いや、違うわ。この場に残っているのは、私だけじゃない。正確には、もうひとり。
「やあ、……希里(キリ)も相変わらずだなあ。あれで、今年で結婚五年目なんだって? そんなに経ってるとは、とても信じられないね」
振り向くと、先ほどの「漁村にはあまりにも不似合いな男」がまだそこに立っている。私の視線に気付いて、彼は悠然と微笑んだ。
「携帯の着信音を変えて、ポケベル代わりに使うんだね。なんだかんだ言っても携帯での通話はまだまだ固定電話よりも割高だし、いい方法だ。ウチの社員にも徹底させようかな?」
わざとらしく腕組みなんかして、うんうんと頷いたりしてる。
―― もしかして、こっちの視線をさりげなく意識したりしてます? うーん、やっぱり記憶にない顔だわ。私、そんなに物忘れがひどかったかしら。
どんよりと続く、沈黙。何とも気まずい雰囲気にようやく気付いたというように、彼は軽く咳払いをしてから話し出す。
「久しぶりだね、最香(もか)ちゃん。随分綺麗になっちゃって……。青くんから色々と話は聞いていたけど、実際に会ってみると想像以上だ。いやあ、本当に驚いた」
彼は笑顔を崩さないままに、私の頭のてっぺんからつま先までをくまなくチェックしている。だけどその眼差しというのがイヤらしく値踏みする感じではなくて、どこまでもすっきりと夏空の如く澄み渡っているのね。
―― いやいや、今はそんなことを考えている場合ではないってば……!
昔ながらの港町に忽然と現れた巨大な建造物を見ただけで腰を抜かしかけていた私ではあったけど、さらに全く見覚えのない人間に親しげに全身チェックをされているのはどういうことなのっ。
「あ、あのー。失礼ですが、どちらさまで……」
この男は、少なくとも兄の知り合いではあるらしい。しかも兄よりも遙かに立場が上の。さらに「専務」とかよく分からない肩書きで呼ばれていたし、弟の青のことも知ってるみたい。
だから、一応の礼は尽くさないといけないだろうなと思ったのよ。でも、思い出せないものは思い出せないんだし、面倒だから直接確認しちゃおうかなって。
すると、彼は。
一瞬大きく目を見開いたかと思ったら、一呼吸置いて大袈裟に吹き出した。何にそんなにウケたんだろう、そう思ってしまうほどおなかを抱えて笑い転げてる。やがてどうにか収まってきたらしく、眼鏡をずらして目元を拭いながら言った。
「いやあ、嬉しいなあ。ここまでストレートに訊ねられたのは、君が初めてだよ。こっちに戻ってきてからと言うもの『あんた、誰?』っていう風に訝しげに見つめられることは多々あったけど、皆遠巻きに見ているだけだったからなあ……。いやいや、本当に愉快だ。さすが、最香ちゃんだね?」
まだ笑いの種が残っているみたいだ。彼は喉の奥でまた、くくくっと笑う。
「ねえ、覚えていない? 魚市場の息子、君のお兄さん・希里と同い年だったでしょう。僕、そんなに変わってしまったかな?」
一瞬、全ての音が消えて。周りの風景もTV画面が停止したみたいに動かなくなった。
片頬をなでていく潮風、沖を行く海猫たちの甘えた啼き声。仕事中とは違っておろしたままの髪が肩先でふわふわ踊って、くすぐったい。
――えっ、えええっ……!?
こっちが単刀直入に訊ねたせいか、向こうも迷うことなく直球で返してきた。
その言葉を心のミットに収めるときの私の驚きと言ったら、二死満塁のツーストライク・スリーボールの場面で代打に立って逆転サヨナラホームランを打ったときよりもすごかったと思う。
「う、魚市場の息子って! ええと……大漁さんちの旗之助(はたのすけ)っ!?」
うわー、思わずフルネームで飛び出して来ちゃったよっ。でもって、年上をいきなり呼び捨てにしてるしっ……!
でも、仕方ないんだよね。昔から、そんな風に呼ばれていたしさ。もっとひどくて「旗坊ちゃん」 とか? えー、でも全然違うよっ! 同一人物とは絶対に思えない、顔の輪郭までが別人のように変わってるんじゃないかしらっ!!
「ピンポーン、大当たり! 良かった、このまま思い出してもらえなかったらどうしようかと思ったよ」
彼はおどけた様子で首をすくめると、少し乱れた前髪を軽くかき上げた。
港に揚がった魚を一手に引き受けている、それが小野崎漁港の魚市場だった。その歴史は古くて、江戸時代まで遡るとか言われている。
身分制度が厳しかった時代、たとえば「農民」の一階級にしても地主がいたり本百姓がいたり小作人がいたりしたけど、漁村ではあまりそういう格付けがなかったらしいのね。農地と違って海はどこからどこまで線を引くことが出来ないから、何となく「みんなのもの」って意識があったんだと思う。他の場所のことは知らないけど、少なくともここの土地は。
北と南の海流がぶつかり合う豊かな漁場だったことも大きいんだろうね。縄張り争いとかしなくても、みんなそこそこに暮らして行けたから。
ただ、いくら魚が大漁に水揚げされたところで、それを上手に売りさばくことが出来なかったら生活は成り立たない。海に近いと言うことは砂地の痩せた土壌ばかりということにもなり、毎日の食卓に欠かせない作物が育ちにくいのね。丘の方に田んぼや畑を持っている家も多かったけど、やはりそれだけでは十分とは言えなかった。物々交換でもいいから、そう言うものを手に入れる必要があったのよ。
魚市場を経営する大漁家(すごい姓だけど、本当に「たいりょう」さんと読むんだよ)は、天秤棒を担いで村々を回る「魚売り」から始まって成功していった家だと言われている。いち早く首都圏への流通にも手を出して、時代の先駆者とか言われてた。遠く離れた村でもその名を知らない人なんていない名家で、先代は町長を何期も務めたとか。
まー、それも当然だと思うわ。何しろ「手も出る・口も出る」という感じの一家だったもの。自分の意見に反対する住民にはかなり辛辣な仕打ちもしたって噂もある。皆、あの一家とは腫れ物に触るような感じで付き合っていたわ。
―― けど、ひとり息子の「旗之助」はそんな一族の中ではかなりの異端児だった。
引っ込み思案で泣き虫で、いつも誰かの陰に隠れておどおどしてるだけ。漁村の生まれなのに全く泳げない「かなづち」だというのもそれに拍車を掛けたみたいね。
今でも覚えている、午後の授業中に彼は給食のお盆を手にしたまま廊下に立たされていた。好き嫌いが多くて、食べられる食材の方が少なかったとかで「全部平らげるまでは教室に入れません」って言われてたみたい。今だったら教育委員会に親が怒鳴り込んでいきそうな出来事だけど、私が子供の頃はそれが当たり前の光景だった。
とにかく上級生や同級生どころか、下級生までにバカにされたりいじめられたりする始末。ほら、皆それぞれに魚市場の一家には鬱憤が溜まっているわけで、そう言うのを弱い存在にぶつけるって成り行きだったみたい。彼はそんな仕打ちに黙って耐えていた。先生や親に告げ口することもしなかったな。遊びの輪にも入れなくて、いつも校庭の隅でぽつんとしてた。
小学校に一緒に通ってたのは三年間だけだし、中学は入れ違い。だから、大きくなってからのことはよく知らない。ただ万全を期して臨んだ高校受験で、ことの如く失敗したっていう話だけは聞いてた。確か家庭教師を十人くらい雇って、地元一番の進学高校を目指していたのよね。ついでに大学付属の私立もいくつも受けたとか。その全てに落ちて単身で上京したってところまでは聞いた気がする。
だけど、そこまで。ウチの兄とも元々それほど仲が良かった訳じゃないし、地元の誰も噂をすることもなかったわ。変に話を流して、あの一家に睨まれてもヤバイしね。
えー……、あのへたれ息子が?
こんな風に生まれ変わって戻ってきてたなんて、本当にびっくり。何十年経っても全く変わることないのどかな故郷だとばかり思っていたのに、不思議なこともあるものだわ。
「最初はね、都内の予備校でみっちり仕込んでもらって翌年受験をし直そうと思っていたんだ。だけど、ひょんなことから海外の高校に進学する道もあるんだってことに気付いてね。だから、高校も大学もあっちで過ごして、さらに卒業後も研究生で残って論文を書いたりしていたんだ。世界はあまりにも広かったよ、たくさんの知り合いにも恵まれたし語学力も付いた。今は日常会話なら五カ国語は軽いね」
とりあえずは兄が戻ってくるまでと言うことで、目の前のビルの中へと案内された。
建てられて間もないんだから当たり前だけど、とにかくぴかぴかに光り輝いていてチリひとつ落ちてない床。エントランスを入るといきなり吹き抜けのフロアがあって、真正面にデパート張りに豪華なエスカレーターが上り下りとも動いていた。その脇には本物の土の入った植え込みがあって、南国っぽい観葉植物がゆったりと葉を広げてる。
ガラス張りで仕切られた向こう側が、水揚げされた魚たちの一時保管場所になっているとか。もちろん、冷暖房は完備。人間にとっても魚にとっても快適な環境だ。大型の水槽が奥までぎっしりと並んでいる様は「魚市場」と言うよりも「水族館」に近い気がするわ。
一日のうちほとんどの時間は空運転をしているのではないかと不安になるエスカレーターを上ると、今度は町役場もびっくりのゆったりとしたカウンタースペースが現れた。中で忙しく立ち働いている人たちは、元からの組合の職員の方々なのかしら? お洒落な制服を身につけて、まるで都会の銀行員さんみたいだ。
「ここは主に直接出向いてこられる組合員や企業の方向けの応対の場です。もっと上の階になるとパソコン室や大型レーダーを完備している部屋もありますよ。ここにいれば日本各地だけでなく世界中の海の情報が瞬時に飛び込んできます。便利な世の中になったものですね」
通された応接室は、ウチの保育園の園長室よりもずっと立派だった。
見るからにアンティークな家具や調度品がずらりと並んで、さながら骨董品屋のイメージ。海に面した二方の壁は全面ガラス張りで、しかも本物以上に綺麗な風景を見せてくれる。ここが本当に小野崎の海なのか、地元に暮らしていた私でも疑ってしまいそうだわ。
ふかふかのソファーに腰掛ければ、出てくるのはいれたてのコーヒー。運んできた若い女性社員とおぼしき人も、目の前の彼同様にそのまま東京のオフィス街を歩いていてもおかしくない雰囲気だった。
「お久しぶりです」と声を掛けられてよく見れば、何と実家のはす向かいの家の圭子ちゃんじゃないの……! ええー、ここまで化けるって、有り得ないわっ。
「冷めないうちにどうぞ、うん……いい香りだ」
静かな彼の眼差しは、次々と突きつけられる新しい出来事に信じられない面持ちでいる私の姿をゆったりと楽しんでいるような気がする。手にするコーヒーカップは金箔を施された花柄のもので、見るからに高級品っぽい。
何かやっぱり別人になっているんですけど、この人。
本当にここまでキャラが変わって登場されたら、気付く人の方が少ないと思うわ。そうね、確かに昔からひょろりんと長身だったわ。全校で並ぶとひとりで頭ひとつ分くらい飛び抜けていたもの。だけど過去の面影はそこだけよ、人間ってここまで変われるものなんだなと感心するしかない感じ。
「本当にビジネスはいちいち面白いよ、何をしても嬉しいサプライズがついて回る。十くらいの成果を期待してると、それが時には百にも千にも化けたりするからね。学生の頃から株式や不動産売買、そして外資投資と色々手を出してきたけど、やはり目に見えて手応えがある現場が一番楽しいな」
もう改めて訊ねるまでもなく察しが付いたけど、この魚市場を吸収したばかでかい漁業組合のビルはここにいる男の発案で建てられたものだった。
まあ、あの大漁一族だったらそれくらいのことはやりそうだと思う。でも、出資のほとんどを彼個人のポケットマネーでまかなったと言うから信じられないわ。だって、ウチの兄と同じ年なんでしょう? どうしたら、そんなに儲かるの。
「最香ちゃんは希里の携帯のことで驚いていたようだけど、あれのからくりは簡単なんだよ。僕の知り合いに某携帯会社の営業をしている人がいてね、今は地方でのエリア拡大に力を入れているって言ってたんだ。だから、ウチの土地にいくつも中継のアンテナを立ててね。うん、町内の至る所に。そうしたら、一社の製品だけだけど、都会と変わらない電波で受信できるようになったよ?」
えー、嘘。そんなのって、アリ??
それもあってか、この半年で町内の携帯電話の所有者は100倍になったとか言うの。いや、ひとりふたりだったのが百人単位に増えたってだけのことだけど、改めて数値に示してみるとすごいわね。
「は……はぁ」
もう、早くお兄ちゃん戻ってこないかしら? いい加減にしてよね、全く。可愛い妹をこんなところに置き去りにしなくたっていいじゃない。何だか、外はさっきよりももっと雲行きが怪しくなってきた気がするし……。
「今は小さな田舎町であるけど、特急で東京まで二時間の立地条件はたまらなくおいしいと思うんだ。とてつもない宝の山をこのまま眠らせておくわけにはいかない。僕はこの小野崎を今後十年で政令指定都市にまで押し上げたい気分でいるよ?」
縁なし眼鏡の中から、キラキラと光る瞳。情熱的に夢を語っている、男性特有の眼差しだ。
だけど、……それはいくら何でも無理でしょう?
だって「政令指定都市」って人口百万人以上、又は近い将来これを越えると見込める八十万人以上の市が指定されるはず。たしか、今の町民の人口って八千人……とかじゃなかった? 十年で百倍なんて、絶対にないから。
「あ、今『出来っこない』って思ったでしょう。もう、最香ちゃんは分かりやすいな。青くんの話では東京で保育士の仕事をしているんだって? 見るからにそんな感じだな、邪心がなくて」
あああ、頭が痛い。この人って、訳が分からないわ。保育園の保護者の方の中にも、ときたまこんな風に「自分語り」が始まる人がいらっしゃるけど、本当にやめて欲しいと思う。
―― 何か、もういいや。だんだん、面倒になってきた。
「そうですか? 人を外見だけで判断しない方がいいと思いますけど」
酸味の強いこの味は、間違いなく「モカ」だ。私の名前に掛けたのか、ただの偶然なのかは分からないけど面白くない。
まあね、良く言われることだわ。
かなり童顔だしね、年齢よりも若く見られることは多い。就職したその年はまだ顔もよく覚えられていなかったせいか、幾度となく職場体験で来ている高校生と間違えられたっけ。
でも、こんな風に頭ごなしに「世間知らず」みたいな言い方されると、むかつくわよ。全くもう、何なのよ。この人、さっきから聞いてれば、高いところから見下ろすみたいな言い方ばっかりじゃない。
「貴重なお話をありがとうございました、コーヒーもごちそうさまです。このまま待っていても迎えは期待出来ませんし、この辺でおいとまします」
冷めかけたコーヒーを綺麗に飲み干してから立ち上がる。ううん、口惜しいけど私がいつも祖父に買ってくる品物よりもさらに高級品だわ。ここの組合って、今はお客にこんな上等なおもてなしをしているのかしら……?
久しぶりに帰省すると言うこともあって、かなり気合いを入れた格好をしてきた。
胸元にふんだんにレースを使ったカットソーにシンプルな上着を重ねて、さらに今年流行のふわふわなスカートと華奢なサンダル。ビーズとか貝殻とかがジャラジャラ付いていてとっても可愛いの。だけど、多少歩きづらいのよね。都会の整備された道ならまだいいんだけど、こっちは石畳が多いしひどいと砂地の細道だったり。
だから、兄の出迎えは本当に嬉しかったわ。でも、こんな風に置き去りにされたらかえって迷惑よ。この建物のどこかにいる弟の青を探すよりも自力で歩いて戻った方が早そう。だいたい、私は兄の携帯ナンバーだって知らない。だって、持ってることすらさっき初めて知ったんだから。
「え……、ちょっと待って」
傍らに置いていたバッグを手にする前に、テーブル越しに身を乗り出した彼に制される。というか、その。手首、掴まれているんですけどっ……!
「そんなに急ぐことないでしょう。今日はもう差し迫った仕事がないし、僕も退屈していたんだ。せっかく古なじみの知り合いに会えたのに、こんな風に冷たくされると悲しいな」
急にしおらしくなった彼にそう懇願されると、何となく邪険に出来なくなってくる。
仕方ないなあ、もうちょっとだけいいかと座り直したところで、先ほどの圭子ちゃんがタイミング良くコーヒーのお代わりを持って入ってきた。しかも、今度はお茶菓子のケーキ付き。これって、車で30分くらい行った山沿いのショッピングモールじゃないと手に入らない銘柄だわ。
よりによって一番の好物のナポレオンパイを目の前にしてしまって、すっかりお召し上がりモードに入ってしまう私。ああ、情けない。でも、お昼ご飯もまだだったし、おなか空いたんだもの。
「まあ、……そうは言っても君も急いでいるみたいだし。やはりこういうのは単刀直入に言った方がいいね、あまり回りくどくても良くないな」
こっちがすっかり「いただきます」の体勢に入っているというのに。
彼は灰色の空と海をバックに、目の前のケーキには目もくれず私をじっと見据えている。膝に置いた腕をテーブルの上で組んで、少し身を乗り出した姿勢。
「今日、最香ちゃんをここに呼んだのは他でもない。君に――、僕の花嫁になってもらおうと思ってね」
手にしていた銀のフォークが滑り落ちる。それが陶器と触れ合う音が、とても遠くで聞こえた気がした。