TopNovel願わくば・扉>願わくば、恋視線・16



       

     

 階下ではまだ延長保育が行われている時間。

 薄闇に包まれた静けさの中、私はひとりペンを走らせていた。デスクライトだけを点けて、明るいのは手元だけ。辿る文字が、次第に滲んでいく。

 

 ―― 私、何をしているんだろう。

 

 重い額に手を当てて、そのあと大きく首を回した。もうちょっと頑張らなくては、どうにか今の時間に全てを書き終えなければ。さっきから同じことを呪文のように唱えながら、それでも気が付くと気持ちがどこかに飛んでいきそうな気がする。

 毎日の記録を残す「保育日誌」、普段ならば子供たちがお昼寝をしている合間にさささっと手際よく書き上げることが出来る。ひとりひとりの園児たちの行動のあれこれを思い起こしつつ書いていくのは慣れるまではなかなか難しかった。どうしても目に付きやすい子と見過ごしがちである子がいる。そのことを保育士本人がしっかりとわきまえるためにもこの作業は重要なのかも知れない。
  年中さん、今年度中に満五歳を迎える子供たち。彼らの見つめる「世界」は日々進化しているのだと思う。新しい事柄に気付くたびに自慢げにそれを教えてくれたり、かと思うと昨日までは何気なくできていたことを急に恥ずかしがってみたり。中には週明けに先週までとは全く違う一面を見せてくれる子もいる。
  正直、自分自身にこの年代の記憶が残っているかというとそうではない。残念ながらその多くを忘れてしまっている気がする。だから私の言葉で綴られた彼らの「今」は、園の保管室の中でだけ静かに残されていくのだ。

 この頃ではようやく記帳にも慣れてきたと思っていたのにな。つい数時間前のあれこれを綺麗さっぱりと忘れてしまっている自分に愕然とする。あの出来事は本当に今日のお昼寝のあとのこと? それとも昨日のことだったかな? それを確認したくても、ここには私の他に誰もいない。慌てて昨日の頁に戻り、同じ記載がないことを確かめてからまたペンを握り直した。

 

 先ほどから生暖かい風を運んでいた窓辺に、いつかさらさらと雨音が響き始める。予報通り夕方から降り始めたみたい。週末までまた長雨になると言ってたっけ。そうなると、明日の園外保育は中止だな、まだ違う予定を立て直さなくちゃ。
  少し身を乗り出して見れば、黒雲がすでに空全体を覆っていた。時刻よりもかなり遅く感じるのはこの空模様のせいだろう、夏至を過ぎたばかりの午後六時と言えばまだまだ明るい頃だもの。そうかあ、六月も残すところあとわずか、来月になればプール指導も始まるしますます暑くなるしで大変そうだな。10月の始めにある運動会の練習もそろそろ本格的に始まってくるし。

 くるくるとペンを指で弄びながら、どうにかして「保育士」の自分に戻ろうと試みる。でも、いくら切り替えようとしても駄目。すぐに雑念が横から入ってきて、頭がごちゃごちゃになっていく。

 

 ―― あれから、どうなったんだろうな。

 

 青から思いがけない「告白」を受けたあと。それでも旗之助の態度に何ら変わったところはなかった。本人が告げたようにかなり忙しい状況にあるらしく、「定期便」も遅れたり中抜けしたり。それでも文面はいつも通りだし、てきぱきと飛び回っている姿が容易に想像ついた。

 そりゃあね、聞いちゃったから気になるのは仕方ない。よっぽど「本当のところはどうなのよ」と問いただしてやりたい気分になったけど、そこまで立ち入るのも正直どうかなあとか思うしね。だって、彼と私は結局のところ「他人」。過剰な気遣いは、いらぬ誤解を招くことになりそうだもの。

 この頃、やたらと昔のことを思い出す。

 まだ自分が小さくて、大きなランドセルを背負って小学校に通っていた頃のこと。記憶の中に旗之助の姿はないけど、やっぱりあの校舎のどこかに彼は存在していたんだ。小さい、ひと学年が二十人に満たないような浜辺の学校。みんながみんな顔なじみみたいだったのに、彼の存在はどこまでも薄い。

 一方、父親の「議員先生」の方は、子供心にもやたらとインパクトが強かった。同窓会長とかPTA会長とか派手な役柄には目がなくて、何かの行事には絶対に壇上で挨拶してたもの。やたらと自分の業績や自慢話ばっかりで、聞かされるこっちは全然理解できなかったけどね。

 そういうの、今でもやっぱり全然変わっていないんだろうな。というか、あれくらいふてぶてしい性格じゃなかったら、そもそも「政治家」なんてやってられないんだと思う。
  私たちが知っている彼の奥さんは旗之助にとっては義理のお母さんになる人。地元の旧家出身とかでとにかくキラキラと飾り立てていて、甲高い笑い声が耳に付いた。確か桃子伯母ちゃんの同級生とか言ってたっけ、若い頃から何かと有名人だったとか。うーん、いわゆる「類友」って奴?

 多分、あの土地に帰りたくない原因のひとつに彼ら一族の存在があるのだと思う。あの人たちが牛耳る町はいつもどこか歪んでいて、正しいことが正しいと通らない場面が多かった。

 進学でこっちに出てきて。何もかもがすっきりとしていることに驚いたっけ。そりゃ、どこにだって「世話焼きおばちゃん」は存在するし、あんまりに外れたことをやっちゃえばそれなりの制裁を受けるのは当然。だけど、少なくとも決められた枠の中できちんと生活していれば思い通りに生きていける。
  私ですら、そうだったんだ。だったら、そのるつぼから脱出した旗之助は想像を超えるほどの大きな開放感を味わっていたに違いない。継母なんてその言葉を聞いただけで取っつきにくい感じだし、父親は血が繋がっているとは言っても「あれ」でしょ? アメリカに飛んだのだって、彼らから出来るだけ遠のきたいという気持ちの表れだったのじゃないかなあ。

 それなのに、何で戻っちゃったんだろう。

 私だったら、絶対に嫌。どんなに泣きつかれたとしても、首を縦に振る気はない。権力が名声が魅力的だったとか? ううん、そんなもの彼の手に掛かればきっと自力で手に入れることが出来る。何も父親の七光りを利用する必要なんてない。

 

 ああ、やだやだ。

 気が付けば、奴のことばかり考えてる自分が許せない。もういい加減にして、これ以上私のことを振り回さないで欲しいわ。彼がどうなろうと、こっちの知ったことじゃないもの。父親に足下をすくわれて嘆いたって、それは彼の責任よ。

 ―― 姉ちゃんが自分の仕事に誇りを持って頑張っているのは分かる、だけど俺としては姉ちゃんには専務を助けて欲しいんだ。

 何で、青はあんなことを言ったんだろう。あの子は旗之助の何を知ってると言うのだろうか。ううん、何があろうと関係ない。私は私、自分の今をしっかり生きていくだけ。

 

 ふと視線を泳がせれば、がちゃがちゃになった棚の上。

 ああ、早く日誌を片付けて、あそこもきちんと整頓してから戻らなくちゃ。この頃、子供たちは何でも自分だけでやりたがる。お道具の片付けも自力で済ませて、それがとても誇らしいみたい。あとで私がこっそりと直したりすると、途端に不機嫌になるもの。あんなに小さくても「侮辱された」って表情をするからびっくりよ。
  違うわ、棚の上だけじゃない。園児ひとりひとりにお道具をしまうスペースがあるんだけど、そこもはみ出たりひっくり返ったりしてる。うわ、あんなところに水がこぼれてた。それだけじゃないわ、誰のものか分からない上履きが何故か片方だけ教室の隅っこに転がってる。

「あーあ、もう。きちんとしてよねー」

 誰に訴えるわけでもないのに、いつの間にか独り言が出ていた。こうなったら、かなりヤバイ。ひとつのことがほころび始めると、あとからあとから崩れていくって本当なんだな。駄目駄目、もっと気合いを入れなくちゃ。だって、私は「もも」組の最香先生なんだよ?

 拾い上げた上履きには、大きく「けんた」とひらがなで書かれていた。あれ、これってお隣の「ぶどう」組の子じゃないの。そうよ、奈津のクラスの男の子。どうしてこんなところまで飛び出してるんだろう……?

 まあいいやと、お隣の教室に置きに行く。そう言えば彼女は確か今日は遅番だもの、帰りにひと言伝えに行けばいいかな?

 手洗い場とトイレを左右に見ながら狭い通路を抜けると、そこは未だにお花畑だった。

 奈津が仕事に復帰してからもうすぐ一週間なのにね、未だにお祭り気分が抜けないみたいよ。クラスの子供たちの保護者から贈られたお祝いの品、生花は園の入り口とか通路とかに飾ってあるけどアレンジフラワーとかは教室の棚に並べてある。花びらにころんとついた雫は偽物なのに、本当にそこに雨粒が落ちているみたいよ。

 

 ――と。

 階段を上がってくる大人の足音が聞こえてきて、私は後ろを振り返った。がらりと扉が開く。

「……最香先輩? ああ、いらっしゃいましたか」

 通路から顔を出すと、ジャストタイミングで声をかけられる。彼は私を見て一瞬こそは顔を強ばらせたけど、すぐにいつもの笑顔に戻った。

「まどかちゃんが上履き袋を忘れたと言ってるんです。まだお迎えは来ないんですけど、とりあえず探しに来ました。あの子は明日の土曜日はお休みでしょう、……あれ他にも持ち帰ってない子が何人かいるみたいですね」

 毎週金曜日には椅子の下に敷いている座布団兼用の防災ずきんや手ふきタオル、歯磨きセットに上履きを持ち帰る。今週からはリズムパレードの鍵盤ハーモニカの練習もしてきてもらうから大荷物だ。
  あれ、変だな。ちゃんと支度をさせたつもりだったのに、箱の中にいくつかの上履き袋が残っている。まあ、袋がなくても肩掛けの大きなバッグがあるから平気ではあるんだけど、……全然気付いてなかったわ。

「ごめんなさい、急いで他も確認して私が届けるから。奏先生はすぐに持ち場に戻っていいわ、別に内線で連絡をくれても良かったのに。もしもお教室の鍵が閉まってたら、どうするつもりだったの?」

 無意識のうちに彼を押しのけて、自分で忘れ物の袋たちを持ち上げていた。

「いいですよ、先輩はまだお仕事残ってるみたいだし俺が――」

 慌ててそれを取り上げようとした奏君の手を、乱暴に払いのけていた。

 もう、早く戻ってって言ってるのに、何でこんなにしつこいの。本当にイライラしてくるんだから、何よそんな風にヘラヘラと人懐っこそうな顔してさ。誰にでもそうやって媚び売って、今まで世の中を上手に渡ってきたんでしょうよ。そうよ、彼にとっては心地よい言葉を発することも社交辞令なんだわ。

「これは私のクラスの仕事だから。奏先生には奈津の『ぶどう』組をフォローしてくださいってお願いしたわよね、こっちまでは結構よ!」

 何で、そんな言い方をしてしまうのか。自分でもよく分からなかった。

 目の前の奏くんの顔から、血の気が引いていく。だけどそんな瞬間にも彼の瞳だけは真っ直ぐに私を見つめていた。

「……先輩?」

 かたちのいい薄い唇が、微かに震える。箱の中をのぞき込むようにかがんでいた私と目線を合わせるように、彼もまた姿勢を落とした。

「どうしちゃったんですか、やっぱり変ですよ? ……俺ひとりだけの思い過ごしじゃないと思います、奈津先輩だってすごく心配してましたよ」

 

 ―― どうして? 何故、私が「変」だと言うの……?

 

 頭の中がぐにゃりと歪む、それと同時に激しい吐き気も覚えた。早く視界から彼の姿を消したい、この男が目の前にいるから私はこんな風におかしくなってしまうんだ。

 そう、全部が彼のせい。その心ない笑顔でこれ以上私を惑わせないで、誰にでも優しくするのが彼自身のやり方だとしても私の目の前はどうにか通り過ぎて。

「俺、お話ししたいことはたくさんあるんです。子供たちのこととか仕事のこととか。でも先輩はそれを受け入れてくださらない、だから聞いたでしょう、何があったのかって。悪いところがあるなら直します、このままでは良くないでしょう。だって、俺たちは『パートナー』なんですよ!?」

 

 がちゃん、と何かが激しく壊れる音。

 本当にどこかで落下物があったような衝撃を耳元に感じた。だけどそれすらも空耳、私の心が作り出した幻聴だった。

 

 ―― 違う、そうじゃない。私はどこもおかしくない、変なのはむしろ彼の方。彼らの方。

 

「……戻っていいって、そう言ったでしょう」

 自分でも何をしているのかよく分からない。握りしめていたいくつかの上履き袋を彼の方に突き出すと、私は何事もなかったかのようにライトのついたままの机に戻った。

「先輩――」

 奏くんはさらに何かを言いかけたみたい。だけどそれ以上は続けなかった。

 しばらくはその場に立ちつくしていたみたい、でもやがて静かな足音が遠のいていく。何度か立ち止まりながらもそれが階段を下りていったあと、私はようやくホッと息をついた。

 

 本当は分かっていた、どうして仕事が上手くはかどらないか。やることが山積みになって、必死で頑張ってもこんな風に教室ががちゃがちゃになってしまうその理由が。

「モカせんせい、どうしてカナデせんせいは『ぶどう』ぐみばかりにいるの?」
「ずるいよ、ぼくたちだっていっしょにあそびたいよ」

 子供たちだって、もうとっくに気付いていた。私が彼を避ければ避けるほど、仕事はやりにくくなっていく。でもこれ以上我慢して彼の存在を受け入れる自信もなかった。

  仕事上のパートナーなんだから、一緒に頑張って行かなくてはならないのは当然。与えられた事柄をきちんとこなしていくために連係プレイは避けて通れない。だけど、どうして彼の笑顔に応えることが出来る? 何事もなかったように振る舞うことが出来る? 絶対に無理、私には出来ない。

 奏くんだけじゃない、奈津のことだって気に入らない。

 何よ、みんなからちやほやされちゃって。そりゃ、まだ復帰一週間だもの、家庭と仕事の両立で悩むこともないのかも知れない。でも、あの例の飲み会の日だって、午前様ギリギリだったって噂よ? そんなことして同居している義理のご両親は何も言わないのかしら。今に積もり積もって大爆発するよ、そうに決まってる。

 今日だってね、結構予定が詰まってるみたいだったから言ったのよ、気を利かせてね。

「何だったら、遅番代わろうか? たまには早く戻って、きちんと夕食を作った方がいいよ?」

 そしたら、彼女は何て言ったと思う? すごい意外そうな顔をしてたわ。

「えー、大丈夫だよ。お義母さんは『お仕事頑張ってね』って応援してくれてるの。お料理だって私よりもずっと上手だし、上げ膳据え膳ですっかり身体がなまっちゃった。そうね、週末くらいは腕をふるった方がいいかなあ」

 何甘えてるのよって、その場で怒鳴らなかった自分は偉かったと思う。何かもう、前々から自分とは価値観が違う人間だと思ってたけど、まさかこれほどとはね。本当、ちやほやされるのは今のうちだけだって。あまり浮かれてると、そのうちに大変なことになるんだから。何でも自分の思い通りになるって考えてたら、大間違いよ。

 

 ―― もう嫌だ。こんな風に周りを見てイライラしてばっかりの自分って、最低だわ。

 

 分かっているけど、止まらない。彼らをこのまま野放しにしたら、我慢して頑張ってる私はどうなっちゃうの?

 この頃ではお見送りやお迎えで顔を合わせる親御さんの全てが私に問いかけているような気がしてくる、「何であんただけが半人前なの?」って。その上園長からは何度もあの勘違い男のことを聞かれるし、さらに怒り倍増。もう園内では耳栓をして歩きたい気分。

 子供たちに囲まれている時間だけ、生きた心地がする。だから、やっぱりこの仕事が天職なんだと実感するわ。真っ直ぐに伸び続けるそれぞれの新芽たち、それを丁寧に育んでいつか大輪の花を咲かせるそのときを見守りたい。これ以上、雑念に振り回されたくない。イライラする気持ちもどこかに押しやりたい。

 

 ほんの小さなきっかけで噛み違ってしまった歯車、その補正をする暇もない。

 忙しい忙しい日常、飲み込まれてしまえばあとはただ流されるだけ。でも大丈夫、こんなのは小さな障害。必ず乗り越えることが出来る。そうしたらまた、自然に笑うことが出来るようになるはず。

 

 あの勘違い男だって、この黒雲の向こうで頑張ってるんだもの。私にだってそれが出来ないはずがない。そう思ってた、本当にそう信じてた。

 

 

2006年12月8日更新

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