TopNovel願わくば・扉>願わくば、恋視線・19



       

     

「あれ、干物屋の最香ちゃんじゃないかい?」

 塗料が半分はげているバスの停留所。虫食いパズルのようになった時刻表を指で辿っていると、すぐ脇で軽トラックが止まった。

 

 どうやらベルの散歩を終えて、ぱぱっと身支度を整えてから。さてどうしたものかと悩んでしまった。

 病院に行けなんて、簡単に言われても困る。ここは都会のど真ん中とは違うんだよ。駅前にはタクシーなんて待っていてくれないし、もしも呼び寄せたとしても到着するまでどれくらい待たされるのやら。もちろん上り坂の山道を自転車で頑張る気力はない。きっと辿り着く前に私の方が疲労で病院送りになってしまうだろう。

 ……ま、知り合いが倒れたと聞けば、お見舞いに行くのも当然のことだわ。目的地がはっきりしたんだから、あとはそこに辿り着くまでを考えなくちゃ。
  でもでも、どういうこと? 家族にも内緒にしておけなんて、随分なことよね。それじゃあ、兄に車を出してもらうことも出来やしない。私自身はペーパードライバーで何年もハンドルを握ってないし、そうしたら残る手段は路線バスくらいだ。

 

「こんにちはーっ!」

 あ、八百屋さんのおじさんだ。ここは愛想良く挨拶しておこう。どんなときにもお行儀良くぬかりなく、そうやって生きていくのが田舎の掟。ひとたび悪い噂が立ったりしたら、それこそ致命傷だ。どんな風に尾ひれが付いて人から人へ伝わっていくのやら、それを想像しただけで背中を冷たい汗が流れていく。

「なんか難しい顔してる様子だけどな……」

 髪も眉毛もごま塩に白髪交じり。確かウチの父親よりもいくらか年上って聞いた気がする。初孫の男の子が今年小学校に入ったとか。日に焼けた顔をくしゃくしゃにした笑顔で、おじさんはのんびりと言う。

「そのバス、しばらく前に赤字で廃線になったって。もしかして、知らなかった?」

 


 とりあえずは舗装道路なんだけど、そこらじゅうに穴ぼこの空いた県道。しかも曲がりくねった先の見えないこと、とてもこんな道を運転する気にはならないわ。
  免許を取った当初はまだ学生だったこともあって家の車を結構乗り回してたけど、広くて車が楽にすれ違える道が専門だった。

「良かったよ、行き先が一緒で。俺も隣りに可愛い女の子が乗っててくれると張り合いがあるなあ〜」

 うわ、ハンドルから片手を外して膝を叩くのは止めて。そんなことをしてる間にすぐ目の前のカーブから対向車が飛び出してきたらどうするの? まあめったやたらにあることじゃないけど、全然ないわけでもないし。

「浜谷の親戚が山の上に入院したって聞いてね。何でもリハビリに長く掛かってしまいそうだとかで、話を聞いちまった手前、全く顔見せしないのもどうかと思ってね。大通りを回った方が安全だけど、あっちだと倍近く暇が掛かるからな」

 上機嫌のおじさんはカラカラと笑いながら言う。対する私は「高校時代の友人に子供が生まれたというのでお祝いに……」とか適当な言い訳をしておいた。これが小学校や中学校だと町内になっちゃうから「それってどこの誰?」と言うことになってしまう。この辺は頭を使ってうまく切り抜けないとね、ああ私も嫌な大人になってしまったものだわ。

「こっちの医者だったらあんなところに回したりしないんだろうけど、浜谷は地元出身じゃない医者が多くいるって言うしな。ま、大学病院とかに放り込まれるよりは近くていいってことか」

 比較的仕事の楽な午前中に、ひとり抜け出してきたのだという。もちろん早朝から仕入れに行ってきたからすでに一仕事終えていることになるけど。七十や八十になってもバリバリと現役で働いている人が山のようにいる、田舎の元気の源はこの辺にあるんだろう。

「そうですねー、大学病院じゃそれこそお見舞いが一日がかりになってしまいますよ」

 ちょっと分かりづらい内容もあったけど、適当に相づちを打っておくことにした。地元の昔からの人たちってみんな自分のペースで自由気ままに話しかけてくるから、半分くらいはよく分からない話になってしまう。私が産まれる前にとっくに亡くなっていた近所のおばあちゃんのこととか、何度聞いても想像できませんって。

 それでも、あれこれと詮索されるよりはずーっと気楽ではあるけどね。

 年代物の軽トラックがそれでもどうにか頑張ってくれて、無事に山頂にそびえる白い建物が見えてきた。山頂……とは言っても、等高線別に色塗をすると真緑になってしまう「関東平野」の南端。山の多い地方の人から見たら、こんなのは「丘」にしか思えない代物なんだろう。
  病院の正門から真っ直ぐに作られた新しい道路。小野崎とは「お隣さん」になる浜谷市とここを繋ぐぴっかぴかの幹線道路だ。

「んじゃ、また一時間後にここでいいかな?」

 お見舞いの大きな果物かごを手に、おじさんが言う。整形外科の病棟へと進んでいく背中を見送ってから、私もくるりときびすを返した。

 

「……最香さん! 良かった、青くんと連絡つきましたか!?」

 指定された病室の前までようやく辿り着くと、そこに待ちかまえていたのはついこの間会ったばかりの顔だった。初めて旗之助と会ったときに、応接室までコーヒーやケーキを運んでくれた圭子ちゃん。あのときとは別人のように青い顔をしている。

「さ、早くこちらに。どうぞお入りください」

 有無を言わせぬ力で腕を引かれる。細身の彼女のどこにそんな力が宿っているのか、驚いてしまった。

「え、でも……」

 患者のネームタグを部屋の入り口に付けないのは病院の方針だろうか? とにかく青のメモにあったのと同じナンバーの病室。そのドアには堅苦しい文字の「面会謝絶」という札が掛かっていた。

「いいの? こういうのって部外者は絶対に入れないって聞いてたけど――」

 ドアの向こうは一面に白いカーテンが掛けられている。いかにも厳重体勢といった感じだ。つんとした消毒液の香り、何かの機械がかちかちと動いている音が中から聞こえて来る。

「大丈夫ですよ」

 何食わぬ顔で、圭子ちゃんは告げる。よくよく考えてみると、この子のことって小学生の頃の印象しかない。登校班で一緒に通っていたおぼつかない足取り。今の彼女とは似ても似つかない。

「あれはただのカモフラージュ。ここの院長先生は数年前に議員先生と医療器具の納品のことで対立してしまって、それからは断絶状態になってるんです。知ってますか? 小野崎の人たちって、絶対にここを使わないんですよ。みんな遠くても別の病院まで行くんです」

 とっておきの内緒話をするように、圭子ちゃんはさらに声をひそめる。

「だから、……今回はここを選んだんです。もちろん救急車なんて呼びませんでしたよ、私たちがお連れしました。どうしても議員先生に知られることは避けなくてはなりません、みんな専務を守るために必死なんです」

 

 あ、そうか。

 だからさっき八百屋のおじさんは何となく後ろめたそうな感じだったのか。別に悪いことをしてるわけでもないのに、妙にコソコソしちゃって。色々言い訳を並べるから何だろうなと思ってた。ようやく謎が解けたわ、やっぱり田舎って色々大変。義理と人情が複雑に絡み合っていて、動きにくいことこの上ない。

 

 白いカーテンをひらっとめくって、彼女は中の様子を確かめてる。そしてすぐにこちらに向き直って告げた。

「今は点滴のお薬で良くお休みになってます。でもそろそろお目覚めになる時間かと思いますから……最香さんのお顔を見れば、きっとすぐにお元気になりますよ。本当に……専務は頑張りすぎなんです。身体を壊すのも当然だと思います」

 カーテン越しにほのかに外の光がうかがえるだけのほの暗い空間。俯いた圭子ちゃんの輪郭が、ふっと揺れた。

「だ、大丈夫!? もしかして……圭子ちゃんもゆっくり寝てないんじゃない? 駄目だよ、ちゃんと休まないと」

 先ほどの青の様子を見れば分かる、組合のみんなはいっぱいいっぱいで働き続けているんだ。何がそんなに彼らを突き動かしているんだろう。このカーテンの向こうに眠る人は、そんなにも大きな力をもっていると言うのか。

「平気です、これくらい何でも……組合に残ったみんなも頑張っているのに」

 口ではそんな風に言うが、かなり限界に来ているという感じだ。私の顔を見たことで、張りつめていた心も緩んだのだろうか。嫌がる彼女をどうにか傍らの長椅子に座らせると、それまで静かだった向こう側から小さな物音が聞こえた。

「……最香ちゃん?」

 低くて、かすれた声。私が知っているその人のものとは思えないほどに弱々しい。でも、その呼び声に導かれて私は白い要塞の内側を覗いた。

 

「……あ……」

 

 人間って、短期間でこんなにも変われるものなんだろうか。

 もっと別の感情が湧いても当然なのに、その瞬間に私の脳裏に浮かんだのはそんな言葉だった。とにかく……何て言ったらいいのだろう、信じられない光景。点滴の管を腕にくくりつけたままのその人は、それでも私の姿を確認して淡く微笑む。

「信じられない、……こんな風に会えるなんて夢みたいだ」

 足がすくんで動けない。微かに動く指先が私を求めていると知りながら、それでも揺れるカーテンの側で呆然と立ちつくしていた。

「最香さん」

 私の影になるように立っていた圭子ちゃんが耳打ちする。

「どうぞお近くに行って差し上げてください、私はしばらく席を外しますから」

 

 振り向くことは出来なかった。だって、その声は低く震えていたから。そっと背中を押されると、今度は自然に足が前に出た。そのままベッドの脇まで辿り着く。

「驚かせてしまってすまなかったね。本当にたいしたことないのに、周りが大騒ぎするから参ったよ。でも……まさかこっちに帰ってきてるなんて。どうしたの? 今日は休み……のはずないよね」

 まだ完全には薬が切れてないらしく、なんとなくぼんやりした顔向きだ。それでもどうにか口を開いて会話をしようとするその姿が痛々しい。

「ああ、……今日が何曜日なのかも思い出せない。全く情けない限りだね、こんなに色々巻き付けられてまるで標本にでもなった気分だ」

 もしも電話越しにこの声だけを聞けば、私はいつものように毒づいていたかも知れない。旗之助自身もそんな反応を期待しているのかな、だけどそんなことは絶対に出来ないよ。

「お久しぶりです」

 最後に出会ってから、まだ半月も過ぎていない。あのときは希望に満ち溢れた表情をしていた人が、今では青白い顔でベッドにくくりつけられている。

 こういうときにどんな風に言葉を掛けたらいいのだろう、すぐにはそれが思いつかない。ついさっきまでは自分のことだけであんなにどろどろと落ち込んでたのに、どうしてこんな状況にまで置かれなくちゃならないの。

「ああ、……日が差してきたね。今日は久しぶりに心地よさそうだ」

 大振りの窓は、隙間なくカーテンで覆われていた。就寝中だった旗之助に配慮したのだろう、もともとは南向きの過ごしやすそうな部屋みたい。

「うわー、いい眺め……!」

 レースのカーテンだけ残して開けはなってみる。その隙間から覗いたら、遙か向こうに霞む海が見えた。さすが売り文句通りの眺めね、三方向に海が臨めるなんて贅沢すぎる。こんなことに感動しているほど暇じゃないんだけど、でもやっぱりすごいものはすごい。

「ふふ、そうでしょう」

 まるで自分が誉められたように、旗之助はこの上なく嬉しそうな顔になる。でも頬に浮かんだ微笑みが、次の瞬間にはすっと引いていく。

「でも……やはり小野崎の海はこんな風に遠くから眺めているのが丁度いいね。近づきすぎると余計なものまで見えてきて、次第に煩わしくなる。だからこそ昔の人は言ったんだね『ふるさとは遠くにありて思ふもの』、とかね」

 

 点滴の管を付けてない方の腕がゆっくりと動いて、細い指が彼自身の額を辿る。

 一体私は今までこの人の何を見ていたんだろう、表向きの顔ばかりを眺めてその本質には全く触れてなかったことに気付く。

 

「もう、辞めようかと思ってるんだ」

 その言葉は白い空間をゆっくりと漂って、長い時間を掛けて私の胸まで落ちてきた。

「……え?」

 主語のない訴えに、深い考えもなくそう反応していた。そんな私の態度がおかしかったのか、一度は消えた笑みが彼の頬に戻ってくる。

「これ以上踏ん張ったところで、さらに亀裂は広がるだけだと思うんだ。所詮、こんな昔ながらの土地では現代風の商いなんて無理だったんだよ。未だに僕を信じて必死に持ち堪えてくれているみんなには申し訳ないけど、そろそろ限界だ」

 ―― 一体、この人は何を告げようとしているのだろう。

 変わり果てた姿を見ただけでも十二分に驚いたのに、この上にさらに上乗せは勘弁して欲しい。そりゃ、分かるよ? 疲労で倒れて気弱になってるのは。でもたったこれだけのことでへこたれるんじゃ、最初からやらなかった方がマシじゃない。そもそも、勝算があったからこそ、乗り出したんでしょう……!?

「げ、限界なんて軽々しく言わないでください! まだ初めて半年足らずでしょう? こんなに早く結果が出る方がおかしいですよ、大漁さんだって色々勉強してそれくらいはお分かりのはずです」

 別に本人が「辞める」っていうなら、私に引き留める権利はないわ。

 でも、さ。遠く離れていてその頑張りをちょこっとしか知らなかった私だって慌てちゃう衝撃のひと言だよ? ずっとそばで一緒に頑張ってた部下の人たちから見たら、これって「裏切り」以外の何者でもないと思う。

「ゆっくり休んで早く元気になってください、そうしたらそんな後ろ向きの発言はなくなるはずだわ。あなたには信じて付いてきてくれる仲間がたくさんいます、最後まで必死に頑張るべきですよ」

 

 ああ、何言ってるんだろう。もう訳が分からないよ、自分。

 ものすごく情けない気分、言いたかったのはこんな言葉じゃないのに。ただですら精神的にも肉体的にも弱ってる人なんだよ、さらに痛めつけるようなことをしてはいけないって頭では分かってるはず。

 

「……やっぱり、最香ちゃんには参るなあ」

 喉の奥で低く笑って、彼は視線を天井に移す。白くて少しまだらの模様が付いているそれを、届かない何かを辿るように追っていく。

「分かるんだ、船が沈もうとしているのが。だったら、被害は最小限に抑えた方がいい。今ならみんなを元の場所に戻すことが出来る、溺れるのは僕ひとりでいいから」

 

 正午を告げるサイレンが、山裾に遠く近く響き渡る。音のない海、その白い飛沫が砕け散る様を私は窓越しにぼんやりと見つめていた。

 

 

2007年2月2日更新

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