TopNovel願わくば・扉>願わくば、恋視線・18



       

     

 アラームの音が聞こえない朝。それでも身体が覚えた時間に自然に目覚めてしまう。

 違和感のある角度からの薄明かり、差し込む光の方向に身を伸ばす。古ぼけたレースのカーテンの向こうは今日も雨空だった。室内に音が響くほどでもない、さらさらと細かい雨粒がモノクロームの家並みに降り注いでいる。じめじめした空気が心の中まで忍び込んでくるような気がして目をそらした。

 ―― やだな、もう一度寝直そうかしら? 

 雨雲に覆われた風景は、どこか夢の続きを思わせる。鈍い痛みすら、ぼんやりと霞んでいく生暖かい風。こんな風にぱっとしない天気が続くと、だんだん現実との区別が曖昧になった来る気がする。

 もう一度ベッドに横になって、ぎゅっと目を閉じてみる。でもすぐに瞼の裏に浮かんできた情景に、再び意識が囚われていく。ぐるぐると渦を巻き始める、黒い感情。安らかな眠りの時間は二度と訪れそうになかった。すごく口惜しい、せっかく惰眠をむさぼれる状況に置かれているのに。

 仕方なく勢いを付けて起きあがって、首を大きく横に振る。思い出さないように、引きずり込まれないようにと自分に強く念じ続けた。日に何度も繰り返す自己暗示、もう過去に追いすがったところでどうなるものでもない。分かってる、分かってるから吹っ切りたい。けど今はまだ、無意識のうちに追い立てられる何かが始終私の背後に迫ってる気がした。

 時の流れから取り残されたこの部屋は、未だに私が高校生だった頃の匂いが染みついている。
  あの頃好きだったアイドルグループのポスター、時代遅れのファッション誌。驚いたことにクローゼットの引き出しを開けても、出てくるのはどう考えても部屋着にしかならないような古ぼけた代物ばっかり。溜息をつきながらも、その中からどうにかマシなものをつまみ出した。

 窓下を通り過ぎていく自転車のベル、軽トラックの排気音。あんまりにも変わらない日常に、もしかしたら今までの全てが夢だったんじゃないかと思えてくる。このまま制服を着て飛び出せば、私はまた高校生の自分に戻れるんじゃないだろうか。きっと長い夢を見ていただけ、ちゃんと別の未来が用意されているはず。

 ―― 馬鹿みたい、そんなはずないのに。

 分刻みで動くスケジュールばっかりこなしていたから、スローペースが身体に馴染まない。ついつい余計なことばかり考えてしまうし、気分転換も出来やしない。憂さ晴らしに友達と馬鹿騒ぎしたくたって、こっちに残ってる子たちはみんな子育ての真っ最中なんだから。

 

 階下から聞こえてくる、テレビの音。お決まりの天気予報のメロディーがひときわ賑やかに耳に届いてきた。

 


 記憶はところどころしか残っていない。

 気が付いたら、故郷の駅に降り立っていた。思わず口元からこぼれてしまった笑い、結局なんだかんだ言ったところで戻るところってここしかなかったんだな。

「急に、一週間のお休みがもらえたの。夏休みがない分の前倒しだって」

 この忙しい時期に有り得ない言い訳だけど、私の仕事内容をあまり詳しくは知らない家族だったからすぐに納得してくれた。とにかくは疲れたからと、週末は部屋に引きこもったままごろごろ。自堕落な生活のまま、週明けを迎えてしまった。

 職場に出掛けない月曜日に昨日一日は何となく落ち着かない気持ちで過ごしていたけど、今日は少し慣れてきたかな……?

 

「青天の霹靂」って言葉があるけど、まさにそんな感じだった。

 目の前でシャッターががらがらと下ろされたような気分、当たり前の空間から私ひとりがはじき出される。逃げるように園舎の建物から出たところで窓越しに子供たちのはしゃぎ声が聞こえてきて、胸が引きちぎれるくらい辛かった。何故、どうして。ようやく動き始めた頭が、その二言をぐるぐると繰り返してる。でも再び園長室に戻って弁解する気力はやはり残ってはいなかった。

 園長が駄目と言ったら駄目――それが我が園の鉄則。園長が理想として掲げるビジョンに忠実に動くことだけが、私たち雇用者に始終求められてきた。
「ちょっと違うかな?」と思うことも仕事を続ける過程では少なからず出てきたけど、そんなことが言い出せるような雰囲気ではなかったし。決められた枠の中で精一杯自分の出来ることをする、それしかない。資格を取ったって希望する就職先が見つからなかった仲間もいるんだもの、自分はまだ恵まれている立場なんだから。

 けど……こんな、いきなりってありかな? きっぱりと言い切られたそのあとでも、まだ現実を受け入れられない自分がいた。

 両手の紙袋、思考回路は完全にストップしたままで出勤してから数時間しか過ぎていない部屋に帰り着く。鍵を開けてドアを開けて。だけどどうしても玄関から先に入ることが出来なかった。
  とりあえず荷物だけ、中に放り込んだ気がする。そのまま元通りにドアを閉めて施錠。あとはどこをどうやって歩いたのかすら覚えてない。

 どれくらい経ってからだろう、バッグの中に携帯が見当たらないことに気付く。

 そう言えば園からの戻り途中の電車の中、鬱陶しくて紙袋の中に投げ込んだ覚えがある。ふたつあるうちのもうひとつ、職場用の方は園を出る前に奏くんのロッカーに引っかけてきた。主に保護者との連絡用に使われるものだったから、私が持っていても仕方ないものね。あの場所ならすぐに気付いてくれると思うし。
  当たり前のように持ち歩いていたものがふたつとも手元にないのはやっぱり不便だけど、その分振り回されることもないから良かったかな。

 ひと月くらい連絡を取り合わなくたって平気なくらい、学生時代の友人たちとは疎遠になっていた。みんながみんな日常に追われて、久しぶりにどうしたのかと思うと「○○ちゃんがとうとうゴールイン!」と言うニュースだったりする。だったら、ほんの一週間や十日ぐらい何でもないよね。

 それにいいんだ、もう。あっちもこっちも、全部途切れたって。

 なんかびっくりするくらい投げやり、自分でもどうしちゃったんだろうって思う。けど最近しばらくのごちゃごちゃした気分に加えてがつんと大きな衝撃まで食らったんだから、きっと何もかもが吹き飛んじゃったんだろうね。

 全部全部消えちゃえ、綺麗さっぱりリセットされちゃえばいい。

 

「あれ? 青は戻らなかったの?」

 のろのろと階段を下りて、台所へ。食卓の上にふせられたままのお椀とお茶碗が並んでいる。兄が結婚してアパートに移ってしまったから、私が見慣れていた風景よりも椅子がひとつ減っている。やっぱり着実に時は流れていたんだ。たったひとり分の空間がとてつもなく広く思えて、胸がちりと痛んだ。

 変わらないものなんて、実はどこにもないんだ。全く同じように見えても、岩肌が徐々に浸食していくように、家族も故郷も様変わりしていく。

「そうみたいねー、まあこの頃は忙しいみたいだし。あの子ももう立派な社会人だもの、うるさく言うまでもないと思うのよね」

 とっくに朝食を終えた母親は、食後の「ひとくち」のお煎餅をぼりぼりしていた。祖父と父親はすでに作業場に出かけているのだろう、この頃とみにのんびりな祖母はまだ起きてきてない様子。話によると、NHKの朝ドラに合わせてテーブルに着くようだ。

 実家に戻ってから、弟の青とは二三度すれ違っただけ。何となく気まずくて、言葉を掛け合うこともないままだった。そうしているうちに週が開けて、今度は出勤したっきり戻らない。夜遊びをするような場所も近所にないのになあ、でもまあ親がいいと言うんだからいいのか。

「……ふうん」

 勤務先である漁業組合までは自転車でだってあっという間の距離なのに、一体何をしているんだろう。そう思いつつもう一度手を付けられていない昨日の夕食のお皿を見ていたら、母親の声が背中を追いかけてきた。

「なあにー、まだご連絡してないの? 駄目よ、そんな不義理しちゃ。青のことをだしに使って電話してみればいいじゃないの、あるわよここに番号の控え」

 私が携帯を忘れたことを知っている母親は、ひらひらと電話脇のメモを見せてくる。

 相変わらず陽気なこと、実の娘がこんなに悩んでいるというのにこの人は「自分時間」を呑気に進み続けているんだ。さすがにその後の進展をしつこく聞いてくることはなくなったけど、期待で満ちあふれている表情を見てるだけでゲンナリ。きちんと相手をしようという気持ちも失せてしまう。

「あ、あとでベルの散歩に行って来てね。私は今日、婦人会の寄り合いなの。頼んだわよ」

 食欲なんて、全然湧いてこない。何しろ、一日ほとんどベッドの上でごろごろするだけでエネルギーの消費がないんだもの。お皿の上の卵焼きをひとつつまんで、あとはコーヒーでいいや。

 言いたいことはまだまだ山のようにあると顔に書いてある母親を振り切り、質問にも答えないままで部屋に戻った。

 


 就職先でどうしても馴染めずに、一年足らずで退職した友人がいた。三月ほどで再就職したわけだけど、その間のブランクの時期がとても辛かったのだとあとから話してくれたっけ。そのときは自分の周辺がせわしなかったこともあって何となく聞き流してしまったけど、今になると分かる気がする。
  きっとこんな風に宙ぶらりんな心地だったんだろうな。とは言っても、たった4日目なんだけど。もうすでに自分を持て余してる。

 まだ正式に「退職」はしていない私。でもそれは時間の問題だろうし、こっちが動けばすぐに道は拓いてしまうだろう。本当に―― 本当に、それだけのこと。必死に追いすがったところで、今更何が変わる訳じゃない。あの日園長室に足を踏み入れた瞬間に、もう私の行き先は決まっていたんだ。

 ―― どうしてそんな風に簡単に引き下がるんです!? 先輩らしくありませんよ、どう考えたってこれはおかしいです。

 振り払ったはずの奏くんの言葉が、時折フラッシュバックする。そしてそのたびに、目の前にいる幻影に言葉を返すのだ。

「だって、しょうがないじゃない。最初から決まっていたことなんだよ」

 私をあの保育園に雇ってくれたのは、他でもない雇用主である園長だ。だから彼がノーと言えば、私はもう必要なくなる。そんなの当然じゃない、何が正しいとか正しくないとかそんなことは全然関係ないんだよ。いくら正義を振りかざしたところで、天と地がひっくり返ることなんて有り得ないんだから。

 家族に告げた休暇はすぐに終わりを告げる。それ以上、ここに留まっていたら絶対に不審に思われてしまうだろう。職場を解雇されるのだと言うことが知れたら、それこそ母親の思うつぼだ。それだけはどうしても避けたい、でもまだアパートには戻りたくないとごねる自分がいる。こういうのを現実逃避って言うんだろうな、全部を「本当」だって思い切るのが怖くて仕方ないんだ。

 こんな風に逃げるなんて卑怯だって分かってるけど、……でもやっぱり駄目。仕事仕事で頑張り続けた自分がなくなってしまったら、もう残るものなんて何もないんだもの。そりゃ違う職場で一から出直すって方法もあるけど、今はとてもそんなの無理。こんなにあっけなく足下が崩れ落ちるという現実を知ってしまったら、もう怖くて動けない。

 ―― 保育園のみんな、どうしているのかな。

 空っぽになるなら、とことん空っぽになろうと思った。連絡手段を残しておくなんて、未練がましいにもほどがある。多分、そう思ったんだろうな。採用時の提出書類に実家の連絡先はきちんと記してある、園側も何か急な用事があればこちらに問い合わせてくるだろう。それがないってことは、そこまでだってこと。
  もしかしたらアパートに残した携帯には仲間からのメッセージが入ってるかも知れない。だけどそれを期待するのは止めよう。そんなことを考えたって、どうにもならないんだし。

 そして、もうひとり。

 心に引っかかったまま、だけどこちらからはどうしても連絡の取れないままの人がいる。何だろ、私が戻って来てることを青から聞いてないのかな? まあ最近ではさすがに定期便メールも遅れがちになって、昼と夜がくっついてしまうことも少なくなかった。こっちが素っ気なくしているから、脈ナシと見なされて切り捨てられたのかな。

 ……ま、それもアリかも知れない。

 結局はさ、そう言うことでしょ。私のこと、何よりも誰よりも大切に考えてくれる人なんてこの世に存在しないんだ。当然と言えば当然だけど、すごく口惜しい。何だろうな、もう。本当に、何ひとつこの手に残っているものがないなんて。 

 母親の言うように、こっちから連絡するなんて出来ないよ。それこそ期待しているみたいに取られて、とっても迷惑だ。下心が見え見えって奴? 冗談じゃないわ、どうしてあんな男にまで媚びを売らなくちゃならないの。いくら地の底まで落ち込んでいるとは言っても、そこまではしたくない。もしもその気があるんなら、あっちからリアクションがあって当然だよ。
  悪いけどさ、今は恋愛なんて気分じゃないし。きっと私と付き合ったって、全然楽しくないよ。旗之助が私を選んだ理由が地元出身の年回りのいい相手ということだけだったとしても、だからといってものには限度ってのがあると思う。

 どこにいても何をしてても、答えなんて出るはずもない。この数日で気付いたのはそれだけだった。

 


 生乾きのアスファルト、相変わらずの曇天の空。

 小糠雨がようやく上がったのを確かめてから、我が家の愛犬「ベル」の散歩に出掛けることにした。近所の人と出くわしてあれこれ詮索されるのも億劫だから出来ることなら遠慮したかったけど、まあそうもいかないかな。何にも知らないベルは、散歩ヒモを持った私を見つけて飛び上がって喜んでる。

「いい気なもんだわ」

 通じるはずのない人間語に、ベルはますます嬉しそうに尻尾を振る。そのあどけない眼差しには思わず苦笑い、犬が愛される理由ってこの辺にあるんだろうね。

 なだらかな坂道を下りながら海岸まで行くのがお決まりの散歩コース、鈍色の渚からはそれでも懐かしい潮の香りが漂ってくる。
  周囲に人影がないことを確かめてからベルを放す、都会ではこんなことをしたらすぐに問題になりそうだけどここらではみんながやってることなのね。いつものことなのでベルもすっかり分かっていて、あんまり離れない場所で嬉しそうに波と戯れてる。時々振り返って、私の姿を確認して。

 そんな仕草が「誰かに似てるな」と思ったそのとき、私の背後で自転車が急ブレーキを掛ける音がした。

 

「―― 青」

 振り向く私よりも早く、ベルが弟の足下に駆け寄ってじゃれついてる。でも彼はそんな愛犬には目もくれず、真っ直ぐに私を見据えると顎で促した。

「一度、家まで帰ったんだけど。犬小屋が空だったから、ここかと思って」

 少しも動かない表情がそう告げる。青ざめた頬がぴくぴくと波打って、でも本人にはそんな自分の態度への自覚はないようだ。

 仮にも姉である私を堤防の上まで呼びつけて、一体どういうことなの? 軽く睨み付けてやってたけど、全然伝わってないみたい。

「……何よ、あんた。お母さんが心配して――」

 思いあまってそう言いかけた刹那、小さな紙切れを押しつけられる。そのときも青は自転車にまたがったまま、かなり慌てた時間がない様子なのは分かった。

「そこに行って、病室の番号も書いてあるから」

 メモに書かれていたのは、ここから30分ほど山道を入ったところにある総合病院。B-503号室って言うのが部屋の名前だろうか。慌てて書き留めたお世辞にも読みやすいとは言えない文字は、確かに弟の筆跡だ。

「明け方、専務が倒れたんだ。……姉ちゃんのこと待ってる。でもこのことは誰にも言わないで、母さんたちにも駄目だよ」

 血の気のない唇でそれだけ告げると、青はくるりと自転車を回して組合の方へと急ぎ戻っていった。

 

 

2007年1月19日更新

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