TopNovel願わくば・扉>願わくば、恋視線・22



       

     

 朝七時ジャスト。

 昨日の夢も覚えてないほどにたっぷりと眠った私は、すでにシャワーを浴び終えていた。夜にもゆっくりとバスタブにつかったんだけどね、ここはやはり「気合い」が大切かなと。

 スイッチを入れたTV画面では、爽やかな笑顔のアナウンサーが週末の天気を伝えている。

 そうかー、明日からはまた梅雨空だけど今日一日はどうにか青空が続くのか。それなら布団も干していこうかな? いい加減じめじめしているし、ここは布団乾燥機よりも天日干しですっきりしたい。

 当たり前の土曜日。

 丸ごと一週間が、切り取られてなくなってるみたいな気分。時々こみ上げてくるマイナスの感情は、深呼吸と共に吐き出してしまおう。何もかもが中途半端、どれから手を付けていいのかさっぱり分からない。それでもどうにか自分なりに優先順位を決めて取り組んでいかなくては。

 

 ―― ピンポーン!

 

 そろそろトーストでも焼こうかなと思ったそのときに、突然のインターフォン。週休二日が当たり前な世間では「休日」となる今日、こんな時間に訪ねてくるのはさすがにマナー違反だと思う。

「……はーい!」

 ま、大家さんだと困るしね。ドア越しにでも対応しよう。そう思って覗き窓をうかがった刹那、私は慌ててドアを開けていた。

「おはようございます!」

 うわ、いきなり満面の笑顔だよ。

 しかも朝日を浴びて、眩しさが120%になってる……! さらに青空まで突き抜けそうな元気の良い挨拶。ドアレバーを掴んだままの私の手が、じっとりと汗ばんできた。

「いいお天気で良かったですね! さあ、早く行きましょう。待ちきれなくてお迎えに来てしまいましたよ!」

 ……ええと。

 そう言えば、昨日の別れ際にそんな約束をしたようなしないような。かなり長時間電車に揺られたために頭はぼんやりしていたし、実はあまり覚えていなかったりする。別に小学生じゃないんだし、連れだって出勤しなくたっていいよね? けど――。

「うわっ、……ちょ、ちょっと! 奏くん、まずいって!!」

 階下に響く竹箒の音。ぼんやりモードの私にも、ようやくスイッチが入った。

「もう、待ってくれるなら駅前だって良かったのに! 何でここまで来るのよ、困るわよ。すぐ支度する、だから素知らぬふりで先に歩いてて……」

 だって、下にいるのは絶対に大家さんちの奥さんだよ。あの箒の音に間違いはない。

 とにかくあの方は目ざといやら耳がいいやらで、チェック厳しいんだから。奏くんは一応「男の人」なんだし。早朝に部屋の前までお出迎えなんて知られたら、あっという間にご近所中に噂が広まっちゃうわ。

 私がこんなに慌ててるというのに、何できょとんとしてるのよ! 少しは空気を読みなさいって、分かってるのっ!? うわ〜ん、もう嫌だっ!

「大澤く〜〜〜んっ!」

 ―― と。

 階段の下まで来てぴたりと止まった箒の音。続いて大家さんの奥さんの呼び声が聞こえてきた。

「そろそろコーヒーが入ったと思うから。斉木さんの支度が出来るまで、ウチで一服いかがーっ?」

 手すり越しに「はーい」と返事をする背中を、私は信じられない気分で見つめていた。

 


「最初は成り行きみたいなものだったんですけどねー、気が付いたらこちらに通うようになっちゃって」

 きっかり五分で支度を終えて大家さん宅に伺うと、奥さんにどうぞどうぞと私まで応接間に案内されてしまった。

「本当に助かっちゃったわ〜、急に持病の腰痛が悪化してね。いつものお散歩をどうしようかと思っていたら、ばっちりのタイミングで大澤くんが通りかかって。ほら、見て。人見知りなティアラちゃんが、大澤くんにはべったりなのよーっ!」

 大家さん宅の愛犬は、お顔のくちゅっと潰れたブルドッグ。

 この子がとにかく良く吠えて、私なんて何年も毎日のように顔を合わせているのに未だに親の敵のように威嚇されてる。それが、……その猛犬が奏くんの足下ですりすりと甘えてるってどういうこと!?

「もう、ここは渡りに船って感じでね。とにかくはその日一日だけお願いすることにしたの。そしたら、大澤くんは律儀に毎朝来てくれるようになって。お陰で私の腰も全快、お散歩のバイトも今朝でお終いだわ」

 すっごく残念です―― という気持ちが顔にありありと出ている奥さん。どうもふたりの話を総合してみると、園を追い出された私のことが心配でわざわざアパートまで訪ねてきてくれた奏くんが奥さんとばったり鉢合わせしたらしい。それにしても一週間やそこらでこんなにうち解けてるってどういうこと? 奥さん、顔のネジがゆるゆるになっちゃってるし。

「今はこんなお若い男性も保育士さんになってるのねー、本当に驚いたわ。しかも男前だし、礼儀正しいし。これじゃあ、他の先生方も保護者のママさんたちも放って置かないでしょ! 全く罪な人ねー、斉木さんもときめいちゃってお仕事どころじゃないでしょう」

 ……いや、別に。いくら何でもそこまでじゃないんですけど。

 もう、奏くんったら。しっかりとバイト料まで受け取っちゃって、いいのかしら。すごいわ、あの奥さんとこんなに仲良くなっちゃって。本当に信じられない。

「またいつでもお気軽にいらしてね、ティアラちゃんも楽しみにしているから。大澤くんなら朝でも晩でも24時間オッケーよ。……そうだわ、一階の角部屋の方が退室されるみたいだからそのあとにどうかしら? 大歓迎よ、お家賃も勉強させて頂くし!」

 あんまりお引き留めしても……とかいいながら、奥さんは玄関の外まで私たちを追いかけてくる。ついでにブルドッグちゃんも一緒に。うわあ、今朝はピンクのリボンを付けてるー。小首をかしげて可愛いポーズを取ってるつもりなのかなあ……、奏くんって動物にもモテるのね。

 

「……すみません、驚かせてしまって」

 まだシャッターを下ろしたままの商店街。ふたり並ぶと窮屈な歩道、車の通りがまばらなのをいいことに奏くんは車道にはみ出して歩いてる。

「いいよ、今更。もう慣れてるし」

 神妙な顔で告げる姿が可愛くて、ついついこちらまで顔がほころんでしまう。

 本当にね、すごいよ。奏くんはどこへ行っても人目を引くし、誰とでもすぐに仲良くなっちゃうし。大人も子供もとにかく多種多様な人間が集まってくる保育園、やっぱり人好きのするタイプは得だなといつも思ってた。

「だけど、……まあ。やっぱり今朝は驚いたかな? あの奥さんずっと苦手だったから、これだけたくさんお話ししたのも初めてだと思う」

 人間同士だから、合う合わないってどうしても仕方ないことだと思ってた。私だって大人だもの、もしも苦手な人種がすぐ側にいてそれでもお付き合いを続けなければならないとしたら、自分の中で線引きをして出来るだけ距離を置くしかないと考えてる。

 だけど、奏くんは違う。どんな人が相手でも、必ず全力でぶつかってく。端から見てもすごく危なっかしくて、いつもハラハラしちゃうほどに。

 それでも、……きっと彼のそんな気性に私はずっと助けられてきたんだと思う。

「ふうん、そうなんですか? 俺にはそんな風には見えませんでしたけど。あの大家さん、とても気さくでいい方でしたよ。最香先輩と連絡が付かなくて困ってたら、親切に声をかけてくれて。実はご自宅の住所を教えてくださったのもあの方なんです」

 人がいいというか、何というか。袖振れ合うも多生の縁とやらで犬の散歩まで引き受けて、毎日毎日律儀に通ってきてたなんて。何だか、奏くん自身が忠犬ハチ公に見えて来ちゃうよ。別に待っててくれなんて頼んだ訳じゃないのに、もう二度と戻らなくてもいいと思ってたのに、……それなのに。

「―― あ、駄目ですよ」

 私の表情が少しかげったことに気付いたのかな、奏くんは急にそんな風に切り出す。眉毛がちょっとだけ上がって、精一杯厳しい顔をしているつもりなんだろうな。それくらいじゃ全然怖くないんだけど。

「余計なこと考えるの、よしてください。とにかく園に行きましょう、そうしないと始まりませんから」

 


 週末で人通りもまばらな大通りを抜ければ、あっという間に園の前まで辿り着く。

 出来るだけ気にしないように、それだけを心がけて来たわけだけど。それでも見慣れたエントランスが近づいてくると、私の心臓の音がどんどん加速していった。

「先輩?」

 そんなこちらの変化に気付いたのだろうか、斜め前を歩いていた奏くんがくるりと振り返る。大丈夫だよと首を横に振りながら、私はどうにか自分の鼓動を抑えようと必死になってた。

 ―― そうだよね、奏くんだって本当は今日お休みなのに。

 別にひとりだって大丈夫だと思ってた。だけど、奏くんの方から「ご一緒します」と言われてしまったから断り切れなかった感じ。少しいかり肩になった背中、前よりも逞しく見えちゃうのは気のせい?

 うん、……なんかね。違うんだもの、奏くんが。私の知ってる当たり前の姿とはどこか変わってきてる気がする。そんなはずないよね、ただ久しぶりだからそう見えるだけなんだよね。奏くんは奏くんのままだよ、いつまでもそうじゃなくちゃ。

「ほら、先輩――」

 もう一度向き直った奏くんが向こうを仰ぎ見たそのときだった。

 

 ―― 嘘。

 

 視界に飛び込んできたその情景が、にわかには信じられない。

 開け放たれた自動ドア、そこから飛び出してくる桃色のつば付き帽子たち。ふたつがよっつ、よっつがやっつ。あっという間にエントランスを埋め尽くしてしまう。

「わーっ、モカせんせいっ!」
「モカせんせいだっ、ほんとにモカせんせいだーっ!」

 自分から足を踏み出した感覚はない、それでも気が付くと私は子供たちの真ん中にいた。何が起こったのか良く理解できなくて、途方に暮れてしまう。確か今日は保育参観日とかじゃないよね? こんなに……たくさんの子たちが土曜保育に集まるわけないのに。

「せんせーっ、どうしたの?」
「なんで、泣いてるの? だれかにいじめられたのっ!?」

 ぎゅうぎゅうと押しくらまんじゅうの状態、両足で踏ん張っていても強い力に身体が流れそうになる。たくさんの歓声、笑顔、手のひら。今、私の中の血液が再び体内に流れ出す。

「ううん、……違うの。ちょっとね、目にゴミが入っちゃっただけだから――」

 

 あとから聞いた話。

 昨晩のうちに、奏くんが「もも」組の連絡網を使って今朝私がここに来ることを伝えてくれたんだって。どうしてそんなことまでしてくれるんだろう、よく分からない。せっかく念願のクラス担任になれるところだったのに、自分からチャンスを握りつぶしてしまうなんて。

 こんなに私のために頑張ってくれなくていいんだよ。でも、無意識のうちに出来ちゃうのが奏くんなのかな。

 

「さー、みんなはしばらく園庭に出てようか? 最香先生は大事なお話があるからね、それが終わったらすぐに行くよ」

 子供たちに負けないくらい嬉しそうな奏くんの笑顔。ガキ大将みたいにピンク帽子たちを先導していく。
  ずらりと並んだ靴箱の向こう、園庭に続く引き戸を開けて担当の先生に何かを伝えているみたい。太陽の光をいっぱいに浴びた空間はおとぎの国のように暖かに見えた。

 

「……モカ、せんせい?」

 久しぶりの懐かしい風景にぼんやりと見入っていると、ふと後ろから声がする。園庭の賑わいにもかき消されそうな小さな響き。取りこぼさないようにゆっくり振り向く。

「……あ」

 柱の影から、心細そうにのぞき込む眼差し。

 ふっくらした頬の脇で揺れる細いお下げ髪。その先に結ばれたひよこ色のリボン。お花柄のワンピースもさりげなくレースで飾られた靴下も、ひとつひとつが親御さんのきめ細やかな愛情に包まれてる。特別に大切に育まれてきた命だと言うことが、その姿から手に取るように分かった。初めて出会ったその日に。

「夢乃ちゃん」

 せんせい、ってもう一度呼んでくれようとしたのかな。震えるピンクの口元が微かに動いて、でも何も聞き取れなかった。無意識のうちに腰を落として、両手を広げる。彼女は真っ直ぐに私の腕に飛び込んできた。

 しばらくは泣きじゃくる小さな身体を抱きしめるだけで精一杯だった。心細さも愛しさも、その全てが詰まってるぬくもり。この世に生まれ落ちてから、まだ片手に足りるくらいしか生きてない。だけど、大切なものは全部知ってる。

「……すみません」

 静かに歩み寄ってくる男性に心当たりはない。一体どなたなのだろうと思っていると、彼の方から再び声を掛けてきた。

「妻は今日、外せない会合があってこちらに来ることが出来ませんでした。いずれ……その、日を改めて。必ずお目に掛かるようにさせますから」

 ―― 同じ、瞳の色。

 それを確認して、私はゆっくりと頭を下げた。

 まだ言葉がまとまらない、何と告げたらいいのか全く分からない。でも、もしも掛け違えたボタンが並んでいるとしたら、面倒でもひとつひとつ外してもう一度最初からやり直さなくてはならないだろう。

「さあ夢乃、そろそろ時間だよ」

 震える背中にそっと手を当てて、ぎこちない仕草で促す。普段は単身赴任で、ひと月かふた月に一度しか家に戻ってこないパパさんだって聞いてた。ふたりのやりとりの間に、まだまだ他人行儀な雰囲気が漂っている。

 これからおばあちゃんちに行く用事があるのに、その前にどうしてもと遠回りをしてここまで来てくれた。パパと娘の短い会話からそれが分かる。

「せんせい、げつようびもくる? かようびも、そのつぎも……ちゃんとくるよね? もうおやすみしたりしないよね?」

 まだ私の服を握りしめたまま、涙をいっぱいに溜めた目でこちらを見つめている。あふれ出しそうな不安が引っ張られた袖からじんじん伝わってきた。それだけでもう胸がいっぱいになって、どうやって返事をしたらいいのか分からない。

「うん、大丈夫。約束するよ」

 そのときはまだ、何の確信もなかったのに。私は躊躇いもなくそう答えていた。

 

 

2007年3月9日更新

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