TopNovel願わくば・扉>願わくば、恋視線・15



       

     

「……青?」

 中途半端な場所から出た私の問いかけが、ふたりの間に漂う。ひとつの予想が外れて、ちょっと気抜け。だけど、それよりもホッとした気持ちの方が大きいかな。そうよ、どうして「彼」がここまで来るの。そんなはずないじゃない。

「姉ちゃん」

 ドアの前で待っていたのは、コーヒーの銘柄である「ブルーマウンテン」を元に名付けられた我が弟。中途半端に染まった茶髪が何となく野暮ったい感じだ。昔から身なりに気を遣わない性格なのよね、芸術畑で生きようとしたら今時はもうちょっと垢抜けないと駄目なんじゃないかなっていつも言ってるのに。

  それにしても、どれくらいの時間待っていたんだろう。前髪やキャップ帽の先にたくさんの雨粒が付いてる。ほんの今さっき、降り出したと思っていたんだけど。屋根のあるところをずっと歩いていた私が気付かなかっただけなのかしら。

「やだーっ、馬鹿ねえ。鍵は持ってるでしょ? 入って待ってたら良かったのに」

 うーん、来るなら前もって連絡くらい入れればいいのに。困ったな、食べるものも何もないよ? 風来坊なのは分かってるけど、少しは付き合わされる相手のことも考えるべきだわ。だから、未だに彼女のひとりも出来ないのよ。

「あー、寄るつもりなかったから。今日は持ってなかったんだ」

 青は当然のように私が鍵を出すのを待っている。甘えてるんじゃないわと思うけど、ついついそれを許してしまうんだから駄目なのかな? お兄さんと弟さんに囲まれてお姫様気分でしょと言われることもあるけど、全然違うわ。何というかな、手の掛かる子分がいる感じ? 彼氏だったら「性格の不一致」で切り捨てられるけど、肉親ともなるとそうはいかない。

「寄るつもりって、……あんたどこかに出掛けてたの?」

 当たり前にウイークデー、漁業組合の仕事だってあったはずだ。ええと、まさか。もう仕事をクビになったとか、そんなじゃないよね? まさか私が旗之助につれなくするから、弟に制裁が下ったとか馬鹿なことがあったりする……?

「うん、まあね」

 彼はそれだけ言うと、曖昧に微笑んだ。

 


  突き当たりの部屋が細長い八畳だったから、ふたりで暮らしていた頃はカーテンで仕切って使ってた。壁に穴を開けるとあとが面倒だということで、長めの突っ張り棒を買ってきて。引き戸の右と左からそれぞれの部屋に出入りするところは、まるで子供部屋みたいだった。
  ひとりに戻った今は仕切りのカーテンを少し移動して、ベッドルームと居間って風に区切ってる。大きめのテーブルの前にちょこんと座って、青はただぼんやりとしていた。

 我が家の男共はみんな無口だ。母や伯母さんたちがあの通り騒々しいから、反比例でそういう風になっていったんだと思う。だって、ちょっとやそっとの反論じゃすぐに言い負かされてしまうもの。初めから戦わないのが得策に決まってる。
  跡取り娘だった母の元に婿入りした父なんて、もうその最たる者。付き合いの席などでは陽気に振る舞っているようだけど、家に帰ってくるとどこにいるのか分からないほどの静けさで飼い犬よりも存在感がない。

 とりあえず夕食はまだと言われたから、手っ取り早くインスタントのラーメンを作ることにする。
  火に掛けた鍋に残り物野菜をどんどん突っ込んで、とってもヘルシー嗜好な感じ。ついでにもったいないけど、明日の朝食用に取っておいた生野菜でサラダでも作ろうかな? ハーフで198円というなかなかのお値段だったわりに巻きのゆるいレタスをばりばり剥いていたら、背中から訊ねられる。

「ねえ、その後は専務とどうなってるの?」

 ぎょっとして、瞬間に手が止まっちゃったわよ。まさか、弟の口からそんな言葉が飛び出すとは思わなかったから。まあ、自分の上司とのことならば、嫌でも気になるだろうけど。 

「え、えー? どうって、どうにもなってないわよ。だって、そのお話はお断りするんだもの」

 振り向いたら、動揺していることに気付かれてしまう。何しろ、ほんのさっきに言葉を交わしたばかりだもの。その上、今までで一番の好印象だったりしてね。だけど、……だからといってどうなることでもないと思う。私は「今」を捨てられない、だから彼の「夢」を支えることは出来ないんだ。分かり切ってる当たり前のことを、もう一度心に深く刻みつける。

「お母さんたちが何を浮かれてるのかは知らないけど、私が今の仕事を頑張っていることはあんただってよく知ってるでしょ?」

 鍋が沸騰したから、そこに麺を入れた。あとは三分、ほぐれたら出来上がり。本当に手軽だし誰にでも出来る料理だけど、こういうのが一番美味しいのよね。自営業で大人たちが忙しかったから、手の掛からない麺類が多くなりがちだった実家。朝ご飯の残りの焼き魚がどーんと上に乗っていたこともある。

「うん、まあ……それは」

 ほら、ひと言ひと言がとにかくのんびりしているんだから。これだけの会話の間にディナーが完成しちゃったじゃないの。どんぶりに盛り分けてみてあまりに寂しかったから、冷蔵庫に常備している肉みそを上に飾ってみた。サラダにだって、缶詰のコーンのトッピング。うーん、彩りってやっぱ大切ね。

「もうねー、職場も色々大変なんだから。これ以上の厄介ごとは勘弁してって感じよ。お母さんはこっちの事情なんて全然考えてくれないんだもの、本当に嫌になっちゃう。だって、そもそもの始まりが騙し討ちだよ? そう言うのって、絶対印象悪くなるわ」

 今時お見合いなんて、絶対に流行らないの。下手に友達に話したりしたら、どん引きされるに違いないわ。そうじゃなかったら、興味津々で色々と突っ込まれるとかね。「さすが、田舎ねーっ!」とか言われるの、嫌だもの。だからこっちの知り合いには、旗之助とのことを何ひとつ話してない。

 でも、そうなると。どうしても鬱憤が溜まってくるのよね。どこにも吐き出すことが出来なくて、イライラは募るばかりだった。だから、青がジャスト・タイミングで訪れてくれて幸いかも。

「……」

 私の言葉に、青はちらっとだけ顔を上げた。だけど、またすぐにどんぶりに視線を戻してしまう。蒸し暑い梅雨時に、もわもわと湯気が立つみそラーメン。ちょっとミス・マッチだったかな?

 

 そのまま、お互いに無言で。ずるずると最後までラーメンを食べ終えた。相手の出方を見守っている感じ、静かだけど空気はピリピリしてる。

  そういえば、こんな風に向き合ってふたりで食事するのも久しぶりだな。同居していたとは言っても、活動時間帯が正反対だったし、かろうじて私の夕食と弟の朝食が一緒になればラッキーだった。作り置きの出来るものを用意したりして頑張ったけど、すれ違い夫婦のデモンストレーションをさせてもらった気分だったな。会話らしい会話もないし、お互いに何を考えてるかも分からないし。

 

「……だけど、さ」

 弟がようやく次の言葉を発したのは、流しに片付けた食器を全て洗い終えてテーブルを拭き終えた頃だった。ちょっと待って、まだその話が続いていたの? と呆れてしまう。私はとっくに終わらせたつもりでいたのに。

「専務、すごくいい人だよ。あんな人、今までに会ったことない」

 ……え、ちょっと待って。

 そのひと言には素直に驚かされる。青が誰かを誉めるなんて、今までにそんなことがあったかな? 父親のことも兄のことも「信じられない」って乾いた視線で見つめてたじゃない。何十年経っても何ひとつ変わりばえがしないような田舎にしがみついているなんてみっともないって、そう言わんばかりに。私も大きくくくれば「故郷を捨てた人間」になるんだけど、青の荒廃ぶりは半端じゃなかった。

「ふうん、そう」

 でも、私は「姉」なのだ。ここは何処までも大人の態度で対応しなければ、年上の威厳に関わるわ。

 もしかして、何? あの勘違い男、兄や母親を味方に付けただけに留まらず、今度は青を丸め込んだの? 何だかなー、本当にやり方を間違ってる気がするけど。外堀から埋めていこうなんて、考えることが陰険すぎる。

「たとえ、あんたとしてはとてつもなく『いい人』だったとしてもね。これとそれとは話が別なの。結婚って言うのは、女性にとっては大問題なんだから。今の生活を全く変えずに済むと言うなら別だけど、それは無理でしょ? 私、やっと掴んだチャンスを捨てて小野崎に引っ込むなんてまっぴら。そんなに簡単に諦められるなら、あのときにとっくに辞めてたわよ」

 知らず、語尾がきつくなってしまう。さすがの青も私の苛立ちに気付いたのか、一瞬ひるんだみたい。だけど、すぐに体勢を立て直した。

「もしかして……何も聞いてない?」

 小さな溜息と共に、ぽつりと落ちた言葉。彼の胸の内にあったはずの「期待」が「落胆」に塗り替えられる。顔色の変化ですぐに分かった。

「専務、今すごく大変なんだよ。だけど、決して諦めるものかと必死で食い下がってる。その頑張りには目を見張るものがあるよ。本当に素晴らしい人は、すぐには投げ出したりしない、すごく強いものを感じるんだ。……だけど、そろそろ限界かも知れない」

 まるで自分のことのように辛そうな表情になる、かつて見たことのない弟の姿に私はすぐには言葉を返すことが出来なかった。

「限界って、何よそれ」

 青の言いたいことが全く分からない。

 最初に出会ったときも、この前も。旗之助はいつも自信満々に自分の「夢」を語っていた。そのふてぶてしいほどの態度には確かに腹が立ったけど、そこまで突き抜けられるのは素晴らしいなと思っていたのも事実よ。実績に裏付けされた確かな自信、そう言うのってすごく羨ましいから。
  どんなに頑張っても頑張っても上からのひと言で「白」を「黒」にしなくてはならない、しがない雇われの身では難しいことを軽々とやってのけるんだから。

 私の質問の仕方があまりに抜けていたのだろうか、青はがっかりしたような憐れんだような複雑な表情に変わる。

「専務、議員先生と派手にぶつかってるんだ。初めから意見の食い違いはあったらしいけど、ここに来て何もかもが噴き上がってきたみたいで……」

「議員先生」というのは、旗之助の父親のことだ。町議会の常連だから、地元の人間はそう呼んでいる。小さな町の議会なんて毎回が無投票でメンバーが決まるのは暗黙の了解、でも水面下では「大人同士」の熾烈な争いがあるって聞いてる。
  とにかく旗之助の父親に逆らってはいけないのだ、そんなことをしたら二度と小野崎の土を踏めなくなる。それはただの脅しではなくて、かなり信憑性のある事実のようだ。実際に被害を被った家がいくつかあるらしいし。
  ただその栄光もそろそろ過去の出来事になりつつある。自分の志気が弱まったことを知った「議員先生」は自分の後釜となる息子・旗之助を地元に呼び戻した。

「議員先生は、結局自分の手足となって働く順直なロボットが欲しかっただけなんだよ。でも専務は違った、本当に心から小野崎の将来を考えてよりよい方向に進むようにと心を砕いている。自分のことも二の次で寝る間も惜しんで頑張っているんだ。だけどそのやり方が、古い頭の議員先生とは合わない。今まではこちらが折れるかたちでやり過ごしてきたけど、とうとう大きな衝突が起こってしまったんだ」

 旗之助の父親は自分の持つ膨大な人脈を利用して、息子の動きを封じようと躍起になっているらしい。そうなってしまっては、まだ若くまた長く地元を離れていた旗之助は絶対的に不利だ。ようやく軌道に乗り始めた新事業も暗礁に乗り上げ、問題解決の糸口も探れない。父親は特定の業者に宅配を発注するようにと圧力をかけ続けているのだ。

「そんなことをしたら、直接搬入のメリットがなくなる。だけど議員先生としてはそうして業者に金を落とすことで、自分の味方に抱え込もうとしているみたいだ。持ちつ持たれつとは言うけれど、初めて聞いたときは本当に驚いたよ。そんな風に過去のやり方にしがみついていたら、本当に小野崎は駄目になってしまう、どうしてそれが分からないんだろう」

 

 離れていると、TVのニュースよりも遠く感じる故郷の「今」。目に見えない渦が、確かにそこには存在するのだ。……でも。

 弟の憤りを聞きながら、でも心のどこかで「やっぱりな」と思っている自分がいた。

 人間誰も自分の掲げた理想だけでは生きていけない。やはり生きていくためには「長いものに巻かれる」ことが必要になってくる。何が正しいかではなくて、何が強いか。大人の世界ってそういうものだ、いつもずるくて汚い。
  だから、そんなどろどろからは出来るだけ離れていたい。確かに私は旗之助から見たら上から言いなりなだけの使い捨て人材かも知れない。だけど、子供たちは可愛い。変な探りを入れたりすることもなく、純粋な心をぶつけてきてくれる。そして汚れかけた私の心まで綺麗に浄化してくれるんだ。

 まあここまで話を聞くと、先ほどの旗之助の慌ただしい様子も頷ける。地元のお偉いさん方が揃いも揃って父親の元にすがり自分には何ひとつ残らない。ならば、もう投げてしまえばいいのに。元の通りに東京で自由気ままに生きていけばいいのに。

 

 ――ひとりで格好つけたところで、結局は負け犬でしょ? そんなことして、何の得になると言うの。

 

 青は腕時計をちらと見ると、おもむろに立ち上がる。そして脱ぎ捨ててあったシャツを元の通りに羽織った。

「俺、帰る。今からなら、ギリギリ最終に間に合うから。ラーメンごちそうさま」

 それだけ言って、すぐにも飛び出していきそうな勢いだ。これにはさすがに面食らった。確かに、最寄りの駅から実家に戻るのには、10時ちょっと前の各駅に乗って途中で乗り継ぐのが最終になる。

「え、別にいいのに、このまま泊まっても。明日は早出じゃないし、朝ご飯くらい作れるよ?」

 私の言葉に、青は首を横に振る。

「姉ちゃんが駄目なら、俺が専務の側にいる。たいした力にはなれないって分かってても、少しでも役に立ちたいんだ。今日も方々の得意先を回って来た、門前払いばっかりだったけど楽しかったよ。だって、専務のためにやってることだから」

 

 外はまだ雨が降り続いている。

 これから電車に乗るのだから、濡れ鼠ではまずいだろう。一足先に玄関に出た弟を追って、私もドアの外に出る。手には男性でも恥ずかしくないデザインの傘を持っていた。

 その気配を感じ取ったのだろう、青は私に背中を向けたままで話し出す。

「……専務のお母さんって、小野崎の人じゃなかったんだって。ホテルに働きに来ていて議員先生と知り合って、周りの反対を押し切って結婚したって話だよ。でもその後は、本当に辛い思いをたくさんしたみたいだ。だから、あんな早くに亡くなったんじゃないかな……」

 詳しいことは知らないが、旗之助の母親になる人は彼がまだ小さい頃に亡くなったらしい。その後、地元の旧家から後妻が来たが、その女性との間には子供がなかった。他に囲っていた女性も幾人かいるということだが、そこにも子はない。

「専務はとにかく頑張りすぎなんだ、だけどあんな風にしていたらいつかは身体がバラバラになってしまう。不眠症で悩んでいるのは以前かららしいけど、この頃では処方された睡眠薬がないと眠れないと言っていたよ。姉ちゃんが自分の仕事に誇りを持って頑張っているのは分かる、だけど俺としては姉ちゃんには専務を助けて欲しいんだ。そんなの、押しつけだって分かってるけど」

 

 青の口から、次々に言葉がこぼれ落ちる。

 こんなことはかつてないことだ。いつも自分の殻に閉じこもって、外に出ようとしなかった弟。芸術家特有のこだわりで、周囲と衝突してばかりいた。バイトはすぐに辞めてしまうし、学校の先生とケンカして単位を落としそうになったこともある。一匹狼で、誰かに従うなんて絶対にしないといきがっていたのに。

 ……どうして。一体何が、弟を変えたというの?

 

「傘、持って行きなさい。気をつけてね」

 でも、駄目だ。何があっても自分を曲げることが出来ないのは私も一緒。旗之助が故郷でひとり頑張っているのだとしたら、私も都会の空の下でひとりでもがいているんだ。

 暗闇の中にぼんやりと霞んでいく背中。無数の雨の糸がふたりの間を埋め尽くしていく。自分の言葉が全て自分に跳ね返ってくるような気がする。心が痛い、だけど負けられない。

 

 そのときの私は知らなかった。自分にもまた、「闇」がそこまで迫っていると言うことに。

 

 

2006年11月17日更新

TopNovel願わくば・扉>願わくば、恋視線・15