和歌と俳句

齋藤茂吉

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新春

過去にして円かなる日日もなかりしが六十二歳になりたり吾は

還暦の僅かの歌を夏のころ手帳のすみに作りおきたり

大きなる時にあたりて朝よひの玄米の飯も押しいただかむ

ゆたかなる稔をさめて新しき年を祝がむとあぐるこゑごゑ

備後なる山の峡よりおくりこし醤を愛でていのちを延べむ

穉くてありけむ時のごとくにて麦飯食めば心すがしも

麦の飯日ごとに食めばみちのくに我をはぐくみし母しおもほゆ

あらた米すでにをさめてみちのくは日毎夜毎に雪ふるらむか

青々とそよぎたりし茅のうらがれて既もきびしき霜をかうむる

万年青の実くれなゐふかくなるころをわが甥がひとり国境へ行く

翁にてわれはすわりぬ傍にくれなゐの梅くれなゐの木瓜

あわただしくも湧きいで来つる心あり臥所にひとりこやらむとして

三月の十九日夜半茫茫とわれの体に熱いでて居り

日をつぎて空晴れわたる三月の大切なる時に風邪を引きたり

ただひとつ楽しみとする朝々の味噌汁にがくなりてわが臥す

やうやくに熱おちむとして夜もすがら薄き衾も大石のごとし

目に見えぬ塵といふとも止なくうごきて此処の隈にたむろす

橡の樹の枝のきはまりふくれたる芽を見つるとき心いそがし

上枝よりさわだつ風のきこゆれど下枝のこもりあはれしづけし

日もすがら空の曇のひくくして楓の木の萌えわたる見ゆ

岡の上に萱草青くもえつつぞ低きくもりの触るらくおもほゆ

家ごもり三十日を経つつかへるでの萌えいづる見れば心はをどる

ほほの葉のおちたまりたる傍に青き小ぐさは冬を越えつも

ゆづり葉は見らくし楽しもろ木々の木立のなかにその葉厚ら

かへるでのこまかき花は風のむたいさごの上に見る見るたまる

けふ一日心たひらに並槻の樹膚うるほふ春雨ぞ降る

さ夜なかに幾たびわれの目ざむらし清明ならぬこころなれども

風邪ひきて吾臥したればつね日ごろ気づかぬ鷄のこゑぞ聞こゆる