TopNovel願わくば・扉>願わくば、恋視線・23



       

     

「いやー、心配しましたよっ! 良かった良かった、もうすっかり全快したご様子で。今回の欠勤は私の計らいで特別に有給扱いにさせて頂きました。でもお休みされた分、休日を返上でシフトに入って頂きますよ?」

 これはかなりの衝撃だった。本当に、一瞬心臓が止まったもの。

 今日は午前中の1時間ほどしか都合が付かないという話だった園長。夢乃ちゃんを見送ったあとひとりに戻った私は、吸い寄せられるように園舎の中を進んでいった。そして園庭に続くガラス戸を開いたら、いきなりこの人が目の前に現れる。

 な、何っ!? こんなところで待ってるなんて思わなかった。そりゃ園長だもの、子供が元気に遊ぶ姿を眺めるのも仕事のひとつだろう。

 だけど、やっぱり有り得ないよ。

「は……はあ」

 ちょっと待って、これって本当に一週間前と同一人物? 絶対に信じられない、どこをどうしたらここまで別人になれるの。
  それに何というか……これって「前もって考えて丸暗記してあった演説をただ読み上げてる」って感じ? 以前から芝居じみた話し方が鼻につく人だったけど、これだけ間近で接すると丸分かりだ。

「詳しいことは事務室で聞いてください。このあと私は後援会との打ち合わせが入っていますからね、これで失礼させて頂きます」

 満面の笑み。これからも期待してますよ、とか肩を叩かれて。さすがに唖然。

 一体私、何をそんなに緊張していたのだろう。あんまりに驚きすぎて、そのあとひどく脱力してしまった。頭の中はハテナマークでいっぱいだけど、どうすることも出来ない。

 園長は、どこまでも園長だった。全てに置いて、私の想像の域を大きく超えている人だった。

 

「うわー、これは想像以上だな。さすが政治家、並の心臓じゃ出来ない言動ですね」

 真っ直ぐに伸びた背中。自信のみなぎる後ろ姿を呆然と見送る。魂が半分えぐり取られた感じでいたから、すぐ背後まで近づいてきてる影があることに少しも気付かなかった。

「……」

 声の主はすぐに分かったけど、とりあえず振り向く。私、一体どんな顔をしてるんだろ。頬が強ばってぴくぴくと痙攣してる。緊張が限界まで振り切られたのかな、眉間の辺りに痛みが走った。

「ほらほら、先輩。園長とのお話も終わったことですし、どうします? 今日はシフトに入ってませんけど、少し外に出てみますか」

 新しい遊びに尻込みをしている子供を導くように、再会してからの奏くんはとても強引だ。力一杯腕を引かれて、私はパンプスのまま園庭に飛び込んでいた。かかとが砂にめり込んで、また足が止まる。
  暗がりから急に表に出て、しばらくは目が慣れない。久しぶりの空間は眩しすぎて、そしてどこまでも他人行儀に見えた。

「……どうしました?」

 なかなか足が前に出ない私に気付いて、奏くんが振り向く。その仕草はいつも通りにさりげないけど、やっぱりすごく気を遣ってるみたい。ああ、嫌だな。こんな風に心配かけるなんて。

「ううん」

 一応、首を横に振ってみせる。でもやっぱり駄目、まだ怖いな。

 

 今朝、ここまで来る途中だって、何度も何度も「やっぱりやめよう」って思ってた。幾度回れ右をして引き返してしまおうと考えたか分からない。

 ―― もう誰も、私のことなんて待ってないんだ。

 そうやって思い続けた一週間、いつの間にか私の心の中では諦めの色が強くなってた。保育士なんて、代わりはいくらでもいる。事実、この道に進みたくてもどうしても就職口が見つからなくて断念するしかなかった同級生もたくさんいた。嫌な考え方だけど、私ひとりが場所を空けるだけで新しい人が職を得ることが出来る。今この時にも順番待ちをしている人はいるのだから。

 就職して、丸二年。それとあと数ヶ月。私なりに精一杯頑張ってやってきた。きっとそのことは周囲の人たちも分かってくれてる。そう信じてた。

 だけど。

 あの、園長室で。ずらりと並んだ先輩の先生方は、愕然とする私を見てもなにひとつ言葉を掛けてはくれなかった。それどころか「仲間」として認識されてたまるものかという頑なな空気すら醸し出していた気がする。置物の人形みたいな表情が、今も瞼の裏にべったりと貼り付いたままだ。
  無理もないと頭では分かっている。私だって同じ状況に置かれたら、同じ立場を取ってしまっただろう。今の仕事を続けたければ、園長の言葉には無条件で従わなければならない。どんなに腹に据えかねる事態になっても、子供たちの笑顔を思い浮かべて乗り切るんだと教えられてきた。

 でも、辛かったんだよ。本当に……本当は嘘でもいいから優しい言葉を掛けて欲しかった。

 実際のところ、園長の言葉にはあまり堪えてなかった。妙な言いがかりを付けたり、こちらの意見をねじ伏せたりする一面があるってことは最初から分かっていたもの。それでもこの仕事に就きたくて、だから片目を瞑ろうと思ってた。だから、何があっても結構平気。

 その一方で、悲しかったのは尊敬していた先輩方の態度だ。あの場にいた人間、奏くん以外の全てが私に降りかかった災難を見て見ぬふりしようとする。一緒に仕事をしているときは色々教えてくれて、本当に有り難いなと思ってたのに。言葉で態度でいつも感謝の気持ちを伝えていたつもりだったのに。そんなの、全部全部はりぼてみたいな中身のない関係だったのかな。

 

 ―― 今の話、全部聞いてたんでしょ? 何でそんな風にこちらをちらちらとうかがっているの。

 園庭にはあのとき壁際に並んでいた顔もちらほら見えてる。見た目は子供たちのはしゃぎ声で溢れた眩しい空間なのに、カラー帽子の頭上数十センチの世界では緊張した空気が漂っていた。
「大人の事情」―― そんなことをあからさまにしては駄目だとみんな分かってるから、ぎこちない表情になる。

 こんなに早く片が付くとは思ってなかった。昨日の今日で園長との対面が叶ったことは幸いだったけど、全てすんなりと流れるとは考えられなかったもの。元の通りに仕事が出来るとは思えない、でも子供たちに精一杯出来る限りの対応をしたい。その思いだけを胸に戻ってきた。

「駄目ですよ、先輩」 

 私の気持ちをどこまで分かっているのだろう、奏くんはきっぱりそう言って促す。

「そんなに上の方ばかり見ていてどうします? 目線を下げてみたらいかがですか、そうすれば迷いなんて吹き飛ぶと思いますけど……」

 思い思いに走り回る子供たち、色とりどりのカラー帽子が絡み合ったり離れたり。そんな中、時折こちらを振り返る視線。

「みんな、先輩のことをずっと待っていたんですよ。今日だって本当なら親御さんがお休みで家にいるはずなのに、わざわざ登園してきた子もいます。……ね、先輩だってそうでしょう。子供たちに会いたいから、戻って来たんですよね?」

 

 ―― いつでも引き返すことは出来る、私がリタイヤしたって代わりなんてすぐに見つかる。

 心の弱さから、ついつい「逃げ道」を探している自分がいた。だけど、それじゃ駄目。約束が果たせない。元通りに上手くいくなんて、最初から期待してないよ。それでも……諦めないで食いついて、前のめりに進んでいけばいい。

 

「うん、……そうだね」

 こちらから手をぎゅっと握り返したら、奏くんはとても驚いた顔をした。そんな彼に微笑み返して、そっとをほどく。

「みんなーっ、お待たせっ!」

 そのときの私は、少し改まったスーツ姿。だけど躊躇いもなく、砂場に駆けだして行った。

 すぐに集まってくるピンク色の帽子たち。飛び交うおしゃべりに、さしのべられる小さな手のひら。それがどんなにどろどろに汚れていても、私にはたまらなく愛おしかった。

 


 午前中だけでお帰りになる子供たちを見送って、私もそのまま仕事上がりすることにした。

 着替えも持ってきてないし、ロッカーはこの前全部片付けちゃったし。とにかく一から支度をしなくちゃ、仕事に戻れない感じだ。シフト表を見たら明日の日曜日もしっかり休日勤務が入ってるし、体調も整えなくちゃ。久しぶりに思い切り身体を動かしたら、もうあちこちが痛いの。

「はい、濡れタオル。裾の方とか、きちんと拭いておいた方がいいですよ?」

 誰もいない事務室奥の休憩所。シートに座り込んでしまった私に、奏くんがかいがいしく世話を焼いてくれる。
  前から分かっていたことだけど、本当にいい子よね。損得抜きで周りに尽くせるのって、すごいよ。自分の立場が悪くなることも、全く厭わないんだもの。見ていて、清々しいばかり。でも真っ直ぐすぎてちょっと心配にもなっちゃうかな?

「うーーーん、ありがと」

 ああ、硬くて座り心地の悪いソファーでも一休みするだけで極楽の気分だわ。気を抜くとこのまま、すーっと眠りに入ってしまいそう。耳元でさえずる声も気持ちいいんだもの、「戻ってきたんだな」って実感できる。

 ……でも、何だかちょっと違う気もするけど。

「来週からはプールも始まりますし、週末には保育参観もありますからね。慌ただしい一週間になると思いますよ? でも良かった、みんなの嬉しそうな顔を見てホッとしましたよ」

 まだ仕事に戻り切れてない私を気遣って、色々話しかけてくれる奏くん。柔らかい笑顔、さりげない仕草。そうなんだな、彼がこんな風に側にいてくれることで私もしっかりと立ち続けることが出来たんだ。ひとりで全部やってたとか、そういうのは勝手な思い上がりだったんだね。

「そうかー、じゃあ忙しくなりそうだね。私も頑張らなくちゃ、とにかくは気の持ちようで乗り切らなくちゃ!」

 

 そのときまで。

 何だか、奏くんが時計をちらちら確認するのが気になっていた。何か用事でもあるのかなと思ってたけど、こちらから聞くのも変かなとか。そうしているうちに、彼の方から切り出してくる。

 

「実は……これで全てが元通りと言うわけではないんです。あの、これから付き合って欲しいところがあるのですが、お時間は大丈夫ですか?」

 別に予定もないし、何となく頷く。だけど、奏くんの表情は薄暗いままだった。

 


「……え、嘘」

 駅前まで出て、そこから路線バスに乗る。

 駅ビルで花かごとお菓子を買う姿を見て「何だろう」って思ったけど、何も説明されないから何となく見過ごしていた。
  そして到着したのは住宅地を抜けた場所にある総合病院。案内板を見ながら、奏くんはどんどん先に進んでいく。

 混み合った外来受付を横に曲がって、エレベーターに乗る。ボタンを押されたのは上の方の入院病棟だった。真っ直ぐに伸びた通路を矢印に沿って進んだあと、彼は立ち止まって手にしたメモ用紙を確認する。花かごに巻かれたセロファンが空調からの風に吹かれてかさかさと音を立てた。

「あの……、奏くん?」

 うーん、やっぱりちゃんと説明してもらった方がいいよな。そう思って私が口を開いたのと、目的の部屋が見つかったのがほとんど同時だったみたい。二度、軽くノックをしてから奏くんはノブに手を掛けた。

 

「……」

 大きくドアが開いたその先。

 ベッドが頭を向こうにして置かれた、ごくごく普通の個室になっていた。壁紙は淡いピンク、オフホワイトのカーテン越しに柔らかな日差しが注いでいる。腕から伸びた点滴、ぽとりぽとりと雫が細い管を降りていく。

 ―― どうして……?

 薬が効いてるのかな、よく寝てる。信じられない気持ちで振り返ると、奏くんの表情には先ほどよりもいくらか安堵の色が戻っていた。

「一昨日、勤務中に教室で倒れたんです。処置が早かったから、大事には至らなかったと聞いていますが……俺も突然のことですっかり混乱してしまって――」

 ことり、と背後で音がする。横たわったままの人がゆっくりと瞼を開いてこちらを見た。

「……最香?」

 青白い手が、微かに動く。そのときもまだ、私は目の前の光景を現実のものとして受け入れることが出来ないでいた。 

「ごめんね、びっくりさせて」

 

 産婦人科―― 私にはあまり縁のない場所だ。ゆくゆくはお世話になることもあるのかも知れないけど、現時点では。
  病室特有の空気にすっかり飲み込まれてしまって、なかなかこちらから言葉を掛けることが出来ない。奏くんがベッドのすぐ側に丸椅子を運んでくれて、ようやくゆっくりと向き合うことが出来た。

 

 知らなかった、自分のいなくなった現場で大変なことが起こっていたなんて。

 もしもその場に私もいれば、もっと迅速な対応が出来ただろうか。全部捨てて何もかもを忘れて逃げちゃうつもりだった、その投げやりな気持ちが招いたことなの……?

「あのね、……もう少しで赤ちゃん、駄目になるところだったんだって」

 今も予断を許さない状況が続いていることは様子を見ればすぐ分かる。でも最悪の状況は抜けたのだろう、奈津の頬には淡く笑みまで浮かんでいた。

 妊娠してたなんて、聞いてない。きっと本人はもっと前から気付いていたはずなのに。何で、言ってくれなかったの? 何で……気付いてあげられなかったんだろう。
  自分自身に余裕がなさ過ぎて、周囲が何も見えてなかった。今となっては情けなくて仕方ない、私は……結局、自分のことしか考えてなかったんだね。

「こっちこそ、ごめん。本当に……ごめんね」

 口惜しすぎて、涙も出て来ない。ひんやりとした手を必死で握ると、奈津も出来る限りの力でそれに応えてくれた。

「私、欲張りだったんだね、絶対に弱音なんて吐くわけにはいかないって思ってた。少しでも辛いなんて素振りを見せたら、すぐに仕事を辞めさせられちゃうもの。ギリギリまで頑張りたかったの、何も考えずに働いているときは嫌なことばっかりだと思ってたのにね。せっかく担任になれたんだもの、……最香と一緒に最後まで頑張りたかったよ」

 部屋に置いたままだった携帯には、何度も何度も連絡を取ろうとしてた奈津の履歴が残ってる。だけど、私は昨夜のうちにそれを確認してもまだ素直になれなかったんだ。奈津を認めることで自分が負けるみたいな……そんな卑屈な考えに惑わされてたみたい。

「今はゆっくり休んで、……何も心配しなくていいから。私が、奈津の分まで頑張るから」

 結局は自分との戦い、自分に負ければ全てが終わる。私にはまだやらなくてはならないことがたくさんある、途中で投げてしまっては駄目なんだ。

 

 ―― 限界まで、もう一歩も足が先に進まなくなるそのときまで走り続けたい。

 

 その瞬間。

 まだまだ不安定な足場の上で、私は新しい希望をしっかりと指先に掴もうとしていた。

 

 

2007年3月26日更新

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