TopNovel願わくば・扉>願わくば、恋視線・17



       

     

「最香先生、ちょっと宜しいですか?」

 ひっそりと人気のないエントランス。今日は休日出勤の土曜日、固定されたままの自動ドアをくぐったところで清美先生に呼び止められた。

「園長がお待ちです、至急お出でください」

 お預かりする園児の数が十分の一以下に減る週末。園では両親のどちらかがお休みを取れる家庭は、出来るだけ在宅にしてもらえるようにお願いしている。保育士の休日を確保するためだけではなく、親子のふれ合いを大切にしてもらいたいと言うのが当園長お得意の決まり文句だ。
  そんなわけで、子供たちが一部屋に集められてしまう今日はまるで別の空間に飛ばされた気分。普段ならスリッパや上履きの音で溢れている靴箱の辺りも静寂に包まれている。

「え? あの……」

 今日は出掛けに大家さんの訪問があって思わぬ時間のロス、すっかりギリギリの時間になってしまった。すぐにでも支度して配置に付かないと他の先生方の迷惑になる。ここに辿り着くまでもかなり焦っていたから、いきなりの言葉をすぐには飲み込めなかった。言い返そうとしても、息が上がってうまくしゃべれないし。

「ご心配には及びません、今日は別の先生に入って頂いてますから。最香先生はどうぞこちらへ」

 静かな園内だからだろうか、清美先生の言葉は普段よりもさらに硬質な響きに感じられる。とりあえず礼は尽くしているのだけど、そこに情感がこもっていないというか。表面上だけ取り繕っている感じがして、最初からこの人にはうまく馴染めなかった。だけど、今日はさすがに普通じゃないと思う。呆然としていたら、ぐいっと片腕を強引に引っ張られてしまった。
  いつもながらに綺麗に塗られているネイルの輝きを眺めているうちに、あっという間に園長室の前に到着する。そのときまで清美先生は二度と口を開くことはなく、私とも視線を合わせることはなかった。何というか、故意に避けられている感じ。もともとが苦手意識で見ていた相手だけど、ここまでの態度は初めてだ。

「さ、皆さんお待ちですから。では、私はこれで失礼します」

 とんでもない厄介ごとをどうにか片付けたと言わんばかりに、清美先生は訳の分からないままの私をひとり残してさっさと退散してしまう。目の前は、園長室のドア。この前のように招き入れてくれる気配もなく、自分でドアレバーを下ろさなくてはならないようだ。

「―― 失礼します、斉木です」

 ドアをふたつノックして、それから静かに押し開く。深々と下げた頭を再び上げるその瞬間まで、室内は水を打ったような静けさに包まれていた。

  どうにか視線を戻した私の目の前には難しい顔をした園長。今までにも何回かこの表情を見たことはあったけど、自分自身に向けられたことはなかった気がする。いきなり最初に恐ろしいものを見てしまって作りかけた笑顔がすっかり固まってしまった。
  慌てて首を動かすと、部屋にはそのほかに副園長や園長夫人である事務長、さらに主任保育士の先生を筆頭に大御所と呼ばれる立場にある方々がずらりと並んでいるのが確認出来る。その数、6人ほど。

 

 ―― 何、どうなってるのよ。これって一体……?

 

 皆、能面のように動かない表情。私の視線が届いているのが分かっているはずなのに、微動だにしない。まるで置物みたいで不自然。針を刺すような視線が、いくつもいくつも突き刺さってくる。

 これ、やっぱり普通じゃない。皆さん、どうしちゃったの!? 私、早く持ち場につかないといけないのに、何でこんな風に引き留められなくちゃならないの。もういいでしょ、早く解放して……!

 こうなると、すでに軽いパニック状態。どうにか状況を把握したくて口を開きかけたとき、それを強く遮るかのように園長が言い放った。

「残念ですね、最香先生。あなたをこんなかたちでお呼び立てしなくてはならなくなるとは、……いやあ誠に。期待してクラスをお任せした方だけに、このように大きく失望させられるとは思いませんでしたね」

 まるで周囲に自分の落胆ぶりを知らしめたいためにつくような溜息、その長い間合いの間も鋭い視線が私をしっかり捉えていた。とてもこちらから質問できるような雰囲気じゃない。

 ―― でも……、でも分からないよ。一体、どうなってるの?

 必死に訴えようとする心の叫び。でも、場の空気がそれを許してくれない。途方に暮れたままで立ちすくむ私に、園長はさらなる言葉を投げかけてきた。

「『いじめ』『虐待』という言葉が世間を騒がせているご時世に、まさか我が園からこのような不祥事が明るみに出るとは思いませんでしたよ。まあこれも元はと言えばあなたを採用した私の目に狂いがあったと言うことでしょう。起こってしまったことを今更どうすることも出来ませんが、相応の処分があることは肝に銘じて欲しいです。あなたはそれだけのことをしでかしたわけですから」

 ひとつひとつ、心を土足で踏みつけていくような言葉たち。冷たい、汚いものを見るような視線。それが自分に注がれていることが、信じられない。

「……いじめ……?」

 自分には縁のない、今初めて耳にする言葉ばかりが並んでいく。もしかして、これは夢? それとも先生方が総出で私を担ごうとしているのではないか。今のこの状態は大がかりな冗談なのではないかとそんな気すらしてくる。だって、有り得ないもの、少なくても私は園長の言葉にあるようなことを何もしていない。

「ええ、そうです」

 しかし、園長は私のオウム返しの言葉に大きく頷く。口元だけに浮かべた不自然な笑み、テーブルの上に肘をついて組んだ手の上に顎を置くとゆっくりこちらに身を乗り出してきた。

「斉木最香先生、あなたは本日からしばらくの間『自宅謹慎』とさせて頂きます。今後の処分については追ってご連絡しますが、その前にご本人からの申し出があればそれに従うことももちろん検討しましょう」

 

 今度こそ。

 

 頭の中に存在するものが一気に吹き飛んで、何も残らない真っ白な空間になる。

 よく「頭が真っ白になる」という表現を用いることがあるけど、そんな風に簡単には片付けられない異質な感覚。波打ち際で足下から削り取られていくような、例えようのない居心地の悪さに全身が包まれていく。

 

「す、すみません。ちょっと待ってください――」

 もつれる舌を動かして、かろうじてそれだけの言葉を絞り出す。だって絶対におかしい、こんなのって有り得ないし。園長の方は全てを知っていてもう決着はついているかのような言い方をするけど、本当にこちらには身に覚えのないことばかり。

「この期に及んで、何か?」

 しかし、私のなけなしの勇気も園長の一声にばっさりと切り捨てられる。真っ直ぐにこちらを見据えている目、無言のままにこちらの次に取るべき行動を指示しているようだ。普段の私だったら、言いたいことはいくらあっても我慢してぐっと飲み込んでしまうだろう。雇われる側の立場としては、それが妥当なのだから。

 でも、……でも今回だけは駄目。こんなじゃ訳が分からないよ、引き下がるわけには行かないよ。

 ずらりと並んだ先輩先生たち、どうして何も言ってくれないの? 何でそんな目で私を見るの? ……違う、違うよ! 本当に私、何もしてない……!

 思わずこみ上げそうになる気持ちを、かろうじて押しとどめる。ここで泣いたってどうなることでもない、もしも本当に夢でも何でもない現実の出来事なのだとしたら自分自身でどうにかしなくちゃ。けど、もうこれ以上は口が動かない。どうしていいのか、分からない。

 

 と、そのとき。

 今まで気配すら感じなかった背後の人影が、私の隣をすり抜けていった。

「だから、先ほども申し上げたでしょう? 園長が仰るような事実は全くありません、保護者の側から訴えがあったとしてももう一度しっかり事実確認をする必要があるはずです。このままではフェアではありません、ひどすぎますよ。他の先生方だってご存じのはずです、最香先生は人一倍頑張って子供たちに向き合っています。だからこそ、ご本人もこのように戸惑われているのではないですか?」

 園長の眼差しがするりと私を通り過ぎて、発言の主の方へと移っていく。そして私もまた、信じられない気分でその背中を見守っていた。

 

 ―― 奏、くん。

 

 彼がこの場所にいることすら、今の今まで気付いていなかった。

 張りつめた空気は相変わらずだけど、ほんの少しだけ心が軽くなった気がする。壁際に並んでいる先生方はもちろん大先輩の方ばかりだけど、そこにひとりの「仲間」もいないことがとてつもなく苦痛だった。彼に何を期待することもないけど、こんな風な状況でただひとりの「味方」がいてくれたことが嬉しい。

 しかし園長の方はこの上なく忌々しげな表情、きつく眉をつり上げる。

「何を言っているんだね、新入りの君が何を言ったところで同僚である最香先生を故意にかばっているとしか思えないではないか。確かに彼女は君にとっては良い先輩に見えるかも知れない、でも近くにいるからこそ公平さを欠いて贔屓目に感じてしまう危険性もまた否定できないだろう。
  今日のところは年中組の他の先生方も定休であるし、わざわざお呼び立てするのもどうかと思っている。週明けからは個別に面談を行うなどして事実関係を確かめていかなくてはならないのは承知の上だ。だが、そこで何が分かったところでもうどうしようもない。起こってしまったことは起こってしまったこととして経営側としては厳しく受け止めなくてはならないのだから」

「だけど――……」

 さらに反論しようとする彼の勢いを手で払うようにして、園長はこちらへと再び向き直った。

「小高夢乃ちゃんのお母様からは、それは厳しいお言葉をいただきました。しかし私はその一部始終をあなたに投げかけて、ひとつひとつ問いただすつもりはありません。雇用者の不祥事は経営者である私の不祥事。そう思って受け止めたいと思っています。
  他のことはどうにでももみ消せるでしょうが、夢乃ちゃん自身が担任である最香先生が原因で不登園になっているのであればゆゆしき問題ではありませんか? 先生もご承知くださっているとは思いますが、当園は仕事に従事する親御さんから大切なお子さんをお預かりして安心して勤務して頂けることが一番大切な要素だと考えています。そこが欠けてしまっては、どんなことをしても取り繕うことは出来ないのですよ」

 園長室に集められている私以外の先生方や園側の方たちは、すでに一通りの説明を受けているのだろう。保護者の名前が出ても顔色ひとつ変えない。

  でも、私だけは別。それまでこんがらがったままだった思考回路の端と端がようやく繋がり始める。

 ……夢乃ちゃん。

 押しつぶされそうになる記憶をかろうじて辿り、今週のクラスのことを順番に思い返す。そう、そうかも知れない。夢乃ちゃんは月曜日には登園したけど、火曜日からは欠席していた。私自身がお休みの電話を受けたわけではなくて、事務室からの伝言で「保護者の都合」と理由を聞かされている。だからあまり追求しようとはしなかった。
  保育園の場合、お休みの理由は園児自身の体調不良だけには留まらない。曜日を問わず保護者がお休みの日には、それを理由に欠席することも少なからずある。土日も出勤の親御さんは子供たちを祖父母や他の知り合いの元に預けたりしている場合も多いらしい。
  夢乃ちゃんのお母さんはお休みも不定期だったし、ご主人の扶養の中に収まるようにとある程度セーブもしていると聞いていた。もともとが子育てに熱心な親御さんだ、親子のふれ合いを大切にしたいという気持ちは人一倍強いのだろうと理解してた。

 彼女が欠席しているのは事実でも、私の勤務態勢とは何ら関係のないこと。どうしてこんな風に関連づけて考えられるのか、それが全く分からない。

「親御さんの話では、夢乃ちゃんの身体には不自然な傷やあざも多く見受けられると言うことです。誰かに故意に付けられたとしか思えないという医師の診断結果も出ているとか。このまま園側で何の改善措置もとられないのならば、しかるべき公的機関に訴えるとまで仰っています。
  私としても、小高さんのお話をそのまま全て鵜呑みにすることは出来ません。しかし、事実は事実。担当者の話では最香先生についてはこの頃では何かとミスも多く、提出物も期日のギリギリになることが多かったとか。初めての担任で戸惑われるのも分かりますが、あまりに負担が多すぎて行き詰まっているのでしたらこんな風になる前にこちらにひと言欲しかったところですね。誠に残念です、あなたには本当に期待していたのに……」

 

 違う、そうじゃない。どうしてそんな風に話が持って行かれてしまうの……?

 

 胸の奥から次々に溢れてくる疑問符たち、それがいつかぐるぐると身体中を回り始める。でも、肝心の言葉が出て来ない。苦しい、どうにかしないと気が狂いそう。

 

「……だからっ、違いますって。先ほども申し上げたように、夢乃ちゃんは本当に最香先生のことが大好きなんです。というか、最香先生にしか懐いてないというか……もしも園長やご父兄の仰ったような事実があるなら、そのようなことは有り得ないと思います。まずは保護者の方と、夢乃ちゃんのお母さんと我々が直接話し合える機会を設けて頂けませんか? そうすれば誤解はすぐに解けるはずですし――」

 他の先生方が貝のように頑なに口をつぐんでいるというのに、奏くんはたったひとりで園長に訴えてくれる。そりゃ、彼はウチのクラスの補助保育士だし一方的に悪く言われるのは我慢できないのだろう。

「だがね、小高さんの方はそれを望んでおられない。それならばこちらが無理強いをすることは出来ないだろう。このたびのことでお母さんもひどく傷ついていらっしゃるようだ、大切な一人娘をここまで追いつめることになったのはご自分が原因だと思い詰めてしまわれるのだろうね。痛ましいことではないか、こちらまで胸の詰まる思いだ」

「でもっ……」

 テーブルの上で握りしめられた園長の拳が、次第に白んでいく。怒りが駆け足に限界まで上り詰めようとしている、そのカウントダウンが聞こえてくるようだ。
  普段は努めて温和に振る舞っている彼だが、無用な人間を切り捨てる時の冷酷さを内側に持ち合わせている。端から見ていてもとてつもなく恐ろしい、でも奏くん自身はそれに少しもひるむ様子がない。

「そもそも『いじめ』の定義というものはだね、いじめを受けた側が『これはいじめだ』と認識した時点で成立するものだ。原因を作った側があれこれ御託を並べる権利など初めからないのだよ。我々は、大きくくくればサービス業の一端を担っていることになる。お客様に不快感を与えるなど言語道断、決して許されることではない。新人とはいえ、君にもその辺りはしっかり認識してもらわないとならないね」

 さらに言葉を重ねようとした奏くんを振り切って、園長は経営責任者としての立場で仕切っていく。

「最香先生の保育士としての真面目な姿勢は私もここにいる諸先生方も認めているところだ。しかしだね、彼女にはお似合いのお相手もすでにいるではないか。何もこの職場にしがみつくことはない、有能な人材ならばどこへ行っても仕事などすぐに見つかるものだ。考えようによっては、今回のことが最香先生にとってのまたとないチャンスになるのかも知れないよ。……もちろん、君にとってもね」

 ―― それをみすみす見逃す手はないだろう。

 はっきりとそこまでは口にしなかったが、確かに園長は奏くんにそう告げようとしていた。ああそうか、とそこで気付く。私の抜けたあとの穴は彼が埋めることになるんだ。正規採用一年目で異例の大出世といってもいい。

 

 そうか、……そうなんだ。私は今、確実にこの場所から断ち切られようとしている。

 

 どこでこんな風に歯車が狂い始めたのか、それは分からない。

 初めはちょっとしたひずみだったはずが、気が付いたらここまで大きく亀裂が広がっていた。他の誰を責めても仕方ない、結局の原因は私自身にある。そう、保護者に不信感を抱かせてしまった瞬間に、すでに私たち保育士は「失格」になってしまうんだ。

 

「色々……ご迷惑をお掛けしました。大変申し訳ございません」

 もっと他に、言いたかったことはたくさんあったはず。でもいつの間にかその全てが心の中から飛び去って跡形もなく消えていた。残ったのはどこまでも空っぽな自分。今呼吸をしているこの身体までが皮一枚の抜け殻のようだ。

 

 そもそも私に最初から何か中身があったのだろうか。

 

「机やロッカーの中の私物は一応持ち帰ってください。あとからわざわざ取りにいらっしゃるのも億劫でしょうしね」

 深々と下げた頭をもう一度上げたとき、園長はようやく浮かべた満面の笑みでそう言った。

 


「―― 待ってくださいよ! 最香先輩、待ってくださいってば!」

 見送る声もないままに園長室をひとりあとにした私。一呼吸おいたあとにけたたましい足音がドアから転がり出てきた。

  それに気付いても振り向く気力すらない。ゆっくりゆっくり、ロッカールームへの通路を歩き続ける。

「どうしてそんな風に簡単に引き下がるんです!? 先輩らしくありませんよ、どう考えたってこれはおかしいです。あり得ませんよ! もっとしっかりと食い下がって抗議しましょうよ……! 聖子先輩たちにも連絡して、皆さんに証言して頂きましょう。ねえ、先輩っ! 何か答えてくださいよ……!?」

 

 何を熱くなってるんだろうなあと、不思議に思えてくる。

 変わらないね、奏くんは。いつも一生懸命でどんなことに対しても真っ向勝負で対決する。打算とか駆け引きとかそう言うのとは無縁で。それでもどうにか乗り越えていくだけの運の強さも持ち合わせてるんだ。

 とても羨ましい、でもやっぱりついて行けないなと思う。説得力のない若輩者がキャンキャン吠えたところでね、どうなることでもないんだよ。早くそれに気づきなよ、いつまでも「若い」ってだけでやっていけないんだから。

 

「もう、いい加減にやめたら? そんな風に善人ぶったところで、何の得にもならないよ? せっかく巡ってきたチャンスじゃない、奏くんは園長に言われた通りに立派に『もも組』の担任代理を勤めていけばいいんだよ」

 ゆっくり、振り返る。そこには呆然と佇む、でもやっぱり綺麗な顔があった。

「おめでとう」

 

 どうして私は笑えるんだろう、それが自分でもとても不思議だった。きっと少しも悲しくないんだ、こんなの全然堪えてもいないんだって気がしてくる。

 どこよりも誰よりも大切だった、大好きな保育園と子供たち。でも、もうここに私の居場所はない。だから、出て行くしかないんだ。

 

「じゃあね、健闘を祈ってるわ」

 重く立ちこめた梅雨雲から、また雨が落ちてくる。細く開いた窓から流れ込んできた湿った風が、私と奏くんの間を静かに確実に隔てていった。

 

 

2007年1月5日更新

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