね、何かうんざりしちゃう。
「うん、たまにね。……だって、女性を喜ばすには何と言っても一番の場所でしょう? 普段は『男なんて』と肩で風を切って歩いてる様な方でも、ここに来ると途端に愛らしい笑顔になるんだから。そう言うのって、男としてはこの上なく嬉しいものだよ」
やはり。このセリフを待ってましたと言わんばかりに、にこにこと上機嫌で答える。
何というか、……その。ひとつひとつの仕草までが綿密に計算されてる感じ。さりげない動きの中にも「どうしたら最高の自分を演出できるか」というポイントが埋め込まれている気がする。
「なーんてね。そんな怖い顔しなくてもいいよ、ほんの冗談だから」
私がものすごい目つきで睨み付けたからだろうか、おやおやと首をすくめてそれをかわす。
「実はね、僕はこのようなテーマパークそのものに興味があるんだ。ここは以前は何もないただっ広い埋め立て地だったわけでしょう。それが今では一大都市のように繁栄している。やはりリゾート地も何か付加価値がないと新規のお客を呼び込めないしね。……どう? 小野崎にこういうレジャー施設を造るのって楽しいんじゃないかな」
……ええと、その。急に「どう?」とか聞かれても、すごく困るんですけど。
本物そっくりに泡立っているけど、これはノン・アルコールのビール。「残念だけど、今日は運転手だから飲めないね」とか言われて、逆にホッとした。実はまだ、二日前の胃もたれが少し残ってるのよ。一口含むと、喉を液体がちりちりと流れ落ちた。
「何か、無謀すぎてコメントも出来ません。それに私、こういう場所はあまり興味がないし」
ああ、なんて可愛くない発言。でも、実際のところそうなのよね。
良く言われるの、こんなに近くに住んでいたら毎日だって通えるよねとか。だけど、灯台もと暗しと言うのだろうか。「いつでも行ける」って思うと、足も向かなくなるの。
それにね。何というか……ここに来ても他のお客さんのように素直に童心に戻れないというか。どうしても「裏方の苦労」ばかりに気を取られてしまう。「ゲストに夢のひとときを与える」のがここに働く従業員に徹底された理念。それだけに「本当に大変なんだろうな」とこっちまで疲れちゃうみたい。
「ふうん、そうなんだ。それは残念だな」
別にそれほど落胆した素振りも見せず、普段通りの微笑み。自信たっぷりで、自分が一番偉いって顔にでかでかと書いてあるみたい。気に入らない、本当に勘弁して欲しいわ。
「考えてもご覧。魅力的なレジャー施設が出来れば、全国から観光客が殺到することになるよ。何なら、こことのセットのツアーを新しく旅行会社に提案してもいい。どうせ造るなら小野崎の魅力を前面に出して、そこを売りに出来たらと思うんだ」
ぼんやりと曖昧な光を放つ照明。彼の髪の上にも陰影を作っていく。時折吹いてくる、懐かしい海風。パークの向こうには本物の海が広がっている。
「家族連れもたくさん来るようになるだろうね。何となく今のままだと、浜全体が波乗りを楽しむ若者たちが中心って感じだから。そうすれば、最香ちゃんにだって新しい仕事がたくさん出来るよ」
テーブルの上はいつの間にかメインの肉料理に変わっている。牛フィレ肉の網焼き。甘酸っぱいキウィのソースがかかっていた。
私は何も答えなかった。何でそういう展開になるのか、全く分からない。
別にいいわよ、小野崎にこの男が何を建設したって。アンコールワットもびっくりみたいな建造物を造ったって許す。地元の許可さえ取れれば、自由にやりなさいって感じ。だけど、どうしてそこに私の話が出てくるのよ。
せっかくの美味しい料理も、コイツのお陰で台無しだわ。消化不良になったらどうしてくれるの。本当に、何で誘いに乗ってしまったのか。
そもそも、昨日の晩はどうかしてたのよ。あのときぴしゃりと断ることも出来たのに、気が付いたら私の口は勝手に承諾の意を告げていた。
「大学を卒業するとき、一度はUターン就職も考えたんだって? 最香ちゃんのお母さんから聞いたよ」
ここまでの私の反応もまだまだ奴の想定内だったらしい。ふと思い出しました、と言う感じで切り出してくる。
「え、……まあそれは」
うー、全くあの母親には困ったものだわ。人のことをどこまでぺらぺらと話したんだろう。何もかも手の内を読まれているような心地悪さがついて回る。
「何しろ過疎の地域だしね、近隣の市町村までくまなく探しても全く求人がなくて断念したそうだね。お母さん、今でも残念だって言ってたよ。でもね、僕は思うんだ。このまま人口の流出が続くのは様々な社会問題の引き金になるって。仕事がなければ、作ればいいんだよ。人間が少なければ、外から呼び込めばいい。簡単なことだよ、発想の転換だ」
雲を掴むような、この世のものとは思えない話が延々と続いていく。
多分「そんなの無理でしょ」って口を挟んでも、その十倍くらいの勢いでねじ伏せられてしまうに決まっている。そしてコイツは、その周囲の人間をも巻き込むパワーで自分の夢をどんどん実現させてしまうんだ。
「最香ちゃんだって、いつまでも今の職場で我慢することないよ。上の言いなりになって縮こまるなんて君らしくない。
どうだい、小野崎に最香ちゃんが理想とする全てを詰め込んだ新しい幼児施設を作るというのは。僕としては家庭をしっかり守って欲しい気持ちはあるけど、だからといって君の夢をつみ取るのは可哀想だからね。精一杯、後押しをさせてもらうよ?」